
1965年5月25日。
在日朝鮮人、徐裕行ことソ・ユへン(서유행)は群馬県桐生市に生まれた。(一橋文哉氏は高崎市出身と主張している)。血液型はAB型。
徐は、在日韓国人3世をブログや著書で自称している。本人によれば祖父が日本で成功し、東京市深川区(現・東京都江東区)の区議会議員に出世したという。ただし、各メディアは徐の国籍を”韓国籍2世”と明記している。(これは読売・産経・毎日・朝日その他すべてのメディアが報じている)。
徐の両親は息子の身元を隠すために「タナカ ヒロユキ」という通名を名乗らせた。徐には2人の姉がいた。
徐の母親は過去に深川区から板橋へ移住しながら、古着の回収をしたり、酒の密造をしていた。密造が発覚して何度か警察に取り調べられたこともあった。

戦後、在日朝鮮人の集落では密造酒の製造が盛んであった。衛生上問題があることから、税務署や警察がこれを取り締ろうとしたが、激しい抵抗に遭い、1947年に税課長が殺害される事件が起きている。
父親の職業はタクシー運転手だったという。在日社会ではユ・ボンシがタクシー会社「エムケイ株式会社」を創業させ、事業を拡大させており、朝鮮人には就職しやすい窓口だった。
1968年、徐は国籍を朝鮮籍から韓国籍へ変更。
あるとき、徐の父親は、息子を腕に抱えながら次のように言った。
徐の父親「ユへンや」
徐裕行「なんだい、アボジ?」
徐の父親「お前のな、お前の祖先は、両班なんだぞ」
両班とは、朝鮮でいう貴族をさす。
徐の父親「おまえはナ、達城徐家の末裔なんだぞ。おまえの祖先は両班なんだぞ」
徐の父親は、熱心な民族主義者だった。というのも、過去に日本人から、「センチョー、センチョー」とからかわれ、内心日本人を嫌っていたからである。怒りに任せて喧嘩を買うことさえあったという。
徐の父親「イルボンの女とは結婚するな。民族の血を汚すわけにはいかないからな。いいな?」
徐裕行「わかったよ、アボジ」
徐の父親「朝鮮人はナ、両親を尊敬して、親の言うことに逆らわない優秀な民族なんだぞ。お前も日本人と違って、頭がいいから、しっかり親の話を聞いて育つんだぞ」
徐の両親は、自分の息子に熱心な民族教育をした。東京都足立区興野へ移住した徐裕行は、親の熱意から東京朝鮮第四初中級学校へ進学した。
徐裕行「いってくるよ、アボジ」
徐の父親「ユヘンや、しっかりハングルを覚えてくるんだぞ!」
●徐裕行、朝鮮学校へ

朝鮮学校。日本でくらす朝鮮人の子供たちに、祖国のことばや、文化、歴史を教育する場所である。日本各地に存在し、朝鮮人たちのコミュニティの場としても機能していた。ところが、この学校には恐ろしい一面があった。北朝鮮の国外機関「朝鮮総連」が運営する学校で、子供たちに北朝鮮の思想教育をさせていたのである。東京朝鮮第四初中級学校もまた、北朝鮮系の学校であった。

教師「偉大なる首領様、金日成主席は、白頭山を拠点に日帝野郎を叩きのめしました。神出鬼没、百戦不敗の首領様が姿を見せると、憎き日帝野郎どもはしっぽを巻いて逃げだしました」
「首領様は縮地法も使い、変身術、忍術、昇天入地、 術法に長け、天文地理にも明るく、千里離れたところにいても日本軍の動きを掌を見るように把握されました。 首領様の意は天に届き、首領様の人柄は天下を抱くほどで、首領様の知略は非凡無双であり、この世に右に出る者はいませんでした」

神通力の使い手だとされる金日成の伝説に、朝鮮学校のこどもたちは熱狂した。それはまるで麻原の超能力に心酔するオウム信者を想起させるものだった。反日教育の洗礼をうけた徐裕行も、いつしか日本人を見下すようになっていた。この学校で徐は、高英雄という少年と親しくなっている。高もまた、「タカヤマ ヒデオ」という通名を持ち、日本人に成り済ましていた。
4年生に進級した徐は、足立区内の日本の小学校へ転校した。
徐は日本の子供の習慣に嫌悪感を感じた。やがてケンカばかりする乱暴者になった。ただ、教師からの勧めで読書だけはしっかり続けたため、日本語が上達した。
徐の友人「小学校からのワル。ケンカばかりして、とても強かった。でも、あの年ごろはみんな同じですから、特別でもない」

