
●羽根恒夫(羽根悪美)
1951年8月4日生。羽根組組長。
小柄な体格で普段は物静かな紳士のようだったとされるが、怒り出したら誰にも手をつけられないほどの激情家だったという。妻は在日朝鮮人で宝石の事業をしていた。
山口組二次団体・中西組で修行を積む。
1975年8月23日、羽根は”第1次大阪戦争”に参加。敵対する松田組組長・樫忠義組長宅(大阪市住吉区)に銃弾三発を撃ち込む。現場はパトカーと警官5人が警備しており、タクシーで乗りこみ、抑止をふりきって発砲した。
この行為が山口組組長・田岡一雄から気に入られ、羽根”悪美”の渡世名を得た。
「悪」というのは、悪いということではなく、昔からよくいわれる「強くて猛々しい」という意味から由来している。一説によれば田岡組長が命名したともいわれる。
「人をめったに褒めない親分(田岡)が”根性のある男や”と、えらい褒めはった。翌年7月に、親分は隊員しやはったんやが、すぐに自分の手元に置いて身の回りの世話をさせはるほどのお気に入りやった。親分の気まぐれ人事やと陰口を叩くものもいてたけど、羽根さんという人は、一を聞いたら十を悟るというか、親分が”おーい”と呼ばはっただけで、薬なのか、電話するのか、何を望んだはるか、すぐにわかってた」(山口組OB)
「三代目(田岡組長)が『おーい』と呼んだだけで何をしてほしいかが分かるし。どんな雑用でも嫌がらずにこなすので、姉さん(田岡夫人)にも可愛がられとった。親分が車に乗る時は必ず助手席に座り、部屋で寝ていれば、隣の廊下に影のように従う。文句も自慢も口にせず、いつでも黙って弾避けになる覚悟ができとった人や」(山口組関係者)
1976年10月、25歳の若さで若直(田岡から直接杯を貰うこと)に取り立てられて組員なしの羽根組組長を名乗り、田岡のボディーガード兼個人秘書となる。122人の直系組員のうち、最高幹部と舎弟を除いた一般の若中で、羽根組長の席次は第2位であった。
当時マスコミはその若さから「山口組の沖田総司」と呼んだ。
1978年7月11日夜、京都・三条のナイトクラブ『ベラミ』で、田岡一雄組長が、村田組の”大日本正義団”構成員、鳴海清に狙撃され重傷を負った。弾が数ミリずれていれば即死という事態だった。この時羽根は勘定を払おうとレジに行っていたため、三代目を守ることができず酷く悔やんだ末に「腹を切ってお詫びする」と割腹自殺を申し込んだとされる。(田岡に電話を頼まれ席を外していた、との説もある)
8月中旬、羽根は行方をくらませる。
9月18日、大阪市阿倍野区の路上で羽根悪美が松田組大日本正義団幹部金築和一を銃撃し逃走。金築は軽傷を負った。
9月30日、大阪府警は銃刀法違反で羽根を指名手配した。
10月25日、羽根はNHK京都放送局に電話をかける奇行を行う。
11月26日11時頃、神戸市垂水区大塚台56の路上で、30代ぐらいの男が前後不覚に酔って倒れているのを通行人が見つけ、兵庫県玉津署下津橋派出所へ届けた。
男は薄汚れたジーンズの上下に薄紫色のサングラス、髪ぼうぼうで、浮浪者同然の姿だった。

羽根恒夫「オレは羽根だ」
不気味な表情でニヤニヤ笑う男。指紋照合の結果、男が羽根恒夫であることが確認され、27日午前9時45分、銃刀法違反で緊急逮捕した。同11時大阪曽根崎署に護送し、府警捜査四課で”大阪戦争”の取り調べを始めた。

羽根は、大日本正義団幹部の殺人未遂容疑などで逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。福島刑務所から出所したのは89年7月21日。渡邊5代目の継承式の翌日だった。
かつて世話になった3代目組長夫妻や若頭の山本健一は病死していた。
羽根「親分(渡邊)は、三代目に勝るとも劣らない素晴らしい人やと聞いてます。この命、親分に捧げて生きていきます」
羽根は渡邊に忠誠を誓った。しかし、2日後の7月23日、3代目組長九回忌で早朝からただ一人、3代目組長夫妻の墓前でひれ伏し、悔し涙に暮れながら墓石を水拭きしていたという。
11月、羽根組構成員が殺害され、山口組東北進出のきっかけとなった「みちのく抗争」に参加。

