いじめをなくそう。と叫んでも、いじめはなくなりません。
いじめの深刻化に伴う、道徳教育の見直し。…なにをいまさら。
このテーマで3回目です。たぶんこれでラストになります。
前回では、道徳は算数や理科などの他の教科のように、教えて身につく
ものではないと書きました。
「人をいじめちゃいけません」「思いやりの心を持ちましょう」。
あーしちゃだめ、こーしましょう。これはつまり、規制です。
善悪を考える「倫理」に対する道徳というのはつまりこれのことです。
規制、ルール、つまりは強制、そして矯正。でもこれ、道徳的ですか?
道徳教育の限界は、「いけないことは、なぜいけないのか?」に答えられ
ないところにあります。だから、いけないことには「罰」を持って応えるしか
できないのですが、罰が効力を持たなければ、道徳はなんの力も持ちません。
道徳が無能になるのは、自分を他人と比較して成立するものと見なしている
からです。自分という存在を社会の「役割」としか教えていないからです。
「なぜ人をいじめていけないか?」の問いに「人に嫌な思いをさせるから」
と答えられれば、「じゃあ、自分も嫌な思いさせられたから、いじめてもいい」
そういう理屈にはしるでしょう。
「思いやりを持つのは、人と人は互いに助け合うものだからだ」と教えれば、
助けてばかりの人はいつしか傲慢になり、助けられてばかりの人は責めを負う
事にもなるでしょう。
「人に役立つことはいいことだ」と教えられれば、役に立たない弱者を責める
事にもなるでしょう。
道徳という規律自体がこういった矛盾をはらんでいる限り、道徳教育で
その問題を解決することは不可能なのです。
==================================
道徳が道徳として意味を持つためには、そこに「倫理」が伴なわなければ
なりません。いじめが「いけないからしない」ではなく、「悪いからしない」。
悪いことはしたくないからしない。善いことしかしたくない。
これが本当の道徳です。この「善い・悪いとは何か?」を問うことが倫理です。
「いけない」は、常に他人にとってよくないことです。それに対し、
「悪い」は、自分にとって善くないことです。
他人の利益不利益に関係無く、自尊心、プライドにとって悪いのです。
この「自分を尊ぶ心」の自分を、他人と比較し、他人によって成り立つものだと
思っているから、他人を貶したり、思いやりに欠いたりするのです。
他人と比較したものを自分と思う限り、他人の存在は自分より優れているか、
劣っているかという二つの形で認識されます。
それをいいように捉えれば、「尊敬」と「いたわり・思いやり」という形になり
ますが、悪く捉えてしまうと、「嫉妬」と「軽蔑」として現れます。
自分の存在を、その所属や属性だと思いこむ。
たとえば、自分は日本人だから、背が高いから、お金が有るから、重要なポスト
に就いているから、勉強ができるから、などなど。あるいはその逆。
そういうことを自分だと思い、好きなことをすることが個性だと思っている。
そんなものに自尊心や劣等感を持っている限り、差別もいじめも決して無くなら
ないし、本当の思いやりなんかも期待できません。
=====================================
しかし、自分を他人と比較することなく、自分はなにものでもない「(精神である
ところの)自分」であるという事実を自覚すれば、人はまず自分を大切にします。
なんたって、唯一無二の絶対的オンリーワンなんですから。
同時に、どんな他人であっても、この自分と同じように「(精神であるところの)
自分」なのだということも、必ず認めることとなります。
つまり、「精神である自分には、自他の区別は無い」ということに気がつきます。
すると他人を尊敬したりいたわったりすることは、実は自分を尊敬していたわる
ことなのだと知るに至ります。
逆に、他人に嫉妬したり、他人を蔑んだりすることはできなくなります。
なぜなら、自分に嫉妬したり蔑んだりすることなどできないからです。
それに、自尊心があるならば、自分がなすべきことをわかるはずなので、
他人をいじめて構っている暇などないのです。
そうして、いじめたり蔑んだりすることが、自尊を汚すこと、それこそが「悪い」
ことだと気がつくので、悪いことをしなくなります。そして結果的に「いけない」
ことをしなくなります。
「いけないからしない」人のことを道徳的とは言いません。
したくないことをしないことが、結果的にいけないことをしていない。
そういう人のことを、正当にも倫理的とか道徳的というのです。
「そんなの理想論だ!」…と言う人もいるでしょう。
しかし、理想を語らずして道徳などありえません。理想を目指すことこそが
道徳なのですから。理想を失くし、自分とは何かを問わなくなったことが、
道徳性が薄れている最大の原因なのですから。
道徳をまともに教育したいのであれば、「人にやさしく」を教える以前に、
「自分とは何か?」「自分の理想は何か?」をしっかり考えさせる。
それ以外の方法はありません。
いじめの深刻化に伴う、道徳教育の見直し。…なにをいまさら。
このテーマで3回目です。たぶんこれでラストになります。
前回では、道徳は算数や理科などの他の教科のように、教えて身につく
ものではないと書きました。
「人をいじめちゃいけません」「思いやりの心を持ちましょう」。
あーしちゃだめ、こーしましょう。これはつまり、規制です。
善悪を考える「倫理」に対する道徳というのはつまりこれのことです。
規制、ルール、つまりは強制、そして矯正。でもこれ、道徳的ですか?