中学を卒業した徐は、都立足立区工業高校に入学している。しかし、「社会に出たい」との理由で2ヶ月で退学し、解体業者の見習いとして働き始めた。しかしそれも続かず、印刷関係の会社やデザイン事務所を転々としている。
●徐裕行と朝鮮総連
このころの徐の経歴は空白期間が存在し、よくわからない所が多い。ただ、10代から20代前半にかけて北朝鮮を支援する活動をしていたことは判明している。徐は朝鮮総連足立区支部に入団したことを認めているが、詳しい言及は避け続けており謎も多い。

(JAPANISMより。画像の”東京生まれ”は誤り)
徐は当時の様子を「JAPANISM6号」で振り返っている。
徐「朝鮮総連自体は「朝鮮人ならば朝鮮の姓を名乗るべきだ」と若い世代に教えていましてね。僕自身、若い学生を捕まえて「君は本名を名乗るべきだ」なんて行っていました。でもそう言ってる本人は普段、日本の姓を名乗っているんですよ」
ここで徐は通名を名乗り続けた理由については回答していない。
支離滅裂な証言ではあるが、実際のところ、徐はどんな活動をしていたのだろうか。
実は「指紋押捺拒否運動」に参加した過去があった。

日本ではかつて外国人登録の際に指紋の押捺・提出が義務付けられていた。犯罪抑止ために必要な措置だったのだが、左翼関係者から人権侵害として批判され、1993年1月に廃止された。
しかし、人権侵害は表向きの理由で、実際には日本における北朝鮮の諜報活動を容易にするためではないかという疑念の声も出ていた。そんな日本の法律を、徐は朝鮮総連の一員となって踏みにじったのである。
●徐裕行とチュチェ思想研究会

また、徐が都内にある「チュチェ思想研究会」の支部長を務めたとされる情報も散見される。
チュチェ思想研究会とは、北朝鮮の政治思想主体思想を信望する北朝鮮国外の団体である。
1971年に尾上健一が日本国内に設立させ、74年に全国組織として展開させた。主な活動内容として、在日米軍基地の監視がある。
会員の中には有本恵子さん拉致事件の実行犯、八尾恵も入団していた。八尾は1977年に北朝鮮へ渡り、よど号ハイジャック事件の実行犯柴田泰弘と結婚、その後ヨーロッパへ渡り、朝鮮工作員キム・ユーチョルと共謀して、旅行中だった有本恵子さんを拉致している。日本へ戻った後は自衛隊の情報を引き出そうとしたが、神奈川県警に逮捕されている。
(高沢皓司氏や伊勢暁史氏によれば、八尾はオウム真理教とも接点があったといい、青山吉伸をはじめオウム幹部と何度か接触していたとされる)。
現在は佐久川政一会長と、武者小路公秀理事が運営している。
●徐裕行、ホモを襲う


ある日、徐が渋谷発井の頭線に乗り込んだ時の話である。
車内は人影がまばらで、空席はあったが、徐は入り口の反対側のドア際にたって読書をしながら発車を待つことにした。徐の周りにも乗客が立ちはじめた頃、徐の局部に生暖かい感触が走った。温もりは動かない。徐は人相の悪い顔をあげた。目の前には大学生らしき少年が立っている。
車内はいくらか空間に余裕が残っているのに、少年は不自然かと思える距離で徐の前に立ち、窓の外を眺めていた。
徐裕行「何してんだ、この野郎っ!」
徐は両手で少年を突き飛ばした。1mほど突き飛ばされた少年は、さらに1mほど後ずさりし、そのまま背を向けて隣の車両へ逃げていった。周囲の乗客が好機の視線を徐に向けた。平然を装うとした徐だったが、客観的にみれば突然怒りだし、か弱い学生に危害を加えた狂人である。電車のドアがしまり、発車した。2分後、次の駅で止まると徐は無言で電車から降りた。
●徐裕行と「イベントダイヤル」
1986年、徐は広告代理店「アサ」にスカウトされて転職した。アサの社員は当時20人だった。
「彼は本当に仕事熱心な男で、優れた営業マンだったし、自分で営業した企画を立案する能力ももっていた。以前に印刷会社にもいたようで、版下についての知識もありました。人間的にも正義感が強く、細かいところにも気がつく。親分肌のところもあり、若い者には人望もあったし、愛社精神も持ち合わせていた」(当時の先輩社員)
熱心な仕事ぶりと営業成績が評価され、徐はこの会社の経営者がつくった企画会社「イベントダイヤル」に移り、経営をまかされるようになった。「イベントダイヤル」は渋谷区の古いビル内にあり、従業員8人(男性5人、女性3人)が働いていた。

