
村井秀夫刺殺事件により、メディアの間で様々な憶測が流れた。
そして5月、オウム真理教は村井の生前の記録をまとめた本『巨星逝く』をカセットテープ付きで出版した。(漫画版も出版。)麻原や上祐、村井の警護に立ち会った信者たちも序文を寄せ、刺殺事件の衝撃を述べた。
第6章ではオウム側の証言と、マスメディア他、著名人のコメントを紹介し、世間と教団の認識の違いをクローズアップする。
●目撃者(マスメディア・一般人)
・長谷川まさ子(テレビ朝日『ワイド!スクランブル』レポーター)
平成7年4月23日、私は“村井番”で、朝から山梨県上九一色村のサティアンで張り込んでいました。夕方4時半、村井さんが車で出発。公安とマスコミが合わせて二十台もの車が、後を追いかけました。南青山に着いたのは、八時半くらい。昼間から総本部に張り付いているマスコミと警察官、加えてたくさんの野次馬で、ものすごい人だかりです。
テレビ朝日はちょうどその時間、久米宏さん司会でオウムの特番を生放送中でした。村井さんは出演予定はなかったのですが、私がマイクを向けて「番組に合流されるんですか」と聞くと、小さくうなずいたように見えました。
総本部に入るとき、村井さんはいつも外階段から地下の入り口を使っていました。あのときも階段を下りて行ったので、私たちは追うのをやめた。ところが村井さんは、すぐに階段を上がってきて、正面の入り口へ向かったのです。すぐに階段を上がってきて、正面の入り口へ向かったのです。あとで聞いたところでは、あの日に限ってなぜか地下のドアが閉まっていた。
そして再びもみくちゃになった直後のことです。ディレクターが「あれ、血だ」と呟いた途端、目の前の人波がサッと左右に開けた。すると、その向こうに、血の付いた包丁を両手で握りしめ、無表情で仁王立ちの男がいたのです。倒れ込む村井さんの姿も視界に飛び込んだ。二メートルくらいの距離だったでしょうか。
男が、包丁をポトッと落としたとき、私は「みなさん、包丁が!」と叫んで、その包丁をずっと見ていました。大事な証拠だし、入り乱れる人たちが足で蹴ったりして危なかったからです。
「村井さんがいま刺されたようです」と第一報をリポート。再び覗き込んだとき、村井さんは血まみれで、すでに意識がない様子でした。地面を這う中継用のケーブルまで、まっ赤に染まっていた。中から出てきた信者は泣き叫び、あたりはパニックに。やがて救急車が来て、私たちもその後を追って広尾病院へ行きました。駐車場で待機していると、信者たちが輸血のために次々とバスでやって来ました。
救急隊員から「誰にやられた?」と聞かれて村井さんが呟いたという言葉「ユダ」の意味も、動機や背後関係すべてがわからないままの事件でした。(週間文集2009.4.2.48p)
・大西健一(『日刊スポーツ』特信部)
事件が起こったのは午後8時過ぎ。村井氏が総本部正面から入ろうとした時だった。後ろから村井氏を追い掛けていた私は、村井氏の表情が変わったので一瞬「何が起こったか」と訳が分からなかった。「なんてことするんだよ」「こいつ刺した」と信者の悲鳴が上がり、気が付くと、村井氏を刺した直後の徐容疑者が私の左横50㌢程の所に立っていた。根元まで血がつき、薄紫色に染まった包丁を握った右手をプラプラさせていた。危険を感じ身を引いたところ、動転した様子の捜査員一人が駆けつけた。徐容疑者に「おまえがやったのか」と上ずった声で聞き、素直に認めたため逮捕された。
救急車に運ばれた村井氏は周囲の問いかけにも全く反応はなく、意識はないように見えた。上にかぶせた白いシーツにも血のりがべっとりと付いていた。
その間、1分たらず。事件の最中は夢中だったが、人を刺したばかりの男が、凶器を持ったまま私のすぐ横にいたことを思い返すと、恐怖感がじわじわとわき上がってきた。(日刊スポーツ1995.4.24.27面)
・松田秀彦(「日刊スポーツ」カメラマン)
村井氏が総本部に到着した際、松田は本部入り口のドアを背にした場所でカメラを構えていた。
「村井氏は報道陣にもみくちゃになりながら無言でドアから中に倒れ込むように入っていった。自分の仕事が一段落したと思ってちょっと気を抜いた時に、中から“刺された”と声が上がり、とっさに開いていたドアから中に飛び込みました」。
松田が目撃したのはエレベーターの前で血まみれになって倒れている村井氏の姿だった。「そばまで行って無我夢中でシャッターを押しました。包丁を持った犯人がドアの前に立っていたらしいのですが、気がつきませんでした。ほかのカメラマンは犯人を見て、ちょっと引いてしまったみたいですが」という。松田の“無我夢中”が本日の1面の衝撃写真につながった。(日刊スポーツ1995.4.24.27面)
・目の前で目撃した会社員(28)
