「ファイナルワード」という言葉がある事を、ブログで知り合った方から
教えていただきました。検索してみたら「鶴の一声」のこと。
どんな言葉が多いのでしょうか。先日記事にした「ポエム化」現象でよく使われ
ている言葉と、一致すると思います。

「愛・友情・絆・夢・希望」などでしょうか。「幸せ・自由」もそうかな。

つまり、きわめて日常的に一般化して誰もが知っている、しかも重要な言葉。
…であるにも拘らず、「じゃあその意味は?」と訊くと、それを誰も答える
ことができない言葉。答える事ができないからファイナルワード。こじつけ。

その方の好きな河合隼雄先生(ユング心理学)が著書の中で、
 『臨床の場面では、なるべくファイナル・ワードは使わないようにしている。
  例えば 愛、友情とか、そういった類の言葉を使わないで、対話している。
  なぜなら、そこがわからなくて、苦しんでいる人達だからだ。』
と、いうような事を書いているらしいです。

ほらやっぱり。ポエム化現象として取りざたされたような言葉をいくら並べても、
その人の思っているところのホントのとこなんて、ボヤケているんですってば。

…というわけで、ここからはその河合隼雄先生(よく知らないけどすみません)の
つもりなった気で書いていきます。

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これは何か諧謔なのではないか。

愛とか友情とか、それを大切だと思い、それについて悩んできたというのに、
臨床の今の今まで彼らは、「それが何か」を考えてはこなかったのか。
なにを、いまさら…。だったら、悩む前になぜそれを考えようとしなかったのだ。
大切なことだと思いつつ、信じつつ、なぜ考える事をしなかった。

彼らが考えていたのは、「それが、何か」ではなく、「何がそれなのか」という
「何」のほう、中身の事ばかりじゃないか。主語を間違えているじゃないか。
人によって各々違う中身を比べて、いったいどれが正しいか。それを悩んでばかり
いただけじゃないのか。それは悩んでいたのであって、考えていたのではない。

考えれば、正しく考えさえすれば、彼らだってわかったはずだ。
愛も友情も、それらはみんな「言葉である」と。そんなものはどこにも無いのだと。
いや、それは正確ではない。無いと言えば無いのだし、あると言えばあるのだ。
思い方次第だ。なぜなら全ての在るものは、言葉によって「在る」のだからだ。

言葉は、無いものを「存在」させる魔術だ。「存在」するように思わせる詐術だ。
ある「言葉」を知る者のみに、その言葉の示すものが存在するのだ。
「愛」という言葉を知る者のみに愛は存在し、「愛」という言葉を知らぬものには
愛は存在しない。その当たり前すぎる事実について、考える事をせず、ただひたす
らにその中身ばかりを追い求めてきた。今頃になって、「それは何か」って?

ならば教えてあげよう。それはそれです。その言葉です。
あなたの経験した様々な思いを分類して、それぞれをまとめて入れておく容れもの。
その容れものに貼っておくラベルに、自らが書く分類用の名前の事です。
他の何ものでもありません。あなたの思い名付けた、そのものです。
それは思い込みにして、同時に真実なのです。

あなたがそれを信じれば、それは確かにそこにあった。
あなたがそれを疑えば、たちどころにしてそれはそこから消えた。
信じきる事ができないのなら、きちんと疑って、きちんと考えてやれば、
それが何か解ったはずだ。何も悩む事はなかったはずだ。

信じきることもなく、疑って考える事もなく、中途半端にしたから、あなたは
それについてずっと悩みつづけてきた。ただそれだけだ。


いや、今からでも遅くはない。考えればよろしい。答えはいつもそこにあります。
それができないのなら、信じきるしかありません。信じるか、考えるか。
どちらかを選ぶことです。どちらを選択するにせよ、出てきたものが真実です。
どちらにせよ、出てくるものは、同じものの裏返しなんだから。

どちらにせよ、自分で決めるしかないんだから。


※ブログ注意書きが、スマートフォンなどには

出ないらしいので、ここに掲載しておきます。

【注意!】


アタリマエのことしか書いてありません。

わかるひとにはわかりますが、
わからないひとにはわかりません。

何が在るのか?在るとは何か?
理屈こねてます。文字数多いです。

コメントください。
ただし、やさしくおもてなしするとは限りません。
ご了承くださいませ。


名言とか格言とかが好きな人は多いようで、ときどき他人さまの
ブログを見ていると、やたらいろんな著名人の名言集などを、ペタペタ
貼り付けて載せている人がいます。

ふむふむ、と思ってざっと見てみたりすると、
その著名人の名言がそのまま転載されているだけ。
なんで転載してあるかとか、その名言についてどう思ったなど、
全く記述が無いことがよく見かけられます。

