「てつがくっぽいの」というテーマで、今まで108回書いてきました。

ちょうど仏教でいうところの、煩悩の数と同じです。

私はひたすら、煩悩を吐き出していたのでしょう^^。

だいたいのことは吐き出したような気もします。


108回書いてきたものの、いろいろ書いてきたなんてことは無く、

書いてきたことは最初から最後まで、飽きもせずにひたすら

「当たり前」のことについて書いてきました。

どこの国の、いつの時代の、どんな人にでも妥当する当たり前に

ついてです。


当たり前すぎるテーマを、当たり前すぎる理屈で書いてきたのですが、

どういうわけか、結論はおよそ一般的な「アタリマエ」とは

正反対のことになってしまいます。

したがって、このブログ。「読んでも意味がわからん」という人が

かなりの割合でいらっしゃいます。

反面、すごくわかりやすいとか、ストンと腑に落ちるとおっしゃる方が、

たまにですが 確かにいらっしゃいます。ありがたいことです。


ですから、最初に断わり書きで

【わかるひとにはわかるけど、わからないひとにはわかりません】と

してあります。

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ブログに書くこと、いつ考えているのかと訊かれたことがあります。

時事ネタを書くわけでも、何かの調べ物がいるわけでもなく、

アタマ一つあればできることなので、四六時中ではないけど、いつもです。


しかしそれは、言葉に変換して、わかりやすい表現を推敲することに

時間を費やすだけであり、表現以前の意味を考えるのは、一瞬のことです。

実は誰でも、考えるということは、一瞬でやってのけているんです。

わかるときは、「あ、わかった!」と一瞬でしょ。そのときのことです。

人は考えるとわかるということを、同時に一瞬でやっているんです。

というより、やってくるのです。考えが。いわゆる、閃きです。

それに理屈をつけて、ああだからこうというのは、実はあとでとってつけて

やっている事なんです。理屈よりも答えが、意味が先にやってくる。

それが、「考える」ということの、誰もに共通している過程なのです。


私が閃くのは、大体の場合は入浴中です。

情報量の少ないフロ場でリラックスしていると、意味が突然やってきます。

それを忘れないように、私は風呂場にペンとノートを持って入ります。

おかげで私の入浴時間は、いつも1時間ぐらいかかります。




意識のうち理性をもつものを精神といい、したがって精神の本質は理性です。
理性の本質は、本質を洞察し、本質を求める事でした。
したがって、我々人間である精神は、自分のことを考えるにしろ、社会や世界
のことを考えるにしろ、必ず最も根源的なものを意識して、それを考えるに至
ります。その根源的なものが、「存在」です。あらゆる全ての存在者に対する
ところの「存在です」。存在者は精神が思うことによって存在するのであり、それ
以外には無いのだから、したがって、存在とは観念であり、精神です。

それでは、この精神、すなわち存在、したがって全存在者、まあなんでもいいの
ですがこの全て。これはどうして、こうなのでしょうか。
理性の本質洞察に際限は無いのですから、結論は無く、さらに問い続けます。
「なぜ、存在なのか?」。しかしその問いは答えられることのない、絶対の謎です。

理性は理性の内側にあるものしか問えないのであり、存在でないものについては
考える事ができません。考える事ができないものを考えようとすれば、無理な考え
がでてきます。
存在で無いもののひとつは、「無」です。しかし、無は無いから「無」なのであり、
したがってそんなものはありません。無いものは考える事ができません。以上。

さて、厄介なのはもう1つの存在でないもの。
つまり、「存在を超越した存在」という、それ自体が矛盾しているややこしいもの
です。古来より人は、それについて「神」という名をつけています。
それが何かを考えずに、信じて拝めば、「宗教」。
それが何かを疑って、考えれば、「哲学」。そのように分かれます。

しかし、それが何かと言ったところで、結論は端から決まっています。
神とは、それを考えている自分のことなのです。ですから、ヘビが自分の尻尾を
噛んで、「なんだこれ?」と言っているようなものです。
(このあたりのことは以前の当ブログ記事 『Parallel Spiral Rope Loop』参照)。

それだけのことと結論付ける事はできますが、どうしても超越した存在を考える
癖があるのが精神ですから、無理やり「神」について考えてみます。

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全てのものは、思考できるもの。思考できるものは相対的です。なぜならば、
思考は言葉によるからであり、言葉は、そうであるものとそうでないものに分ける
ものだから。つまり、二項対立。だから相対的である。
しかしその最も根源である概念、「存在」だけは絶対です。先ほど示したように
「無」は無いのですから。しかしやっぱり、絶対とは言え、相対でもあるんです。

