・・・前回の続きです。

「そんなの世間の常識だろ!」よく聞く言葉です。しかし問題はその世間って
いったい何ですか?ということです。するとすかさず「世間って言えばみんな
のことだよ」と返ってくるでしょう。だからそのみんなっていったい誰なんですか、
ということなんですけどね。

誰もが、自分と出会う人の数には限りがあります。それは広い世界のうち、極めて
限られた時間の極々一部の人にしかすぎません。テレビ、新聞、本などから得られ
る情報だって限られたものを得ているにすぎません。
そして何度もいいますが、人は自分の見たいよう見て、聴きたいように聴きます。
会いたい人に会い、会話したいことを会話し、得たい情報を得て、解釈したい
ように解釈します。そしてそれを現実と認識し、常識として語ります。
そしてそのことについて、多くの人が無自覚でいます。

だからと言って、語られている常識が間違っていると言うつもりは、全くありま
せん。それが常識的な態度ですからね。ただ、いままでそうだったから、みんな
がそう思っているから。だから正しい。しかしその正しさ根拠は?それらはどの
ように正しいのか?それに答えられるのでなければ、それは正しいかも知れない
が、思い込みにすぎない。これはものすごく当たり前のことではありませんか。

もちろん、それを言えば、そもそも社会自体が成立しません。社会とは、その
正当性の根拠を不問にすることで成立している、ひとつの物語なのだからです。
しかし大切なことは、社会や現実というものが物語にすぎないという自覚です。
その自覚なしに、社会や現実を唯一絶対の真実だと思うことが、全ての不幸の
始まりだと思います。

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もちろん、何も問題が無ければ問題は無いのだから、それはそれでいいでしょう。
しかしやはり問題はあるじゃないですか。起こるではないですか。常識と常識が
ぶつかり合うことなんて日常茶飯事ではないですか。

多くの人は、自分の語る常識が他人にとって常識でないと否定されたばあい、
自らの常識を疑い考えることなく、頑なにそれを信じて守ろうとしますよね。
そのとき本来ならば、語っているところの常識の正当性を、理屈によって示さね
ばならない筈なのですが、それをする人はなかなかいません。できないからです。

なぜならその常識の正当性は、そう決まっているから、ルールだから、慣習だから、
みんながそうしているんだから、という理由によるものにすぎないのだから、それ
以上のことは言えないわけです。しかしその理屈は、常識を異にするものにとっても
全く同じであるわけです。したがってそれは通用するはずもなく、問題は解決する
ことなく平行線をたどるか、「郷に入りては郷に従う」ということになります。
早い話が「つべこべ言わずに言うことに従え!」という強制です。

それで済むうちならまだいいのです。問題はこの先です。
問題の状況が悪化すると、多くの人は自らの常識に固執するあまり、視野が狭くなり
ます。限られた情報しか得ていないことを忘れます。得たい情報のみを得て、思いた
いように思っているという事実を完全に忘れます。そして問題そのものが見えなく
なり、自らの思う現実と常識を疑うことなどありえない、と思いこむに至ります。
最悪の状況を迎えるまでです。

極端な例と思うでしょうが、戦争下における集団的な心理は特殊なものではなく、
我々の日常に普通に見られる心の動きです。そんなことは学校や職場など、人の
集まるところではよくあることだと、誰もが経験的に知る事実ではないですか。
それの規模が拡大して、歯止めが利かなくなると、あのような状態になるのであり、
その芽はいつも自分たち普通の人が持っていることは、自覚するべきことなのだと
思います。

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もちろん、いつの時代にもどこの社会にも、考える人はちゃんといます。
しかしいかんせん、数が少ないのです。そして社会というのは、いつも数が多い
方に傾きます。民主主義の時代は特にそうです。大衆(という言葉はあまり好き
ではありませんが)の特徴というのは考えないことにあります。(考える事の
ない集団というのが、大衆という言葉の根幹にあるのだから、考える大衆という
のは無いわけです)。それはそれでよいのです。考えるとは疑うことですから、
世間的社会的常識を疑う人ばかりだったら、そもそも社会など成立しませんから。

ですが、大衆の意識に多様性が失われ、画一的になると、それに対する批判や
考え方は排除されやすくなります。論理的に考えるということ自体が否定される
傾向になり、社会全体的にマッチョになります。つまり、批判的言説に対しては
「理屈を言うな」「行動せよ」いう答えが用意され、同調する言説に対しては
内容のいかに関わらずに受け入れられます。

そしてわかり易すぎる文言、スローガンが増長増大し、繰り返し唱えられて、
自分たちの常識こそが唯一絶対であるであると無根拠に信じ込みます。いや、
信じているということを忘れるほどに絶対化してしまうのです。
人は、わかり易く、短い言葉ほど注意して、よく考えるべきなのです。


