第五章:村井秀夫の葬儀 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

●村井家の葬式



息子が死んだ…。

村井秀夫の死を嘆いたは村井の両親だった。
村井秀夫の実家は五階建てアパートの2階。
大阪府吹田市内のアパートが建ち並ぶ閑静な住宅街の一角にあった。
事件直後、午後9時半すぎから報道陣十数人が集り、付近の住民も不安げな様子だった。





「読売新聞95年4月24日」の記事によれば24日未明、死亡の連絡を受けた直後、次のように語っている。


村井の母「朝になれば東京の病院に行く予定にしていましたが…。申し訳ありません。何も話すことはありません」
両親は赤坂署の要請で午前8時に上京。

しかし、瀬口 晴義(著)「検証・オウム真理教事件―オウムと決別した元信者たちの告白」、「東京新聞96年4月18日朝刊・決別 オウム元信者たちの告白」によると、村井が絶命する前に、両親が広尾病院に到着していたという。以下引用。



 病院には村井の両親がすでに大阪から駆けつけていた。村井の母は取り乱して泣いていた。村井の父は中井の顔を見てとがめた。「何でお前までここにいるんだ。お前だけは連れて帰る」と彼の腕をつかんだ。病院に詰めていた上祐が慌てて割って入り、少し離れたところに彼を連れていった。

彼は上祐に尋ねた。

中井修(仮名)「僕は何で呼ばれたのでしょうか?」

上祐「親族だろうお前は」

上祐から怒声が返ってきた。

中井「はあ?」

 村井を「兄貴」と呼んで慕っていた中井は、教団内で「村井の弟」「村井のいとこ」と思いこまれていたのだ。

「修ちゃんだけは、殺される前に帰りなさい」
 村井の母はそう叫んでいた。

 集中治療室に入っている村井の容体が極めて厳しいことは、病院の雰囲気で分かった。治療室には医師や圭司が慌ただしく出入りしていた。

「もし亡くなってもマンジュシュリー正大師は生き返るよ」。献血のために集まった約十人の信者たちがそう言い合う輪の中に、中井も加わっていた。

 病院に到着して約三時間後、上祐が彼を手招きするのが見えた。

「容体はどうですか」

 上祐は表情を変えずに一言だけ言った。
「死んだ」

「・・・・・」
 その冷たい口調に「無神経な奴だ」と無性に腹が立った。(以下略)


瀬口 晴義氏の著書は時系列的に疑問のある話であり、要検証すべき事項である。



オウム側にも動きがあった。
上祐が「警察側が(司法解剖)処置をとる前に祈りを捧げさせてほしい」と申し入れをしてきた。

村井が死亡した2時間半後の午前5時すぎ、上九一色村からピンク色のクルタを着た弔い担当の信者が駆けつけてきて、遺体のそばで略式の儀式を行った。

司法解剖による村井の死因は「腹部臓器損傷の疑いにともなう右側腹部刺切創による失血及び失血ショック死」と診断された。



午後4時、村井の両親は東京警視庁赤坂署へ到着。
赤坂署の話では、取り乱した様子はないものの、取材に関して父親が「心情をくんでほしい」と口を閉ざしたという。


午前5時、村井の遺体をのせたと思われる車が赤坂署から出発、六本木へ走り去る。報道陣が殺到したが、この車は、その後の赤坂署の発表でカラだったことが判明した。

午前5時48分、上祐が病院を出る。明治通りから渋谷へ車を飛ばし、南青山総本部へ入った。既に現場はメディアの他に機動隊員が集結していた。

また、日刊スポーツ95年4月25日朝刊2面には、以下の出来事が記載されている。

 村井氏の両親は、決して教団に遺体を譲ろうとはしなかった。24日午前、司法解剖を終えた遺体が届く東京・赤坂署では、両親と信者の間で遺体の取引をめぐって押し問答が展開されたが、両親は「遺体は自分たちで引き取ります」と断固として信者を牽制し、同署に申し出た。署内から閉め出された信者らも署員に公証を続けたが、受け入れられず、取材陣に「遺体は本当にあるのか」と尋ねる者もあった。

 両親への遺体返還は、死去後も信者を肉親の元へ返さず、葬儀と埋葬を独自に行ってきたオウムにとって前例のないことだった。特に村井氏の場合はオウム最高幹部とあって教団側も遺体に固執したが、「死後まで親と会わせない」という社会的批判を考慮した結果でもあるようだ。
 両親はこの日午前中に東京・赤坂署に到着。司法解剖が行われた慶応大学病院から村井氏の遺体が届くのを待っていた。当初、遺体は慶応大学病院を午後1時40分に出る予定だったが、「息子の亡きがらを世間にさらしたくない」という両親の意向から、ワイドショー中継が終わった同4時すぎとなった。

