前回、前々回に続き、「ポエム化」のお話3回目。

大反響があった1月14日放送NHKクローズアップ現代「ポエム化」の特集。
ネット上でも批判や非難が相次ぎましたが、そのほとんどはやはり
NHKではなく、居酒屋甲子園側に向けられたものでした。
http://www.j-cast.com/2014/01/15194211.html

NHKも番組動画は当然のことながらありませんので、
これは居酒屋甲子園のダイジェスト版動画です。


こちらは居酒屋甲子園を創始した会社の居酒屋の朝礼の様子


あなたは、どう思われますか?
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居酒屋甲子園のブログにもメールが殺到したようで、一時的に
ブログを閉鎖していたようです。

甲子園側としては、自分たちの思惑とは裏腹に、批判的な内容で番組が
製作・放送されていたため、遺憾に思うのは当然と言えば当然でしょう。
居酒屋甲子園と居酒屋のイメージアップするつもりだったのが裏目に出てしまい、
参加している居酒屋のイメージダウンにもつながりかねない結果になったわけです。
(※居酒屋甲子園側はブログにて、自らの関係者に対して、放送内容についての
 お詫びコメントを掲載。
________________________________
以下は居酒屋甲子園ブログに掲載されたNHKの取材依頼文です。

<取材までの経緯> 
・NHK様より頂いた依頼文 ※依頼部分抜粋
現在、クローズアップ現代で1月の上旬を目指して、いま日本社会の
様々な現場で生まれている広告、条例、企業の社訓・クレド(信条)
などの「熱い言葉」の現場を訪ね、その背景にあるものを探る特集を
組みたいと考えております。そのなかで、従業員の離職率の高さに悩む
サービス業界で、いま●●甲子園という大会が広がっていること、
さらに各店舗さんの企業理念や個人理念でも詩的な言葉を導入されている
様子を取材しております。
低温世代といわれる若者たちのこころをどう動かすか、その取り組みの
様子を取材しております。何卒ご協力のほどをよろしくお願いします。

________________________________

この点に関しては、たんに事前のすり合わせがうまくなされていなかった
だけだと思います。取材依頼と番組内容に開きがあるわけではありません。
批判的に報道しているのは事実ですが、過度に脚色がしてあるわけでもない
し、断定的に否定しているわけでもありません。居酒屋甲子園側の期待とは
大きく異なるでしょうが、NHK側に非があるものではないと思います。

今までは居酒屋甲子園の知名度が低かったのため、特に取りざたされなかった
だけであり、甲子園や居酒屋朝礼の実態が放送されれば、どのような脚色を
しても、おそらく批判・非難は免れないものと思われます。

仮に居酒屋甲子園がNHKに異議を申し立てるのであれば、それは甲子園側の
自分たちの価値観と社会通念とギャップに、あまりにも鈍感であったと
言わざるを得ないでしょう。(甲子園側は協議中だそうですが、異議を申し立てると、
それが話題となってさらに批判が高まるため、おそらく沈静化を待つでしょう)。

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さて、ここからは居酒屋甲子園に対しての、私の感想です。

私はああいった言葉をみんなの前で叫ぶことは、
恥ずかしいとは思うものの、悪いことだとは思いません。
実際、人生において、時には頭をからっぽにして、
感情をむき出しに叫ぶのも大切なことだとは思います。
アファーメーションといいますが、言葉を口にして、
体に覚えさせるという自分をコントロールする技です。

しかし、それは「時には」であるべきだと思うんですね。
ところが、あのように組織化してそれをやってしまうと、
あのテンションが常態化して、オン・オフが無くなっちゃう
んですよね。それが怖いと思います。
いわゆる全体主義です。

問題があって、「おかしいな?間違っているんじゃないか?」
と思うことがあっても、意見もできなくなる。
仲間こそが全て。ポジティブだけのイケイケドンドンですから。

やっぱりバランスだと思います。夢をかたるのはいい。熱くなるのもいい。
でも、熱くなりすぎちゃだめなんですよ。熱けりゃいいってもんじゃない。
冷静さっていうのもやっぱり大切ですからね。

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中には「本人たちが好きで望んでやっている事だからいいじゃないか」
「働く本人たちの自由であって、とやかく批判することではない」
そういった意見もあります。

もちろん、そこで働くのは本人の自由です。

1日労働時間が16時間になろうとも、残業手当がほとんどなく年収270万円
程度であろうとも、労働基準法に抵触しようとも、本人がよければそれで
いいのです。
放送収録だというのに、開店前から目の下にクマを作って、ひきつった笑顔
で接客するのも、本人がよければいいのです。
開店前朝礼なら仕事前の実務的なすりあわせとか、問題点・改善提案などの
意見交換する必要もあるはずでしょうが、夢を叫んで終るのも、本人たちが
よければそれでいいのです。
飲食業で食器や食材が並んでいるにも拘らず、唾を飛ばし合いながら、大声で
さけぶのも、本人たちがいいのだからそれでいいのでしょう。

だって、仲間がいるんだから。

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甲子園を非難するつもりも擁護するつもりもありません。
あれらの居酒屋の経営者は、騙しているつもりはないでしょう。
経営者として、社員以上に働いているのだろうとは思います。

しかし構造的には宗教団体と同じじゃないでしょうか。
ひたすら、お経のように明るい言葉を唱えて信じこむわけで、
本質を洞察することが、みごとに、無い。
つまり「考える」ということがなくなるんですね。
考えることを捨てることで、不安や恐怖を見えなくする。
同時に問題点も見なくしちゃうんですよね。

「日本一!世界一!本気です!絶対です!本当です!最高です!…」
気持ちはわかりました。
でも具体性が、一切無いですよね。

「仲間のために!」…はい。でもそれ、
「お国のために!」という戦時下の国家主義と(論理の構造的に)同じです。
その言葉を信じてはいるが、それが何であるかを考えてはいない。
ただひたすら信じているだけという、省察のない無反省さが
とても「危うい」と思います。
そこでは「何かおかしい」と思ったとしても、誰もが声を上げる事が
できない雰囲気であり、終には「おかしい」と思う感覚がマヒしてしまう。
そういう危うさのことです。

例として適切ではないかもしれませんが、食品偽装などの
あれら企業の問題も、結局は企業のため、みんなのため、という
信念のもとにエスカレートしていったわけじゃないですか。
戦時下の国家主義も同じ構造だったとと思うのですが、違いますか?