(1995年3月5日、定例会の羽根)
その後暴対法の影響で羽根は「平和共存路線」へ転換。刑務所内で知り合った仲間を集め、三重県伊勢市に組を移す。当時伊勢市内には山口組直系の組が3つ存在していたため、もっぱら県外の関西や関東の都市部で活動した。組員は当初三重県出身の構成員がいたが、その後標準語を話す構成員が増えていき、関東出身の構成員が増えたと思われる。また在日朝鮮人が多かった。羽根組の正式組員は9〜10名、準構成員を含めると32人から50人程だった。
95年、阪神淡路大震災の救援活動に徐裕行とともに参加。渡邊組長から高く評価されたという。
羽根のエピソードは西岡琢也氏の手で映画化され、1991年に「獅子王たちの夏」が制作されている。なお映画の監修は野村秋介が関わっていた。
参考文献:週刊大衆(95年6月5日)・「シナリオ」(85年10月号)・溝口敦 著 「カネと暴力と五代目山口組 」・一橋文哉
著「国家の闇 日本人と犯罪<蠢動する巨悪>」
●小坂善昭
副組長。事件では影が薄かったためか、マスコミに報道されなかった。

●上峯憲司
1947年鹿児島県生まれ。事件当時47。
羽根組若頭。村井秀夫刺殺事件のキーマン。「上峰」と表記されることが多い。事件当時は羽根組のNo.2と報じられた。大学中退。95年当時の住所は伊勢市曽根2−2だった。
周囲からの印象は「暗いというか無口」「おとなしげで普通の堅気風に見える」
「すれ違えば『こんにちは』くらいの挨拶はするし、格好も一般的」 「普通のおじさんという印象」 だったという。
宮崎県内で焼肉店やカラオケ店を経営した後、1983年ごろから暴力団と親交を持ち始める。
宮崎市の右翼団体「九州雷鳴社」で似非右翼活動の経験を積む。神奈川県川崎市に移り住んだ後、1993年10月ごろから三重県の羽根組に所属した。
大阪在住の”右翼”「私は以前、上峯夫婦に焼き肉屋をやらせていた。彼の話だと、シャブでパクられたことはあるけど執行猶予がついたといっていました。しかし、当時は、おとなしげで普通の堅気風に見えました。ただ、商売がうまくいってなくて借金を抱えていた。自分一人で怪文書みたいなものを作って、ゆすり屋みたいなことをやっていたこともある。どこかの信用金庫かソープランドに融資しているというネタを仕入れては、法務局で事細かに調べ、信金をゆすったりしていました。私が、東京の大物右翼を紹介したんですが、この時には、ずいぶん喜んでいましたよ」
また、矢嶋慎一氏が宮崎市内の某政治結社を取材したところ、前会長から次のような話を聞いている。
「上峯は鹿児島県のレベルの高い高等学校を卒業して上京し、市立大学に進んだ頭のよい男でした。私の政治結社に所属して数ヶ月もすると、上峯はさすがに頭が切れるところを発揮して、たちまちのうちに会長代行というナンバー2のポジションに位置するようになるのです。
上峯という男は常日頃から勉強熱心で、街宣活動などに行く前などは自ら文章を作成し、街宣車に乗るやマイクを片手に自ら作成したその文章を立派に読み上げては、政治結社としての務めたる民族運動に頑張っておりました。なにかとものを書くのが好きらしく、よく独りで文章を書いておりました。
性格はおとなしくて義理がたく、他人に迷惑をかけることなどもない真面目な男でした。私のところには約一年ほどおりましたが、私に考えるところがあり、上峯1人でなく所属していた者すべてを脱会させておりました。
上峯という男は家族想いで、いつでも家族を大切にしておりました。そんな男が今回のような事件を起こすとは信じられないし信じたくない。宮崎にいた頃の上峯は本当にいい奴でした。
ただ、宮崎の暴力団組員数人と付き合いがあり金額は不明ながら彼らから借金をしていて、それがために宮崎を離れて他の土地へ行かなくてはならないという事情があった。
上峰が宮崎を離れて1年ぐらい経った頃に電話があり、今はある所にいてヤクザをやっており、
そこの組長さんから見込まれて頭代行という立場におりますと言ってきた。頭のよい上峯のことだから、ヤクザになっても出世が早いなぁと思ったもんです」
ここで矢嶋氏は、前会長が上峯の人間性について褒める言葉はあっても貶す言葉はないことに違和感を感じている。そこで他の上峯の知人に接触してみたところ、こんな話がでてきた。
宮崎市内の知人「政治結社を離れた上峯を、私のところで少しの間面倒を見てやってたが、あまりよい人間とは言えない。まして上峯は、地元の暴力団組員から借金をして、その借金を返済できなくなったことで宮崎から姿を消してしまった(略)」
東京の知人「上峯は、羽根組に所属して2年しか経っていない。いわばヤクザになってからのキャリアはわずか2年。本来ならチンピラでしかないんです。徐と言えば、やはり羽根組組員となってわずかに1年。上峯がどのような関係から羽根組に入ったのかと言えば、上峯が直接に元羽根組員や組員を知っていたわけではなくて、大分県でヤクザをしていた男の関係筋から羽根組組員となったんです。この頃の羽根組は組員も少なく、そんなところから、頭の回転が早かった上峯が若頭代行というポストに座り、アッという間にナンバー2になってしまった」
上峯は頭がよく切れたこと、羽根組組員が少なかったこと、似非右翼活動に詳しいことから組幹部に抜擢された。ヤクザの中ではおとなしいといわれていた上峯であったが、矢嶋氏によるとこんな逸話がある。
「あるとき、羽根組組員が組を脱退したところ、上峯が若い衆を連れてその組員の自宅に深夜押しかけました。脱退した組員はたまたま家を留守にしており、家には妻子しかいなかったにもかかわらず、上峯らは家のドアを叩いたり大声を発して家族を脅したそうです。ふつうのヤクザなら、男の留守宅に深夜数人で押しかけて騒ぐなどは絶対にやりません。妻子らにはなんの関係もないからです」「宝島30」(96年1月号)より抜粋
上峯は神州士衛館とは別に、羽根組内に数人で構成するグループ「清流会」を組織しており、徐裕行、高英雄もこの組織に加わっていた。週刊朝日の報道によると、徐裕行からは「ミネさん」と呼ばれていた。
●畑野志朗
若頭補佐。同一人物かは不明だが、上峯の部下で自称・羽根組No.3の幹部がテレビに登場し、事件の裏事情を知っていると主張。物議を醸した。(番組放送中、羽根恒夫が「あれはうちの組員ではない」とクレームを入れ大騒ぎになった。)
●G
在日朝鮮人。既婚者。徐を羽根組に引き入れた一人。羽根組の東京責任者。
徐裕行とともに宅配ヘルス業を運営していた。妻も徐と交友関係があり、度々世話になったという。
事件後、G宅も捜査関係者が立ち入った。

