いじめをなくそう。と叫んでも、いじめはなくなりません。

いじめの深刻化に伴う、道徳教育の見直し。…なにをいまさら。
このテーマで3回目です。たぶんこれでラストになります。

前回では、道徳は算数や理科などの他の教科のように、教えて身につく
ものではないと書きました。
「人をいじめちゃいけません」「思いやりの心を持ちましょう」。
あーしちゃだめ、こーしましょう。これはつまり、規制です。
善悪を考える「倫理」に対する道徳というのはつまりこれのことです。
規制、ルール、つまりは強制、そして矯正。でもこれ、道徳的ですか?

道徳教育の限界は、「いけないことは、なぜいけないのか?」に答えられ
ないところにあります。だから、いけないことには「罰」を持って応えるしか
できないのですが、罰が効力を持たなければ、道徳はなんの力も持ちません。

道徳が無能になるのは、自分を他人と比較して成立するものと見なしている
からです。自分という存在を社会の「役割」としか教えていないからです。

「なぜ人をいじめていけないか?」の問いに「人に嫌な思いをさせるから」
と答えられれば、「じゃあ、自分も嫌な思いさせられたから、いじめてもいい」
そういう理屈にはしるでしょう。
「思いやりを持つのは、人と人は互いに助け合うものだからだ」と教えれば、
助けてばかりの人はいつしか傲慢になり、助けられてばかりの人は責めを負う
事にもなるでしょう。
「人に役立つことはいいことだ」と教えられれば、役に立たない弱者を責める
事にもなるでしょう。

道徳という規律自体がこういった矛盾をはらんでいる限り、道徳教育で
その問題を解決することは不可能なのです。

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道徳が道徳として意味を持つためには、そこに「倫理」が伴なわなければ
なりません。いじめが「いけないからしない」ではなく、「悪いからしない」。
悪いことはしたくないからしない。善いことしかしたくない。
これが本当の道徳です。この「善い・悪いとは何か?」を問うことが倫理です。

「いけない」は、常に他人にとってよくないことです。それに対し、
「悪い」は、自分にとって善くないことです。
他人の利益不利益に関係無く、自尊心、プライドにとって悪いのです。

この「自分を尊ぶ心」の自分を、他人と比較し、他人によって成り立つものだと
思っているから、他人を貶したり、思いやりに欠いたりするのです。
他人と比較したものを自分と思う限り、他人の存在は自分より優れているか、
劣っているかという二つの形で認識されます。
それをいいように捉えれば、「尊敬」と「いたわり・思いやり」という形になり
ますが、悪く捉えてしまうと、「嫉妬」と「軽蔑」として現れます。

自分の存在を、その所属や属性だと思いこむ。
たとえば、自分は日本人だから、背が高いから、お金が有るから、重要なポスト
に就いているから、勉強ができるから、などなど。あるいはその逆。
そういうことを自分だと思い、好きなことをすることが個性だと思っている。
そんなものに自尊心や劣等感を持っている限り、差別もいじめも決して無くなら
ないし、本当の思いやりなんかも期待できません。

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しかし、自分を他人と比較することなく、自分はなにものでもない「(精神である
ところの)自分」であるという事実を自覚すれば、人はまず自分を大切にします。
なんたって、唯一無二の絶対的オンリーワンなんですから。
同時に、どんな他人であっても、この自分と同じように「(精神であるところの)
自分」なのだということも、必ず認めることとなります。
つまり、「精神である自分には、自他の区別は無い」ということに気がつきます。

すると他人を尊敬したりいたわったりすることは、実は自分を尊敬していたわる
ことなのだと知るに至ります。
逆に、他人に嫉妬したり、他人を蔑んだりすることはできなくなります。
なぜなら、自分に嫉妬したり蔑んだりすることなどできないからです。

それに、自尊心があるならば、自分がなすべきことをわかるはずなので、
他人をいじめて構っている暇などないのです。
そうして、いじめたり蔑んだりすることが、自尊を汚すこと、それこそが「悪い」
ことだと気がつくので、悪いことをしなくなります。そして結果的に「いけない」
ことをしなくなります。

「いけないからしない」人のことを道徳的とは言いません。
したくないことをしないことが、結果的にいけないことをしていない。
そういう人のことを、正当にも倫理的とか道徳的というのです。

「そんなの理想論だ!」…と言う人もいるでしょう。
しかし、理想を語らずして道徳などありえません。理想を目指すことこそが
道徳なのですから。理想を失くし、自分とは何かを問わなくなったことが、
道徳性が薄れている最大の原因なのですから。

道徳をまともに教育したいのであれば、「人にやさしく」を教える以前に、
「自分とは何か?」「自分の理想は何か?」をしっかり考えさせる。
それ以外の方法はありません。
memento mori  の本当の意味。


「死を想え」という意味のラテン語の宗教用語で、ヨーロッパ中世末期に
盛んに使われました。「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という
意味の警句です。最近では、音楽や美術、小説のテーマとして、意味深長な
雰囲気を醸し出すために、気軽に盛んに使われているので、少々手垢が
ついた感じもしてしまう言葉です。

でも、本当に「死」とはなにかををきちんと考えたことって、ありますか?