NHK朝ドラ「ごちそうさん」では、主人公‘め以子’と娘‘ふ久’が
時折対立します。め以子は世間的常識を掲げて、ふ久に「なんでこんな
ことがわかれへんの」と責めますが、ふ久は考える学者肌の性格なので、
理屈で理解できないことは「わからへん」とはっきりいいます。

そしてドラマの時代背景は戦争に突入。め以子は婦人団体運動に参加し、
「お国のために」という世間的常識で行動します。しかし刻々と社会が
全体主義による統制に染まりゆく中、め以子もその風潮に少しずつ違和感を
覚え始めます。そしてある時、ふ久に「考えたらおかしいやろ」と諭されます。
め以子とふ久のこの一連のやり取りは、「常識とは何か」を考える上での
わかりやすい材料となります。

常識とは、文字通り「常なる知識」のことであり、「当たり前」のことです。
当たり前とは即ち、「自明である、あれこれ説明などをしなくても、明らか
であること。わかりきっていること」の意味です。
問題はその「常なる」が、どこの誰の常なのか、ということです。
そして、本当に説明不要なほどに明白な正しさがあるか、ということです。

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常識には2種類あります。

① 限定的範囲での常識。ルールや慣習、法律や権威によるもの。つまり、
慣れているから、そう決められているから、今までそうだったから、まわり
皆がそうだったから、というのが理由の常識。いわゆる一般常識・世間的常
識であり、一言で言えば「みんなが知っている知識」のこと。したがって、
「多数人の支持」によって、その正当性が成立する知識です。
例えば「赤信号はとまれ。」「人を殺すことはいけない。」などのことです。

それに対し、
②普遍的な常識。論理的な必然性からもたらされる知識。つまり、いつ誰が
考えても、「論理的に正しく考える限りにおいて」誰もが認めざるをえない
知識。論理的常識。したがって、みんなが知らなくても、多数の人に支持さ
れなくても、認めざるを得ない知識のこと。
例えば「78×45=3510」「思うことができないものは存在しない」などです。

前者は、集団や社会、時代や状況によって変化する可能性があります。
したがって、恣意的で相対的な常識です。
後者は、どのような時代や社会、状況下にあっても、必然的であり変化する
可能性はあり得ません。あらゆる人に等しく妥当するのであり、絶対的です。

ここで注意すべきは、この「誰にも妥当する」は、誰にも当てはまるということで
あり、誰もが知っている、認めている、理解できる、ということではありません。
小学2年生の子で78×45が理解できる子は少ないですからね。
論理的な正しさは、しばしば形而上的範囲に及びます。その場合、誰にも当て
はまる内容であったとしても、誰もが認めたり、理解したりできないものが
多く見られます。

たとえば前回に取りあげた「理想と現実」の関係。
「理想は現実になる」も「所詮は理想、現実ではない」も、人によっては常識
であったり、そうでなかったり、様々です。
しかし、「理想は現実である」という理屈は、多くの人が理解しないものの、
一つ一つ推論を重ねると認めざるを得ない常識だったりします。
このように、世間的な常識の正当性は、それを支持する人の数で決まるのに対し、
普遍的常識の正当性は、論理的正確性という質によって決定します。

ところで、人が普段に常識と呼んでいるのは、ほとんどが前者の世間的常識です。
世間の常識とか、日本の常識とか、この会社の常識とか、範囲は様々ですが、
限定的な範囲で通用している常識です。もちろん、朝ドラのめ以子の語る常識も
世間一般としての常識です。

※…長いので、次回に続きます。




「現実を直視せよ」と人は言います。でも、どの現実を?
「言葉は所詮言葉だ。現実とは違う」。ならば、言葉以外でその現実を示
してみてください。現実とは、何ですか?
「現実とは生きる事、喰うことだ」。なるほど、確かにそれは誰にとっても
現実です。しかしそれはやはり言葉ではないですか。
生きるも、死ぬも、喰うも、それぞれ全てが言葉です。「生きる」という
言葉があるから、人はそれを生きているのであって、その言葉が無ければ、
人には生きるも死ぬもありません。

言葉が無ければ、人は言うことができません。言うことができないことを
人は思うことはできません。思うことができないものは、存在しません。
ここを人はなかなか理解しません。しかしとても簡単なことです。
思うことができないものを何か一つでもあげてください。言葉にできない
ものを、たった一つ言ってみてください。できませんよね。

生きるや喰うという言葉は、誰もが早い段階で所有します。そのためあまりにも
当たり前過ぎて、言葉より先に生きるや喰うの現実があると思ってしまいます。
しかしもしも、言葉より先にある現実と、言葉より後にある現実の2種類が存在
するのだとしたら、その境界線はどこにあるのですか?そんな境界があると考え
る事のほうがよっぽど不自然だし、非現実的ですよね。だとしたら、全ては言葉
があるからそのように存在すると考える方が、よっぽど自然だと思いませんか。
言葉が無ければ、何一つとして存在しません。「存在」自体も言葉だからです。
「無」も言葉です。言葉なしには「無」さえ無いのです。