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本来は個人的な心の問題を、すべて「仲間」という集団の問題として
すり替えているのが、ポエム化と呼ばれる現象の問題の核心にあります。

SNSが発達し、個人間での情報のやり取りが飛躍的に増えた現代においては、
この「仲間とともに」という価値観が、基盤的な価値観となってしまいました。
でもその価値観は、大切なものではあるけれど、一番では無いはずです。
それが何かを考えなくなることが、本当は一番怖いことだと思います。
言葉を大切にすることと、言葉を崇めることとは違うと思います。

言葉を崇め、ありがたがり、それを唱えるように叫び、
多用・連発することは、大切にしているように見えますが、
ただ言葉を安売り・投げ売りしているのだと思います。

人は、その言葉を大切に思ったら、必ずその言葉の意味を
深く考えるはずです。大切な言葉は、誤った使い方をしたく
ないから、大切な言葉であるはずだからです。
本当に大切な言葉なら、あんな使い方にはならないと思います。


※前回は1月14日に放送されたNHKのクローズアップ現代にて
『あふれる“ポエム”?!~不透明な社会を覆うやさしいコトバ~』という
タイトルで、「居酒屋甲子園」を例に、やさしい言葉でを並べたてる
若者の姿を描いたものを紹介しました。

【参照リンク】
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3451.html
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3451_all.html
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私はあのNHKの放送内容の趣旨に関してはおおむね同感します。

しかしそれはさておいて。
そのまえに問題だと思うのが、あれら放送されていた現象に対し、
一括りにして「ポエム化」と呼んでいることには、いささかの違和感を
覚えます。何をもって「ポエム化」と呼ぶのか?

ここで言われているポエムとは、【「夢を持って、みんなを幸せにして…」
といったふわっとした前向きな言葉の連なり】とされていますが、
その説明自体がふわっとしていてよくわかりません。

ポエム=詩ならば、詩と日常言語では、直接性・情報性、つまり「わかり易さ」
という点において異なっていると思います。日常言語は直接的な「情報」です。
それに対し、詩とは情報ではなく、間接的な表現、「比喩」であります。

ある考え・観念に対して、それらの言葉の意味をきちんと考察し、
本質がなにかを洞察する。再びそれをシンプルに表現しようとすれば、
言葉は必ず「詩的表現」になります。
雑多な観念をまとめあげ、精製・洗練した言葉は詩的になる。
私は詩的言語をそのように理解しております。

説明しようとすればどうしても言葉の量として過剰になってしまうもの。
それをシンプルな形で表現しようとすれば、情報性を減らして、比喩表現
にしなければならない。本質を語る言葉が詩的言語に似るのは、そのためです。

比喩とは、伝えたい内容が伝わるかどうかを、相手の感性的な面に全面的に
委ねる、ひとつの「賭け」だと思います。
詩の受け手は、感性によってそれを受け取り、理性によってそれを日常言語に
変換して解釈する努力が必要となります。

自治体の条例や商業の商品説明など、情報として伝えなければならない
事は、5W1Hの情報で伝えるべき。それを比喩表現でわかりにくくして
相手の感性に委ねてしまうことを「ポエム化」と呼んで批判するのは
とてもよくわかります。

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しかし、昨今のJ-POPの歌詞、また居酒屋甲子園で叫ばれている言葉。
愛、希望、夢、絆、仲間…。あれらは比喩ではないですし、とてもわかり易い。
このわかり易さこそが問題だと思うのです。わかり易すぎる。
あのわかり易さは、ポエムというよりは、「スローガン」なのだと思います。

ポエム・詩は、考えることによってそこに意味が生まれますが、
スローガンは考える事を拒否します。
情報でもポエムでもない、あれらスローガン・キャッチフレーズのような
言葉は、もはや言葉ではなく、ただの記号として意味を固定化しています。

「愛、希望、夢…」。これらの記号のような、スローガンのような言葉。
それを叫び唱えれば、同じ言葉を叫ぶ人たちの世界の住人、つまり「仲間」に
なることができる。明るく、元気で、前向きな言葉なら、そこで言われている
言葉の中身、意味なんて全くどうでもいい。

宗旨宗派を確認するための、お札に書かれたお経のような言葉、ようするに
「合言葉」です。あれらポエムのような言葉は、情報でもなければポエムでも
ない、ただの記号のような言葉だと思います。
14日にNHKで放送されたクローズアップ現代はおもしろかった。
反響もかなり大きかったようです。
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『あふれる“ポエム”?!~不透明な社会を覆うやさしいコトバ~』
というタイトルでした。
番組の主旨は、震災以降、J-POPの歌詞のような優しくポジティブな
言葉の多用が、若い世代を中心に広まっていることに焦点を当てています。

愛、希望、夢、勇気、絆、仲間、笑顔――。
震災以降、こうした 理屈を抜きにして耳触りのよい言葉の羅列が目立つ
ようになりました。昨年あたりから一部ではそうした現象を「ポエム化」と
よんで取り上げられていました。

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まずは自治体などでは、条例名などのポエム化が進行しているようで、
一例として熊本県人吉市の「子どもたちのポケットに夢がいっぱい、
そんな笑顔を忘れない古都人吉応援団条例」
が取り上げられていました。
担当者によると、おそらく日本一長い条例名だそうです。
中身をのな何であるかより、とにかく注目してもらうことに重きを置いて
いるようですが、意味不明すぎて注目されていないようです。
正直、自治体担当者の自己満足に終始しているようです。

千葉県習志野市谷津では、谷津地区の35ヘクタールの町名が異例の変更となり、
「奏の杜」となりました。人と人がハーモニーを奏でるような町にしたいと
街の看板に綴られています。しかし地名・町名というのは、歴史や地形に由来
しているのであり、(おそらく新築物件販売のために)変えるのはおかしいと
周辺住民は声をあげています。
こうした言い換えた言葉は各地で広まっていますが、地域の問題などを覆い隠し、
見えなくしてしまうのではないかという声も挙がっています。