まあ、何を載せようとよろしいのですが、いったい何がしたいのか、
これではさっぱりわかりませんよね。

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どんなくだらないことや、間違ったことが書いてあっても、
その人のブログには、その人の考えたこと、感じた事、
思ったことが書いてあるから、おもしろいのだと思います。

名言・格言は、深く洞察されたものを、シンプルに一言にまとめた
素晴らしい言葉です。
しかし、言葉はそれを受けとった人の中でのみ生きます。
どのように受け取られたかで、その言葉の生命力が変わってきます。
つまり、その言葉から何が考えられたかが、その言葉を言葉として
活かすことになります。

したがって、名言を名言として生きた言葉にしたいなら、
「どうして自分がそれらの言葉をそこに載せているか」
「それらの名言に対して、何をどう考えているか」。
せめてそれを示すべきです。
それがその言葉と、その言葉を残した人に対する敬意です。

その言葉をありがたがって、掲げる。
これは、言葉を大切にしているように見えて、実は言葉を
殺していることになります。

いやそれ以前に、この人は名言を載せてるだけの、何も考える事の
できない、ただのおバカさんなんじゃないだろうか。
そのようにも疑えてきます。

名言・格言が好きな人って、節操がない気がするんですね。
すぐ感動する性格は微笑ましいし、他人の言葉をすぐ鵜呑みに
するのは、ある意味素直とはいえるんだけれど。
「あの言葉も素敵、あの言葉もいいな」と、蝶が花を飛び回るようで、
あちこち移り気で落ち着きが無いように感じます。

一つの言葉について、じっくり考える事をしないから、
一番に何が言いたいのかよくわからない。
筋が見えない。脈絡が無い。その人が見えない。
要するに、信用できないんです。

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どんな偉い人の、どんな意味のある言葉でも、その言葉が
そこにあるのは、それなりの理由があるはずです。
その言葉は、その言葉を発した人の人生と考えに深く結びついて
いて、その一部として、語られているはずです。

それをその部分だけ簡単に切り取って、いともたやすく貼り付ける。
「名言集」の転載って、唐突過ぎて脈絡が無くて。その言葉が
死んでいるように見えるんです。

それともその言葉は、どこそこの有名な方がおっしゃった。
“だから”名言だ、とでも言いたいのでしょうか。
名言とは、ただの「有名な人の言葉」の略なのでしょうか?

その言葉がどこの誰が残した、どれほど有名な言葉なのか。
その言葉がホントの名言なら、そんなことはどうでもいいはずです。

名言集を載せるという事は、言葉を「出どころ」でありがたがる
ということです。
一見、それらの言葉を大切にしているように見えますが、
そのブランド信仰は、言葉を確実に殺します。

本当にその言葉がいいと思うなら、誰それの言葉という一括りに
する必要などまったくないではないですか。

「誰が言った」なんてことに拘わらず、一つの言葉に向き合い、
それについてきっちり考える。その考えたことこそを、きっちりと語る。
名言を語る前に、その名言に対する自分の考えこそを語れ。

名言はただの「おまけ」だ。

それが、名言を、言葉を大切にするという態度です。





最近気がついたのですが。

私の書いている、この「てつがくっぽいの」というテーマ。

ここにはほとんど「カタカナ」が使われていません。

意図して使っていないわけではないので、なんでかなと
考えてみたら。

必要ないからに決まっていました。そりゃそうです。

カタカナを使う言葉って、ほとんどが舶来物(死語か?)の
普通名詞か、固有名詞だけですもの。

でも私の書いてることと言ったら、「物」についてではなく、
「考え」についてですもの。

「考え」について、考えてみたことを書いているだけなので、
カタカナの出番がちっともないわけでした。



ところで、この記事をもってこの「てつがくっぽいの」シリーズが、

めでたく100回目を迎えました。

とくに嬉しくもなんともないです…。
 

 「幸せって、何?」という問いは、幸せの形式を問う問いです。
 「何が、幸せか?」という問いは、幸せの中身を問う問いです。
この二つは、全く違う正反対の問いです。
ところが、人は「幸せって、何?」の問いをすぐに、
「何が、幸せか?」という問いにひっくり返してしまいます。

それは幸せを、何か「中身」の事であると、信じているということです。
何かをしたり、何かを得たりすることで、幸せになると思う。
つまり、その「何か」を幸せだと思っている。
あるいは、その「何か」を幸せの種だと思っている。

それは半分正解だけど、半分ハズレです。
だってそんなの、人によって違うし、
自分にとってもコロコロ変わるものですもの。
そんなの、ただのイメージだもの。

イメージを追いかけて手に入れたものなんて、飽きちゃうだろうし
そのうち壊れたり、無くなったりするに決まっていますもの。
でもそんなの、「本当の幸せ」っていうんでしょうか。

ところで、「本当」って何か知っていますか?
「本当」って、変わらないもののことですよ。
人によって、時と場合によって変わるものが、
どうして「本当」なんて言えるのですか?