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物質的宇宙が存在し、そこに我々という物質が存在する。客観的な空間と
時間があり、そこに物質が存在する。これは科学以前の事実であり、我々が
世界を認識し、思考する上での、最も根源的な概念である。
しかしそれらでさえも、その言葉によってそれだと認識できるのであって、
言葉なしには物も空間も時間も認識できないのである。そして、その言葉を
知ってしまっている我々には、物、空間、時間が認識できない事態を知る
ことは不可能なのです。しかし論理上、そうとしか言わざるを得ないのです。

考えてもみてください。物や空間や時間があるといったところで、いったい
それはどこにあるのですか?目の前にあるのはそれぞれ、コップだったり、
部屋だったり、時計だったりするだけで、物も空間も時間も、全て抽象概念
ではないですか。概念とは言葉による想いのことです。「もの」という言葉
さえ知らない赤ん坊が、一般抽象概念である「物」を理解できていると考える
ことは無理があります。

そう考えると、現実とは言葉で作られた物語であり、唯一絶対の真実ではない。
そのように認めざるを得ないはずです。このような形而上的な言質は、「机上の
空論」と呼ばれ、時として単なる言葉遊びであるとされます。しかし、現実に
存在するとされているものを、そのまま考える事も無く信じ込むことこそ、虚構
を生きているというのではないでしょうか。

いずれにせよ、言葉によって成立している世界を、言葉によって理解している
我々には、それ以外の事ができないのは疑いようのない真実です。
ならば我々は、全人類一人残らず言葉による虚構、物語を信じて生きている。
そう思うことの方がよっぽど現実的だと、私は思うのです。

なぜなら、「信じていると自覚する」ということは、信じ切っていないという
ことであり、疑い考える事が可能だということだからです。逆に、信じ切って
いるものは、信じているということを自覚しません。それを絶対の真実だと
思いこみ、確信しているからです。したがって疑うことも考える事もしません。
目で見て、耳で聞いて、思ったところの現実を、疑って考えることなく、その
まま素直に信じ込む。素直すぎる事の、それがいかにで危うく脆いことか。
戦時中の全体主義のような、素直な人たちによる無反省な狂信は、人類の歴史
において珍しいことではなかったことを思い返せば、わかりやすいかと思います。

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言葉が無ければ何も無い。つまり、言葉を語るということは、無いものを
「在る」と言うことであり、したがって一つの詐術、つまり嘘つきです。
だから、「語る」という言葉は別の文字で「騙る」ではありませんか。
言葉を語るとは理想を語ることであり、思いや考えを語ることです。
理想は現実なのですから、つまるところは「現実も嘘」ということになります。

真実の言葉を語ろうとしたソクラテスは、稀代のトリックスターでありました。
本当のことを語ることは、常に嘘を騙るのと同じことになるのです。
したがって、本当のことを言おうとすると、いつも逆説的になるのです。
真実というものはいつでも、本当を嘘、嘘を本当と逆転させたときにのみ、
顔を表すものなのです。



前回は理想とは現実であるということを書きました。
理とは言葉が必然的にたどる道筋である。理想とは、理を想い、理で
思うことである。したがって「理想は現実である」とはつまるところ、
「そう思うから、そうなのだ」、これにすぎないのであると。
ということは、「現実とは言葉」である。そう言えることにもなります。

多くの人は、「言葉と現実」の関係と言えばすぐに、「言葉はしょせん
言葉であり、揺るぎない現実とは違う」などと言います。
唯物論的な、科学的物質的な現実という世界が厳然としてあり、言葉は
それをただ示して伝えるための道具にすぎない。道具であるわけだから、
人は言葉を自由に使うことができる。そう思っているのです。
これが、人間が何かを考える上での、最も根源的な勘違いです。

人類がサルからヒトに発展する段階で、直立歩行し、火を使い、言葉で
意思を伝えあうようになった…。これも勘違いです。これではまるで、
言葉より先に意思が存在しているみたいじゃないですか。

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系統的発展は個体的発展と相似します。人類の歴史は人ひとりの生涯に
似ています。したがって、人類の初めを思い出すには、自分の初め、赤ん
坊の頃を思い出すとよいでしょう。
いったいどこの誰が、この世に生れて言葉を覚えるより先に、意思などを
持っていたというのでしょうか。言葉を知るより先に、何か一つでも思った
り考えたりすることができたでしょうか。