「『刺された』という声が突然上がり、あたりは騒然となった。気がつくと、目の前に包丁を持った若い男が立っていた」(朝日新聞1995.4.24.19面)
・東京都東村山市のフリーター・草野時典さん(21)
「あっ、あっ、刺されたと、後ろへ下がったら、包丁が目の前に落ちていた。刺した男は一言も声を出さず、村井さんも何も言わなかった」(朝日新聞1995.4.24.19面)
「(村井氏が)ビルから出てきた時、報道陣に紛れていた男が飛び出した」(中日新聞1995.4.24.朝刊19項)
・草野時典さん(21)、練馬区の学生杉浦広樹さん(21)
「犯人は普通の若者に見えました。報道陣の中にいて、村井さんが歩いて来たところを、包丁で刺した。信者が”救急車を呼べ”と叫んでいました。血はそれほど出ていなかった。村井さんは信者に抱えられて建物の中に運ばれていった。犯人はすぐ捕まった。救急車が来る前に上祐さんが出て来たが、淡々としていました」
・世田谷区の会社員
「あっという間の出来事で、よく分からなかった。(村井氏は)ぐったりしていた」(中日新聞1995.4.24.朝刊19項)
・近くに住む四十歳代の主婦
「二週間ほど前、右翼団体の車が来て、『オウム出ていけ』とスピーカーで長い時間、怒鳴っていたことがあった。まさかこんな事件が起きるとは、驚きました」
●著名人のコメント
・飯干昇一(作家)
「共犯が逮捕されたことで、上部の指令で傘下の羽根組が動いていたと見られがちだが、違う。徐はほかの組織の命令に従って行動することになったが、ひとりではやれないので、見知っていた羽根組の力を借りた…というより、むしろ羽根組を利用したと見ている。羽根組が徐を利用したのではなく、その逆。徐は自分の背景を隠すために羽根組を利用した。では、その背景は何かというと、いまは1つの団体ではなく、2~3の団体が複合したもの、としか言えない」(報知新聞1995.5.12朝刊1面)
「実際に村井氏の殺害を企てたのは、教団の背後にある勢力だろう。村井氏は幹部として、その勢力とさまざまなことでかかわってきたはず。村井氏が警察に逮捕された場合、『自分たちのことまでばらされてしまう』と脅威を感じていた勢力から教団は村井氏殺害の通告を受け、会議で承認したと考えられる」(報知新聞1995.5.23朝刊1面)
・矢島慎一(ノンフィクション作家)
「オウムの自作自演、口封じです。村井氏が救急車の中で言ったとされる『ユダにやられた』は的を射ていた。教団を守るためには村井氏の死もやむをえないというわけです。オウムは上峯容疑者に依頼したのではなく、別の組織、または一個人を介したことは考えられる」
・富生忠(宗教ジャーナリスト)
「右翼がオウム幹部を狙ったとするならば理由は、1つにオウムが国家転覆を図ったと考えたから、2つ目に麻原教祖の新著『亡国日本の悲しみ』の中で「自分は国粋主義者である」というようなことをいっていることへの反発だろう。3つ目はオウムの機関誌『ヴァジラヤーナ・サッチャ』で天皇陛下を批判したことなどへの反発が挙げられる。麻原教祖へのガードが強くなるだろう(報知新聞1995.5.12朝刊1面)
・猪野健治(作家)
今回の容疑者が所属していたという右翼団体は聞いたことがないが、一般論でいうと右翼は長年の「敵」だった社会主義体制が崩れて以来、運動の目標を失いかけている。最近では、国会の不戦決議案阻止を掲げているが、これにしても長い展望の戦いにはなりえない。街頭宣伝をやっても人は集まらない。右翼としては、何かをやらなきゃいけない、という焦燥感があったと思う。その点で、オウム真理教は国民からうさんくさいと思われ、嫌悪され、アピール力という意味で右翼がテロに走る可能性があったといえる。それにしても、警察は国松長官事件といい、重要証人を失った今回の事件といい、信じられたい手落ちだ。オウムの各地の施設などが攻撃されることも考えられ、悪い影響が出ると心配だ。
・冨田雅企(犯罪ジャーナリスト)
「羽根組は事件とは密接に関係はなく、徐容疑者の2000万円の借金の駆り立てに当たっただけではないだろうか。この金額は暴力団にとっては命のやりとりをするほどの額ではないし、組の面子にかかわる理由もなさそう。羽根組は経済力などで伸びた組ではなく、純粋な武闘派で大きな“裏”があるとは考えにくい」(報知新聞1995.5.12朝刊1面)
・滝本太郎弁護士(オウム真理教被害対策弁護団)
決してあってはならない事件で、激しい憤りを覚えている。犯人については厳重な捜査と処罰を望んでいる。どんな理由であれ、このような軽挙妄動は絶対に慎んでほしい。(朝日新聞1995.4.24.18面)
・溝口敦(ノンフィクション作家)