幸せの中身が、人や時や場合によって変わるものなら、
どんなものであろうと、そんなのはホントの幸せではありません。

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 「目の前にある小さな喜びが、幸せが本当の幸せです」。
…うん。そう言いたい気持ちはわかります。
でも悪いけど、それも半分正解だけど、半分ハズレです。

だって、「小さな喜び」っていうことができるのは、
「大きな喜び」を知っているってことですもん。
その大きな喜びと比べて、「小さな喜び」って言っているんですもん。
ということはホントは、「大きな喜びの方がいい」と思っていると
いうことですもん。誰かが既に持ってる、「大きな喜び」をね。
それと比べて我慢して、「小さな喜びが大切」。ホントに?
本当にそうならそれでいいんだけどね。正直にならなければいけません。

大きな喜びに嫉妬し、横目に見つつ、小さな喜びを幸せと思う。
でもその小さな喜びが、儚くも壊れてしまったら、きっとより大きな
挫折感を味わうことになりますよ。その方がよっぽど危険ですからね。
無理はイケません。破綻しますから。

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「幸せって何?」
。たぶん、その答えはただ一つ。

「自分が幸せだと思う事」
。それ以外にはありません。
その人が「幸せ」と思いさえすれば、
その人は間違いなく、幸せです。

じゃあその「幸せと思う事」って、何を思っているの?と問うてみると、
無いんですよ。そんなもの。「幸せ」という言葉があるだけ。
あとはただの、ふわふわしたイメージです。

つまり、幸せとは、思いこみです。
自分を幸せに思えばそれに越したことは無いけど、
幸せ“を”思わなければ、そんなものは、そもそも、無い。
もともと無いものを、“ある”と信じて「無い」と言っているんだから、
いつまでたっても幸せになれないのは当たり前です。
 
「幸せになりたい」と思う限り、幸せになれない。

  それは単純すぎる理屈です。
 
 「幸せになりたい」ということは、
 「私」と「幸せ」が別々のものだと思っているから
 「幸せに、なりたい」と思うことができるわけです。

つまり、「私」そのものは「幸せ」ではないと思っている。
『「私」は「幸せ」ではない 』。
したがって、『 私は幸せではない 』。

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「幸せになりたい」と思うのが自分なら、
「幸せである」と思うのも自分です。


だったら。「幸せになりたい」なんて思っていたら
いつまでたっても幸せにはなれない。
「幸せである」。そう思うのでない限り。

 「ラーメンを食べたい」と言っている限り、
  ラーメンを食べることはできない。
  ラーメンを食べたかったら、
  黙ってラーメンを食べるしかない。
  早く食べないと、ラーメンは伸びます。

それさえわかれば、何かを得る事で幸せになることも、
何かを失うことで不幸せになることもなくなります。

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 幸せを、求め続ける。
 何かを得て、幸せになったと思う。
 今度はそれを失う事を、怖れ続けることになる。

幸せを求めるなんて、実はなんだかバカみたいなこと。
そうなんじゃないだろうか。そう思います。
なんでバカみたいなことかって?

ものには考える順序があります。
「幸せとは、何か?」を知らなければ、
「何が、幸せか?」を知ることなどできません。
そりゃ当り前です。自分が何について問うてるのか解って
いないのに、どうやって答えが解るというのですか?

そして考えれば、「幸せとは、何か?」がわかる。
幸せとは「幸せと思う」事である。当たり前でした。

すると、「何が、幸せか?」という問いは、必要のない
どうでもいいムダな問いであったに気が付くわけですよね。

「○○を得る、△▽になることが、幸せ」。
誰が決めたの?自分ですよね。

自分で決めておいて、幸せになれなくて、
自分で決めておいて、幸せになって、
自分で決めておいて、またその幸せをなくす。
それ、全部自分の思いこみですよね。

…なにやっているんですか?いったい。
幸せを求めるなんて、やっぱりバカみたいじゃないですか。

ひょっとして、
「幸せにならなきゃいけない」って思っているんじゃないですか?
「幸せになりたい」と思う事をやめてみたら?