初めは誰でも、世界はひと塊の漠然とした塊の何かだけだったはずです。
自分と世界の区別さえ無かったはずです。ところがそこに、完全に無能で
ある自分の世話をやいてくれるものがあらわれ、「ママ、ママ」と繰り返して
話しかけてきます。そうして「ママ」という言葉を知ったとき、ひと塊だった
世界は、ママとママでないものの二つに分かれたのです。

そのように言葉を一つ一つ覚えるたびに、「それとそれでないもの」という
ように、世界はどんどん細かく分かれていった。あるものを指してワンワン
と呼び、あるものを指してブーブーと呼び。何かを指して名をつけて覚える
たびに、その名のものが出現する。それはまるで魔法のように。

しかしいつしかそのことに慣れきってしまい、言葉の不思議さを忘れる。
そして言葉より先に物があると思うに至り、それを現実と思いこむように
なった。そうではなかったでしょうか。

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人間が、人類が、言葉を持っているということは、唐突なことだと思います。
生物の歴史、地球や宇宙の歴史を考えても、言葉があるということの、
この脈絡のなさはいったい何なのか。そう思う時があります。もちろん
科学者はその経緯や理由を説明するし、その内容は理解できます。

宇宙があり、地球ができて、生命が生まれ、人類の祖のようなものが誕生し、
言葉を持った。しかしその過程や必然性をいくら説明したところで、それら
は全て、言葉があるからこそ、そのように存在しているのではないですか。
宇宙も地球も人類も、その言葉によって概念として存在しているのであり、
言葉が無ければそれらはそれらとして存在しなかったではないですか。

とはいえ。この問いや違和感は、おそらくほとんどの人は理解しません。
しかし古来より、この問いを所有するものは少なからずともいて、ずっとそれ
を考えているのです。
「我々は言葉を所有し、世界を言葉で理解し、考えている。でも、なぜそうで
なければならなかったのか」というこの唐突さは、科学がどれほどそれを説明
しようとも解消されることは無い、永遠の謎だと思うのです。

(※…長いので続きにします。)



理想は理想、現実は厳しい。そう人は言います。
理想と現実。それはいったい何なのでしょうか。

多くの人は多かれ少なかれ、自分を現実主義者だと思っています。
そして理想というものを現実から切り離し、「理想」の名に期待、希望、
欲望などの勝手な意味をつけています。その上で、「理想はいつか現実
のものとなる」などと言っているわけです。

しかし理想という言葉をよく見てみれば、「理を想う・理で想う」です。
【理】とは、論理、数理の理、即ち「従うべき筋道」という意味、つまり
「必然的にこうなる」の意です。
したがって【理想】とは、「必然的な想い」ということ、「こうとしか思
うことが不可能」という意味になります。

そして、【現実】とは単純に、「こうである」ということであります。
ということは、「現実とは理想である」というのは実は、「こうとしか想えない
から、こうである」という、当たり前のことを言っているにすぎないのです。
「理想はいつか現実化する」もなにも、最初から「理想はすでにして現実」
なのです。

現実主義を名のる人は、理想など嘘だ、あるのは現実だけだと言います。
でもそんな考え方自体が、ちっとも現実的ではありません。
なぜなら、そこで言われている現実というのは、こうなればいいなという
ただの欲求、欲望、期待のことにすぎないからです。そういうものを
理想と呼んで、あらかじめ現実と切り離して別々にしているのだから、
その人にとって理想と現実が違うのはあたりまえなのです。

でもよく考えてみるとですね。その現実主義の人は「理想など無い、ある
のは現実だけだ」と思っているわけだから、つまりそれが、その人にとって
の理想であり、その人にとっての現実なんです。だからやっぱり、理想とは
そのまま現実なわけなんです。

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人は自分の見たいように見て、聴きたいように聴きます。
そのように見たい、聴きたいという思いが、即ち「理想」です。
そのようにして見て聴いたもの、それが、「現実」です。

したがって、理想があるから現実があることになります。
そのように見たい、聴きたい、思いたいという「理想」があるから現実が
あることになります。理想が無ければ現実はあり得ないわけです。
つまり、現実とは即ち理想であるということになります。

「そんなことはない。私は見たくないものも見ている。見たくないもの
でも見ることが、現実を見るということだ。」という人もいるでしょう。
でもその見たくないものだって、見たいと思うから見ているのであり、
本当に見たくないのであれば、見ないはずです。違いますか?