いかなる動機であれ、このような暴力が許されてはならない。オウム真理教については事件解明の重要な時期に来ている。カギを握る人物を個人の力で抹殺する行為は、捜査を混乱させるだけだ。なぜこのようなことが起こったのか、社会全体で考え、学ばなくてはならないのに、そのための作業を妨害し、頓挫(とんざ)させかねない。強く糾弾されるべき行為だ。(朝日新聞1995.4.24.18面)
テレビで村井氏が刺殺される場面を見て、私自身が以前暴力団に刺された時のことを思い出し、りつ然とした。
報道陣に紛れて襲いかかったのでは、防ぎようがない。警察は不測の事態に備えて報道陣とオウム信者の出入りを画すよう規制すべきだったし、過熱ぶりが事件の要因になったことも否定できない。オウム事件の捜査の遅れや一向に解明が進まない疑惑に対する焦燥感が犯行に駆り立てたのではないか。警視庁の国松長官狙撃事件に続く警察の失態によって、オウム事件のカギを握る人物の口をつぐませる結果になったことは残念だ。(毎日新聞1995.4.24)
・新井直之 東京女子大教授(ジャーナリズム論)
マスコミ報道で国民の間に不安や憎しみのような感情が醸成されていた点が、豊田商事の永野会長が刺殺された時と似ている。今回もワイドショーなどマスコミの報道は確かにオーバーで、プライバシーを侵すような報道もみられた。ただ、豊田商事は被害者が特定されていたが、オウムに疑いがかけられている「サリン」は被害者が無差別。さらに今は、東京都や大阪府の知事選の結果や阪神淡路大震災などをみてもわかるように先行き不透明な時代であることが、国民の不安を増幅させたのだろう。マスコミに冷静な報道を望みたい。(毎日新聞1995.4.24)
・阿部美哉 国学院大学院教授(宗教学)
事件を来て嫌なことだと思った。単純に右翼とか暴力団の犯行ととらえるだけでは、事件の意味はわい小化されると思う。宗教学的に考えると、今回の事件はシンボリックな身で祭壇にいけにえをささげる「供犠」と考えられる。その神殿の場がオウムというカルト空間ととらえれば、自分の部族の戦いの神に対する畏敬(いけい)を示すものだ。また、日本全体の大衆参加の劇場空間を神殿ととらえれば、マスコミを含めた世情の暴走に対して一身に罪を背負ういけにえととらえられる。この現象をどちらの現象ととらえるかで、私たちの認識が問われている。
・岩井弘融・東洋大学名誉教授(犯罪社会学)
豊田商事事件の永野一男会長が暴漢に刺殺された事件を思い出した。このテロ行為は、事件の全容をいっそう分からなくするだけだ。各方面がもっと冷静になってほしい。オウム事件については報道が加熱する一方で捜査は思うように進まず、国民がいらいらしている状況だ。捜査当局は、麻原代表や村井氏など幹部の捜査をもっと迅速に進め、容疑があれば先手を打って身柄を拘束して調べるべきだと思う。(朝日新聞1995.4.24.18面)
オウム真理教の関係者がテレビに出て裁判のようなことが行われているのに比べ、捜査の進み具合が遅く感じてイライラが募り、感情が激した人物が出たといえる。全容解明にはマイナスしかならない。世間が冷静になることが必要だ。(毎日新聞1995.4.24.23面)
・穐山貞登 芝浦工業大学教授(社会心理学)
オウム真理教はマスコミがこれまで取材してきた対象とは違い、焦点がうまく合わない。そこが、、新聞、テレビで大きく報道される理由にもなっている。報道陣が取り囲みマイクを突きつけているときに起こった。犯人がこういう状況に紛れ込んでいると、周囲にはそれが報道陣か犯人か分からず大変危険だ。マスコミは取材という仕事をしている連中なので、犯行を止めるのは非常に困難。周りの見物人も「見たい」と思っているだけで止められない。こういう取材の仕組みを犯人に利用されている。見物人は広い意味でマスコミのお客さんだが、取材してところを取り囲むような状況は決していいことではなく、寄せ付けないことも必要だと思う。
・板倉宏 日本大学法学部教授(刑法)
「徐容疑者の刺殺テロに対しもし容疑者が単独犯で衝動的に刺したのなら実刑で12~13年ぐらいでしょう。もし第三者から殺人を依頼されお金などをもらっていた場合は、無期懲役もあり得ます」
「捜査当局としては頭の痛いとこです。最高幹部の1人として教団の実態を把握できた重要人物だから、結果として供述が得られなかったとしても、身柄を押さえることができないのは、今後の捜査でに大きな影響が出る。また、村井氏の死で、教団側の人間の行動に歯止めがかけられない状態になる危険性もあります」
・桂敬一 立命館大学大学教授(新聞学)
オウム真理教がメディア批判をしているが、この点については教団も同罪。マスコミが犯人扱いしているのは事実かもしれないが、教団幹部のマスコミ登場の仕方は度を超している。彼ら自身、メデイアを利用してプロパガンダをしており、マスコミに問題があるとすれば、彼らを登場させ過ぎ、冷静に社会現象を批評する姿勢を放棄している点。特にテレビにそれが言える。また今回の事件はケネディ暗殺事件を思い出す。あの時は狙撃犯とされた人物が別の人物に射殺され、大きなナゾが残った。今回も、関係のない第三者が義憤にかられてやったのか、だれかが裏で糸を引いているのかーなど奥深い疑惑があるかもしれない。事実の解明を待ちたい。