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生きているってことは、「ある」ということですよね。
【ある】という言葉の漢字は「或る・有る・在る」の3つあります。
言葉は分ける機能がその本質なので、分かれた言葉、つまり対義語と
セットにすることで意味となり、その意味がはっきりとします。

【或る】の意味は「とある・不特定の」であり、対義語は【全ての】です。
【有る】の意味は他動詞「所有・存在」であり、対義語は【無い】です。
【在る】の意味は自動詞の「存在」であり、対義語は、ありません。
いいですか。「在る」の対義語は「無い」ではなくて、厳密に言えば、
対義語そのものがそもそも無いのです。
どういうことか、説明します。

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目の前にリンゴが有る。食べてしまえば、無い。
ここに日本という国が有る。滅んでしまえば、無い。
国破れて山河が有る。地殻変動すれば、無い。
これらの「有る」は、無くなったとしても概念としてはあり続けること
ができます。つまり「有無」のどちらにせよ、ある。
そういうありかたを「在る」即ち「存在」といいます。

言葉の本質は「分けること」と言いました。
【犬】という言葉は、「犬」と「犬以外の全てのもの」とを分ける為に
あります。「それ」と「それ以外のもの」を分ける。つまりデジタルです。
1か0に分ける。これが言葉です。

「犬」と「犬以外の全ての動物」をまとめて「動物」。
「動物」と「動物以外の生物(植物)」をまとめて「生物」。
「生物」と「生物以外の物質」をまとめて「物質」。
1と0のデジタルを辿っていき、その全体像を退いてみれば、言葉の世界は
1本の樹のように、根元から末端に向かってどんどん枝分かれしていく構造に
なっていることが分かります。

この言葉の樹を、言の葉から枝を根元に向かって辿っていくと、
最終的には「有る」と「無い」の二つに分かれた太い幹に辿りつきます。
ところで、有るものも無いものも、それがそれとして観念として「在る」から、
有り無しが言えるわけで、観念に無いものの有無は問えません。

したがって、「有ると無い」は「在る」という1本の幹に収束します。
それで終わりです。観念にも存在しないものの「あるなし」は問うことさえ
不可能なわけですからですから、「在る」の反対はなにも無いことになります。

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「全ての存在は、有ると無いとに分かれる。
 そしてこの世には存在しか存在しない。したがって、
 存在の対は絶えている。即ち、存在は絶対である。」


これがあらゆることの第一条件。最も根源的事実です。

しかし我々の理性は、それを認めようとはしません。絶対的な「在る」に
対する、「絶対的な無」という観念を持ってしまいます。その空っぽの
絶対的な無を埋める形で登場する観念が「神」の観念です。

したがって宗教とは無いものを在ると言いくるめる詐術です。考えない人に
「考えろ」と言うことは無意味なので、「信じろ」と言ったまでです。
しかし、無いものを信じることはできないので、信じる対象としての「神」を
こしらえて信じさせる、一種の狗肉の策です。方便です。対処療法です。
慈愛をもった大嘘です。

絶対は対が無いから絶対であるわけだから、「絶対的な無」は矛盾した
観念です。しかし、どこまでも1と0に分けようとするのが理性の本質である
以上、この矛盾は避けられないことなのです。

理性であるわれわれは、絶対に語り得ぬものとわかっていても、また
「語り得ぬものは沈黙しなければいけない」とわかっていても、
絶対的な無である「0(ゼロ)」の観念を所有せずにはいられないのです。
これこそが、我々の存在する絶対的矛盾の根源の理由です。

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さて、「あるとない」つまり1と0というデジタルの関係性を、私たちの人生に
照らし合わせてみれば、もっとも根源的なことは「生と死」に当たります。

他人の生死は、「有ると無い」のデジタルです。
他人は、その肉体の機能の停止という「無」を持って、死(ゼロ)とされます。
ところが、自分の死はどうでしょうか。
他人から見た自分の死はやはり他人ですので、その肉体が機能停止したと
見なされたことによって、私は死んだこととされるのでしょう。

しかし、そう思っているところのこれ。この意識。
これは肉体ではありません。この「意識・精神」は、他人からは絶対に見えも
聞こえもしないので、肉体が機能停止してしまえば、その存在は他人からは
わかりません。