「そうはいっても、見えてしまうものは見えてしまうのだから、見たい
見たくない関係なく、見えてしまうではないか。意志に関係なく現実は
現実として在るじゃないか。」と反論する方もいるでしょう。
たしかに。しかし、見ると見えるは違います。見るというのは能動であり、
見えるというのは受動であります。

たとえば、何人かの人に都会の風景などの、情報量の多い写真を10秒間だけ
見せたとします。そのあとその写真の記憶にあるところを、絵に描いてもら
います。おそらく出来上がった絵は、それぞれ各人異なっているでしょう。
同じ写真たった1枚、見えるところは全て同じように見えています。しかし
それでも、人によってそれぞれ見るところが違っているのです。
各々の人が、それぞれ見たいところを見て、その見たところのものを、現実
と思いなしているわけです。

確かに、視覚の上で見るだけなら、理想は要りません。しかし、人は何かを
「見た」というときには、必ず言葉でそれを表現するのであり、それが
「見た」という動詞になるのです。言葉を語るとは、その想いを語ることで
あり、したがって意図せずにそこに理想を語っていることになるのです。

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かのプラトンも言うとおり、理想と現実の関係は、光に照らしだされて
浮かび上がる「型と影」の関係です。理想と現実は一致はするけれど、
同じなわけではありません。型があるから影ができるように、理想がある
から現実ができるのであって、逆ではありません。

金が欲しいという人にとっては金が現実であるし、異性にもてたいと思う
人にとっては、異性にもてたいことが現実である。生きることが素晴らし
いと思う人にはそれが現実だし、生きる事はつまらないと思えばそれが
現実です。くだらない理想を持つ人の現実は、くだらない現実になります。

現実とは、各人が見たいように見て、聴きたいように聴き、そしてそれを
思いたいように思ったその想い、観念のことです。
つまり現実とは、「これが現実だ」という思いです。
ひとことで言えば、現実とは思いこみなのです。

理想は現実である。そうじゃないと思うのは、その理想が理想で無いか、
もしくは理想が実現化したものだけを現実と思っているからです。

「実現」と「現実」は違います。
【実現】とは、目に見えるものとしての結果です。ここを人はよく理解
しませんが、実現化したものだけが現実ではありません。

目に見える現実は、目に見えない現実によって実現するのです。
目に見えない現実とは、理想によって可能なのです。
それを認識しないのは、現実認識が甘いということになります。

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さて。ここまで言って尚、そうじゃない「理想と現実は違うのだ」という人。
自分には実現化してない望みがあるのだというのなら(もちろん誰にもあり
ますが)、それならば「理想と現実」などとは言わず、「目標を達成する」
とか「希望を実現する」などと、言葉を正確に使えうのがよろしいかと思い
ます。言葉を正確に使うことが、きちんと考える事の第一歩ですから。

きちんと考えない限り、あやふやな希望などは実現する見込みもありません。
「考えるだけではダメだ、実行しなければ現実にはならない。」そういう人
もいるでしょう。もちろんです。ですが、「実行」という言葉は、「考えた
ことを実際に行動する」という意味であるわけですから、考えなければ実行
できないし、行動しても実行したことにさえならないのです。

自分の思っている事は何なのか。理想なのか、希望なのか、目標なのか、
目的なのか。言葉にしてきちんと考える。そういうことがまさしく、「理屈
を想い考える」ところの「理想」であり、したがって現実的なことなのです。


「夫の墓に入りたくない」
という妻が増えていることを
テレビで取り上げていました。
「知らない“先祖代々”と一緒は嫌」「“夫の墓”が遠い・ゆかりのない場所に
ある」というものから、「夫の家族が嫌い」「死んだ後まで夫と一緒にいたくない」
とか、その理由は様々です。みなさんとっても真剣に自分のお墓について、意見を
訴えていまして、お気持ちはお察しします。けれども正直、どれもバカみたいです。

自分が死んだ後の遺族の心配をして、死亡保険をかけたり、遺言を書いたり
するのはまだわかります。しかし、自分の死んだ後の自分を心配するという、
この絶対的矛盾を矛盾とも思わずに真剣に話ている人たちって、いったい
どこまで本気なんだか。

自分の死んだ後のことは、絶対にどうこうできません。
「終活」なるものが流行っているらしいですが、希望を言ったり遺言を遺したり
することでどうこうできるというのは、ただの思いこみにすぎません。
生前から死後の希望を言ったり、遺言を遺したりしたところで、その結果を
確認する自分がいなくなることが即ち「死」なのである限り、死後をどうこう
できないのはあたりまえです。

自分の意志が存在しないということが自分の死なのですから、自分の死んだ後
のことをどうこうして欲しいというのは無理なことなんです。
どうしても嫌なら、死んでから化けて出ればいいではありませんか。
やれるものなら、やってみればよろしい。

人はここをなかなか理解しないのですが、「他人の死」はあっても
「自分の死」というものは存在しません。

存在していると思っている、この、自分が「無い」ことが「自分の死」である。
だから、自分に自分の死は、無い。
したがって、他人の死後はあっても、自分の死後は、無い。
無いものについて、在ると思い、どうこうしたがるのはムダなことである。
どうしようもないことは逆に言えばどうでもいいことである。
どうでもいいムダなことをあれこれ憂うのは、愚かなことである。以上。

この当たり前すぎる理屈、どこか反論可能な余地がありますか?