・菊池久
ついに、オウム真理教のナンバー・ツー・村井秀夫が23日夜、”逆テロ”にあって襲撃され、24日未明、亡くなった。オウム対警察の「権力戦争」はついに”テロ戦争”に発展した。こんご、オウムの報復テロにエスカレート、第5、第6のテロ続発が心配だ。その同教団の報復のテロのターゲットが、一般国民に向けられ、無差別大量殺りくのためにこんごサリン、毒ガスの散布など化学毒物兵器使用へと”凶暴化”することも危惧(きぐ)されている。オウムの武装化総指揮官・村井が犠牲者となったことで、捜査当局の捜査は、”犯罪指揮官”・村井の「自供」「証言」が得られなくなったことで、カベにブチあたり、難航は必至だ。
・小倉純二(2002年W杯招致実行委員会・事務局長)
「これまでのオウム関連の海外での報道では、例えばサティアンの様子とか、それほど衝撃的な映像はなかった。しかしあの刺殺事件の映像や写真は世界的にかなりのショックを与えた。どんな反応が出るのか非常に心配です」
(東京スポーツ.1995.4.27.20面)
・五十嵐官房長官(24日の記者会見)
「もちろん(捜査に)支障があると思う。オウム真理教についてのさまざまな疑惑の追求がなされている折から大変残念だ。しかし、捜査当局は非常に広範囲に着実に捜査を進めている」
・元内閣調査官・警察官僚 松橋忠光
オウム真理教であるから、やられて当然ということが市民の間に広まり、生命の尊重が軽んじられている傾向に向かっていくことが非常に恐ろしいと思う。また地下鉄サリン事件解明のために重要な人物であったのに、簡単に刺殺されてしまったことは、捜査陣の警備のやり方に問題があったのではないか。村井氏が亡くなったことで事件の捜査がとん挫しないよう願いたい。
・野中広務(国家公安委員長)
「捜査の継続中に、科学部門のトップといわれる村井氏が刺殺されたことは残念だ。どんな理由があれ、殺すことは許されない。(容疑者は)右翼と名乗っているが、背景などを徹底的に捜査したい」
「(今後の捜査については)捜査が妨げられることがないよう、物証をきちっとして的確にやられると信じている」(山梨日々新聞4月25日号)
・山崎哲(劇作家)
右翼なら思想的テロリズムだろうが、思想的背景がない人なら、過剰報道に一番の問題があると思う。警察が、きちんとした情報を流していないということもあるのだろうが、マスコミは危機感をあおり過ぎている。
また、一般市民はオウム側に対して、当初から対立していた。テロをした人は「自分は正義である」と思っているだろうが、その考えを支えているのはマスコミと、宗教に寛容でない市民社会だともいえる。(毎日新聞1995.4.24.23面)
・丸山 実(左派ジャーナリスト)
「村井氏を刺した徐容疑者は、今オウムをやれば有名になれると思ってやったのではないか」
「いわゆる売名行為だろう。もしオウムについて少し詳しい者なら、オウムのバックに広域暴力団の影が見えてくるはずで、こんなことはできないだろう。しかもマスコミの目の前でやってる。もしプロの殺し屋だったら、洋包丁で空振りしないだろうし、包丁でなく違う武器を使用するだろう」
「右翼の青年が鉄拳を下さなくてはならないと思ってやってしまったのだろう」
(オウム真理教が機関誌や雑誌で天皇制を非難してきたことと村井事件について)
・福島瑞穂(政治家、当時弁護士)
オウム真理教の違法行為については、裁判できちんと判断がなされるべきで、暴力行為によって解決しようというのは筋違いだ。オウムの違法行為に暴力を許すようになると、暴力がエスカレートするだけだ。オウムも、オウムに対して暴力を振るった側も社会の問題と理性と討論によって解決しようという回路を失っているという点では共通。私たちの社会の不幸はそこにある。
今の社会は価値観が単一でしかない、という側面がある。オウムの幹部がなぜ二十–三十代で占められているのか。子供のときに偏差値で将来が決められてしまい、選択肢がない。狭量な社会がオウムの人たちを生みだしているとも言える。今こそ民主主義への信頼を回復すべき時だと思う。(毎日新聞1995.4.24.23面)
中台一雄(右翼活動家・大悲会前会長)

「現在、右翼団体は1700の団体がある。韓国籍の2世や3世は日本で生まれ育ったわけですから、右翼に所属していても不思議ではない。実際、ウチににもいますよ。だが、今回の事件の状況は誰がつくったか?マスコミでしょう。ボクはオウム真理教を援護するつもりは全くないけど、強制捜査の容疑は仮谷さんら致事件だったんでしょう。なのにマスコミは警察発表しか聞かないから、犯罪性が立証されてないのに芸能人のスキャンダルと同じ感覚でとらえた結果です。なくなった村井さんも刺した徐クンもマスコミの被害者です」