また、番組では取り上げてはいませんが、最近よく見る新築分譲マンションの
チラシやパンフレットの謳い文句。高級感や環境、利便性をアピールしたいのは
わかりますが、勢い余って妙なポエムみたいになったものが多いですね。
・「かつて、青い薔薇が幻の華として多くの人々の羨望を集めたように、
  今ここに、華麗な青い薔薇にも例えられる憧憬の邸宅が結実する」 
・「異彩を放つ『華』景色の遊びに、選ばれし至福の抱擁」
・「地の必然。飾るのではなく装う、というスタイル」、
・「モダンでありながらクラシックな佇まい」
 …などなど。

まあそういう商業的キャッチコピーのことは、NHK番組スタッフとしては
どうでもよいことのようで、番組の狙いはこのあとにありました。
反響が大きかったのもこちらの本題の方でした。

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そういうことで、ここからが本題です。

最近各地で開催されるコンクール大会に、居酒屋、介護士、トラックドライバー
などの10業界で、「甲子園」と呼ばれるイベントが人気です。
中でも一般的にも割と有名なのが「居酒屋甲子園」です。
これは、居酒屋の料理や接客の技術などを競い合うもの、ではありません。
居酒屋で働くスタッフたちが居酒屋で働く意気込みをアピールし、
「夢をあきらめない」「みんなを幸せに」…など、どれだけ言葉が心を打ったかを競い合います。
20分間のプレゼンで居酒屋で働く夢と誇りを最も熱く唄い上げ、聴衆を感動させた
店舗が日本一の座を勝ち取る。
去年11月に横浜で開かれた第8回居酒屋甲子園では全国から1392店舗、約2万人が
参加したそうです。


※NHK放送の画像は無いのですが、以下の動画は居酒屋甲子園では有名な
某居酒屋チェーンの朝礼の模様です。甲子園のほとんどはここの朝礼をモデルに
しているので、大会に出場する人たちも大体こんな感じです。
番組で放送されたお店の朝礼も、おしなべて同じスタイルでした。

ちょっと見ると驚きますが、なかなか感動的です。
「ゆとり」だの「さとり」だの言われている若者が、目を輝かせて大声で熱く
語るのは悪くは無いと思うし、実際そういうのにすごく感動して、働きがいを
見出している従業員たちが多いのも事実です。

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しかしですね。

いわゆる低賃金労働で離職率が大変高い居酒屋のような職場で、こういうのが
どんどん増えている。結局、低賃金労働を改善するのではなく、やりがいなど
といった美辞麗句で、物の本質を覆い隠す面がある。
そういった批判がこの番組の本当の狙いでありますし、私もその通りだと思います。

「ポエム」は物事を単純化して分かり易くするときに力を持つ。
しかし同時に物事の本質をあいまいにし、説明放棄につながる。

「政治や行政の言葉については、5W1Hを忘れてはならない。
 美しい日本のどこが、どう美しいのか、取り戻すのは何なのか。」
そういった理屈をあいまいにしてはならない。

「ポエム」は同調できない人間は排除する危険性がある。
若者の間では「仲間」がキーワード。「絆」「一つになる」も同じ。
しかし、これらが若者の問題を見えにくくしているのではないか。
「友達がいることが大切で、一人ぼっちは人間として情けない生き方だ」という
ような人生観が、ある世代から広がっていて、それは道徳から広まっていると
感じたと述べていました。

やりがいではなく、労働者としての自覚をしっかり持っていく事が必要で、
しっかり教育面でもサポートしていく必要がります。
組合を結成する、残業代を請求するといった労働者としての自覚を教育で
サポートする必要がある。ブラック企業体質を「ポエム」により、「やりがい」
にすりかえてはならない。

広告での言葉は商売の中で処理できるが、これが行政や権力がポエムの言葉を
使うことに関しては、5W1Hを問いかけて行くべきです。
大人が言葉を文字通り取らずに、その裏にある醜い現実を きちっと見ていくこと
が日本に求められていくことである。


…以上が番組の主旨です。

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NHKとしても珍しいくらいの批判的な内容の番組でした。
ネット上での反響も大きく、私も考えさせられました。

番組に登場した焼き肉店の看板。店主の熱い思いが書かれていました。
「煙にまかれてみんなハッピー」・・・。
NHKのこめたアイロニーだとしたら、なかなか秀逸ですね。


さすがにちょっと長くなってきたので続きはまたにします。

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「夢」「仲間」を声高に叫ぶ「居酒屋甲子園」に違和感? 
NHK「若い世代のポエム化」特集がネットで反響呼ぶ
http://www.j-cast.com/2014/01/15194211.html

現在のネットは「群集」を生成する装置になっている
~コラムニスト・小田嶋隆氏インタビュー (1/2)
http://blogos.com/article/77410/
http://anond.hatelabo.jp/20140114201622
最近のお気に入り目
ふなっしー応援"非公認"テーマソング

「あいらぶふなっしー」のPVです。



非公認のご当地キャラふなっしーを
非公認で応援するテーマソングです。
合格

ですので、CDの発売さえされていません。汗

ところが!!!
高見沢プロデュースでCDデビュー した
「ふなふなふなっしー」よりはるかに名曲です。
最近、動画再生回数が50万回超えました!

めちゃめちゃ高いクオリティです!
聴きごたえたっぷりのアレンジです。
ギターソロ…スゴすぎです。叫び
(※ギター演奏はパパゴン鈴木さん。
 知る人ぞ知るスーパーギタリストです)

歌詞も凝ってて、おもしろいです!


歌っているのは歌手の鈴木美穂さんドキドキ
            ダウン ダウン ダウン
http://ameblo.jp/suzukimiho/

作詞:鈴木美穂、作曲:春日井貴博、
編曲:春日井貴博/(パパゴン)鈴木英俊。
演奏も含めて3人で制作したそうです。

いっぺん、聴いてみてくだされ!