だから今度こそ本当の意味での絶対的絶対を、というリクエストにお答えするのが
「神」です。存在を超越し、全ての存在に意味を与えるものとして、考えられている
ものです。一神教の場合ですけどね。

でもやっぱり、超越した存在なんて矛盾です。
超越しているってことは、我々の認識を超越しているわけです。ならば、それが
なんなのか、そもそも存在するかさえ認識するのが全く不可能なわけですから、
そんなものをありがたがることさえ不可能なはずです。

え?それを認識できるようになるために宗教があるって?バカおっしゃいな。
神が認識できるようになるってことは、我々の認識が超越したってことになるじゃ
ないですか。そしたら神が我々を超越している事にはなっていないことになるじゃ
ないですか。我々を超越していないなかったら、それは神ではないじゃないですか。
どうやったって、超越した神の概念なんて無理ですって。

信仰の対象としての神とは、神の概念として信じられている神です。すなわち、
何ものかであると定義付けできるような神が、宗教の神です。
しかし、人間によって定義付けができるものが、どうして絶対の超越なのですか?
それに対し、思考の対象の神はいかなる概念でもありません。したがって定義付け
はできません。無理に定義付けするなら、「定義付け不可能な何か」となります。

そんなわけで、超越した存在を自分の外に仕立て上げて拝む「宗教」という形式は、
無理があります。
無理があるから、宗教はその立場を科学にとって代わられたわけです。
しかし科学だって、実は宗教と全く同じ構造なのです。自分の外に「物質」とか
「エネルギー」とかの超越したものを仕立てただけ。「考えているのは、脳が考えて
いる」なんてまさにそう。脳という神を奉っている。あるいは原子とか何じゃら素粒子
とか、ビッグバン進化論とか、全部、おんなじ。

自らの外部に超越的絶対を立てて拝む宗教も科学も、いいかげんそろそろ、
その限界に気付いてもいいんじゃないかと思います。人類は。

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そうじゃなくて、超越しているのは実は自分だと気付くこと。まあ、それだと
ちっとも超越なんかしていないんですけど、そういう超越した存在をありがたがる
姿勢をやめて、超越を考えようとしている自分というものを、よく自覚すること。
哲学がいいとは言わないけど、例えば禅とか。あれは宗教であって宗教にあらず。
拝むんじゃなくて自分を見つめるのですから。

自分を見ていたら、「ああなんだ、神とは自分の背中じゃないか」と気が付くこと。
悟りなんて大したもんじゃなくて、当たり前のことの不思議に気が付き、当たり前
を驚き、考え、当たり前を味わう。
そういう態度の方がよっぽど自然で、理にかなっていると思うのですが。
さてさて、どうなることやら。

え、他人事みたいに高飛車に言うなって?いやいや、だって、他人事ですもの。

自分の人生がここにあることなんて、自分の意志によるものではないんですもの。
自分の意志によって存在したのではないものに、意味を求めたり、責任を持とうと
したり、そんなことできると思うことこそ、無理というものだもの。
そうやって、深刻ぶることが全ての不幸の始まりだということ、ホントはみんな
知っているんじゃないですか。深刻ぶることなんか、みんな揃ってやめてしまえば
いいんじゃないですか。

私見を述べております。
たぶん人間は、人生の中身にこだわりすぎなのではないか。人類は、歴史の中身に
こだわりすぎなのではないか。中身にこだわる前に、中身を入れる器が在るという
ことの不思議さに、茫然自失するぐらいでいいのではないか。そう思います。

「たった1度の人生」。と人は言います。もちろんです。しかし、それはただの
事実です。ただの事実は、肯定も否定もできません。したがって、その言葉の後に
「だから・・・であるべきだ」なんて言うことなんて、できやしないのです。
好きにしたらいいんです。好きにしても、そんなに変なことにはならないはずです。
もう少し人間は、自らの理性を信頼してもいいと思うのです。自らの理性を信用して
いないから、理性的でないことばかりするのです。

他人事のように考えるぐらいが、ちょうどいいのだと思います。人生も人類も。
「YAHOO!知恵袋」っていうのがありまして、

質問を書き込むと、それを見た人が答えを書き込んでくれるもの、
らしいのですが。

先日、こんなものの相談(?) を書いてる人がいました。
  ____________________________
 
  【 ごめんなさい。。。 愛妻弁当を捨ててます。。。】

   毎回頑張って朝早く起きて作ってくれて愛情は感じます。
   まずくはないのですが、その時に食べたくない弁当って
   あるじゃないですか。
   そんな時はコンビニや定食屋で食べたいものを食べてます。
   で、愛妻弁当は捨てる…

   食べたくないものでも無理して食べるべきでしょうか?
   嫌いな物が入ってる事はないです。
   食べたくないものはその時に食べたくないもの。
   皆様はどうされてますか? 
           