・河野義行(松本サリン事件・報道被害者)
「ショックだ。自分のみにも同じことが起きる可能性は十分あった」(中日新聞1995.4.28.朝刊)
・竹内精一(上九一色村 反オウム活動家)
「捜査の見通しは大変暗くなった」「このような惨事を呼び起こさないため教団は真相を明らかにすべきだ。麻原彰晃教祖自身が出て来て全体像を話してほしい」(山梨日々新聞1995年4月25日)
・上九一色村住民
「最近、教団幹部が頻繁に富士ヶ嶺の施設に来ているようだ。同じような事件が起きては困る。不安だ」(山梨日々新聞1995年4月24日)
・高橋英利(元出家信者)
翌日、僕は東京に向かった。すぐに久米宏さんのインタビューを受け、VTRに収録される。テレビ局の人に村井さんの出演を交渉するという。「きみと話をさせてあげたい」というのだ。願ってもないことだった。この放送によって村井さんを陥れたいのでも追いつめたいのでもなかった。とにかく僕は真実が知りたかった。
そして4月23日、夜7時。放送が始まった。
顔も名前も隠さないという条件で、僕はテレビ朝日の特別番組に、別室からの生中継というかたちで出演した。13日の最初のインタビューのVTRを流しながら、番組は進行した。村井さんの出演はやはり実現しなかった。かわりに上祐史浩さんが南青山から中継での僕の質問に答えてくれることになった。
上祐さんと話すのは初めてのことだったが、上祐さんは最後まで僕の質問の核心には答えてくれなかった。僕はオウムがほんとうに何をやっているのか、それを知りたかった。それを彼はオウム独特の論理によって修行の問題にすり替えていったのだ。僕は失望したが、これは予想できたことだった。
むしろこの日の放送は僕の明白な脱会宣言としての大きな意味があったと思っている。テレビ局の人は、やはり僕をさらすことの危険性を心配してくれていたが、僕にとってはそんなことよりも、とにかくいま、オウムの真実を明らかにすることが何よりも重大事だった。僕の意識は極限までの緊張に達していた。
8時40分をまわり、間もなく番組が終わるころになって、速報が飛び込んできた。久米さんが緊張した面持ちで第一報を告げた。「オウム真理教科学技術省長官の村井秀夫さんが刺され、病院へ運ばれたという情報が入ってきました」
事件は8時35分ごろに起こったらしい。総本部に戻ってきた村井さんが、本部前の人ごみの中で一人の男にいきなり出刃包丁で刺されたのだという。テレビは南青山総本部の生々しい映像を送ってきた。「高橋さん。いまお聞きのとおり、あなたの上司であった村井さんが誰かに刺されて病院に運ばれたそうです」
僕は虚をつかれた。一瞬、なんのことだかわからなかった。生放送のテレビカメラは僕の表情をとらえ続けていた。僕の意識は真っ白になった。
「いやなニュースを最後にお聞かせしてしまいましたね」
険しい表情の久米さんのコメントで番組は終わった。
それからあとのことを、僕はあまり覚えていない。テレビ局の人に「南青山に行きたい」と繰り返し村井さんの血液型を聞いていたという。「僕の血液型はB型です」と、輸血のことを言っていたのだ。
テレビ局の人からは「現場に行くのはきみの自由だ。しかし高橋君、落ち着け」と言われた。僕は教、オウムからの奪回宣言をしたのだ。その僕がいま総本部に飛び込んでいくことなどできなかった。
僕は放心状態でその夜ずっとテレビに見入っていた。
そして午前2時半、村井さんの死が伝えられた。
このときの気持ちを僕は言葉にすることができない。僕はホテルの部屋にこもった。ただただ、彼の冥福だけを祈っていた。(「オウムからの帰還」266項~269項より)
●オウム真理教側のコメント、証言
(「巨星逝く」より引用)

・麻原彰晃(オウム真理教教祖)
「マンジュシュリー・ミトラに対する心の供養」
通常の治療を終え、身体を休め、瞑想していると、突然、「マンジュシュリー・ミトラが刺された」という報告が飛び込んできた。
わたしはその状態を聞いて、即、深い瞑想に入った。すると、イダー、ピンガラ、スシュムナーのアナハタ・チァクラまでのチァクラが激しく振動しているのである。わたしは今まで多くの経験をしてきたが、瞑想においてこのような経験は初めてだった。
そしてわたしの体からエネルギーがマンジュシュリー・ミトラに流れていくことがわかった。
わたしは瞑想を続けた。そして、ある段階に入ったとき、そのチァクラの振動が終わり、そしてアストラル空間にライオンの吠えるようなものすごく大きな「ゴォーッ」というような音が何度も響いたのである。わたしは座ることができなくなり、完全にエネルギーが消耗し、そして横になった。