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自分の墓をどうこうして欲しいという人は、自分が死んだ後も尚、まだなんとか
生き続けるつもりなんでしょうか?この世のあれやこれやのわだかまりを引き
ずったままに。ではそうやって、いったいいつまで生き続けるつもりでしょうか。
自分の死んだ後のことを心配するくらいなら、その前に自分の生きている間の
ことを心配するのが、順序としては先だと思うのですが、どう考えるんでしょ。

自分が死んだら自分はいないわけだから、その遺体は自分のものではない。
遺体は遺族のものである。ならば、遺族の好きにすればよい。
それが死にゆく者の腹の括り方です。死に際してそういう覚悟が無いことを、
「往生際が悪い」といいます。きっぱり諦め、とっとと成仏しなさい(笑)。
死ぬ前に自分の葬式や墓を、ああして欲しいこうして欲しいと言ったところで、
遺された人には遺された人の都合があるわけです。死んだ後まで迷惑かけるな。

墓というものは、「入る」ものではありません。「入れられる」ものです。
生きたまま墓に入る以外に、人は「墓に入る」ことはできません。だいたい
どんな宗教だって、亡くなった人がお墓にいるなんて言っていないでしょうが。
仮に死後の世界を信じるのはいっこうに構いませんが、それにしてもあんな暗い
じめじめした所に、未来永劫ずっーといるつもりですか、あなた。

葬式とか墓という「弔い」は、自分の死後に遺された遺族・関係者達が
彼ら自身のためにやるものであり、死んだ人のためにやるものではありません。
もちろん、希望を言うのは自由ですが、その希望に従うかどうかは遺族の自由
です。死者は遺族の意志に黙って従うしかありません。死人に口無し。

番組の中では、NPO法人エンディングセンター理事長という人が
『妻に「夫の墓に入るのはアタリマエだ」という人には、反対に「あなたが妻の
家の墓に入って。」と言ってみるといい 』 と何度もお話しされていました。
お説ごもっともですが、論点がずれています。どの墓に入るかを当人たちの
問題だと思っていることが、この理事長のそもそもの間違いなのです。



「自分の死後」という存在しないものについて、あれやこれや心配することほど
くだらないことはありません。生きてる間は生きている間のうちに考える事が
いくらでもあるはずです。
それでも心配な人はどうぞ、自分の死んだ後をどうして欲しいかを他人に要求
すればよろし。おそらく、死んだ後のことまで自分勝手な人だ、面倒をかける
人だと思われ、多かれ少なかれ人格を疑われ、人間関係に支障をきたすことは
間違いないでしょう。まあ、それがその人の「生き方」なのですから、それは
それで仕方の無いことですね。ナントカは死ななきゃ治らないと言いますし。

え、私ですか? 私が死んだら、葬式も埋葬も墓も、好きにしたい人がやりたい
ようにやればよろしい。100%お任せします。遺体を犬に喰わせるならそれでも
いいですよ。葬式なんて、生きてる人の義理やお付き合いのための寄り合いだって
こと、みなさん経験上、よく知っていることじゃないですか。どうぞご勝手に。
私ゃ自分の葬式や墓なんか、あっても無くてもいっこうに構いません。
なんかの歌じゃないけど、そこに私はいませんから(笑)。
私の死んだ後のことなんて、それこそ私の知ったことではありませんもの。

アメーバブログのプロフィール欄には、趣味とか好き嫌いとか、
自分を動物に喩えるとなど、事細かな項目があります。
私は知らない人に、事細かに知ってもらうような自分の属性自体に
興味が無いので、一切書いておりません。

あのプロフィール欄に、「自分の前世は何だと思う?」とか
「生まれ変わったら?」という項目があります。
私は、前世とか生まれ変わりを信じていません。かといって、
信じていなくもありません。

それらがあるとか無いとかいうことは、宇宙の果てがあるとか無いとか
いうのと同じで、科学でどうこう以前の、論理的に絶対語ることが不可能
なことだからです。つまり、信じるとか信じないとかいうことさえ不可能
な事態が、前世とか生まれ変わりというものです。
語りえぬものについては沈黙するしかありません。

=================================

そのむかし、タレントの千秋ちゃんが
 ♪もしも生まれ変わっても また私に生まれたい
  この体とこの色で 生き抜いてきたんだから
…と歌っていました。


この身体で生きてきた。だから、また私に生まれたい。
この場合、「だから」というのが、理由を説明する接続詞としての役割を
全く果たしていません。が、そのことはさておいて。
この歌の、「私」というのは、この身体(と、この色)の私ということですね。
ということは、よく考えたらちっとも「生まれ変わる」ではなく、死んだら
もういっぺん最初っから同じ人生をやり直したいということなのですね。

ということは、「生まれ変わる」とは、死んだ後に自分以外のものになる
ということになります。つまり、他人(まあ、人でなくても犬でも貝でも
なんでもいいのですが)になるわけですが、他人になることなんてできるの
でしょうか?