赤坂署1階の霊安室の安置された遺体と無念の対面をした両親は、涙で焼香。午後9時に、自ら手配した葬儀社の車に息子の遺体を乗せ、同署を後にした。(以下略)



「息子の亡きがらを世間にさらしたくない」。殺人疑惑がありながらも、息子を大切に思い続けた両親の気持ちは、マスメディアの手で無惨に打ち砕かれた。







上の写真は司法解剖のため慶応病院に運ばれてきた村井の遺体である。情報をいち早く掴んだのか、警官が遺体を運ぶ様子を鬼怒川毅氏が撮影している。


別の角度からも、あるスポーツ紙が上の角度から村井の遺体を撮影している。左には扉の側でカメラマンが待機しているのが不鮮明ながら確認できる。


更に、週刊誌フライデー(95年11月10日)が、村井秀夫の全裸遺体の写真を掲載させた。







※アメブロの仕様が変わり、センセーショナルな画像が添付出来なくなりました(2025/2/13)
特筆すべき点は、村井の指の写真である。指紋を消そうとした痕跡がはっきり分かる写真だ。坂本弁護士一家殺害事件時に、手袋を付け忘れ、ドイツ入国時にフライパンで指紋を焼いた出来事を生々しく物語っている。




(壮絶な最期を報じる記事。)

1995年4月25日。

東京都渋谷区の代々幡斎場で村井の葬儀が行われた。両親は赤坂署で息子の遺体と対面した後、都内のホテルで一夜を過ごし、午後2時15分、最寄りの駅から徒歩で斎場に来た。



前日、オウムの信者が「ミトラ正大師のために使ってほしい」と、棺を用意。通常使われる素材とは違う茶色の木材で、釘の打ち方もバラバラだった。全体的に若干大きめで顔部分の観音開きの部分はレリーフの縁取りが施されていた。立ち会った葬儀社員によると「素人なりのできばえだが、持ち上げると服にたくさん木屑がついた」という。

両親は複雑な思いでオウム製の棺を受け入れたが、火葬の際にはオウムの話題には触れなかった。最後の別れをした母親は目に涙をいっぱいためて「なんで」と問いかけた。

村井母「きれいな顔。寝ているみたい。」

別れの花を納め、父親と寄り添って合掌した。

火葬は2時25分に始まり、1時間後の3時20分に終了した。葬儀社によれば、遺骨はのどぼとけがきれいに残っていたという。ことばを失った両親は、黙々と息子の遺骨を拾った。

その様子を「毎日新聞95年5月21日朝刊」が克明に伝えている。

 母(六三)の目から一度止まった涙が、またあふれ出した。息子の骨を一つずつはしで拾っては、白い陶器のつぼに入れる。両親だけの骨揚げだった。



「その間ずっと無言でね。私も可哀そうになって一緒に拾いました」
 付き添った葬儀屋の係員が振り返る。

(以下略) 

納められた遺骨は目立たぬよう、白木の箱と、両親が持参した紫のふろしきで6重に包まれた。

遺骨が斎場を後にしたのは午後3時25分。遺骨は大阪府吹田市の実家へ向った。
追いすがる約三十人の報道陣。新大阪駅では約50人の警官が、報道陣から2人をガード。両親は警察に何度も頭を下げていた。
騒ぎは死の異様さを示していた。 
しかし、より異様な葬儀がオウムの手によって行われていた。



●オウムの不気味な葬儀

4月24日午後4時、村井が刺殺された南青山総本部前に信者たちが集まり、「ポア」の儀式が行われた。









https://www.youtube.com/watch?v=NvQMX_QmAvc
※アメブロの仕様が変わり一部映像が添付出来なくなりました(2025/2/13)

「仏陀釈迦牟尼の仏典にのっとって、お香、花・踊りの供養を致します」という説明に続いて「踊り省」のメンバーと思われる男性1人、女性3人の計4人が裸足で玄関前に登場、教団制作のシンセサイザー音楽に合わせて突然踊り始めた。





一様に白いクルタを着て踊り、裸足だった。その中にはオウムシスターズ三女、タントラナンダー(当時20)の姿もあった。



踊りはバラバラで、手をかざすようにくるくる回ったり、つっ伏したりする。エアロビクス風の踊りを始める女性もいれば、サンバを踊っている女性もいた。







 異様さを極めたのはBGM。はじめこそ追悼儀式を思わせるシンセ音楽だったが、途中から麻原の歌声に変わった。「なんて悲しいんだろう」で知られる「さまよえるバルドー」である。これでも暗い歌だけにましな部類だった。選曲はどんどん酷くなっていく。