横になりながらマンジュシュリー・ミトラに精神を集中し、シヴァ大神と会話を交わした。「シヴァ大神、マンジュシュリー・ミトラは助かるのでしょうか」。シヴァ大神は「ダメだ」という声をわたしにかけられた。わたしはそれを三度行い、わたしの天耳が間違ってはいけないので、次はヴィシュヌ大神に問いかけた。「ヴィシュヌ大神様、マンジュリー・ミトラは大丈夫でしょうか」と。同じようにヴィシュヌ大神も「マンジュシュリーは死ぬ。ダメだ」という言葉をわたしに返してこられた。わたしはマンジュシュリー・ミトラを何とか助けたい、それを思念し続けたが、治療が始まると同時にマンジュシュリー・ミトラの生命が終わりを告げることは確定したようである。
わたしのお世話をしている某氏は、わたしの目の周りが完全に上下とも隈になり、そして死んだような顔をしていると表現し、マンジュシュリーが完全に死を宣告されたのち、わたしの呼吸も停止し、わたしはマンジュシュリー・ミトラに対して、バンドのコントロールを行った。なぜならば、普通、このような急激な死に際しては、そののちポワの瞑想が長く適用されなければならないからである。しかし、おそらく今の国家のあり方からみると、マンジュシュリー・ミトラの肉体は切り刻まれ、そして両親に引き取られ、一般の葬式がなされることを予知していたわたしは、マンジュシュリーが死を宣告されたのち、できるだけ早い状態で、マンジュシュリーの意識を切り離してあげるしかないと考えたのである。
さすがの聖者マンジュシュリーも、今生初めての経験である死について戸惑ったようである。そして、人間界のバルドーを立ち現れる神々のバルドとその意味についてしばらく理解できなかったようである。わたしは何度も何度もマンジュシュリーと会話した。「さあ、このバルドが人間のバルドだよ。このバルドを捨断しなさい。このバルドの背景にあるものは心の妥協と、そして愛著なんだよ」と。
彼にその話をすると、彼のバルドは黄緑から白に変わる。「そうだ、マンジュシュリー、君はもうすべての人間としてのカルマから解放されたんだ。さあ、これからしっかり、愛欲の天界の世界へ行き、偉大なグルたちの教えを実践し、幸福な生活をしなさい」。
これを何度も何度も繰り返したものである。しかし、またしばらくすると黄緑の空間に覆われる。するとわたしはまた彼に説明をする。そして完全なるかたちでのポワが成功したのは午前六時であった。しかし、そののちもまだマンジュシュリーの意識は混沌としたり、鮮明となったり、両方が繰り返されるので、意識が混沌となったときのみ、わたしは彼に対してコントロールを行い、そして二十五日の夕方、やっと彼は完全な解放を得、そして天での享楽を経験する状態へと至ったのである。
弟子たちよ、人は死ぬものである。今回一部のマスコミが、マンジュシュリー・ミトラを教団が殺したとか、ひどい誹謗中傷を行っているが、彼らの悪口に怒りを放ってはならない。あくまでも哀れみの瞑想を行い、彼らが未来際において、真に解放されることを祈ろうではないか。そして、それのみがマンジュシュリー・ミトラに対するわたしの心の供養である。いいね。

一九九五年四月二十五日
真理の御霊 最聖 麻原彰晃尊師

上祐史浩(オウム真理教外報部長)
三階でテレビ番組に出演中だったマイトレーヤ正大師もかけつけ、救急車に同情して病院に向かった。
救急車の中にはわたしの他に二人の救急隊員がいました。救急隊員は止血のための応急措置をとろうとしているようでした。マンジュシュリー正大師は酸素マスクのような簡単な装置をつけているようでした。その時点では、マンジュシュリー正大師はまだ足を動かしたり、手や肘を曲げて動かしたりすることはできていました。救急隊員の「村井さん、聞こえる?村井さん、聞こえる?」という呼びかけに対して、あまり明確でないにせよ、何度かに一度は答えていました。本人には周りの言っていることは聞こえてはいたけれど、声を出して反応する力がなかったのかもしれないと思いますね。
彼が少し肘を曲げて何か訴えようとするので、よく聞いてみると、「~にやられた」(これが記者会見で言った『ある大きな力にやられた』という言葉です)」と言っていました。救急隊員の方も、それを確かにー何と言ったかはよく聞き取れなかったようですが―聞いていました。わたしには、はっきりと聞き取れました。(略)
「出血はちょっと多いけど、大丈夫だからがんばろう」、「尊師を意識してできるだけ生命エネルギーを強めよう」とわたしが声をかけたところ、マンジュシュリー正大師はこっくりとうなずいていました。(略)