ここで徐は、取締役から代表取締役へ出世し、大手広告代理店の下請けをしたり、宣伝イベントをで使う道具のレンタルを仲介するような貸務を行った。社員がバグパイプの演奏で出張したりもしていたという。平成2年ごろブームを呼んだ人面魚のリースも手がけ、これが話題になってテレビ出演もした。

仕事仲間「公私のハッキリした人。会社にプライベートな電話が一本もかかってこない。仕事はできたが、接待はしないし、会社の人間と飲みに行くこともなかった」
別の関係者「世の中のできごとにも関心がない。新聞を読んでいる姿も見たことがないし『十年先はわからないよ』なんていう刹那的な面もありました。表情も乏しく、感情をあらわにしないタイプでした」
当時の広告業界の知人によれば、徐は黄色い名刺に「代表取締役 田中 裕行」と書いていた。しかし、一方でこんな話もある。
「当時、田中という日本名を名乗っていたが、韓国人であることに誇りを持っていた」
「彼は公私のケジメがハッキリした人間で、例えば、仕事を通じての友人、知人の関係を右側だとします。私はその一人になる訳ですが、反対の左側には彼が幼い頃から親しく付き合ってきた韓国人グループというか、そうう交友関係があった。しかし、この右と左のグループはまったく互いを知らない。彼が紹介することもなかった」
企画会社の関係者「公私の別をハッキリさせるタイプで仕事は淡々とこなすけど、プライベートの話はいっさいしなかった。ただ、幼なじみには金融業者や水商売の経営者などが多く、休日にはよく会っていたようです」
1991年、徐は特別永住権を取得。この頃の徐は非常に充実していたようで、徐裕行「ワルだった俺がいまこうあるのもあの人(親会社の社長)のおかげだ」と会社の仲間に語っていた。
しかし、バブルがはじけると、親会社の「アサ」や、「イベントダイヤル」の経営が悪化しはじめた。徐は毎日大量の胃薬を飲んで経営を立て直そうとしたが、うまく持ち直すことができなかった。
1992年10月、「イベントダイヤル」は倒産してしまった。徐は総額2,300万円の負債を抱えこむようになっていた。
企画会社の関係者「会社自体は1年ほどで不況のあおりを受けた親会社が援助を減らしたため、一気に経営が苦しくなり、1年半ほどで倒産してしまった。本人も神経性胃炎になったとかで、大量の医薬を会社でよくのんでいましたね」
「倒産する年の8月に、突然、彼が深刻な顔をして私のところに来ましてね。それまでは酒を飲んでも弱気なところを見せない男でしたが、この時ばかりは「会社をやっていけそうもない。8月以降の主だった仕事が入ってない。破産しようと思う」と弱気になっていました。ひとまず、その時はアドバイスすると、元気を取り戻して帰っていったんです。その後2カ月ほどして、彼が会社から逃げたという話を聞きましたよ」(当初、資本提携関係にあった会社関係者)
徐から独立して別の会社を立ち上げた経営者は、苦い経験を語っている。
この経営者は徐にイベントのコンパニオンの斡旋をしているのだが、「その代金350万円が未払いになっていたので事務所に請求に行った。50万円を即金で払ってくれたが、残りは未払いのまま姿をくらました」。
徐は逃げ足同然で、つくば市の友人S宅に身を寄せ、古紙回収業などをしながら、かろうじで生計を立てた。この仕事も長続きはしなかった。

93年3月、足立区の実家へ戻った。しばらくして、徐はイベントダイヤルの仲間と再会した。
「再会した彼が、仕事を探しているようなので、うちの会社にきてもらったんです。『力を合わせて再起しよう』と誓い合ってね。彼に任せられる大きな仕事もできそうだったし、声をかけたんですよ。会ってみると健康そうだし、屈託もない以前のままの田中(徐)でした。つくばでは肉体労働をしていたようですね」(徐が勤めていた会社のかつての上司)
ところが、93年12月中旬のある日、突然、徐は無断欠勤をする。当時、彼は足立区内の実家から通っていたが、机の上も仕事中のまま、鞄も会社に置きっぱなしで3日も4日も連絡がなかった。この上司が約10日後に会社に来てみると、机の上がきれいに整理され、かばんもなくなっていたという。
「どうしてあんなことになってしまったのか、私にはサッパリわかりません。あえて推測するなら、彼の内面には二つの相反するものの葛藤があったのかもしれません。ご両親のように、地道にコツコツ働いて自己実現をはかる部分と、それを拒否する部分とね。でも、宗教などにはまったく関心がなかったはずです。生い立ちを通じた交流関係で何かあったのでしょう。そちら(朝鮮籍)の友人を酒の席に呼ぶということは一度もなかったですし」
上司の心配を他所に、一方的に関係を絶った徐は、ヤクザの世界に憧れ、朝鮮学校時代の旧友、高英雄の元へ転がり込んだ。