なんてことはないことだと、たぶん気が付くと思いますよ。

 「 存在 = 幸せ 」 だということに。

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幸せは、いれものです。

なのにみんな、幸せは中身の事だと思っています。

でも、いれものが幸せじゃなかったら、何を入れても
幸せじゃないし。
いれものが幸せなら、中身なんかなくたって幸せだし。

もちろん、「いれもの」って、「自分」のことですよ。


大雪が降っています。

私は雪明りが大好きです。

雪の明りは乱反射して、影を作らない優しい光だからです。

私の家は、内装も家具や調度品も、なるべく白色にしているので、

カーテンを開けると、影も境も無いような、ぼんやりとした白い空間に

包まれるような気分になります。



夏の強い日差しは強い影を作り、全てのものが存在感を強く主張します。

それはそれで楽しくはあるのですが、

雪の明り、雪の世界は、全ての存在感が消滅します。

通りの車も少なくなり、音も雪が吸収してくれるので、

静寂も全ての存在感を消してくれます。

そして世界とは、それを想っている自分なのだという事実を、

この雪はあらためて想いださせてくれます。

私が世界であり、世界は私である。

そんな境界さえどうでもいい。全ておんなじことなのだから。

何にも代えがたい、この静寂、この浮遊感。

この感覚がたまらなく好きなのです。

これが夢だというのなら、世界はきっと全て夢に違いない。



たぶん私は、「存在」 が好きではないのでしょう。

あれやこれやの喧しい音も、様々な色も、

全て雪に埋もれて、消えてしまえばいい。

完全なもの。絶対的な美しさがそこにはある。

それで十分なのだ。あとは何もいらないのだ。



雪の降り積もる日はいつもそう思います。
過去を振り返る。
いろんなことがあった。かなえたい夢もあった。楽しいかったことも、悲し
かったことも、想いだすほどに連鎖的に想いだす。しかし、ほとんどの事は
忘れてしまっている。それが過去を振り返るということだ。人生においても。
歴史においても。

でも、忘れてしまったことも、記憶違いをしていることも、それはそれとして、
どうでもいいことではないか。そう思います。今まで数十年生きてきたという
その事実は、数十年生きてきたこととして、そっくりそのまま、今、ここに
あるのだから。それ以外には、無いのだから。

そうであるならば、歴史も全く同じことです。歴史のほとんどの事は、記録も残
らず、僅かな資料を残して消えていく。しかしその資料自体は歴史ではありません。
百年なら百年、千年なら千年、数億年なら数億年、それだけの歴史があったと、
今ここに想いなすから、百年、千年、億年の歴史が、そっくりそのまま今ここに
現れている。思いたいようにしか思えないのが現実認識なら、想いだせないよう
にしか想い出せないのが歴史認識です。

記憶しておきたい過去。忘れて想いだしたくない過去。否定したいところで、否定
は否定として、それらをそっくりそのまま想いだしたいように想いだす。そのよう
にしか、人は過去を想いだせません。ならば我々には、客観的な真実の過去などは
存在しない。そう考えるのほうが、自然なのではありませんか。つまり、歴史は
それぞれの想う物語であると。歴史とは、それを想いだしている現在の、この自分
の想いのことでしかないのだと。

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たとえば戦争があった。皆それぞれに辛い体験、悲しい経験をした。そしてその傷
跡は今もなお残るでしょう。するとすぐに、戦争責任だ、反省だ、という話になり
ます。もちろん傷跡は今あるものだから、治療、修復、補償することはできます。
しかし過去の、それも自分が為したことではないことに、人はどのように
責任をとったり、反省することなどできるのでしょうか。どこに責任の所在があり、
何をしたら責任をとったことになるのか。それがわからないままに、責任をとる
とらないの話というのは、それこそ無責任なことなのではないでしょうか。

「お前も日本人だから、日本人として、日本の過去に責任を感じろ」。
なんですかそれは。私はこの国にたまたま生まれたのであって、意図してこの国に
生まれてきたわけではありません。私が意図して戦争したわけでもなければ、加担
したわけでもない。それに対して何を反省し、どう責任をとるのか。

「今このようにあるのは、過去があるからだ」という人もいます。
そんなことは当たり前です。戦争のみをとりたてるまでも無く、全ての過去があった
から、今このようにあるのです。今を生きているだけで、戦争に対する責任があるの
ならば、全ての過去にも責任があることになってしまいます。

それは未来についても同じです。「将来の子孫に悪影響が及ばないように…」
そのような形で心配をする人がいます。それでは例えば、交通事故はどうですか。
道を歩いていて車にはねられた。ならば、車を発明した人、その車を利用してきた
過去の全ての人を責める事ができますか。そうしたところで何か意味がありますか。
同じように、我々がしたことがもとで、未来にいかなる影響がでたとしても、未来
の人は過去のわれわれに文句を言うことはできません。原発廃止を唱える事が
できたとしても、原発を開発し、採用し、建設し、利用してきた人に文句を言う人
はいないではないですか。