道徳教育の限界は、「いけないことは、なぜいけないのか?」に答えられ
ないところにあります。だから、いけないことには「罰」を持って応えるしか
できないのですが、罰が効力を持たなければ、道徳はなんの力も持ちません。
道徳が無能になるのは、自分を他人と比較して成立するものと見なしている
からです。自分という存在を社会の「役割」としか教えていないからです。
「なぜ人をいじめていけないか?」の問いに「人に嫌な思いをさせるから」
と答えられれば、「じゃあ、自分も嫌な思いさせられたから、いじめてもいい」
そういう理屈にはしるでしょう。
「思いやりを持つのは、人と人は互いに助け合うものだからだ」と教えれば、
助けてばかりの人はいつしか傲慢になり、助けられてばかりの人は責めを負う
事にもなるでしょう。
「人に役立つことはいいことだ」と教えられれば、役に立たない弱者を責める
事にもなるでしょう。
道徳という規律自体がこういった矛盾をはらんでいる限り、道徳教育で
その問題を解決することは不可能なのです。
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道徳が道徳として意味を持つためには、そこに「倫理」が伴なわなければ
なりません。いじめが「いけないからしない」ではなく、「悪いからしない」。
悪いことはしたくないからしない。善いことしかしたくない。
これが本当の道徳です。この「善い・悪いとは何か?」を問うことが倫理です。
「いけない」は、常に他人にとってよくないことです。それに対し、
「悪い」は、自分にとって善くないことです。
他人の利益不利益に関係無く、自尊心、プライドにとって悪いのです。
この「自分を尊ぶ心」の自分を、他人と比較し、他人によって成り立つものだと
思っているから、他人を貶したり、思いやりに欠いたりするのです。
他人と比較したものを自分と思う限り、他人の存在は自分より優れているか、
劣っているかという二つの形で認識されます。
それをいいように捉えれば、「尊敬」と「いたわり・思いやり」という形になり
ますが、悪く捉えてしまうと、「嫉妬」と「軽蔑」として現れます。
自分の存在を、その所属や属性だと思いこむ。
たとえば、自分は日本人だから、背が高いから、お金が有るから、重要なポスト
に就いているから、勉強ができるから、などなど。あるいはその逆。
そういうことを自分だと思い、好きなことをすることが個性だと思っている。
そんなものに自尊心や劣等感を持っている限り、差別もいじめも決して無くなら
ないし、本当の思いやりなんかも期待できません。
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しかし、自分を他人と比較することなく、自分はなにものでもない「(精神である
ところの)自分」であるという事実を自覚すれば、人はまず自分を大切にします。
なんたって、唯一無二の絶対的オンリーワンなんですから。
同時に、どんな他人であっても、この自分と同じように「(精神であるところの)
自分」なのだということも、必ず認めることとなります。
つまり、「精神である自分には、自他の区別は無い」ということに気がつきます。
すると他人を尊敬したりいたわったりすることは、実は自分を尊敬していたわる
ことなのだと知るに至ります。
逆に、他人に嫉妬したり、他人を蔑んだりすることはできなくなります。
なぜなら、自分に嫉妬したり蔑んだりすることなどできないからです。
それに、自尊心があるならば、自分がなすべきことをわかるはずなので、
他人をいじめて構っている暇などないのです。
そうして、いじめたり蔑んだりすることが、自尊を汚すこと、それこそが「悪い」
ことだと気がつくので、悪いことをしなくなります。そして結果的に「いけない」
ことをしなくなります。
「いけないからしない」人のことを道徳的とは言いません。
したくないことをしないことが、結果的にいけないことをしていない。
そういう人のことを、正当にも倫理的とか道徳的というのです。
「そんなの理想論だ!」…と言う人もいるでしょう。
しかし、理想を語らずして道徳などありえません。理想を目指すことこそが
道徳なのですから。理想を失くし、自分とは何かを問わなくなったことが、
道徳性が薄れている最大の原因なのですから。
道徳をまともに教育したいのであれば、「人にやさしく」を教える以前に、
「自分とは何か?」「自分の理想は何か?」をしっかり考えさせる。
それ以外の方法はありません。