●徐裕行の同居生活

11月、徐は幼馴染だった高英雄の紹介で、世田谷区上祖師谷3丁目1–15の2階建て家屋で共同生活を始めた。土地は25坪ほどあった。(現在家屋はリフォームされており、ベランダなどが増築されている。)
この地域は平穏な住宅街で坂道が多く、付近には墓地や畑がある。2000年の大晦日にはこの地域で「世田谷区一家四人殺害事件」が起き、現場周辺は公園や空き地で広がっている。
この家を管理する女性P・H(当時55)は、東京品川区五反田にある韓国クラブMを経営していた。
彼女の姉は、北朝鮮工作員・辛光洙の愛人、朴春仙であることが判明している。そして、P・Hは辛光洙とも面識があった(辛光洙については次章で後述)。
話を戻すが、徐が居候した家は、1987年にP・Hが投資目的で購入したという。
P「ある人に1000万円くらいの儲けになると進められて、朝銀(朝銀東京信用組合)から借金して買ったんです。ところがバブルの崩壊でしょ。空き家にしとくよりはと、知人に貸していたんです。で、去年の12月からは、Bが住みたいっていうから貸したんです。息子の親友だから昔から私もよく知っていたし。それを何人かで住んでいたなんて、事件が起きるまで知らなかったんですよ。たんに大家だったというだけで、うちも迷惑しているんです」

「FRIDAY」の取材に答えるM・T
Pの貸家を初めに借りたのはM・T(当時29)という在日朝鮮人である。ここで、Mの証言を引用してみよう。
M・T「部屋を借りたのは去年の11月初め。最初は俺一人だったけど、何日かして高校の同級生(高英雄)が泊まるようになり、そいつが地元の幼なじみで小学校の同級生の徐を連れてきて3人で暮らすようになった。高は金貸しや取り立てをやっており、家賃の10万円を、高と俺で折半した。徐は布団と下着を持ってやってきた。いわば居候で、ここに来てからは、高の仕事をたまに手伝っていたみたいだった」「FRIDAY」(95年6月2日号)
M・T「オレが去年、朝鮮高校時代の友人に安い部屋はないかと聞いたら、おふくろ(P)の物件がある、というので借りることにしたんだ」「週刊ポスト」(95年5月26日号)
M・T「住み始めて一週間ぐらいしてから、やはり朝鮮高校の同級生だった友人の高から一緒に住まないかと持ちかけられた。一軒家だし、家賃が10万円だから5万円ずつ出しあって相撲ということになったんです。田中(徐)とは、去年11月中旬に、高から小学校からの幼馴染みと紹介されて知り合った」
M・T「最初は住むということじゃなく、今日止まりなよ、ということから始まって、ズルズルと居候みたいになったんだ。そんな関係だから徐の人間については、よくわからない。超古代がどうした、ユダヤがとうしたとかいう歴史物の本をよく読んでいたね。だけど、オウム真理教には興味がなかったよ」
M・T「高山さん(高英雄)と徐は同じ金融会社の同僚でしたが、わたしとは仕事の話はしませんでしたね。趣味は4コママンガとあとは飲みにいくぐらいかな」「アサヒ芸能」