   __________________________

…何も言うことはありません。彼は愚か者だとは思いますが。

この相談にとても多くの回答(163件)が寄せられてましたが、
ざっとみたところ、9割以上は批判的なものでした。当然です。


しかし、私が面白いと思ったのは、その人が選んだベストアンサーです。
   _____________________
 
   『 あなたの気持ちすごい解ります!
     僕もあなたと一緒です。
     申し訳ないと、思っていてもついつい
     捨ててしまうんですよね(>_<) 
   』
   _____________________

あははは!

163件の回答をいただき、そのほとんどの人が否定的な回答を出して
いるのに、この人はそれらをすべて無視したわけです。
その上で、自分に同調してくれるごく少数意見を、ベストに選んでいます。
だったら最初から、相談なんかする必要なんか、全く無いのに。

なにをしたいんだろう、この人は。
100人に一人でも自分と同じ感覚の人間がいれば、安心できるのかな?
心配しなくても、全く固有の考えをする人はいませんから。
どんな奇天烈な考えでも、同じような考えをする人間というのは、
必ずどこかにいるものですから。ご安心ください。

そんなことで安心できるのであれば、の話ですけど。


自分が既に結論を出している事の相談を、見ず知らずの不特定多数の
人に持ちかけることのバカバカしさがここにあります。

「人は自分の思いたいように思う」。そして、
「人は自分と同じような人間を見つけることで安心する」。

正しいか正しくないかはもちろん、多数か少数かさえ、どうでもいい。
それでいいのだったら、自分の好きなようにすればいい。
見ず知らずの人間に相談することなど、全くの時間のムダです。

そんな相談でも無い相談に、回答を出すことも、全くのムダです。
見ず知らずの彼のことなど、どうなろうと知ったことではないのだもの。
早起きして作った弁当を捨てられている、彼の奥様は気の毒だけど、
そんな亭主を選んだのだから、しょうがないんだもの。

インターネットだ、情報化社会だとかいったところで、
情報がたくさん増えたところで、情報を受け取るのはいつも
「思いたいように思うことしかできない人間」なのだから、
何がどう変わるというわけでもありません。

その真実が、見事に現れています。
要するに、こういうことなのです。
あらゆるものは、つまるところ言葉です。意識が言葉によって、そこにある
意味に名を与え、その名のものが存在する。

したがって、意識もやはり言葉です。ここにある自分のこの意識も、「意識」
という言葉により意識するから意識なのであり、意識という言葉が無ければ、
それは「意識」とは意識されない。ならばそれは意識ではなく、意識以前の
何ものかにすぎない。ええい、めんどくさいわ!

意識は物ではないので、目に見えなければ触ることもできません。
にもかかわらず、人が何ものかに意識があると思うのは、どのようにして可能
なのか。ただそう思うからであって、実際に確認できるわけでもないのに。

他人に意識があると思うのは、相手が喋ったり動いたりするからです。じゃあ、
それが停止したら?瞳孔?脳波?でもそれは、意識そのものではありません。
瞳孔や脳波によって、意識があるとみなしているだけで、直接確かめる事は
できません。

では、犬や猫は?喋りはしないけど、ほとんどの人は人間と同じような仕方で
そこに意識があるものと見做しているはずです。
では、カエルは?虫は?アメーバは? 植物はどうですか?あるいはロボットは?
自動ドアは?人形はどうですか?