存在をかむかひてかんがふ。
かんがふことかんがみるものなり。


思考という事態は、最終的には必ず「思考について思考する」、あるいは
「存在について思考する」。そこに辿り着きます。しかし、或ものが在ると
いうことと、それが在ると思うということを分けることが不可能である限り、
この二つは同じことであり、したがって「存在=思考」です。

存在とは抽象的な概念です。そういうとおそらく、
「目の前にコップがある。これが存在だ。これのどこが抽象的なんだ」
という反論もあるかと思います。しかし「コップが、在る」ことの
具体性は、コップのほうであって、「在る」の方ではありません。
「Aが在る」の、Aを存在者といい、在るを存在といいます。

「存在者が存在する」。存在者とは物質と事象、即ち物と事柄のことです。
では、物質と事象は思考において、どのような関係にあるのでしょうか。

「美しい花がある。花の美しさというものは無い」あるいは、
「おいしいリンゴがある。リンゴのおいしさというものは無い」。
美しさやおいしさはどこにあるかといえば、もちろん花やリンゴにおいて
です。物質である花やリンゴという存在者と、非物質である事象の美しさ
やおいしさという存在者。しかし、美しさやおいしさだけというのは、
それ自体だけで存在することはけっしてできません。

美しさやおいしさは目には見えません。目に見えるのは花やリンゴです。
リンゴを食べて、リンゴの味はするけれど、「おいしい」の味はしません。
抽象・事象は具象・物質を通してのみ認識され、存在しうるわけです。
美しさやおいしさは、花やリンゴなどの「物質」を通して、精神上の思考
の出来事としてのみ現れるのです。

では、その目の前の花やリンゴの存在は、それ自体で確実なことなので
しょうか。もちろんそんなはずはありません。物とてやはりそれを思うこと
によってのみ存在が可能なのであり、したがって世界・宇宙とは、それを
そのように思考することであり、やはり存在とは思考のことなのです。

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では、「存在=思考」はなぜ存在するのか。それは絶対の謎です。
科学はそれを、物質を説明することで解明しようとしますが、説明は
どこまでも説明であって、解明ではありません。「存在者を説明する」と、
「存在を解明する」は、全く別のことであって同じことではありません。
宇宙の構造がすべて明らかになっても、物質の組成や構造が全て明らかに
なったとしても、それはそれであるということが分かっただけであり、
なぜそうなのかということは、やはり謎のままであり続けるでしょう。

その意味では、科学は世界を説明のための一つの方便であり、つまりは
「神話」と同じです。科学は、物質という「存在者」を神として信仰し、
「存在」自体は不問にすることで成立しています。それを自覚していなけ
れば科学という名の信仰であるし、自覚していれば壮大な詐術であります。
優れた科学者は常に存在の謎についてに自覚的で謙虚であり、そうでない科
学者は存在者を理解することで存在が解ると思いなし、したがって傲慢です。

存在が謎なのは、存在者のせいではありません。存在が思考である限り、
存在の謎は「思考」が抱える絶対的矛盾のせいなのです。
思考は意識・精神が自身の理性に従うことによってのみ可能なのですが、
理性はその本質として、対象を「そうであるもの:そうでないもの」の
二つにどこまでも分けようとします。

理性は、完全に納得することはありません。理性は、その対象の何であるか
を「分かった」と結論づけても、尚それを「そうであるもの:そうでないもの」
に分けよう、即ち分かろうとします。それは自分の影の頭を踏もうとして、
太陽に背を向けてどこまでも走っていくようなものです。

その無限に続く疑問符に終止符を打つために、理性が自らを封じるために
産み出した観念が「神」であり、自らを超越するために自らが産み出した
という点で、絶対的矛盾の観念であります。
科学が信じざるを得ないものも、やはり物理という名の「神」なのです。

考えるの語源は「かんがふ 【考ふ・勘ふ】」であるが、おそらくそれは、
存在の向こう、在り処に向かうから「彼(か)を迎える」「処(か)に向かう」
あるいは「神迎う」から来ているのではないかと思います。
また、考える事を「鑑みる」といいますが、これは存在のこちらの方、即ち
自らの思考を鏡で見る(かがみみる)」ではないかと思われます。
向こうのあるものを迎えることと、こちらにあるものを省みることは、同じ
事であって別のことではありません。

「存在者と存在」あるいは「思考の対象と思考の主体」。これらを二分する
のは「考えること=分けること」という必然において分けているだけのこと
であり、やはり同じものの二つの顔にすぎません。
そう、「すぎない」。すぎないけれども、存在は存在者に先立つし、思考主体
は思考対象に先立つ。その逆は無い。だからこそ、考えるとは「思考=存在」
である事を自覚すること以外の何ものでもないのです。

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「考える」という行為は、現象の本質を明らかにすることです。「本質」とは
そのものをそのものとして他のことと分ける性質のことです。考える事は
「分ける」ことであり、分けられたものが「分かる」ことです。つまるところは
「分かること」と「分からないこと」を分けること。即ち、「分からない」と
いうことを分かることが、「考える」ということの最も正確な事態なのです。

「考える」ことを喩えて言えば、思考の主体である精神が、無限に分岐している
論理という軌道の上を走っていく、鉄道列車のようなものです。精神の走った
軌道上には、言葉という煙が精神の通過した軌跡を残します。
人は自分の見たいように見て、聞きたいように聞き、思いたいように思い、
信じたいように信じ、そして考えたいように考えます。その限りにおいて、
考えることは何をもってしても邪魔しえない自由です。

しかし走るスピードも、どこを走るかも、それはそれで自由ではありますが、
軌道の上以外を走ることは絶対にできません。精神の車窓から見える景観は
日々刻々と移り変わっていきますが、軌道の上を走り続けている限り、
見える景色は同じです。どの窓からどの景色を見ようとも自由ですが、
軌道がそこに敷かれていない限り、山の彼方を見ることはけしてできません。

考えるという行為が軌道の分岐をさかのぼって行くことならば、どこから
どのように走ろうとも終着駅は必ず一つです。その駅の名は「存在」です。
「わかる」とは、「存在」という終着駅を予感し、そこに至る分岐が分かる
ということです。
したがって、言葉という煙を吐き出しながら、終着駅に至る軌跡を描くことに
時間がかかるだけであり、考えるということは、常に一瞬の閃きなのです。

終着駅の向こうに軌道はありません。つまり、その先は絶対に分からない。
そして終着駅においては、それ以上列車は走れないのだから、いくら言葉の
煙を吐き出しても、言葉は軌跡を描きません。「存在」それ自体が何である
かを、言葉で語ることは不可能なのです。存在の対語「無」が語りえぬもの
であるのと同じように。