行ってみると、マンジュシュリー正大師は、すでに目も見開いたままで、瞳孔拡大しているような状態でした。心臓マッサージによって機械的に体だけが「ドンドン」と、強制的に上下していました。このときにはおそらく駄目だろうなと思いました。医師に尋ねても「この状態から回復する前例はない。頑張ったけど駄目だった」ということでした。
・信者H
わたしはそのとき、青山道場の一階のマハーポーシャで仕事をしていたんですが、警備のサマナの一人が、血相を変えて飛び込んできたので、とっさに外に出ました。というのは、マンジュシュリー正大師が、いつもなら警備に守られながら車から出てこられるのに、その日に限って車からすっと一人で降りられたんです。
わたしが飛び出したときには、マンジュシュリー正大師匠は地下のアンタカラの方の階段から上がって来られたところでした。階段から出られた瞬間に報道陣と野次馬とに囲まれてしまって、そのままずるずると押されていくかんじだったので、われわれも急いで、「すいません、どいてください」と人ごみをかき分けて行って、やっとのことで正大師のところにたどり着き、いったん道をあけることができました。
ああ、これで通れるなあと、ちょっと安心したすきに犯人がやってきて—
そのときわたしには彼が正大師に殴りかかったようにしか見えませんでした。正大師はわたしの左前にいらっしゃって、わたしには刃物は見えなかったんです。ですから、てっきり殴りかかっていると思って、すぐに犯人のボディーをつかんで引き離したんです。それで、犯人はいったん正大師から離れました。
犯人は正大師を三度刺しています。一発目はからぶりでした。二発目は、左腕をかすめました―
それがちょうど、わたしが犯人を引き離した時です。そのときには、マンジュシュリー正大師も―
四つの記憶修習の具象化(四念処)が身についていらっしゃる方なのでー
全く動揺なく、「あ、切れちゃったよ」という感じの、余裕のある態度を取られていました。そして、マンジュシュリー正大師が切られた腕を見たあとに、とどめの一撃が入ったんです。
わたしは犯人のボディーを押さえていましたが、刃物を持っているとは思っていませんでしたから、手は自由なままになっていたんです。しかも、犯人と正大師との間が少し開いていたのですが、犯人は正大師の方に詰めよったとき、彼は体格が非情にがっしりしていたので、わたしは引っ張られるようなかたちになってしまって、止めることができませんでした。
三発目が入ったあと、犯人は正大師から一メートルくらい引き離されました。そこで刃物をぐるっと回しました。わたしはまだそれは見えなかったのですが、周りにたかっていた人々はそれを見てダーッと逃げていきました。「キャー」という悲鳴と「チャリン」という音が聞こえました。
わたしはそのときに犯人が放り出したものを見て初めて刃物であることに気づきました。マンジュシュリー正大師を見たら、クルタにばーっと血が広がっていて、もう一度刃物を見て、「アーッ、刃物だ」と実感したんです。
犯人はすごく落ち着いていて、我々に対しては全く刃物を振り回したりしませんでした。彼が攻撃したのはマンジュシュリー正大師だけで、彼の体をつかんでいたわたしに対して暴力を振るったわけでもありませんでした。完全にプロだと思いましたね。
ところが、しばらくだれ一人犯人を取り押さえようとする人はいませんでした。それは、何が起こったかわからないという感じではありませんでした。
—豊田商事の事件のときと同じように、ただスクープを見たい、見せたいというマスコミの体質ですね。「あいつをつかまえろ」とか「おまえ、ちょっと待て」とか、そういう言葉が全く出ないんです。あれだけの人間がいて。それどころか、犯人は堂々とその人ごみの中に入っていったのですから。目の前で人が刺されていて、—ドラマの撮影じゃないんですよーその犯人が目の前にいるにもかかわらず、報道陣も野次馬の一般人も何のリアクションもないんです。犯人を押さえようという動きは全くなかった。それで「何を考えてんだ!」とわたしはどなったんです。
やっと背広の人ー公安警察間でしょうねーが近寄ってきて、犯人も何の抵抗もせずに捕まりました。手錠さえかけずに。「はい、終わりましたよ。あとは予定どおりやってください」っていう感じでした。
犯人が連行されるのを見て、報道陣もわーっとそちらに群がっていきました。「一つの場面が終わった、じゃ次」っていうようなものです。目の前に見ているものに対して現実感を伴って気付いていないという感じです。
実は、あの事件の二、三日前から、マイトレーヤ正大師、マンジュシュリー正大師、アパーヤジャハ正悟師が出入りされるたびに、青山のビルの前は異常な状態でした。
例えば、マンジュシュリー正大師がちょっと話をしに戻られると、もうそれだけで、テレビカメラのレンズが割れてしまうんですよ。車に行く間に。それが二、三回あったと思います。あるときには、その割れたレンズをアパーヤジャハ正悟師にぶつけようとしている人までいたんです。