それぞれ生き物だったりそうでなかったり、動いたり動かなかったり、脳が
有ったり無かったり、人間に似ていたり、人間に反応したり…。
いろんな基準が考えられますが、いったい何の基準もって、意識があるとかの無い
の境界線を引きますか?
やっぱり脳波、瞳孔ですか?カエルや虫の?それはちょっと無理があるでしょ。

意識があるかどうかを決めるのに、決定的な根拠などありません。意識があると
思えばあるし、無いと思えば無いということになります。つまり、アニミズム。
「じゃあ、目の前の生きている人間の意識が無いと思えば、意識が無いことに
なるのか」…と、そういうんでしょ。なりますよ。ただし、目の前の人間に意識
がないなどと、本気で思うことができれば、の話ですけど。本気で思えたら
確実に隔離病棟に送られますけどね。

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ところで、意識があるということは、それが「何かを思っている」ということ
です。しかしそれが「何かを考えている」となると、対象はかなり限定されます。

考えるとは、何がしかの意味を考えるということであり、意味は言葉によって
しか示せません。したがって、言葉が使えないものを、考えていると見做すこと
は無理があります。そして、考える性質を理性といいます。
したがって、理性は人間以外には存在しないことになります。チンパンジーや
クジラに理性があるということもできますが、それは人間側が勝手にそう見做し
ているのであり、チンパンジー達が、「俺らには理性がある」と言ってるわけ
ではありません。彼らが言葉を話せない以上、決めるのは人間側の問題です。

人間だって、まだ言葉を覚えていない赤ん坊に、理性を認めることなどできや
しません。理性の萌芽があるだけです。
病気やケガで、意識は認められるが、意志表示が完全にできない人の場合は
どうでしょうか。理性が(まだ)あるかどうか。それもやはり、受けとる人の側
の問題です。

言葉を意図的に使うことができるとなれば、一応そこに理性を認める事はできる
でしょう。しかし、理性があるということと、理性的であることは、少々違う
と思います。「○○的」というのは、その○○の理想形に近いということです。
言葉を覚えたての赤ちゃんは、理性的とはいえません。理性的な赤ん坊なんて、
想像しただけで気味が悪いでしょ。
言葉を話せる大人でも、言っている事が支離滅裂なら、理性的とはいえません。

【理性】とは考えることであり、意味を求めることでした。意味を求めるとは、
それがいったい何かを知りたいと思うことであり、したがって欲求の一つです。
「いったい何か」というのは、つまり「本質」です。
【本質】とは、あるものに属する性質のうち、それなくしてはあるものがある
ものであり得くなる性質のことです。

したがって【理性】の本質とは、本質を洞察すること。つまり、論理に従い、
より本質を求めようとする性質のことです。
それを自覚し、正しく行おうとすることを「理性的」であるといいます。
自分が何を求めているのか知らずして、何かを求めるなんて不可能ですからね。
したがって、チンパンジーやクジラに理性を認めることは可能でも、彼らが
「理性的」であるということには無理があります。自覚しているということを
自分で証明できないからです。

長々と何を書いてるかっていうとですね。「理性」が何であるかということさえ
も知らずして、「理性的である」なんてことはあり得ない、ということですよ。

※…続きです。



「ものを考えるという事がどういうことか」を、考えた事はありますか?

「考える」ということは、論理に沿って推論する事、そして論理的に正しいこと
を確かにすることであります。そうでないものは、ただの「思う」であり、考える
とは言いません。

  ある前提を正しいとする「ならば」こうなる。「したがって」こうである。
 「しかし」この場合は例外である。「なぜなら」・・・。

このように「推論」するということが、考えるということです。
見ればわかるとおり、指示語の部分である中身はなんでもいいんです。
「考える」事において大切なのは、言われている事の中身じゃなくて形式のほう。
考えられている順番が正しいか。それと、言葉を繋いでいる接続詞が正確に使
われているか。この二つです。たぶん。

この形式が間違っていたら、言っている事は筋が通らず、つまりつじつまが合い
ません。言ってる事の内容がよい・悪い以前にハチャメチャになります。
ところがなぜか、多くの人が、自分の言うことの理屈は正しいと信じています。
たぶん、論理・理屈というのを、文法程度にしか思っていないのでしょう。
読み書きができれさえすれば、論理的であるわけでもないでしょうが。

理屈を不問にできるのは、普段それで通用しているからです。日常の会話は理屈
の複雑なものではないし、多少ずれていても相手が修正してくれる。極端に言えば、
日常会話は「メシ・風呂・寝る」みたいに中身が大事で、理屈はいらないからです。
しかし日常に話していない事、日常の当たり前を改めて考えるとなると、そんな
わけにはいきません。

自分の話す事の理屈を信じているのは、つまり疑っていないからであり、疑って
いないということは、考えていないということです。考えていないから、平気で
道理に合わない、「正しくない」ことを言う。
そしてそれを指摘されると、“よい・悪い”について指摘されたと思い、「正しさは
人それぞれ」とこれまた無思考の言葉を言うことになる。処置なし。