前に「考えると言うことは、1か0のデジタルだ」と書きました。
人間の考えることも、コンピュータの情報処理も、原理的には同じ
デジタルであると。そしたら、反論いただきました。
「人間の考えることはコンピュータと違ってデジタルじゃない」という
ご指摘でした。

「たとえば、好きと嫌いははっきり決められないこともあるし、好きでも
嫌いでもないものもいっぱいあるじゃないか」…と、いうのがその方の
言い分なんですが。
ええ。だから、そういう状態のことを指して、「考えていない」状態だ
ということなんですけどね。

「好き」という言葉は、[好きなもの:好きでないもの]を分けます。
「嫌い」という言葉は、[嫌いなもの:嫌いでないもの]を分けます。
「好きでも嫌いでもない」という言葉は、[好きでも嫌いでもないもの:
好きか嫌いかのどちらかなもの]を分けます。
好きと嫌いの間に「好きでも嫌いでもないもの」があるわけじゃなくて、
好き嫌いで[分けられるもの:分けられないもの]に分けられるんです。

また、たとえばある人を「好きでもあるし嫌いでもある」という場合でも、
[容姿は好き:性格が嫌い]とか、[言葉使いは好き:仕草が嫌い]とか、
好きと嫌いが混在しているだけであって、全く同じ事柄に対して好きでもあり
嫌いでもあると言うことは不可能なんですね。…というか、意味が無い。
やっぱり、どこまでも1か0のデジタルなんです。

おなかが空いているか、空いていないか。明らかに満腹か空腹状態で無い限り、
「どちらでもない」という状態なのはもちろんであります。その状態自体は
デジタルではありません。
でもそれだって、意識上で思考するとなると、[お腹が空いているとはっきり
言える:言えない]のどちらかのデジタルです。
そして「はっきり言えない状態」であっても、「お腹が空いているならご飯を
用意するけど、どっち?」と訊かれたら、[空いている:いない]のどちらかで
答えないと、相手も自分も困るだけです。

そのうえで、「おなかが空いている」なら[とても空いている:そうでない]。
「とても空いている」なら[すぐに食べたい:すぐじゃなくていい]と、条件を
絞り込んでいくわけです。このように、デジタルで分けないことには意志を表明
したことにはならないですよね。

「考える」ということは、もともと何一つ分かれていない塊の世界を、そのつど
言葉によって[そうであるもの:そうでないもの]に分けていくことです。
意識しなければデジタルではない世界を、全てデジタルの1か0かで割り切ると
いう作業です。つまり、「割り切る」ということが、考える事の本質です。
意識の上で分けられれば「分かった」ということだし、分けられなければ「分から
ない」ということになります。

この話、分かりましたか?

やたらに「自由」や「個性」が叫ばれるご時世です。

何よりも自由が一番大事な価値であると言わんばかりに。
そりゃ、専制、束縛、拘束されるよりは自由の方がいいですよ。
でもどこまでも手放しで自由がいいなんて、みなさん本気でそう
思っているのでしょうか?
いったい自由をなんだと思っているのでしょうか。まさか、自由を
好き勝手にすることなんて思っているんじゃないですよね。

自由を叫ぶのはいいんですけど。自由って「他人を頼りにせずに、
自分に由る」ってことですよ。自分で全部考え、自分で行動し、
その結果も全部引き受ける。当然、それで起こる不具合もトラブルも、
全て自分の責任で受け止めることですよ。それだけの覚悟があっての
自由なんでしょうかね。

===============================

いったい「自由」ってなんでしょうか?
しばしば表現をする人に多く見られる勘違いの理屈なのですが、
「自由とは自分を表現できる自由のこと。つまり個性的になれること。
個性的とは他人と違うこと。だから誰もやったことのないことに
挑戦することこそが自由だ」というもの。
とんでもない大間違いです。誰もやったことのないことを敢えてやる
ことの、どこが自由なのか?

「自由」って、「自らに由る」ってことですよね。
「他人のマネをする」ことも「他人と違うことをする」ことも、他人を
見ずしては絶対に不可能ですよね。だったら、他人と違うことをするのは
どこまでも他人に由ることじゃないですか。つまりそれは他人に束縛され
ていることだし、自分に由ることじゃない。どこが自由なんですか?
他人と同じでも違っても、自由は他人がどうあることとは一切関係が
ありません。

「自分に由る」の自分とは、けっして「個人」の自分ではありません。
個とは「他と異にする」ということであり、個人とは他人があって初めて
個人なのです。したがって、各々の個人的な趣味・嗜好・考え方に由って
選択することなど、ただの好き勝手であって、本当の自由ではないのです。

本当の「自分に由る、自由」の自分とは、誰もが自らのことを指して
「自分」と呼んでいる、この誰にも共通している自分のことです。
それはつまり、理屈・論理に従って思考するこの意識・精神のことです。
考え方は人それぞれでも、この「考え・論理」自体は誰もが同じです。
好き嫌いは人それぞれですけど、好き嫌いの意味は誰にでも同じはず
ですよね。それが「考え」です。考えが辿る道筋が「論理」です。

論理の道筋に従って考えること。これは何ものをもってもいかなる邪魔も
できません。誰に主張する必要もない、絶対的な自由です。
同時に、道筋に従わざるをえないという意味で、厳しい必然でもあります。

また、論理に従って考えた結果が、自分の好きな結果になるとは限りません。
だからといって、論理を無視して好き勝手な理屈を言うのは、自分勝手
というだけで、けっして自由とは言いません。

********************************

「個性」というのも同じことです。
誰にも共通する絶対的普遍的なものを目指し、且つその上でどうしても
その人がそのようにしか表現できないその性質を「個性」というのです。
その結果として、たまたま他人と違って優れたものを正当にも「個性」
と呼ばれるのであって、他人と違うことは第一条件ではないのです。

他人と違うことを第一に目指す個性は、一見すればそのように見えますが、
それらをいくつか並べてみれば、他人と違うと言うことに特徴があるだけ
で、その意味ではどれもみんな同じです。それでは結局どこにその人
らしさがあるのか、全くわからないことになります。