あの日も、刺される直前に女性レポーターが正大師にインタビューぢていて、それに対して正大師が「大丈夫ですか」っておっしゃっていました。
ところで、正大師の様子なんですが、余りにも気丈な様子でいらっしゃったので。わたしはそれほど重傷だとは思いませんでした。ところが、ドアを開けて中のエレベーター前まで行かれたときには、傷口からピューピュー吹き出ていたんです。血が。それまでは、ぽた、ぽた、というほどの出血だったので、警備のサマナが「横になってください」と正大師にお願いしているのは、けがをしているから横になってもらっているんだと思っていたのですが、実際はかなりの重傷だったんですね。(マハーポーシャのサマナM君)
・警備担当の信者H
四月二十三日午後八時三十五分ごろ、南青山東京総本部道場を囲む異常な雰囲気の中で起こったマンジュシュリー・ミトラ正大師の刺殺。
「救急車を呼べ!」という叫び声。「マンジュシュリー正大師、頑張ってください!」と呼びかける者、傷口を押さえて止血しようとする者、涙を浮かべながら祈る者、その様子に群がる報道陣のカメラ、マイクを握って興奮した声で状況をリポートするアナウンサー……。周囲は騒然となる。
ビルの内側から警備として正大師の方へ向かおうとしたわたしは、ものすごい人垣の後ろになってしまって、犯人が正大師を刺すのを防ぐどころか、それを見ることもできませんでした。犯人が正大師を刺して後ろへ後ろへ引き、報道陣も一気に後ろに引き下がってやっとそばにいくことができたのです。
正大師は刺されたところに手を当てていらっしゃって、犯人は1メートルくらい離れたところで右手に洋包丁を持って立っていました。一瞬何が起こったのか全然わかりませんでした。
正大師はみるみる顔色が青くなり、多少苦しそうな顔をされて、傷のところを抑えてほとんど倒れそうな状態で、ドアを押して中に入ろうとされていました。警備のサマナたちが正大師を抱えるようにしながら、「お願いですから横になってください」と言うと、ドアのところに倒れるように横になられましたそれまではまだ、ぽた、ぽた、と周りに落ちている程度だった血が、そのときには一面に散るような状態でした。
(警備のサマナH君)
・信者K
「マンジュシュリー正大師が刺された」という叫び声の驚いて二階から降りてきたK君は、混乱している人々の中に医師や応急処置を知っているひとがいないか訪ねたが、だれも名乗り出なかったため、自分でマンジュシュリー・ミトラ正大師の傷口を押さえ続けた。
救急車が到着するまで、わたしがずっと傷口を押さえていたんです。本当は、わたしが触れているだけでも正大師にとってはエネルギーロスになるのでしょうけれど、出血をそのままにしておくわけにもいかなかったので。すると、正大師からエネルギーが流れてきて、周りがすごく混乱しているにもかかわらず、どんどん冷静になっていくんです。次に何をしなければならないかということを冷静に考えることができるんですね。正大師の心の平安さがわたしの中に流れ込んできたのだと思うのですが、あのような傷を負われても心の平安を保てる正大師のステージは凄いと思いました。
(K君)
・男性信者
「知らなかった」「警察は信者の警備もしっかりしてほしい」(山梨日々新聞4月24日号)
・オウム真理教幹部・元熊本県警備部補 高山勇三
「これがテロだ。許しがたい。過剰な報道により(教団に対し)敵愾心を持つ人が出ている。オウム真理教がテロリスト集団と言われているが、他にテロリストがいることをわかってほしい」(山梨日々新聞4月24日号)
・井上嘉浩(諜報省長官)
「松本智津夫氏が弟子を切り捨てる方向に動いていると思った。僕も内心、殺されるのではと思っていた」(1997年3月19日中日新聞夕刊)
・青山吉伸弁護士(オウム顧問弁護士)、遠藤誠弁護士(人権派弁護士)
遠藤誠弁護士「警察が正式に何も発表していないのでわからないが、わたしは徐被告の単独犯のような気がするね。このことでは、青山弁護士も、わたしと同じ意見なんだよ」(95年6月12日週刊大衆特大号)
上記の証言からわかる通り、オウムは村井の死を冷然と受け止めていることがわかる。
麻原に至っては、自己を神格化させるために村井を踏み台にして神通力の素晴らしさを強調している節が見られる。
上祐の場合は、村井の死ぬ様子を淡々と語っているが、そこには悲痛な感情の起伏が見られない。更に上祐は村井事件翌日の記者会見で不自然な発言を残しているが、続きは次章で紹介する。
上記の教祖・信者の証言はすべて「巨星逝く」からの引用である。本文献では刺殺犯・徐裕行の実名は載せられていなかった。特定の人間や組織の攻撃を好むオウムとしては異例の対応といえる。

次回
第七章:上祐の奇妙な会見・麻原逮捕