死んだ後に、身体も記憶も、名前も生活環境もぜーんぶ違う他人に生まれ
変わったとして、そのときの「それ」のことを、あなたはなんと呼びますか?
「自分」「私」といいますよね。オレでも Iでもなんでもいいんだけど、あいも
変わらず同じ一人称ですよね。
じゃあどうやったて、他人に生まれ変わることなんて絶対に不可能ですよね。

もちろんそれは屁理屈です。しかし。
千秋ちゃんが「また私に生まれたい」というときの「私」と
「私」以外のものには絶対になれない。という時の「私」。
この二つの「私」はそれぞれ意味が異なります。
この二つはどう違うか、考えたことがありますか?

==============================

なに、そう難しいことではありません。
「私はこう考える」というときの「私」が、千秋ちゃんのいうところの「私」。
つまり、他人に向けて表明する私であり、したがって他人の存在を前提とし、
他人がいなければ成立しない「私」です。ひとことで言えば「自己」です。

それに対し。
「考えているこの私」というときの「私」は、犬や貝に生まれ変わったと
しても、やっぱり自分は自分でしかありえない。というところの、「私」。
つまり、存在している以上絶対に逃れられない私であり、故に「存在」
そのものであるところの「私」。自分に向けて自覚するところの「私」であり、
他人がいなくても成立する「私」です。ひとことで言えば「自我」です。

人はこれら二つの「私」、自己と自我を同時に生きています。

しかし普段、人が「私」といっているのは、ほとんどが自己の私です。
なぜなら、何かをいうということは他人に向けて表明することだからです。
したがって他人に表明しているその「私」は、他人と区別するところの私、
多数の中の一個人としての私になるのはあたりまえのことなのです。


ところで。
他人がいる事で初めて成立する私 と、
他人がいなくてもそれ自体で成立している私。
もちろんどちらも大事な私ですが。
どちらがより根源的で、より本質的で、大切な私でしょうか?

水が無ければ存在することができない魚と、
魚が無くても存在できる水とでは、どちらがより大切なものなのでしょうか。
「魚、心あれば、水、心あり」とはいいますが、
「水に心があるから、魚に心がある」と言えるわけです。

「生まれかわる」ということを考えると、何に生まれ変わるかなどということは
(考えても意味が無いため)どうでもよくなります。
しかし、生まれかわりを考えると、必然的に「自我」について、私が「在る」と
「無い」ということについてを考えるハメになります。
これはけっして、ムダなことではありません。

他人と比較することで初めて成立する自己だけを「私」だと思って、一生を送ると
いうことは、一生涯を他人に振り回されるということと同じことですからね。



幸せを求める人は、幸せにはなれません。
自由を求める人は、自由にはなれません。


本当です。これは単純な、理屈の問題です。

 「幸せになりたい」ということは、
 「私」と「幸せ」が別々のものだと思っているから
 「幸せに、なりたい」と思うことができるわけですよね。

つまり、「私」そのものは「幸せ」ではないのですよね。
『「私」は「幸せ」ではない』。したがって、『私は幸せではない』。
だから「幸せになりたい」と思っている限り、幸せになれない。
単純すぎる理屈です。

宇宙飛行士になりたいとか、弁護士になりたいとか。
「○○になりたい」というのは、何ものかに「○○になった」と認めて
もらうことで、○○になれるのですよね。

それでは。
「幸せになった」と決めるのは、誰ですか?
自分ですよね。他の誰でもないですよね。
だったら、自分が「幸せになりたい」と思っている限り、いつまでも
幸せにはなれない。ものすごく当たり前なことだと気がつきませんか?

「幸せになりたい」と思うのは自分、「幸せになった」と決めるのも自分です。
この状況、ラーメンを目の前にして、「ラーメン食べたい」と言い続けるのと
同じです。ラーメン食べたいと言い続ける限り、ラーメンを食べることはでき
ません。ラーメンを食べない限り、ラーメンを食べたことにはなりません。
ラーメンを食べたかったら、とっととラーメンを食べればよろしい。
何か問題がありますでしょうか。

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「私は幸せでない」ということは、私以外の「何か」が幸せなわけですね。
つまり、その「何か」を得ることが、幸せになることなんですよね。
その「何か」って、物質的な、あるいは状況的な何か、ですよね。

だったら、その何かによって、また不幸せになりうるわけじゃないですか。
幸せになったらなったで、不幸せになることを常に怖れ続けることになる。
そういうことじゃないですか。
幸せに「なる」ことは、不幸せになることと表裏一体・紙一重なんです。