自分の死を想うということは、その想っているところの存在、つまり自分の
意識そのものの消滅を想うということです。これは全く不可能な事態です。
理性はどうやっても、自分自身の消滅を考えることはできません。
他人は「有る」だけど、自分は「在る」なのです。

したがって「自分の無い」は無い。自分の死は、無い。
自分というのは、絶対に死なないし、死ねないのです。
自分は死なない。したがって、自分が死ぬことを怖がったり、怖れたり、
悲しんだりすることも、実は不可能なのです。

人は自分が死ぬことを恐れ、怖がります。
しかしよく考えると、自分が死ぬとは、怖がっているその自分もいなくなる
ことなのだから怖がる理由もないはずなのです。
だとしたらいったい何が怖いのか、何を恐れるのか。考えれば考えるほどに
さっぱりわからなくなります。

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「memento mori」を「自分は死ぬ。だから今を一生懸命大切に生きよう」
そう捉える人がいます。前向きでよろしいかと思います。
しかし、残念ながらその理屈は筋が通っていません。つまり間違いです。
その「だから」という接続詞が、正当に機能していません。
生きて、死ぬ。これはただの事実です。しかしこれを理由にして、何かを
「こうした方がいい」と言うことは、不可能です。論理の飛躍です。

意地悪く言えば、「自分は死ぬ。だから今だけを楽しく、刹那的に生きよう」
ということもできるわけです。一生懸命生きたければそうすればいいだけです。
どちらがいいとは言いません。生き方は人それぞれです。
なにも生き方の理由を求めねばならない道理はありません。
人は自分の生きたいようにしか、生きることしかできないのですから。

「生きるとはなにか?」の問いは、「死とはなにか?」がわかってこそ、
その問いに答えることができます。しかし、「死とはなにか?」を理解する
ことは、上述したように絶対の不可能です。
唯一の答えは「生ではないもの」。それ以外の答えはありません。
したがって、「生きるとはなにか?」の答えも「死ではないもの」、これ以外の
正確な答えはありません。

じゃあどうしたらいいか。神は無い、あるいは神とは自身であることを
知っている理性が「死を想え」といわれたところで、在りもしない死を
いったいどうやって想うのか。否、想うことはできるのです。
しかし、考えることはできません。では、想うことしかできない「死」を
想うことで、いったい何を想ったことになるというのでしょう?

そんなの「自分で考えろ」。そうとしか言えません。
身も蓋もありませんが。けれどそうなのだから仕方がありません。
そうはいっても、そのうち死ぬことには間違いはない。
考える事は絶対にできないけど、せめて「死ぬことについて想う」ことだけは
しておけ。そうすることで、この生を想うことにはなるのだから。
それがこの生を生きることの証になるのだから。

「memento mori」の本当に言わんとする意味は、そこにあるのかと思います。
御正月のお餅はどこで買いますか

[餅は餅屋]という言葉があります。その道のことはやはり専門家が一番で
あるという喩えです。その道についての知識がある人が専門家です。
経済の知識がある人が経済の専門家。医学の知識がある人が医者。軍事の
知識が多いのは軍事評論家です。
テレビの番組などではよく専門家が解説して「なるほど~」と納得させて
いるものが多いですが、「専門家がこう言ってるんだから納得してくださいね」
といってる感じのものも少なくはありません。

専門的な知識というのは、一般の人にはすぐ理解できるものでもありませんし、
すぐに役立つわけではありません。すぐにわかるようだったら専門的では
ありません。だから専門家が出てきて専門的な話をしたのではあんまり意味が
無いし、専門的な話でなかったら、専門家が出てくる必要はありません。
大事なのは、専門的な話をどのように一般的な話と照らし合わせて話せるか、
ということが大事ということになります。

料理には、各国料理、郷土料理、肉料理、創作料理など、様々なジャンルが
あり、それぞれの専門家がいます。しかし、料理である以上、包丁や鍋を使い、
火を使うのは共通していて、その使い方には共通の原則があるはずです。
それを方法論といいます。
フランス料理を作るのに、いくらインド料理の専門知識を説明されても意味
がありません。しかし、調理に必要な共通の知識、方法論ならば、それはど
んな料理を作るときにも役に立ちます。

そういう方法論を知らないと、専門知識は役に立ちません。専門の研究という
のは必ずしも役に立たなくてもいいのですが、そういう研究は少しあれば
いいのであって、ほとんどの専門は役に立てることを目的に研究されています。
役に立てるのが目的なら、共通の方法論を知っていることが大切なはずなの
ですが、専門家と呼ばれる人の中にはかなりの割合でこういう方法論の欠如
している方がいるようです。俗に「専門バカ」と呼ばれる人たちです。