本当の個性というのは、目指すべきものではなく、隠しても出てしまう
ものなのです。他と違うことではなく、他と同じものを目指した結果、
どうしても出てきてしまう、他人との違い。
これがその人自身を貫くものであり、それこそが正当にも「個性」と
呼ばれるものなのです。

「子どもは都市化によっていなくなった」。
解剖学者の養老孟司さんは自著でこのように語っていました。
とても面白いので要約してみました。「自然」と「都市」の
定義に注意しながら読むととてもわかり易いです。

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少子化問題の根本原因は、多くの人が「子どもはいらない」と
思っていることにある。「子育てにいい環境にないから」と言うのは言訳だ。
子育て環境など、昔はもっと悪かった。それでも人口は増えた。
子育てしなければ、人類は存続しない。
つまり日本人は存続を諦めているということになる。
環境より子育てを優先させるのは当たり前のはずだ。

実はこの国では、「子どもはいなくなった」ことになっている。
子どもは自然そのものだからである。
「自然」とは、人間が設計しなかったものである。
「ああすれば、こうなる」というものではないものである。
つまり、「人の意のままにならぬもの」である。それに対して、
「都市化」とは、人の意のままにできる世界に
変えることである。

戦後日本は、自然を消して都市化してきた。田舎を都市化した。
今や田舎は存在しない。田舎も都市も同じように教育され、同じように
情報をえて、同じように物流し、同じ価値観のもとに生活している。
そうして身の回りから原生林を消し、里山を消し、同時に子供が消えた。

自然でない世界で、子どもは存続できない。子供は育つにつれて、急速に
都市の世界、大人の世界に適応させられる。大人になることを要求される。
その中では、「子どもという自然」は必要悪とみなされる。いや、その
必要さえも認められていない。

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以上がその要旨です。なるほど。そうか、そういうことだったのか。
「考える人」が少なくなったのは、「自然」を排除してきたせいだったのです。
「都市化」つまり、意のままにできる世界への変化が、「考える人」を
排除してきたのです。なぜなら、「考える」とは、「自然」だからです。
そういうと、反論が出ますね。「考えることは、人工そのものであって、
自然ではないだろう!」…という反論ですね。ごもっとも。

しかし「考える」ということは、「考え」即ち論理を考えることでした。
その「考え・論理」自体も、人間自体も、人の設計したものではないし、
人の意のままになるものではありません。つまり、自然です。
その自然について考えるということも、やはり自然なことになるはずです。

都市化された世界で、自然である子どもはそこの住人になる教育をされます。
つまり、意のままになる世界に適合できるよう、自然性を排除させられます。
そこでは人工物である「情報」を処理する能力のみが求められ、考えるという
自然はむしろ否定されます。計算する能力、回答する能力は求められますが、
「なぜそうなるのか?」の問いは不必要なもの、邪魔ものとされるわけです。

都市化された世界で大人になるということは、「考えない人」になることで
あり、子どもに要求されることは、「考えないこと」だったのです。

都市化された世界の絶対的価値観は、「都市に適応する」ことです。
幸せは「いかに都市に適応できたか」によって量られ、適応できないことは
不幸であるとされます。
自然的なものは「余戯」であり、「考える」こともの道楽程度に扱われます。
そして空白化した「考える」という言葉は、単なる情報処理という意味に
とって代わられます。コンピューターで繋がった、大量の情報群の一部を
加工したり処理することが、「考える」の意味となってしまったのです。

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かつての子供の遊びとは、本来の「考える」ことでした。
自然のあれやこれやを不思議に思い、それに身を浸し、考え、創造する。
それがすなわち、遊ぶことでした。創造が遊びでした。

今の子供の遊びは、ほとんどすべてが大人の作りだしたものです。
大人の作ったもので遊び、大人の作った情報を加工して、情報処理・情報交換を
しているだけです。テレビゲームも他のおもちゃもケータイもみんなそうですね。
答えは全部、大人によってつくられたもの。そこにたどり着くための情報処理を
しているだけ。創造性もありませんし、考える必要もありません。

大人の用意するもので遊ぶことで、子どもは経済の消費サイクルの一部に完全に
組み込まれています。子どもは大人と同じ、消費者として扱われています。

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教育についてもまったく同じです。
問題も答えも、大人が用意したものであり、その答えにいかに早くたどり着くか
ということのみが評価されます。「なぜそうなるか?」ということを、じっくり
考えることは、全く評価されません。
「結果を出さねば意味がない」という言葉が当たり前のように唱えられます。
自ずと子どもたちは考えるよりも先に、答えを要求するようになります。

美術や音楽教育も同じで、手本や見本になるような作品に近づけるような技術を
教えられ、その技術が評価の対象となります。創造性はここでも評価されないし、
そもそも評価する基準も、評価する人材もありません。

文学的なものも倦厭され、自ずと読書からは縁遠くなります。好まれるのは
漫画やドラマ、映画などですが、理性に訴えかける作品は好まれません。
あることについて「それが何であるか」という不思議に魅せられて、それを
追求していくような感性は乏しくなっているからです。

反面、人間関係にまつわる感情的なものが多くなります。感情がどう表わされて
いるかが、それらの評価の最重要基準となっています。ようするに、処世です。
それが悪いとは言いません。でもそればっかりだと、「人に好かれる・人に嫌わ
れない」事が一番の価値観になります。人間関係のみに一喜一憂し、世渡りの
事ばかり考える、カシコい人間が出来上がります。

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SNSなどで常に他人と繋がっている環境にあり、他人とコミュニケーションを
図ることが精いっぱいで、自分自身や世の中について「内省」する機会もない。
でも、そんな環境なら、「何が正しいか」を考えることが無くなってしまうのは、
もう当然のことじゃないですか。

昔の子ども達にもいじめはありました。でもいじめられた子には「自然」という
逃げ場所がありました。「神隠し」という現象は、案外そうして行方不明になった
ことを指して言うのかもしれません。
だから自然に魅せられた子を心配して、人間関係の世界に戻るように、いじめた
子が迎えに行く。そうして人間関係が修復されていたのです。

今の子どもは人間関係が全てです。とにかく他人のことばかり気にします。
今の子供は道徳性が欠如していると言いますが、そんなことはありません。
ただ自分たちの身内・集団の道徳、つまりはルールでがんじがらめになって
いるのです。そこから疎外されたらもう逃げ場が無いからです。
それでも逃げ場のなくなった子は…どうすると思いますか?