その時代に生まれてしまった以上、我々はその時代を生きるしかないのです。
過去に対して何かを言ったり、何かを要求したりすることなどできないし、
無意味なことなのです。歴史とは大きな蓮の葉みたいなもので、そこに生きる事
になるわれわれは、「一蓮托生」なのです。


「歴史は鏡である」という言葉があります。
多くの人はこの意味を誤解しています。ネットでこの言葉を検索してみると、
何も考えていない言葉を荒げるだけの、いわゆるネット右翼みたいな人が、
この語を好んで使っています。それも、ほぼ9割は間違った使い方でです。

「歴史は現代に於いて何らかの役に、皆の為にならなければ意味を為さない」
「自分の経験などたかが知れている。歴史的事実から真実を学べ」…などと
いう、歴史を手本にするという考え方、大間違いです。

鏡を見て映るのは何ですか?自分ですよね。いったいどこのだれが、自分を
手本にすることなどできるというのでしょうか。

歴史を見ると自分が見える。歴史は鏡であるとは、そういうことです。
過去に起こったあらゆることを、それを経験していない自分が、今、それを
思っている。それはどのようにして可能かと言えば、この自分の、それまで
生きて、思って、考えてきた経験の全てと比較して、自分のことのように
歴史を思う。人が歴史を思うのは、そのような仕方でしか不可能です。
そこに映っている歴史というのは、自分の考え方、思い方、自分の人生その
ものです。自分の過去を想いだすように、人は歴史を思い出すのです。

したがって、自らの歴史、経験をほとんど持たぬ幼い子供には、歴史をうまく
理解することはできません。みなさんが初めて「歴史」の語を知ったのは、おそ
らく学校教科においてだったと思います。自身の小学校時代を思い出してみれ
ばわかるでしょうが、そのころ知った歴史的史実は、その頃の自分にとって、
ほとんどがただの情報の羅列だったのではないでしょうか。それらのことを
ありありとした過去の事実などとは、思えなかったのではないでしょうか。

歴史に書かれている事は、人が為したこと、行為による現象の集積です。その
行為というのは、人が考えたり思ったことの結果なのですから、歴史とは
つまり、人の思い考えたことの歴史です。
それが天下人にせよ、一介の市井の名も無き人のことにせよ、その人たちが
何をどう思い、その結果何をなし何が起きたか。それを想う事が歴史を想う
こと、思い出すことです。

他人の想いを想像するということは、それを自分のこととして想うこと以外では
ありません。歴史上の人物、皇帝なら皇帝の、奴隷なら奴隷の、犯罪者なら犯罪
者の立場となり、自分のこととして想うことが、歴史を想うことです。
しかし、悲しみを知らぬものが、他人の悲しみを推し量るのは不可能ですよね。
歴史上の誰かが成し遂げた喜びがわかるということは、自分が何かを成し遂げた
喜びを知っているからですよね。

このように、歴史を見るということは、必ず自分の経験と照らし合わせて歴史を
見るということなのです。その自らの経験とは、実際に体験したことではなく、
心が経験したことです。戦争を体験していなければ、戦争の悲惨さがわからない
なんて言うことは、バカげたことだと誰もが知っているはずですからね。
それでも戦争の不条理さ、戦争の暴力、戦争の悲しみは、我々の心が経験した
不条理さや暴力や悲しみと比較することで、理解できるのです。

したがって、何か一つ心が経験するたびに、想われる歴史も少しずつ変わります。
たとえば自分に子供ができて、父親になった気持ちが実感できたとき。その人に
とって、過去の人類の全ての父親の気持ちがわかるようになったのです。もちろん、
人はそれぞれ個人なのですから、それぞれ気持ちが違うのは当たり前です。しかし
そんなことを言うことには、何の意味もありません。人は自分の思いを通して、
それを現実として理解する。それしかできないのですから。ならば、今この自分が
理解できる限りにおいて、全存在の全歴史がわかると言っても、何の嘘間違いも無
いじゃないですか。

人が歴史を、自分の人生と比較して歴史を理解するならば、逆に人は、歴史を見る
事で、自分の人生を理解するのだとも言えます。それが「歴史は鏡である」という
ことです。歴史を唯物論的に見る人は、自分の人生を唯物論的に見ています。歴史
を精神の発展の段階と思う人の人生は、精神の発展の人生です。

自分が何かを想いだしている時のことを、思いだしてみてください。必ず何かその
ときの雰囲気や気分の下に想いだしているはずです。甘い香りを伴って優しい気分
のときは、そのような過去を想いだしています。悲しい気分では悲しい気分の過去、
ゆったりした気分ではゆったりした過去、せわしい気分ではせわしい気分の過去、
その時の気分のままに自分の人生を、そして同じように歴史を想いだしています。