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「何が正しいかわからない混迷の時代」などと、訳知り顔で言われたりします。
でも、何が正しいかはわからなくても、いつの時代にも一番正しいものは
決まっています。「正しい」という言葉が一番正しいのです。当たり前です。

だったら、「何が正しいか」を考える前に、「正しいとは何か」を考える方が、
正しく考える上で先に来るのも、当たり前じゃないですか。「正しい」が何かが
わからなければ、何が正しいかなんてわからないわけです。
酒類とはアルコール飲料である、ということを知らなければ、何が酒類かを
自分で判断することは不可能ですよね。

間違えてはいけません。“よい・悪い“は人によって違うことはあり得ても、
“理屈が合っているか・合っていないか”は、人によって違うことはあり得ません。
理屈が“合っている”ということは、誰にも同じに正しい理屈があるから、それに
“合っている”と言えるわけじゃないですか。誰にも等しく妥当する理屈を
「道理」とか「論理」といいます。

道理・論理というのは、簡単に言えば「2足す3は5」「犬が西向きゃ尾は東」、
それだけのことです。

道理の正しさについての言説、理に適うことを証明するために述べられたものを
「意見」とはいいません。「考え」を述べるとか、「批判」をするといいます。
何かを他人に向けて言うことの、全部が全部、「意見」とは限らないのです。
私は意見などを述べる事などは、滅多にしません。
ただ思ったことを述べるのと、考えたことを述べるのは、違うことなのです。

“よい・悪い“についての意見を述べようにも、その理屈が正しくなかったら、
“よい・悪い“の以前に正しくない。当たり前だと思いませんか。


人は必ず、他人に言葉を発する時、自分の言う事が正しいという前提のもとに、
言ったり書いたりしています。絶対に正しいという自信が無い時でも、とりあえず
正しいと思う事を言います。嘘をつく時でも、それが正しいと見せかけ、正しい事
を言っているという前提で話します。
正しくないと本人が自覚している事を言うのは、意味が無いからです。
意味が無ければ、それは戯言にすぎません。それは言葉ではあって、言葉
ではありません。言葉は、意味を示すものだからです。

私が自分のブログに物を書き、他人のコメントを受け付けているように(コメント
ありがとうございます)、ブログで物を書いている人は大抵の場合、私と同じく
コメントを受け付けていらっしゃるようです。興味深い事を書かれているものには、
たまにコメントを書かせていただく事があります。しかし、ただ「おもしろかった」
では小学生の感想文みたいなので、それなりの事を書きます。

記事の文章が、理に適(かな)わないと思えば、意味がわからないので「理屈が
合わないのでは」と正直に書きます。よせばいいのに…。
すると大抵の場合は返事のコメントもありません、消去される場合もあります。
たまに返答があると決まって、「それはあなたが正しいと思っているだけです。
私は自分が正しいと思うことを書いています。いろんな正しさがあっていいと
思います」という内容を、判を押したように返ってきます。

例えば、「常識」というキーワードで検索したときの、ある方のブログ。

『自分の常識が正しいとは限らない。だからいろいろなものさしで広く世界を
見たいと思う』という内容が書かれていました。コメント差し上げました。
「なるほど。しかし、いろいろなものさしで見るにしても、どの物差しを使う
かは、必ず自分の常識によるはずです」という内容で。
やはり帰ってくる返事は、同じです。
『あなたはそれが正しいと思うのですね。私は自分の正しいと思う事を書いて
います。お互い信念があっていいですね…』

あれれ、それ、ご自身の書いた記事内容と、全く逆の事おっしゃっていますが。
…と思ったけど、バカらしいので追求はしませんでした。

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「正しい」とひと言では言いますが、正しさには2種類あります。

◆ よい・悪い という、広い意味での善悪の正しさ。 
◆ 理に適(かな)っているか、否かの正しさ。      

前者の正しさの道理を「倫理」といい、後者のそれは「論理」といいます。
別に道理が二つあるわけでは無くて、倫理は論理の一つです。

ほとんどの人は“正しい・正しくない”の話になると、前者の“よい・悪い”
の事を話すものだと思っているようです。
「人によって正しさは違う」とか「誰かの常識が必ず正しいわけではない」と
いうのは、つまるところ、何が“よいか悪いか”についての正しさです。
そしてこの“よい・悪い”についてのの主張を、「意見」といいます。

ところでどういうわけか、もう1つの「正しさ」、自分の述べる理屈が、理に
適っているかどうかを問題に思う人はほとんどいません。不問になっています。
「人によって正しさは違う」と言う人でも、こっちの正しさについては、自分の
言うことが正しいと信じ切っているから不問なのです。