徐裕行が通っていたスナック店「Roman」

当時のテレビ映像より。
こうして3人の居候生活が始まった。Pが経営する韓国クラブにも、3人一緒に行ったこともあるという。
M・T「11月か12月でした。オレは家を貸してくれたお礼の意味で店に行ったんだけど、でも、3人で暮らしているなんて何となくいえないからね」「週刊ポスト」(95年5月26日号)
しかし、P・Hは「徐には会ったこともないし、見たこともありません。今度のことでうちも迷惑を被っているんです」と真っ向から否定している。「週刊現代」(95年8月12日号)
3人の生活は近所の日本人からは異様に見えた。深夜まで電気をつけて出入りしたり、郵便受けにチラシがたまっていた様子だったため、周囲から蛇蝎のごとく嫌がられていた。
住民「派手な服を来た30歳くらいの男2、3人と出入りしていた。何をして暮らしているのか不思議だった」
近くの商店主「金のアクセサリーをした派手な服装の若い男性らが住んでいたようだ。庭の草が伸び放題、郵便受けの郵便物も山積み。近所付き合いもなく得体の知れない家だった」
近所の主婦「新聞で犯人の顔を見てびっくりした。2、3日前にあの家の庭で立ち尽していた。冷たい目つきが恐ろしかった」「産經新聞」(95年4月25日朝刊)
自営業店主「いい天気だねなんて話しても何も言わないで笑っていた。徐容疑者は昨年の11月ごろから見かけていた。あそこの住民は極力周囲との接触を避けている感じでここらの者は、みんな気持ち悪がっていた」
「あそこの住人とは話したことがない。深夜に帰ってきて昼ごろ出ていく。みんな身長が180㎝ぐらいでガッチリしている」
同家には黒の四輪駆動車が止まっていることが多く、夜になると頻繁に出入りしていた。
(高沢皓司氏によれば、このM・Tの父親は朝鮮総連の幹部だとされる。)
●朝鮮ヤクザ
高英雄が経営する金融業の事務所で手伝いを始めた徐は、Gという在日の羽根組組員と親交を結び、羽根組の準構成員となった。羽根組には在日朝鮮人の構成員が多くいたが、仲間うちでは『田中』と名乗った。
三重県伊勢市内の羽根組事務所に顔を出すようになった徐は、行儀見習いとして事務所の雑用を任されるようになる。この頃、Gや高英雄の紹介で羽根組若頭・上峯憲司と出会った。94年8月と12月には上峯に連れられて山口組本部の駐車当番を経験した。
また徐は仲間から「韓国から来たホステスの在留期間が切れるので、そのホステスと書類上結婚してくれ」と頼まれ、偽装結婚の手続きをした。このとき謝礼は150万円だと言われたが、謝礼の一部だけ受け取り、その後は毎月10万円ずつ貰っていた。
捜査関係社「関係の深い若頭が殺されて、上峯とともに、通夜、葬儀にも出席しているし、徐が羽根組長をガードして一緒に帰京したり、東京のニューオータニに宿泊したりもしている。当時の生活資金だが、組関係社から彼の銀行口座に振り込まれた10万円を、1日に1、2万ずつ引き出すという状態だった」。

「FRIDAY」の取材に答えるG夫人
やがて徐は、Gがシノギとして始めた宅配ヘルス業の手伝いを94年11月から95年3月頃まで続けた。
G夫人「仲間うちでは田中裕行と名乗っていました。以前はイベント会社をやっていたということも、彼から直接聞きました。『けっこう大きく失敗しちゃったんで、残務整理で月に1~2回は広島に行かなきゃ行けないんです』とも」「FRIDAY」(95年6月1日増刊号)
こう話すのは、徐の東京での姉がわりともなっていたG夫人。彼女の夫は羽根組の構成員Gである。
G夫人「主人は『弟の朝鮮学校時代の同級生の後輩だ』といってました。私は絶対にヤクザ関係の人は家に連れてこないでくれと念を押していたんです。だから昨年の秋口に最初に田中(徐)さんが来たときも、ヤクザじゃないわね、本人にも確認しました。そのうち11月ごろに田中(徐)さんが主人と出張マッサージの仕事を始めることになり、私の持っていた転送用の電話回線と携帯電話を貸してあげたんです。彼は住まいがなく、主人と同じ羽根組構成員で彼の幼なじみの高山さん(高英雄)の家に居候状態だったから」「FRIDAY」(95年6月1日増刊号)
徐裕行はそれ以降2日に1回は律儀にG夫人宅に顔を出すようになった。
●徐裕行と阪神淡路大震災