ラジオから流れてきたのは、当時世間から嘲笑されていた「閻魔の数え歌」。



明らかに場違いな歌も流れてきた。タントラ・ギーター 師の歌「哀しみの動物世界」。





4人の信者は平然と笑顔を交えながら踊った。教団最高幹部の正大師が亡くなったとは思えない儀式に、通行人もいぶかしげに見ていた。弔いの踊りは延々2時間20分続いた。踊りの儀式は10日間にわたった。村井が火葬されているその間も、彼女たちは踊り狂った。

1踊りの期間を10日間とした理由は、「死者は遅くとも死後49日以内に輪廻転生するが、これが早ければ早いほど高い世界に転生し、遅いほど低い世界(人間界は45日目、地獄界は49日目)に転生する。」という教団の教義に基づくもので、村井は幹部としての「功績」が高いので10日以内に転生するとされたためである。

上祐目当てに総本部へ来た女子高生は「死者をかわいそうと思ってないんじゃないの。何か宣伝しているみたい」と話した。通りすがりの女性が花束を捧げる場面も見られた。

オウムの奇怪な動きはこれだけではなかった。教団は村井秀夫の殺害を、とことん利用しようとしていたのである。


●謎の追悼集団「人権尊重を求める市民の会」



村井秀夫の追悼式を行ったのは、オウム教団だけではなかった。
村井刺殺事件から丁度一週間目を迎えた4月30日。この日の午前7時30分、青山弁護士が接見のため外出し、約2時間後に戻ってきた。

午前11時ごろ、「九州から来た市民団体」を名乗る男女4人が車を横付けし、いきなりマスコミ、警官に向って「違法捜査だ!!」「人権無視だ!!」と詰め寄る騒動が起きた。警察が制止し、一度は強制退去させたものの、約1時間後、今度は花束、横断幕などを携え10人近くで再び来訪。

「5日前からオウム側へ村井氏の追悼集会をやらせてほしい旨を伝えてある」と警官を強引に説き伏せ、警官と信者しか立ち入れない玄関の村井の祭壇前で、堂々と座り込みを開始した。

彼らは、熊本県の市民団体「人権尊重を求める市民の会(中島真一郎代表)」。


「あの時、マスコミ、警察はなぜ村井氏を助けなかったのか」と拡声器で訴え、鐘と太鼓を打ち鳴らすけたましい”追悼パフォーマンス”を繰り広げた。
彼らは「容疑者の人権を保障した違法手続きによる公権力の行使と公正な報道を求める」との声明文を報道陣に配った。報道陣が呆れる中、延々3時間以上もオウムを援護して踊りタ太鼓をたたくも、赤坂署員は一切おとがめなし。

街宣活動を行うには管轄警察の許可が必要なのだが、許可は出されていない。では一体このような活動ができたのだろうか。

実は「人権尊重を求める市民の会」は、オウム信者によって組織されたものであり、教団の自作自演だったのだ。数ヶ月前、渋谷で同団体がビラ配りをしており、警察がメンバーの身元を調べた結果、うち一人の住所が静岡県富士宮市人穴のオウム総本部だった。

つまり、赤坂署も彼らがオウムと聞いていたわけだ。”オウムパフォーマンス”に、赤坂署員も「あいつらのやることは全部、”自作自演なんだよ」とうんざりしていたという。

参考文献:「東京スポーツ」95年5月2日号・「スポーツニッポン」95年5月1日号



http://i.imgur.com/fCIHv9W.jpg


この「人権尊重を求める市民の会」について調べたところ、『真の自由と平等を求める10・20市民の集い』の参加団体だったことが判明

ajnaさんブログ「反日はどこからくるの」より↓
http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/37857780.html



この集会には八尾恵(北朝鮮工作員。有本恵子さん拉致事件の実行犯)、オウム真理教からは青山顧問弁護士と出家宣言前の鹿島とも子が参加。つまり、オウムと北朝鮮工作員が合同で集会を開いていたことになる。

『真の自由と平等を求める10・20市民の集い』については情報が不足しているが、この関係が事実であれば大変恐ろしい話である。

また、有田ヨシフ、上祐史浩はオウムと北朝鮮の関係を否定しているが、有田は北朝鮮へ謎の渡航を行い、上祐はオウムの後続団体を運営している。彼らの背後に、黒い利害関係が存在するのだろうか…