この正しさ、論理的に正確であるということは、それなりに結構難しいことでは
あると思うのだけど、みなさんそれを不問にできるほどに、自信をお持ちなの
でしょうか。それが不思議でなりません。


※…長いので続きます。

「一期一会」。誰もが知ってはいるけど、妙な言葉だね。なんとなく知っては
いるものの、その意味についてよくわかっていない人も多いと思うんだ。
一期というのは生まれて死ぬまで、つまり一生のことさ。だから一生に一度
の出会い。その人に合うのは何度でも会えるかもしれないけれど、出会いは
一生に一度だけ。「…そんなのわかっているよ」とみんなは言うだろう。
おそろしく当たり前のことだもの。だからすごいんだよ。

実はこれ、分数なんだ。一期は分母。一会は分子。一分の一。
僕らは生まれてきた以上、生まれてこなかった可能性は0なのさ。そして、もう
一度生きるという事もないんだ。死にはするけど、死んだ時は自分はもういない
のだから、死んだ事には気付かないよね。絶対に気が付かないということは、自分
がいないということはあり得ないんだ。いないと思っても、思っている自分は確実
にそこにいまから。だから、自分がいるという事実に0はないんだ。0.5も1.1も
絶対ないんだ。1だけがある。永遠の1だよ。

出会ったという事実も全く同じさ。出逢った以上、出会わなかったという可能
性は、ゼロ。「いや、そんな事はない。可能性は否定できない」という人は、
それがどんなに無意味なことかを、よく考えたればいいんだ。そして、何度会って
も、2度と会わなくても、1度出会ったという事実だけは消えない。「出会った事
を忘れたら0だろう」と言いたいかもしれないけど、忘れてしまったら、忘れてし
まったことさえアタマにないわけだから、やっぱり出会った事実しか存在しないのさ。
だから、「その人の存在を忘れる」ということは、矛盾であって、あり得ないんだ。

つまり、「自分がいて、その人に出会った」という事実は一分の一、すなわち1。
それしかない。何だやっぱり当たり前、なんだけどね。でも、当たり前を侮っちゃ
いけない。人はその当たり前を当たり前と思っていないから、悲しんだり不幸に
思ったりするのだからだ。人が悲しんだり不幸に思ったりすることができるのは、
それ以外の可能性を選ぶことがのに、それを選んでしまった場合だけなのさ。
「それ以外にはあり得ない」という条件の時は、それを喜んだり、ありがたく思う
ことに意味はあるけれど、それを否定したり、悲しんだり、不幸に思う事ことには、
なんの意味も無けば、理由もないんだよ。

==================================

「出会いは1度だが、人が死んだら2度とは会えないじゃないか。それは悲しい事
じゃないか」。もちろん。しかしよく考えてみると、生きていても2度と会わない
人はたくさんいる。そのことはちっとも悲しいとか不幸とか思わないくせに、なぜ
死んだときに限ってだけ、悲しいと思う理屈があるんだろう。

そんなの理屈だ。もちろんさ。しかし間違ってはいないよね。でも、悲しむことに
は理屈さえ無いじゃないか。理屈が無い以上は、それは思い込みなのさ。感情は
理屈以前のものだ。悲しいものは悲しい。それは仕方のないことだね。だけど
「不幸」は感情ではないんだ。不幸の方は、完全にただの思いこみなんだよ。

幼い我が子を失くす。悲しい。それは当たり前さ。それは理屈以前の感情だから、
仕方がないんだね。でも、亡くなった子が不憫で不幸であるかといえば、それは
違うよ。幸・不幸は本人がそれと思うからそうなのであり、他人が決めるものでは
ないんだ。その本人がいないのだから、亡くなった人に幸・不幸は無いんだね。
「幸せを味わえなかったから、不幸だろう」。それは、生きている人の言い分さ。

亡くなった人の事を「不幸せだ」と言うけど、そこまでして亡くなった人の事を
不幸せにしたいんだろうか。その無くなった人を不幸せに思い、不幸せにしているの
は、そう思っているその人なのじゃないかな。死んだ人を悲しく思うのは、仕方が
無いことだよ。しかし、死んだ人はもういない。それをどう捉えるかは、全て生きて
いる人の思い方次第ではあるのさ。