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これが今の子供たちの置かれている環境です。
現代の都市化された我々の棲む環境です。

消費のサイクルの一単位とされ、いないと経済規模が小さくなるなるから。
いないと将来の年金の供給元が少なくなるから。要するに、今の大人が
老人になったときに、自分たちの面倒をみる人間がいなくなるから。
だから子どもが減ると困るんですよね?

自分たちの生活水準の維持のために子どもの数が減った。
自分たちの暮らしやすいように核家族化して、家族的共同体が無くなった。
その結果、自分たちの将来の面倒をみる人間がいなくなった。
全部自業自得じゃないですか。

ところで、人間らしさって、なんでしたっけ?
人間の本質って、なんでしたっけ?
自分たちが何者なのか?何をしているのか?
どこへ向かって、どこに行きたいのか?

自分が考えるのでなくて、いったい誰が考えるのですか?


性善説・性悪説というのがあります。
性善説は孟子の唱えた「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」
性悪説は荀子の唱えた「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」
という思想です。
どっちもどっちで捉え方次第といえる、あんまり意味の無い考え方です。

これらの説の無意味さは、「人間は本来…」という、本質規定の無意味さに
あります。「本来」の指すところが、何のことなのかがよくわかりません。
人間の本来性、共通した本質はただ一つだけ、「考える精神である存在」。
それだけです。それ以外はどんな条件も、当てはまったり当てはまらなかった
りします。(この点異論ありましたら、過去記事「にんげんって何?」参照)。

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人間には善い人・悪い人がいますが、完全な善い人・悪い人はいません。
善いも悪いも混ざっているのが人間です。ここまでは孟子も荀子も同じです。
問題は、「善い人・悪い人とはいかなることか?」ということです。

善い人とは、善悪を知って、善を目指し、善行をなす人です。
そうでない人は、善悪を知らず、善を目指さない人です。
悪い人は、善悪を知らず、善を目指さず、悪行をなす人です。
善悪を知って悪をなすことも、善悪を知らずに善行をなすことも不可能です。
悪行をなせば善悪を知っていることにはならないし、善悪を知らなければ、
善行をなしたことにはならないからです。

この理屈を倫理と言います。
一言で言えば、「善とは善悪を知ることだ」ということになりますが、一言で
言ってしまうと、何にも言ったことにならないのと同じになってしまいます。

「善と悪、どちらが人間の本来の姿か」というのは、白黒合わさってできた
サッカーボールは本来白いのか黒いのか、と言っているようなものです。
もともと白でも黒でもありません。
そういうと、「赤ちゃんはもともと白いじゃないか、大人になって段々黒く
なるんだ。だから善から悪になるんだ」という人がいると思います。

残念、赤ちゃんは白くも黒くもありません。あれは透明なのです。
確かに赤ちゃんは悪いことはしません。でも善いこともしませんよね。
赤ちゃんは善悪を知りません。赤ちゃんが善であるというのなら、赤ちゃんが
そのまま大人になったような人をは善人ということになります。
でもそういう人のこと、あなたは善人と呼びますか?

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善悪とは何かを知り、善を目指す人が善い人です。
周りを見渡せば、そうじゃない人がいっぱいいます。悪いことをする人も
いっぱいいます。そして「みんながしてるから、悪いことじゃない」と
イイワケをします。でも、みんながしているからといって、悪いことが
いいことになる道理はありません。

注目すべきは、「みんながやっているんだから」ということを理由にして
悪いことをマネする人はいても、同じ理由で善いことをマネする人は
少ないということです。マネをするなら、善いことをマネするのが善い
ことだと言うのは当たり前のはずなのですが。人は自分のしたいように
しか、行動しないものなのです。

ところで、みんなが善いことをするから自分も善いことをする、というのは
実は善ではありません。もちろんしないよりはマシですが。
「みんながするから」が理由なら、みんながしなければ自分も善いことを
しないということになりますよね。それは善悪を知っている事になりません。

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「いい人」になろうとする人はたくさんいますが、「正しい人」になろうと
する人は少ないものです。「いい人」というのは要するに好かれる人です。
早い話が、いい気分にさせてくれる人です。でもそれ、必ずしも「正しい人・
善い人」とは限りませんよね。

みんながどうであれ、自分は善いことを目指す。これが善です。
誤解されることを前提に言いますが、他人はどうでもいいのです。
好かれるも嫌われるも関係ありません。自分さえ善ければいいのです。

つきつめていえば、道徳は他人のため、倫理は自分のため。
道徳は他人からの強制。倫理は自分がそうしたいという自由意思。
それが「倫理」と「道徳」の決定的な違いです。
道徳は強制できるが、倫理は強制不可能。

他人に強制が不可能なのだから、
せめて自分だけはは善くありたい。
だから倫理は「自分さえ善ければ、それでいい」。

何か間違いがありますか?

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法律が「いけない」としているから、それに従う。これが道徳です。みんなが
「いい」と言っているから、それに従う。これも道徳です。
でもそれ、本当に正しいですか?法律が全てを網羅していますか?法律が網羅
したとして、みなさんそれをすべて遵守できますか?法律に従えば、みんなと
同じならば、本当にそれは正しい事と言えますか。
歴史はいつもそうでしたか?みんながいつも、揃いも揃って考えたうえで正しい
選択をしている程度に、みなさん賢くあらせられるのですか?

