山路徹「突然ドアをノックする音が聞こえたが、ドアにはカギがかかっていました。だれかと思っていたら、そのうち『エレベーターが血だらけだ』という声が聞こえたんです」
この証言は20年後、フジテレビ系列「Mr.サンデー(3月22日放送)」で再現映像として放送された。
目撃者①:山路徹氏(ジャーナリスト)

4月23日。
その日、南青山総本部道場の地下に、一人の取材者がいた。
山路徹氏(当時33)。地下鉄サリン事件当時、海外の戦場を取材していた。
話は4月18日にさかのぼる。
山路の自宅に突然オウムから電話が入ってきた。

山路「突然オウム真理教を名乗る男性から電話が掛かってきたんですね。それで、会ってほしいと」
信者「オウム真理教と申します」
山路「えっ…オウム?」「ご用件は?」
信者「山路さんに折り入って話したいことがあります。お目にかかって話を聞いてほしいのですが」
翌日、指定された新宿の喫茶店へ向かうと、アタッシュケースを手にグレーのスーツを着込んだサラリーマン風の男が現れた。
信者「山路徹さんですね。諜報省の相川(仮名)といいます。オウム真理教を取材してみませんか?」
当時マスメディア対応は上祐率いる外報部が担当していた。
オウムの諜報省は井上嘉浩がトップを務める、裏の実行部隊だった。
(何故自分が?)
オウムは、権力を批判する山路氏のリポートに関心を示したていた。
信者「とても公平な記事です。山路さんだったら本当のことを伝えてくれると思いまして…」
オウム側は山路を調べ尽くしていたのである。

4月22日
電話から3日後、相川から案内役の五十嵐(仮名)を紹介され、独占取材することが決まった。
警察の検問を受けた後、山路はサティアン内へ入った。当時信者以外は入ることが許されない場所を紹介されることになった。

山路は上九一色村のサティアンに一泊二日のスケジュールで泊まり込み、信者の仕事や修行の風景などを取材した。
山路「それこそゴキブリがうろうろしていたりね、そこに信者たちの靴がこう、並んでいたりしてね、臭いもね、やっぱりちょっとこうきつかったりしたんですけれども…」
何とも異様な光景だった。部屋中至る所に麻原の写真が貼られている。
奥へ進むと、建物は印刷会社と見紛うような施設へ続いていた。
ちょうど教団機関誌「亡国日本の悲しみ」や「ヴァジラヤーナ・サッチャ」が製本されているところだった。オウムのメディア戦略の中枢だ。
山路は作業をしてた信者に素朴な疑問をぶつけてみた。
山路「恋愛についてはどうですか?」
女性信者「あのもう…例えば恋愛したとてもその先には完全なる幸福がないというか、本当に苦しみに行き着くしかないっていうのが分かっているので、あえてそれを…そういう道には入らないというか…」
山路「寂しくないの?」
女性信者「寂しくないです」
暫く質問を続けたあと、今度はサリン事件とオウムの関係を質問してみた。
山路「今世の中でさ、あのー、オウム真理教とさ、サリン事件を結びつけて、いろんなこと言われているでしょ」
女性信者「はっきり言って一方的な嫌がらせというかもう…嘘ばっかりというか…なんで私たちがそんな目に遭わなければいけないのかっていう」

自由に聞き過ぎたか?絶えず山路の取材を五十嵐が監視に目が気付きヒヤリとした。
そこで麻原のかぶり物をかぶってみたり、「ダルドリー・シッディ」の修行を体験してみることで、オウム側が満足するようなリアクションを心がけた。

するとオウムは、山路を教団スタジオまで案内してきた。
気付けばオウム側のアピールを自然に撮らされていた。
取材を続けていく間に、日付は23日に変わった。
山路が東京総本部の取材をするため上九一色村から離れようとした。
すると、信者から「いい情報があるからそれを持っていくので、それが到着するまで上九を離れるな」と指示が入った。

電話で伝言をしてきたのは最初に取材を依頼してきた信者相川だった。
山路は相川に「青山(総本部)からいいネタが入りました」と呼び止められた。そこで山路は上九一色村に留まった。
ところが、いつになっても信者が戻って来ない。時間だけが過ぎていく。
信者が戻ってきた頃には4時間も待たされていた。
しかも何故か信者からオウムの機関誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」を渡され、山路は拍子抜けしてしまった。

午後4時、山路は上九一色村を離れ南青山総本部総本部へ向かう。
午後4時30分、山路とは別に村井も東京総本部へ向かっていた。
夜7、8時頃。現地に到着した山路はそこで再び待たされた。
信者「すいません、すぐに戻るのでしばらくお待ちください」

山路は総本部内の地下にある喫茶店アンタカラの待合室に招かれると、そこで待機することになった。

そのまま、30分、1時間、山路は待ち続けた。
その時である。
「ダンダンダン!ガシャガシャガシャ!」

山路「……?」
向こう側から、何か不審な物音がした。振り向くと、音は白いカーテンで覆われたところから聞こえてくる。

実はこの時、白いカーテンの向こう側で、村井が扉を開けようとしていたのだ。
目撃者②:長谷川まさ子氏(テレビ朝日『ワイド!スクランブル』レポーター)

平成7年4月23日、私は“村井番”で、朝から山梨県上九一色村のサティアンで張り込んでいました。夕方4時半、村井さんが車で出発。公安とマスコミが合わせて二十台もの車が、後を追いかけました。
南青山に着いたのは、八時半くらい。昼間から総本部に張り付いているマスコミと警察官、加えてたくさんの野次馬で、ものすごい人だかりです。
テレビ朝日はちょうどその時間、久米宏さん司会でオウムの特番を生放送中でした。村井さんは出演予定はなかったのですが、私がマイクを向けて「番組に合流されるんですか」と聞くと、小さくうなずいたように見えました。
総本部に入るとき、村井さんはいつも外階段から地下の入り口を使っていました。あのときも階段を下りて行ったので、私たちは追うのをやめた。ところが村井さんは、すぐに階段を上がってきて、正面の入り口へ向かったのです。すぐに階段を上がってきて、正面の入り口へ向かったのです。あとで聞いたところでは、あの日に限ってなぜか地下のドアが閉まっていた。
そして再びもみくちゃになった直後のことです。

目撃者③:梅田恵子氏(日刊スポーツ記者)
95年4月23日午後、東京総本部前。村井秀夫幹部が帰ってくるとの情報があり、200人くらいの報道陣が玄関前をぐるりと囲み、ごった返していた。風の強い小雨で多くのマスコミが傘をさしていたが、そんな輪の最前列に、傘もささず、玄関をじっと見ている男がいた。ずいぶん熱心だが、派手なセーターは雑誌編集者か何かかと思い、名刺交換させてもらおうと思ったら交代要員が来た。

目撃者④:贄田英雄氏(テレビ朝日カメラマン)
贄田は、現場に不審な男がいるのを鮮明に覚えている。
贄田「まぁマスコミか野次馬かわからないんですけれども、プラプラしていると。ああいう電柱か木に、こう寄っかかって…こう、時間を潰しているような、そういうそぶりを見せていましたね」


(次回 第4章「巨星逝く」)