死んだ人の立場を想うなら、生きている人にいつまでも悲まれても困るもの。そう
考える方が、自然だと思わないかい。死んだ人の立場なら、いつまでも悲しまれる
よりは出会ってよかった、ありがとうと想われた方が、よっぽど幸せと感じるに違い
ないよ。違うと思うかい。

一期一会は、自分がいて、人と出会う事。つまり、存在が存在を思う思い方を、一言
で表した言葉だよ。この当たり前の事実に対して人がとるべき態度は、まず驚く事。
一期一会、つまり一分の一しかなかった。それ以外の可能性はなかった。その事を
不思議に思うことさ。なぜって、当たり前なことほど不思議な事はないのだもの。
それにはいかなる理屈も付けることが不可能だからこそ、不思議なんだもの。
つまり、理由(わけ)が全く、わからないんだもの。

一期一会には、他の可能性は在り得なかった。これしかなかった。どうしてだろう、
何故だかわからないけど、僕は、ここにいた。何故だかわからないけど、君が
そこにいた。どういうわけだか、僕たちは出会ってしまった。理由は、たぶん無い。
理由が無ければ、それは奇跡だ。僕が僕である限り、君が君である限り、
それは永遠の1の、奇跡なんだ。

それだけで、じゅうぶんだよ。ありがとう。      カムパネルラ


HIDETAKE TAKAYAMA 「Express feat. Silla (múm) 」 Music Video

※タイトルからしてうさんくさいと思われるので、
あらかじめお断わりして置きますが、
私には信仰心はありません。不届き者です。すみません。



「宗教」という語から受け取る印象は、一般的にはあまり積極的なものでは
ないと思います。それは人は普段、言葉の意味や印象を、その言葉を考える
事によってではなく、その言葉がどのような場面で使われているかによって、
得ているからです。その言葉を「象徴(シンボル)」として、その言葉の使わ
れている場面や状況の全体を、「のようなもの」というイメージとして、そこに
封じ込めているからです。

「宗教」の語の持つネガティブさは、宗教がまず死に関わっている事。また、
宗教がからんだ事件が起きた時に取りざたされる、信者の異常な心理状態や
行動、宣伝、勧誘、金を得るための活動などからきていると思います。そして、
宗教を信じる人の多くが、社会的立場の弱い人、精神的に弱い人であるため、
自分には関係のない事だと、否定したくなる心理が強く働くためだからです。

しかし、宗教を信じるという事と、その人が宗教的である(宗教性がある)と
いう事は、決定的に違います。宗教を信じるという事については、誰もがよく
知っているとと思いますが、宗教的であるという事については、多くの人は
ピンと来ないかもしれません。

日常の生活をロボットのようにこなして生きるのであれば、人は宗教性とは
無関係でいられます。しかし社会の中で他人とともに生きて、そして死んで
いく以上、人は、生きて死ぬことについて、また、苦しんだり悲しんだりの
辛いことについての、意味を必ず求める事になります。そして意味とは、必ず
「より大きなものの存在」に規定され、与えられるものです。したがって、
意味を求れば遅かれ早かれ「最大のもの」を意識するようになります。その
最大のものとは即ち、神です。

この神とは信仰対象としての、いわゆる神様の事ではなく、単に一番大きな
存在に対する代名詞です。この神を意識し、神について考えるという事が、
宗教的であるということでして、それは人間として生きる上で必要不可欠、
かつ極めて普通なことなのです。

ですので、宗教を敬遠する人は多くても、まったく宗教的でない人はほとんど
いません。いたらその人はおよそ人間的ではないし、少なくともまともな人間
としては扱われないでしょう。宗教性の高い低いは、それぞれの個人の程度の
違いです。
そして、ここからが重要ですが、宗教を信仰しているから宗教的であるとも言え
ないし、信仰していないから宗教的でないわけでもありません。実は信仰と
宗教的であるということは、無関係なのです。

===============================

最大の存在(正確には存在を超越する何か)である「神」について考える事が、
宗教的な事であると言いました。

ところで。信じるという事は、疑わないということです。そして、考えるという
事は、不思議に思い、疑う事から始まります。ということは、神を完全に信じる
という事は、神について全く考えないという事になります。したがって、信仰心が
高い人ほど、宗教的でないという事になります。これはどういうことでしょうか。

私は宗教家でも信者でもないので、信仰心の本当のところはよくわかりません。
しかし、宗教家、少なくともまともな宗教家が、宗教的でないとは考えにくい
ことです。ということは、宗教家というのは、信仰はしているが、常に完全に信仰
しているわけではないんじゃないでしょうか。そう思えてなりません。