95年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生。兵庫県を中心に6000人以上の人々が犠牲となった。
同日午後6時、大阪市内の近鉄・上本町駅付近。平服の暴力団幹部風の男と、戦闘服を着た若者3人の計4人がタクシーに乗車した。
上本町駅は、羽根組が事務所を置く三重・伊勢市から近鉄特急で来るルートである。
幹部が助手席に座り、戦闘服の3人は後部座席に座った。3人は徐裕行と羽根組若頭の上峯憲司、高英雄。このとき、徐は「羽根」のネーム入り特攻服を着ていた。
タクシーは山口組本部へ向かった。だが、震災の影響で大渋滞に巻き込まれ、神戸市内にたどり着いたのは15時間後の翌朝18時9時ごろ。車は10階建てビルの崩壊で立ち往生。やむなく総本部手前で下車して歩いたという。
暴力団幹部の移動は通常マイカーだが、震災ボランティア活動指令のため、電車とタクシーの移動になったとみられる。
また、羽根恒夫組長も本部の被害を心配し、組員とともに神戸へ向かったという。
●徐裕行と地下鉄サリン事件

3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。
「週刊金曜日」(2011年9月16日)のインタビューで徐は当時の様子を次のように答えている。
徐「方南町(東京都杉並区)に住んでいる親しいあるご家族のこともすごく心配になり、すぐに連絡を取り合ったりしました」
当時の資料を確認した所、徐が連絡したある家族とは、羽根組関係者のG夫人だったようである。
G夫人「地下鉄サリン事件の日、田中(徐)さんから電話があったんです。いきなり『皆さん大丈夫でしたか?』と聞かれて最初は何のことだかわかりませんでした。そうしていたら『地下鉄のことやっているでしょう。もしかしたら、と思って』というんです。そんなに心配しなくてもいいのに、と思うほどでした。ところがその後オウムが犯人じゃないか、と報道されるようになったときは『こいつら頭おかしいよなぁ』と他人事っぽいいいかたしかしませんでした。オウムだけでなく創価学会や統一教会などのことも一度も聞いたことがありません。『好きな奴が入っていればいいだろう』という態度でした」「FRIDAY」(95年6月1日増刊号)
3月30日、警察長官狙撃事件が発生。当時の徐の様子を同居していたM・Tは次のように語っている。
M・T「国松警察長官が撃たれたというニュースを家のテレビでいっしょに見ていましたが、『すごいな・・・・』とポソッというだけでしたよ。それにオウムのことで、わたしに何か話題を振ってくることはなかったし、こっちが話しても適当に受け流しているだったね。だから彼があんな行動に出たのか、いまだにわからない」「アサヒ芸能」(6月8日特大号)

しかし、この頃から徐は一部の知人の前でオウムの話題をこぼすようになる。徐はスナック店の女性にこんな冗談も話していた。
徐裕行「オレも第20サティアンにいた。オウムのコードネームはデカイマラ」。「別冊宝島」(隣のオウム真理教)
オウムのコードネームとは、ホーリーネームのことだろう。村井がマンジュシュリー・ミトラと呼ばれていたように、上記のエピソードから徐もオウムに関心を示していたと考えられる。

徐が遊んでいた飲み屋街「まるよし横丁」
世田谷区内のバーのホステスが言う。
ホステス「いつも友達と2人で来て、明るく飲んでましたよ。好みの女の子に『ちょっと、ちょっと、』と呼びかけて彼女が耳を近づけると『フーッ』と息を吹きかけたりして、ふざけたこともありました」
ホステス「マスターが『おう。最近ヒマ?』と聞くと『ヒマだよ~』と答えて。『でも、これからオウムに入信して忙しくなるんだよね』と答えたんです。もちろん、このごろのお客さんはオウムにからめた冗談をよくいうし、あのときもそれかと思いましたよ。でも『入信する』っていっても、そんなにおもしろくもないし、何のつもりなのかなあという感じでした」「アサヒ芸能」(6月8日特大号)
金融業やデリヘルの運送業をしていた徐。しかし、この頃にはこれといった仕事はなく、毎朝喫茶店に入ってはGと「これから何をやって食っていこうか」と相談したり、新宿へ出てパチンコをしたり、ブラブラした生活を送った。

徐裕行は世田谷区内のカラオケスナックに頻繁に通っていた。店側からは尾崎豊の「卒業」が得意な客と印象を持たれていた。ここで徐は、意味深な発言を残していたことが判明している。
カラオケ店関係者「いつも、Mさんという友人と来ていましたが、勘定のほとんどは田中(徐)さんの支払いでした。”法律スレスレでも、金儲けした人間の勝ちなんですかね”と聞かれたことがあります。最後に来たのは、4月17日でした」「週刊ポスト」(95年5月26日号)
この一節に私は徐裕行の歪な本性が集約されているように思えてならない。
なぜなら、路頭に迷った哀れな男の人生が、”あの事件”を境に大きく変貌しているからだ。