●高英雄(通名:高山英雄)
在日朝鮮人。事件当時30。徐裕行を羽根組に引き入れた張本人である。東京朝鮮第四初中級学校で徐裕行と親しくなり、交友関係を結ぶ。その後朝鮮高校へ進学、朝鮮ヤクザに加わり闇金業者となる。「現代コリア」(95年6月号)によれば金という羽根組員と北朝鮮へ何度も訪問していたとされる。事件後、ある問題行動に出る。(画像は村井事件の漫画より引用)
●児玉康夫(仮名。当時28)
自称元組員。「週刊新潮」(1995年6月15日号)に登場、事件の”背後関係”を語る。
●柳日福(当時30)
在日朝鮮人。渋谷のマンションを不法占拠していた。
●柳日竜(通名:柳川竜星、当時22)
在日朝鮮人。高英雄が経営する金融業の仕事を徐裕行とともに手伝い、女性を恐喝をしていた。
●石井悟
羽根組員。江東区枝川1在住。柳日福と共謀して渋谷のマンションを不法占拠した。
●清水一彦
”右翼”団体、九州雷鳴社関係者。上峯と交流を持つ。村井刺殺事件直後、上峯から弁護士についての相談を受けたとされる。
●株式会社羽根
羽根組の表向きの名称。

(1995年当時の羽根組事務所。)

(2016年現在の羽根組事務所。)

羽根組所在地。2016年の時点で残存。

●神州士衛館
神州士衛館は94年10月3日、上峯と米倉雅典が三重県選挙管理委員会を通じて自治大臣に政治団体の届け出を提出し、結成された似非右翼団体である。所在地は伊勢市船江町一丁目。
メンバー
神州士衛館代表–藤田善勝(松坂市在住、当時38)
伊勢湾水産代表・会計責任者–村田(伊勢市在住、当時27)
会計者代行–米倉雅典(伊勢市馬瀬町在住、当時25)
徐裕行(世田谷区祖師谷3丁目在住、当時29)