本当に幸せな人って、「幸せになる」ではなくて、「幸せである」のです。
「私は幸せである」。つまり「私」=「幸せ」なのです。
だから、何があっても幸せなんです。何も無くても幸せなんです。

「自由」もまったく同じです。
上の文章の「幸せ」を「自由」に変換するだけです。

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「幸せ」も「自由」も、既にしてここに、在る。

それに気がつくことが、「幸せ」になることであり、
「自由」になることです。
「幸せになりたい」「自由になりたい」。なればよろしい。
じゃあ、いつなるの? …今でしょ!? なればいいじゃん…。

そうはいっても、なかなか簡単に「幸せである」なんて
思えないですよね。それはよくわかります。
自分が「幸せである」と思えるのって、一つの才能ですもの。
その才能が無ければ、「幸せである」なんて思えないですもの。

でも、そんなに難しいことじゃないです。
「幸せになりたい」。
そう願うことをやめればいいのです。

そうするとまず、不幸せにはならなくなります。
不幸せは、幸せを願って叶わないから、不幸せなのだからです。

不幸せでなくなれば、つまりこれ、幸せです。
幸せにならなくとも、初めから幸せだった。それに気がつきます。
それだけです。


山のあなたの空遠く  「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。

上田敏の訳で有名なあの詩も、
メーテリンクの童話、チルチルとミチルの兄妹のお話「青い鳥」も
そのことを書いたのだと思います。
京都、竜安寺にあるつくばいに刻まれている文字
「吾唯足知」も、このことを漢字4文字で表したのだと思います。
【絆(きずな、きづな)】
本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。
しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。「ほだし」、「ほだす」ともいう。

(ウィキペディアより)

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絆・仲間・友達が第一というような考え方は
この先エスカレートしていくと思います。

交通機関と情報機器、そしてそれぞれのネットワークの発達は
人が他人とかかわる機会を飛躍的に増大させました。
人間は、集団としては、科学的技術が進むことで、
また、他人と協力し合うことで、できること・可能なことの
枠がどんどん広がっていきます。

とはいえ、誰だって1日は24時間だし、1年は365日です。
そして誰だって、考える事はこの自分一人においてのみ可能です。
いくら人とかかわっても、他人の頭で考えることはできません。
その条件の中でできる事は、自ずと限界があるはずです。
その限られた時間の中で、何を思い考えるか。

「人と、つながる」
もちろん楽しいです。情報も増えます。

でも多くの人は、人とつながればつながるほど、情報が増えれば
増えるほど、その情報を処理することに追われていきます。
他人と付き合う事や、同調することに、あるいは対立することに、
エネルギーを費やすことばかりが増長していきます。

【絆】=「しがらみ、呪縛、束縛の意」そのものじゃないですか。

その結果、何が本当なのか?何が大切なのか?何で大切なのか?
そういうものを考えることが、どんどん無くなってはいませんか。

人は他人や情報とつながったまま、思考することはできません。
考えるとき、人は必ず外部情報を遮断するはずです。
情報とつながっている限りは、意識は情報に対処します。
情報を取捨選択し、情報と情報を繋ぎ合わせます。

しかしそれは、「考える」とは言いません。

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「絆だから…」

うん。でも、その言葉。
とくに何にも考えて言ってないでしょ?
ただそう言いたかっただけでしょ?
その言葉を使った自分にちょっと酔ってみたかっただけでしょ?
なんかのアニメとかではやったフレーズを使ってみたいだけでしょ?
違うっていうんなら、絆ってなんなのか、他の言葉で示してみせよ。

「他人がいるから自分がいる。」
それはわかります。誰もが自分一人では生きられません。

でもね、他人と自分。
どちらが先あるかと言えば、「他人がいる」と、そう思っている
この「自分」がいなければ、他人などあるはずが無い。
これはあたりまえすぎる道理です。違いますか?

だったら。
他人のことを考えるよりも、それを考えているところの
「自分」ってなんだろう?
それを考える事の方が、大切であるし、順番としては先である。
それもまた道理です。

他人を思うことはとても大切なのだとは思います。
しかし。その他人を思っているところの、この、自分。
これって一体、何なのだろう?
それを考えなくなったら人間の一番核心的な部分が無くなっちゃうん
じゃないか。私はそう思うのです。

誰でも必ず自分ですよね。自分はこの自分だけど、他人はあの自分
です。でも、あの自分はこの自分ではないのだから、何を思い考えて
いるかはわかりません。でもこに自分と比べる事によって、あの自分
のことを想像することはできます。
日本ではこれを「想いやり」といいます。

他人に優しくすることが想いやりではありません。知ることのできない
他人の心を想像すること。これが想いやりです。
したがって。自分の心を思うことができないひとが、どうして他人の
心を想うことができるのでしょうか。絆を叫ぶのもいいけど、その前に
自分にそれだけの資質があるのか。それを考えてもいいのではないかと。