・・・前回の続きです。
「そんなの世間の常識だろ!」よく聞く言葉です。しかし問題はその世間って
いったい何ですか?ということです。するとすかさず「世間って言えばみんな
のことだよ」と返ってくるでしょう。だからそのみんなっていったい誰なんですか、
ということなんですけどね。
誰もが、自分と出会う人の数には限りがあります。それは広い世界のうち、極めて
限られた時間の極々一部の人にしかすぎません。テレビ、新聞、本などから得られ
る情報だって限られたものを得ているにすぎません。
そして何度もいいますが、人は自分の見たいよう見て、聴きたいように聴きます。
会いたい人に会い、会話したいことを会話し、得たい情報を得て、解釈したい
ように解釈します。そしてそれを現実と認識し、常識として語ります。
そしてそのことについて、多くの人が無自覚でいます。
だからと言って、語られている常識が間違っていると言うつもりは、全くありま
せん。それが常識的な態度ですからね。ただ、いままでそうだったから、みんな
がそう思っているから。だから正しい。しかしその正しさ根拠は?それらはどの
ように正しいのか?それに答えられるのでなければ、それは正しいかも知れない
が、思い込みにすぎない。これはものすごく当たり前のことではありませんか。
もちろん、それを言えば、そもそも社会自体が成立しません。社会とは、その
正当性の根拠を不問にすることで成立している、ひとつの物語なのだからです。
しかし大切なことは、社会や現実というものが物語にすぎないという自覚です。
その自覚なしに、社会や現実を唯一絶対の真実だと思うことが、全ての不幸の
始まりだと思います。
==================================
もちろん、何も問題が無ければ問題は無いのだから、それはそれでいいでしょう。
しかしやはり問題はあるじゃないですか。起こるではないですか。常識と常識が
ぶつかり合うことなんて日常茶飯事ではないですか。
多くの人は、自分の語る常識が他人にとって常識でないと否定されたばあい、
自らの常識を疑い考えることなく、頑なにそれを信じて守ろうとしますよね。
そのとき本来ならば、語っているところの常識の正当性を、理屈によって示さね
ばならない筈なのですが、それをする人はなかなかいません。できないからです。
なぜならその常識の正当性は、そう決まっているから、ルールだから、慣習だから、
みんながそうしているんだから、という理由によるものにすぎないのだから、それ
以上のことは言えないわけです。しかしその理屈は、常識を異にするものにとっても
全く同じであるわけです。したがってそれは通用するはずもなく、問題は解決する
ことなく平行線をたどるか、「郷に入りては郷に従う」ということになります。
早い話が「つべこべ言わずに言うことに従え!」という強制です。
それで済むうちならまだいいのです。問題はこの先です。
問題の状況が悪化すると、多くの人は自らの常識に固執するあまり、視野が狭くなり
ます。限られた情報しか得ていないことを忘れます。得たい情報のみを得て、思いた
いように思っているという事実を完全に忘れます。そして問題そのものが見えなく
なり、自らの思う現実と常識を疑うことなどありえない、と思いこむに至ります。
最悪の状況を迎えるまでです。
極端な例と思うでしょうが、戦争下における集団的な心理は特殊なものではなく、
我々の日常に普通に見られる心の動きです。そんなことは学校や職場など、人の
集まるところではよくあることだと、誰もが経験的に知る事実ではないですか。
それの規模が拡大して、歯止めが利かなくなると、あのような状態になるのであり、
その芽はいつも自分たち普通の人が持っていることは、自覚するべきことなのだと
思います。
=================================
もちろん、いつの時代にもどこの社会にも、考える人はちゃんといます。
しかしいかんせん、数が少ないのです。そして社会というのは、いつも数が多い
方に傾きます。民主主義の時代は特にそうです。大衆(という言葉はあまり好き
ではありませんが)の特徴というのは考えないことにあります。(考える事の
ない集団というのが、大衆という言葉の根幹にあるのだから、考える大衆という
のは無いわけです)。それはそれでよいのです。考えるとは疑うことですから、
世間的社会的常識を疑う人ばかりだったら、そもそも社会など成立しませんから。
ですが、大衆の意識に多様性が失われ、画一的になると、それに対する批判や
考え方は排除されやすくなります。論理的に考えるということ自体が否定される
傾向になり、社会全体的にマッチョになります。つまり、批判的言説に対しては
「理屈を言うな」「行動せよ」いう答えが用意され、同調する言説に対しては
内容のいかに関わらずに受け入れられます。
そしてわかり易すぎる文言、スローガンが増長増大し、繰り返し唱えられて、
自分たちの常識こそが唯一絶対であるであると無根拠に信じ込みます。いや、
信じているということを忘れるほどに絶対化してしまうのです。
人は、わかり易く、短い言葉ほど注意して、よく考えるべきなのです。