正しい歴史?真実の歴史?そんなもの、ありゃしませんて。
客観的自己認識など不可能なように、客観的歴史認識もまた不可能です。
人は何かを客観的に思いだすことなどできやしないのです。
※えーっと、タイトルがオカルトっぽいです。いいのが思いつきません。
 考えるということと自分ということの、最も根源的なことの抽象的な
 内容であるため、指示語が錯綜して非常にわかりにくいです。


以前に、「理想とは現実である」と何度も書きました。しかし理想と現実は
同じではあるものの、理想があるから現実が現れるのであって、その逆は
ありません。そして理想とは、想いたいように想ったもののことであります。
人が何かを想うのは、それが「よい」と想うからなのであり、したがって理想
とは、現実よりもよい何ものかであります。つまり理想とは「よいものであって
ほしい」という期待であることに違いないのですから、必ず「未来的」なものに
なります。

それに対して、「理知」という言葉があります。これはつまり、過去のことを
現に今、理をもって知ることです。すなわち省みて思い出すことであり、反省
するということです。理知で何を思い出すかと言えば、経験の全てです。経験
していないことは思いだせないので、それは当たり前です。そして経験とは必
ず、心が経験したことです。

この理知によって思い出す過去というのは、ちっぽけな個人の人生の経験には
限りません。全存在の全歴史、全てのことです。「経験していないことは思い
だせない」という先のテーゼに触れるとお思いになるかもしれませんが、矛盾
ではありません。なぜならば歴史とは、自分が自分の心で経験したことを通して、
過去というものをそのように思いなすから、そのような歴史としてあるのであり、
それ以外のものではないからです。

歴史とはこの自分の経験と照らし合わせた全存在の歴史であり、歴史を思うと
いうことは、そのように考えている自分を見ることです。歴史上の人物の、
何をしてどう思ったかも、人類が誕生したことも、地球の誕生も、自分の経験
と照らし合わせて、自分が経験したかのように思いなすことが、歴史を見ると
いう態度です。歴史を見る事は、歴史を見ている自分を自分を見る事です。
ですからこの国ではそのむかし、歴史のことを「鏡」と呼んでいたのです。

理知とは即ち、言葉を自らの経験と照らし合わせることに他なりません。
そして言葉は常に、人生においての折々で、新しい顔を見せてきます。かつて
は特に意味を感じなかった言葉でも、時を経て経験を積み、再びその言葉に
出会ったときに、「ああ、あの言葉はこのことを言っていたのだ」と思うこと
は、誰にでも往々にしてあることだと思います。そのとき人は自分の経験を、
言葉を通して自覚しているのであり、したがってそこに歴史を見ているのです。

つまり、言葉とは私であり、歴史とは言葉によって現わされるところの、過去の
全てなのです。言葉とは、そのように世界を出現させているところの、この魂の
ことです。

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「言霊」という言葉があります。
近年、スピリチュアルとかヒーリングとかメンタルヘルスの好きな方達が好んで
使う言葉です。「言葉には魂が宿るから、迂闊に口にすると本当にそうなる」、
あるいは逆に「言葉には力があるから、自分の望むことを常に口にしていれば、
それはいつか現実になる」など。いささか迷信めいた表現でそれを説明する人が
います。説明と言っても理屈抜きですが。

しかし少し違うのです。宿るということは、言葉と魂は別ということになります。
魂が宿るというなら、言葉自体はただの道具的な何かになるわけじゃないですか。
そんな中途半端なことを言うから、言霊はオカルトになってしまうのです。
勘違いしてはいけません。言葉そのものが、我々の魂なのです。

霊というのはドイツ語ではガイスト。それは幽霊のことを言いますが、同時に
精神のこともさしています。我々がこのように何かを想い、考えているその主格
である精神のは、またの名を魂です。我々は誰もが考える精神であり、言葉であり、
言葉の辿りゆく筋道である、論理です。「言霊」はそれを指す言葉です。

人は思っていることしか口にできません。もちろん、嘘をつくことはできます。
しかし、その嘘だってそれを思うから、そのように言うことができるわけです。
その人の思っているところのことは、その人の言葉に現れます。下劣な人は下劣
なことを口にします。高潔な人は高潔なことを言います。もちろん、一言一句
きっちりとわかれるわけではありませんが、最終的には必ず言葉に表れます。

そして人が誰かを判断するときは、行動や外見で判断することもありますが、
最終的には必ず言葉でその人を判断します。その証拠に人は、行動が不確かな
人、言動一致しない人に対して、「どういうつもりなのか?」と、言葉で釈明
させようとするではありませんか。