何のためにかって?それは、宗教性の低い人のため、つまり考える事のできない
人のためにです。考えない人は、考える事ができないから考えないのであって、
しかもそれは能力の問題ではなく、性分の問題です。したがって、考えない人に
「考えよ」と言っても、どうやったって無理なのです。しかし、信じない人に
「信じよ」と言って信じさせることは可能です。

考える事もできず、信じてもいない人が、ただただ悩んで苦しんでいる人がいて、
その人を救いたいと思ったら、どうしますか?考えさせる事はできないのだから、
信じさせるしかないでしょ。信じさせて救うしかないでしょ。
だから宗教的な宗教家は、信じてはいるが、信じ切ってはいない。同時に疑い、
そして考えている。そういう離れ技のできる人なのではないでしょうか。
だってよく考えてみれば、それができないんだったら、宗教家でもなんでもなくて、
ただの一般信者ですもの。

一休というクソ坊主などは、逆の意味でまともな宗教家ではありません。だって
あの人、全然信じているようになんて見えませんもの。信じさせるつもりも、全く
ありませんもの。でも、非情な宗教性の、非常に宗教的な人ではないですか。

宗教的なまともな宗教家は、考えて自分で納得できる人には考えさせる。
考える事のできない、あるいは考えても納得できない人に対しては、信じろと言う。
しかしほとんどの人は自分で考えて納得できる事のない人だから、結果的に
「信じろ、信じろ」と繰り返すハメになっている。
考えてみたら、宗教とは実はそういうもの、一言で言えば、「慈愛を持った詐術」
なのではではないか。そういう結論に達しました。









「ポエム化」などと名付けられた現象がありますが、
実はポエムは言葉の本質の一つだと思います。

言葉を発するということは、相手に理解されるかどうかという
賭けであるし、受け取る側にも思いたいように思う自由がある。
ポエムにみられるその恣意性は、言語の本質です。

ところが、スローガンはそれを許しません。理解の仕方の自由を
認めません。発した言葉をその通りに受け止めよという強制があり
ます。それはもはや言葉ではなく、「記号」です。

ポエム化現象とされているものには、実はこ2種類在ると思います。
極端な「あいまい化」と、極端な「硬直化」。

条例のポエム化は、あいまい化です。本来は情報という記号的な
正確さが求められているところに、極端な恣意性の強いポエム的
言語を使用している場合。

居酒屋甲子園のポエム化は硬直化です。本来はポエム的な恣意性の
強い言葉の意味を硬直化して、スローガンにすることで、恣意性を
失くす。そのスローガンによって、共同体の仲間意識を強め、事実の
情報をあいまいにする。

結果的には同じではあるのですが、過程が逆なんです。
あの甲子園のポエムは、ポエム化などではなく、正確に言えば、
ポエムのスローガン化なのだと思います。
様々な人のそれぞれの思いを、無理やり一つのファイナルワードで
まとめあげようとする、強制です。そこに発生するのは思考の停止です。

先月のNHKクローズアップ現代のポエム化特集。あの放送は大変話題を
呼びましたが、ひとつ失敗をしました。
先に示したそれら二つを、「ポエム化」という現象の名のもとに一括りに
して、同時に表現してしまったことです。

番組の前半後半にずれた違和感を感じたのは、ここが原因だったのだと
思います。


これは東北震災のあった年の八月に描いた絵です。
実物は30センチ四方のキャンバスにアクリルで描いています。

コンペ提出用に描いたもので、その時ののテーマは「日本」でした。

私が思ったのは、3つのテーマ。

  ① 亡くなって帰らぬ人の幾多の魂と、それを想う人。

  ② 津波と自然の力と、そこに生きねばならない人間の生活。

  ③ 原発・原爆という自らの産み出したものに恐怖し、
    それをもて余す 人間。

その3つを盛り込もうとした欲張り作品です。

メインテーマは①の、「帰らぬ魂を想う人」です。
$ひできのブログ
※ 画像隠れちゃってるかも。画面クリックで全体見えるはず…。



ところでこちらは、昨年発表されて、人気を呼んだ曲のPV。


HIDETAKE TAKAYAMA 「Express feat. Silla (múm) 」 Music Video

私の好きな賢治の 銀河鉄道の夜がモチーフなんですね。

さっきの絵を書いた時の、自分の中のイメージと重なるんです。

特に後半部分、トリハダ立ちました。何回も見ちゃいます。


とても美しい PVです。


・・・でも、もとのイメージはこちらから来たんだけどね^^。