設立届に添付されていた規約は以下の通り。
「第2条(目的)本会は一、天皇は我々民族の心であり民族の理念である。(中略)一、民族を混迷にまきもむ政界、官界、財界の腐敗を糾す。以上を啓蒙していく事を目的とす(攻略)」

事務所は三重県伊勢市船江1丁目の住宅街にあり、鉄骨2階建て家屋。1990年までは大衆浴場だったが、羽根組が神戸市内の会社から建物全体を借り、1階を羽根組が運営する水産会社として、2階は羽根組の宿泊施設に利用した。建物は団体名を記した看板はなく、シラスの仲介業として看板を掲げていた。
三重県警の調べによると、事務所の所有者は神戸市内に本社がある寝具、健康器具、印鑑等の販売会社と偽装されていた。


伊勢市に来た上峯はこの事務所で寝泊まりしていた。上峯は「神州士衛館」については「私が設立の知恵をつけた」と知人に話していたが、街宣車は所有しておらず、これまで活動実態は皆無だった。捜査当局は、羽根組が暴力団対策法の監視の目を逃れるためにつくったダミー団体とみていた。
近くの自営業の男性は「政治団体の存在はまったく知らない。徐容疑者の顔は見たことがない」と話す。
しかし、ある住民は「暴力団のような若い男たちが出入りすることが多く、車5、6台が違法駐車して、町内会で問題になった」と話している。


●伊勢湾水産
羽根組が運営する水産会社。会社代表は会計責任者の村田が担当していたとされる。シラスの仲介業をしていた。藤田と村田、米倉はこの水産会社の従業員だった。玄関前には番犬が飼われていた。
●みちのく抗争
1989年11月26日、山形県山形市の病院前で羽根組員の遺体が発見される。佐藤会系川村組の縄張りに踏み込んだことが原因だとされ、28日には殺された羽根組組員の葬儀に900人の山口組組員が参列した。

翌日、極東関口一家佐藤会川村組事務所前で、2人の山口組系組員が川村組々員の前で、空に向けて拳銃を威嚇発砲した。
同年12月1日には秋田県警が山口組系組員6人を職務質問し、持っていた拳銃10丁を押収。
2日には青森県青森市で、佐藤会系組事務所にトラックが突入し、拳銃が撃ち込まれた。
3日、東京都豊島区池袋で、極東関口一家小林睦会と極東関口一家斉藤組の組事務所で、拳銃の弾痕が発見された。その後13日を境に抗争は下火となり、90年1月23日に山口組と極東関口一家は手打ちをした。
九州雷鳴社

上峯が所属していた民族派系政治団体。命名者は新右翼活動家・野村秋介だといわれる。「サンデー毎日」(95年8月13日)
北朝鮮工作員

●辛光洙(通名:立山 富蔵)
1929年6月27日、静岡県浜名郡新居町に生まれる。太平洋戦争終結後に北朝鮮に移住。1950年に北朝鮮義勇軍に志願入隊。
1973年7月、日本へ密入国。東京の在日朝鮮人朴春仙と愛人関係になり同居。朴春仙の妹が所有する貸家に、Mと高英雄、そして徐裕行が共同生活をしていた。(この逸話は「救う会」の公式サイトで取り上げられている。)
1980年6月、宮崎県青島海岸にて金吉旭、朝鮮総聯大阪商工会幹部と共犯し、大阪市内の中華料理店で働いていた原敕晁さん(当時43歳)を拉致。(原さんは独身で身寄りが少なかった。)
指示は北朝鮮対外情報調査部副部長・姜海龍によるものだとされる。辛光洙はその後、原さんのパスポートを奪い、原さんに成り済まして海外渡航を繰り返した。
1985年、仲間の密告により、ソウル特別市内で韓国当局に逮捕。裁判でそれまで証拠が不透明だった日本人拉致事件が明らかとなる。
当初は死刑判決を受けたが後に無期懲役に減刑。1999年12月31日、金大中大統領(当時)によるミレニアム恩赦で釈放され、2000年9月2日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された。
2002年、北朝鮮は「拉致の実行犯は処罰した」と述べた。しかし、辛光洙は国から勲章を授与され
日本の警察は辛光洙を国際手配し、北朝鮮に身柄の引き渡しを求めている。
警察当局は、地村保志さん・富貫恵さん夫妻の拉致事件についても辛光洙を容疑者として特定しており、横田めぐみさんの拉致についても関与が疑われている。