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言葉である自分という精神が、「そうである」と必然的に思ったこと。それは
「そうである」と思われたことに、間違いないわけです。自分が、「現実はこ
のようなものである」と思えば、自分にとっての現実はそのようにあるのです。
とは言え、思っているだけなら誰にも知られていないわけですから、思っている
自分が忘れてしまえば、その思っていたという事実すべては、あとかたも無く消
滅することになります。

しかし、思っている事をぽつりと一言でも口にすると、それは紛れもない現実と
なります。それを他人に聞かれた場合は、その事実は決定的です。忘れてくれ
と言っても、人が一度口にしてしまったことは、それを聞いた他人とそれを言った
自分が完全に忘れる事が無い限り、その事実は消滅しません。いくら口が滑った
とか、言葉の綾だとか、本心ではなかったと言い分けしても、その言葉を口にした
という現実が無くなるわけではありません。これはとても恐ろしいことです。

その恐ろしさを知っているから、むかしの人はそれを言霊と呼んで、言葉が自分で
あるということを自覚し、言葉の大切さをかみしめたのでしょう。
「口にしたことはいつか現実となる」というのは間違いです。そんなはずはありま
せん。いつか現実になるんじゃなくて、「口にした以上、口にした時点で、それを
口にしたという現実となる」、そういう当たり前のことを言っているにすぎません。
言霊はオカルト的な何かではなく、極めて論理的な事をたったの一言に抽出した
抽象概念なのです。


政治家の方々が講演などで失言をしたとき、謝罪して失言を取り消すなどと会見
することがあります。しかし、失言を取り消し、撤回なんて、不可能なことです。
あなたがある言葉を口にするということは、あなたはそういう事を口にする人間だ
ということを示してしまったことに間違いは無いのですから。

迂闊なことは、口にしない方がいいですよ。


常識には、世間的一般的常識と普遍的論理的な常識があります。
前々回にそのように述べて、その相違点も書いてきました。
それでは問題です。たとえば、「地球が太陽の周りを廻る」という
科学的な常識は、どちらの常識に当てはまるでしょうか?

「それは誰にでも当てはまるから、普遍的な常識だ…」と、思いますよね。
でもこれも、やはり世間的一般常識なんです。それは考えて得られる知識
ではなく、そのように教えられたからそうである、と思っているにすぎない
知識です。科学者だって、与えられたデータから、そのように考えた方が
全てうまく説明がつくから「地球が廻る」と説明するにすぎません。

観測されたデータなしに、考えただけで必然的に「地球は廻っている」と
結論づけられる科学者はいませんし、もし結論付けてしまったらそれは
そもそも科学とは言えません。科学とは、所与の情報から推論して、仮説的に
結論を出すことです。その結論はどれだけ一般化しようとも、仮説にすぎない
のです。科学者でさえそれを自覚している人は少ないのですが、科学的正しさ
というのは、あくまでも科学という範疇の中においてのみの正しさなのです。

もちろんだからと言って、私は「地球が太陽の周りを廻っていない」などと
言うつもりはありません。ただしそれは絶対の常識ではないと言っているのです。
太陽を中心に考えれば、地球の方が廻っているわけですが、地球を中心に
考えれば、太陽が廻っていると言えるのです。現に日常われわれは太陽が
動くという感覚で生きているわけですし、地球が廻っているのを見た人も、
そのようにありありと実感している人も、ほとんどいないはずです。太古の
人だって、大地の周りを空が廻っていたと思い、それを常識としていたわけ
ではありませんか。つまり、正しさが変わったわけです。変わりうる可能性
がある事実は真実ではありません。

科学的常識が普遍的真実であると思いなすのは、思惟の足りないものの戯言
か、ただ傲慢です。科学が進化するごとに常識が塗り替えられる可能性が
あるのであれば、それは真実とか真理などとは言いません。絶対に変わること
のあり得ない事実や知識を、それぞれ真実、真理と呼ぶのです。

科学の常識は、全てそのような常識です。科学が間違っているというのでは
ありません。科学的知識は、与えられている情報を、うまくつじつまを合わせて
説明する物語にすぎない、そう言っているのです。太古の人は神話という物語で
世界を説明し、現代人は科学という物語で世界を説明している。そのどちらが
真実というわけではありません。しかし、どちらも世界を説明しているのは、
言葉であり、言葉の辿らざる得ない道筋の体系、即ち理屈、論理です。ならば、
その「論理」、言葉の筋道。それだけが、いつの世の誰にも等しく共通する知識
ではありませんか。ちがいますか?