「善いことと悪いことの区別もつかないの!」と子どもを叱る大人がいますが、
善悪の判断とはとても難しいことです。だからこそ、道徳や法律といった外的な
ものに委ねるわけですが、そこに倫理はありません。
善悪は誰でもいつも、他人はどうであれ、自分で問うて考えるしかないのです。
プラトンの釈明

こんにちは。私、生まれも育ちも古代ギリシアはアテナイ。名はプラトンと
申します。師匠はあのソクラテスです。師匠はズルイ人で、一言も書物を残さ
なかったので、私が『ソクラテスの弁明』を書きました。今回はそのパロディ
…てことでもないんですけど「プラトンの釈明」ってことでどうかよろしく。

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ところで、世間では「プラトニックラブ」なんて言い方で、純粋な・理想的な
愛という意味で使っているようですが、あの「プラトニック」というのはこの私、
「プラトン的」といういう事でございます。
なんでそんなふうに私の名前が使われているかというと、私が「イデア」なんて
ものが在ると書いたからです。
私が書きたかったことは要するに、考えるってことは「言葉(ロゴス)」から
「考え(イデア)」を抽出することだと、いうことだったんですけどね。

で、イデアって何かってことなんですけど。
たとえば、犬っていろんなのがいるじゃないですか。大きいの小さいの、白いの
黒いの、ブルドックだのチワワだの。でも誰もが、それら見た目も全然違うあれら
を一括りにして「犬」と言えちゃうのはなぜか?不思議に思ったことないですか?
その問いに私は、「あらかじめ全ての人に共通して、理想としての【犬】という
考え(イデア)が在るからだ」と答えたわけです。
同様に、いろんな三角形があるのに、全部三角形だとわかるのは、理想としての
三角形のイデアがあるから、とかね。

そうすると「じゃあなんでそんなイデアなんかを、私たちはあらかじめ知って
いるの?」という質問が来るだろうから、比喩的に、
「そうねえ。それはイデア界というところがあって、僕らの魂がむかしそこで
学んだことを、この世で思い出すからだよ。イデアという理想に憧れてね。
思い出すためには魂は死んでないってことだから、魂は不死なんですよ」
なーんてことを言ったわけです。

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そしたらそれを真に受けた後世の人たちが、私プラトンを批判する口実にする
わけです。「イデアなんてどこにあるんだ!」とね。

アホですか?そんなイデアなんて、実在するわけ無いでしょうが。喩え話が
通じないんですか。あなたたちだって、子どもに「死んだおじいちゃんは
どこに行ったの?」なんて訊かれた日には、「天国へ行ったのよ」とか
答えるでしょうが。それと同じですよ。

5+7は12です。決まってますよね。じゃあ誰が決めたんですか?大昔の人が
5+7は12にしようって決めたんですか?そうじゃないですよね。大昔の人が
考えるその前から5+7は12ですよね。あなたが死んだ後も、人類が滅んだ後も
5+7は12だし、人類が誕生する前だって5+7は12ですよね。

だったら5+7は12というのは、永遠の真実として最初っからそこに在ったとも
言えるわけじゃないですか。イデアはそれと同じですよ。わかります?

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さてさて、現代の人たちは脳が考えていると思っていますよね。
脳が考えているから、5+7は12なんだと。つまり「物質と精神はどちらが先か?」
といえば、物質が先だと思っていますよね。(この問いを喰って生活するのが
先か、考えるのが先かと読み違える人は、いい加減にしてほしいです)。

じゃあ考えてみてください。
生き物には感覚器官がありますよね。なんであるんですか?
感覚できる対象があるからですよね。光があるから目があり、音があるから
耳がある。臭いがあるから鼻があるわけであって、逆じゃないですよね。
光の無い世界で生きる深海魚とかは、目が退化しているか、最初からありません。
感覚器官じゃなくても同じで、食べ物が消化可能で吸収できる栄養があるから
胃腸があるのであって、逆ではないですよね。

じゃあ脳は?脳は何のためにあるんですか?
考える為ですよね。ならば光があるから目があるように、「考え」が先にあるから
脳があると考えちゃまずいですか?脳が考える前から、三角形の定理という
「考え」があると考えちゃおかしいですか?
そのように、考えるよりも先に在る「考え」を、私は「イデア」と呼んだのです。

別にこの世のどこか、宇宙のどこかにイデアが何かの形をして存在している
なんて言うわけじゃないのよ。「考え(イデア)」は物質じゃないんだから。
いうなれば、宇宙そのものがイデアだといってもいいんだから。

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ということはですね。後の世の哲学者ヘーゲルさん。彼の言った「絶対精神」
なんてのも、実は私のイデアとまったく同じ考えじゃないですか。
ヘーゲルさんは、精神は絶対精神である自己を実現する過程だと言うわけでしょ。
私は、現実は理想に憧れ理想を目指す、と言っているわけですからね。

そういえば誰かが「プラトン以後の哲学は、全てプラトンの注釈にすぎない」と
言ったとか言ってないとか。ええ、ええ、そりゃそうでしょうとも。
自慢じゃありませんが、私、すっごく当たり前のことしか書いていませんもの。
他の哲学者が考えたって、まともな考え方をする限り、私の言ったことと
似たようなことになるのは当たり前なんですよ。

それをわからんオタンチンどもが、「あんなの理想主義だ!」などと、私の悪口
ばかり言うんですよ。なんか恨みでもあるんですか?
私がいつ、「理想主義」なんか掲げましたか?考えたらそうとしか言えないと
言っているだけですよ、私は。

だいたい自分から「理想と現実」を勝手に別物にしておいて、「理想主義だ!」は
ないでしょうが。じゃあ、アンタらの言う「現実」ってなんですか?
早い話「生活」のことでしょ。ようするに「喰う」ことでしょ。つまるところは
それらにまつわる「不満」のことでしょ?
そんなものを指して「現実」とはよく言えたもんだな。そっちの方がよっぽど
非現実的な考え方じゃないの。

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「考え」があるから考えられるのであって、逆じゃない。
「理想」があるから現実があるのであって、逆じゃない。
だから私は、考える順番は「考え」「理想」からが先だと言ったまでだ。
それを教える為にに学園「アカデメイア」を設立したのだ。そのための哲人教育・
哲人政治を唱えたんだ。そのために『国家』を書いたんだ。文句あるか!

言わせてもらうわ!
自分の方から理想を投げ出しておいて、「理想はしょせん理想」だと!?
「理想は実現不可能」だと!?聞いてあきれるわ!
実現させる気が無いんだから、実現しないのは当たり前だろうが!
じゃあ、アンタらの棲むその世界の現実ってなんだ。
この古代のわれわれの世界よりも少しはマシになったか?
幸福な人が増えたか?賢い人が増えたか?

自分たちを見るがいい。そのあり様をな!まさしく「ざまあみろ」だ!
思い知ったか!