「そんなの世間の常識だろ!」よく聞く言葉です。しかし問題はその世間って
いったい何ですか?ということです。するとすかさず「世間って言えばみんな
のことだよ」と返ってくるでしょう。だからそのみんなっていったい誰なんですか、
ということなんですけどね。
誰もが、自分と出会う人の数には限りがあります。それは広い世界のうち、極めて
限られた時間の極々一部の人にしかすぎません。テレビ、新聞、本などから得られ
る情報だって限られたものを得ているにすぎません。
そして何度もいいますが、人は自分の見たいよう見て、聴きたいように聴きます。
会いたい人に会い、会話したいことを会話し、得たい情報を得て、解釈したい
ように解釈します。そしてそれを現実と認識し、常識として語ります。
そしてそのことについて、多くの人が無自覚でいます。
だからと言って、語られている常識が間違っていると言うつもりは、全くありま
せん。それが常識的な態度ですからね。ただ、いままでそうだったから、みんな
がそう思っているから。だから正しい。しかしその正しさ根拠は?それらはどの
ように正しいのか?それに答えられるのでなければ、それは正しいかも知れない
が、思い込みにすぎない。これはものすごく当たり前のことではありませんか。
もちろん、それを言えば、そもそも社会自体が成立しません。社会とは、その
正当性の根拠を不問にすることで成立している、ひとつの物語なのだからです。
しかし大切なことは、社会や現実というものが物語にすぎないという自覚です。
その自覚なしに、社会や現実を唯一絶対の真実だと思うことが、全ての不幸の
始まりだと思います。
==================================
もちろん、何も問題が無ければ問題は無いのだから、それはそれでいいでしょう。
しかしやはり問題はあるじゃないですか。起こるではないですか。常識と常識が
ぶつかり合うことなんて日常茶飯事ではないですか。
多くの人は、自分の語る常識が他人にとって常識でないと否定されたばあい、
自らの常識を疑い考えることなく、頑なにそれを信じて守ろうとしますよね。
そのとき本来ならば、語っているところの常識の正当性を、理屈によって示さね
ばならない筈なのですが、それをする人はなかなかいません。できないからです。
なぜならその常識の正当性は、そう決まっているから、ルールだから、慣習だから、
みんながそうしているんだから、という理由によるものにすぎないのだから、それ
以上のことは言えないわけです。しかしその理屈は、常識を異にするものにとっても
全く同じであるわけです。したがってそれは通用するはずもなく、問題は解決する
ことなく平行線をたどるか、「郷に入りては郷に従う」ということになります。
早い話が「つべこべ言わずに言うことに従え!」という強制です。
それで済むうちならまだいいのです。問題はこの先です。
問題の状況が悪化すると、多くの人は自らの常識に固執するあまり、視野が狭くなり
ます。限られた情報しか得ていないことを忘れます。得たい情報のみを得て、思いた
いように思っているという事実を完全に忘れます。そして問題そのものが見えなく
なり、自らの思う現実と常識を疑うことなどありえない、と思いこむに至ります。
最悪の状況を迎えるまでです。
極端な例と思うでしょうが、戦争下における集団的な心理は特殊なものではなく、
我々の日常に普通に見られる心の動きです。そんなことは学校や職場など、人の
集まるところではよくあることだと、誰もが経験的に知る事実ではないですか。
それの規模が拡大して、歯止めが利かなくなると、あのような状態になるのであり、
その芽はいつも自分たち普通の人が持っていることは、自覚するべきことなのだと
思います。
=================================
もちろん、いつの時代にもどこの社会にも、考える人はちゃんといます。
しかしいかんせん、数が少ないのです。そして社会というのは、いつも数が多い
方に傾きます。民主主義の時代は特にそうです。大衆(という言葉はあまり好き
ではありませんが)の特徴というのは考えないことにあります。(考える事の
ない集団というのが、大衆という言葉の根幹にあるのだから、考える大衆という
のは無いわけです)。それはそれでよいのです。考えるとは疑うことですから、
世間的社会的常識を疑う人ばかりだったら、そもそも社会など成立しませんから。
ですが、大衆の意識に多様性が失われ、画一的になると、それに対する批判や
考え方は排除されやすくなります。論理的に考えるということ自体が否定される
傾向になり、社会全体的にマッチョになります。つまり、批判的言説に対しては
「理屈を言うな」「行動せよ」いう答えが用意され、同調する言説に対しては
内容のいかに関わらずに受け入れられます。
そしてわかり易すぎる文言、スローガンが増長増大し、繰り返し唱えられて、
自分たちの常識こそが唯一絶対であるであると無根拠に信じ込みます。いや、
信じているということを忘れるほどに絶対化してしまうのです。
人は、わかり易く、短い言葉ほど注意して、よく考えるべきなのです。