「科学だから正しい」。しかしなぜ?その「だから」の根拠はいったい何ですか。
それが説明できなければ、そう信じているに過ぎないことになります。
それは科学が間違っているということではありません。科学的な正しさは、
「科学が正しい」を常識とする社会においてのみ正しいと言えるのであり、科学
自体が正しいかどうかは、科学によっては証明できないのです。それは自分の
アリバイの正しさを、「自分はその時間ここにいた」と主張することのみで証明
しようとするようなものなので、どう説明したところで証明にはならないのです。
そしていかに科学的に正しいと説明されたとしても、その説明に論理的整合性が
とれなければ、それはやはり「正しい」とは言えないのです。

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科学に限らず、社会的正しさは社会においてのみの正しさであるし、また
宗教的正しさも宗教においてのみの正しさです。
もちろん宗教の正しさについても科学と同じく、私は肯定も否定もしません。
科学的なもの、物質を価値とする社会的な価値観に疑問を持ち、精神性にこそ
価値を見出す。宗教というのはそういうもので、それ自体は間違いではありません。

しかし例えば、かつて世間を恐怖に陥れたオウム真理教。あれが正しくないのは、
集団的テロ行為があるから正しくない以前に、その存在の理屈が、正しくありま
せん。あの狂った教団は、物質を非価値とし、精神を価値とする宗教の体裁を
とりつつ、中身はどっぷりと物質を信じ、科学的なものを信じ、それを価値と
する社会を信じます。そしてそれを手段としてテロ行為を繰り返していました。
したがってあれは宗教でもなんでもない、ただの狂信的テロ集団です。仮に彼ら
が一切のテロ行為を行っていなかったとしても、集団として集まっている信じて
いるところの、その教義考え自体が正しくないものだったのです。

そしてオウムに限らず、宗教は必ず集団を形成します。宗教の宗とは中心に
集まるの意味ですが、精神性を重んじ何が必要かを考えるのであるならば、
集まる必要も教わる必要もないわけですから。考える事は一人でできます。
正しさとは、考えた結果もたらされるものです。宗教は、教祖と言う他人の
考えたことを教わり信じることです。つまり信者は考える事をしません。
疑うこと考える事をせず、ただ信じることによって正しさを得ようとする。
宗教というのは、それ自体が矛盾です。教祖や経典が正しい根拠は何か?

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人間は様々な考えを語ります。どの考えが絶対に正しいわけでもありませんが、
必ず共通しているものがあります。それはやはり言葉であり、論理です。
様々な正しさが語られても、それは必ず「正しい」という言葉が用いられます。
「正しい」という言葉以外で正しさを語ることはできません。つまり、なにが
この世で一番正しいかと言えば、「正しい」という語が一番正しいわけです。
そして、何かを語るその理屈が理屈として正しいことが、その語られている事
の正しさを示す上での、絶対的必要条件であり、それができなければそれは
やはり「正しい」とは言えないわけです。これ、ものすごく当たり前のことを
言っていますが。

理屈は間違っているが、言っている事は正しい。そういうことは絶対にあり得
ません。人は時として「理屈じゃないんだ」などと口走ったりします。そうは
言っても、「じゃあなんなのだ?」と訊き返せば、その人の口から次に出てくる
のもやはり必ず理屈による言葉ではありませんか。違いますか?
「理屈じゃないんだ」と言うこと。要するにそれは「黙れ!」ということです。
そういうからには、正しさを言葉以外で示さなければいけませんが、そんなこと
ができる人はいるのでしょうか。それができない限り、「理屈じゃない」と人の
口を封じる事は、ただの強制、横暴、つまりは暴力以外の何ものでもありません。

人生とは何か。簡単です。人生とは「人生」という言葉です。「生きて死ぬ」。
これも全て言葉です。そこにおいて起こること、起こり得ることは全て言葉です。
それ以外のものは、何一つとして在りません。そして、正しくない言葉で語られ
るものは、何一つとして正しいものなど在りはしないのです。正しく考えられて
必然的な結果としての知識。それこそが「常識」の名に値する知識なのです。
常識は2種類あるとは言うものの、本来ならばたかだか一部地域、一部の時代で
流通しているだけの情報などは、ただの情報にすぎません。そんなものは本来なら
ば知識などと、ましてや常識などとは言わないのです。

「常識について」というタイトルで長々と書いてきましたが、実は書いてある内容
はただ一つです。「正しいということは、論理的に正しいことである」ということ、
それだけです。どんなに権威ある人が言ったことでも、どれほど多くの人が信じて
いることでも、どれほど長い間習慣づいたことであっても、論理的に正しく考えら
れていない知識、常識は、正しくはありません。あたりまえのことなんですがね。