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哲学が万学の基礎とされているのは、様々なジャンルを扱うからではありま
せん。そういうのは雑学といいます。哲学が学問の基礎と呼ばれる理由は
「考えるを考える学問」だからです。考えない学問は学問といいませんからね。
カントやヘーゲルが何を言っていたのか?それ自体は問題ではありません。
カントやヘーゲルが何を問題とし、どのように考え、他と何が違って何が共通
しているのか?ここが大事なところです。この共通している方法論の部分が
大事なのであり、その共通した知識を正当にも「常識」と言うのです。

学問の目的は、この常識を発見することだと思います。ですが、世間一般的
には専門的なことを知れば知るほど賢くなると思われています。しかしそう
いう人でも、専門家にしかわからない話ばかりされたら、やはりその人のこと
を心の中では「専門バカ」と呼んでいることでしょう。

それぞれの専門的なことに共通している方法論を理解する。その方法論を応用
することで、専門は一般として役に立つ。しかしその共通する方法論を忘れて、
専門に拘泥すると、その専門自体が一般であるかと勘違いしてしまいます。
これはいけません。経済の専門家が「人間はつまるところ損得で動く」とか、
医者が「世界はつまり脳の所産である」とか。それを喩えで言っているうちは
いいが、本気でそう思っているようになると、これはただの信仰です。
信仰は学問ではありません。思考の放棄です。

専門をそのまま一般化するということは、極端なことを言えばそれは、
「世界は餅でできている。その餅に詳しい俺が世界を一番知っている。」
そう言っているようなものです。
餅は餅屋でなくとも買えます。餅屋はただの餅屋です。自分の店の餅の自慢
ばかりしている餅屋はダメな餅屋です。おいしい餅の選び方や、スーパーで
買った切り餅のおいしい食べ方を教えてくれる餅屋は、いい餅屋です。
みなさん、ありがとう。

ちょっと前に、「何かに役に立つことや、何かの必要になることは、
そんなに重要なことではない」と、まあ思いきったことを書きました。

反論がきました。内容は簡単に言えば「必要だから存在する」と言いた
かったらしのですが、まぁ、私の書いたことをちっとも読めていないこと。
私とて、いくらなんでも本気で「役立つ」や「必要」を重要でないなど
と思っているわけではありません。

ただ、「存在する」と「必要である」の関係性は、常に存在が先に来る。
したがって、「存在するから必要になる」のであって、「必要だから
存在するわけではない」という、アタリマエのことを書いただけです。

もちろん、人が他人を測るのは、その有用性、効率の度合いに由ります。
それは単なる事実です。いいも悪いもありません。
しかしそれを突き詰め、「必要だから存在する」を常識としてしまえば、
「必要のない人は存在してはいけない」ことになるじゃないですか。
そんな考え、とんでもなく非人道的ですよね。

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道具だっておんなじことです。
道具は人と違って、役立つことが存在理由だから、役立たなければ存在
理由は無くなります。
しかし道具とて、必要だから存在したわけではありません。存在した結果
として、必要とされただけです。なぜなら、無いものは必要とすることが
できないという、当たり前すぎる事実が理由だからです。

大阪万博の時代に、携帯電話の必要な人がいましたか?
日清戦争の時代に、コンピューターの必要な人がいましたか?
そんなものがあれば便利だと夢想した人はいるでしょうが、無くても
ちっとも困らなかったはずです。今はそれが普及しているから必要に
なっているだけです。
今この現代に、星間旅行宇宙船が必要な人がいますか?
ドラえもんみたいなロボットが必要な人がいますか?「必要だ!」と
主張したら、たぶん気違いの扱いを受けるでしょう。

ケータイ電話もパソコンも、在ることに慣れたてしまったから、無いと
不便なだけですね。ということは逆に言えば、在ったから不便になった。
最初から無ければ、必要になることも不便になることもなかった。
そうとも言えるわけですよね。

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「進化」の基本的な考え方は、「不便な状態から段々便利になっていく。
快適になっていく。快適なことはいいことだ。幸せなことだ。」
これですよね。だったら、昔の人より今の人、今の人より未来の人の
ほうが、快適で幸せになっていくはずですよね。
でも本当にそうなっていますか?

進化してきたということは、無くてもちっとも困らないのに、無いと
不便になるような物を、ひたすら増やしてきたということでもあるとも
言えます。でもこれって、進化っていうんですか?
こういうことを話しているとすぐに、「お前は進化を否定するのか!」
と詰め寄ってきそうな人もいたりしますが、否定も肯定もしません。
「進化」という考え方は、ただの世界にものの見方の一つにすぎないのだ
と言っているだけです。否定するも肯定するも、実は不可能なのです。

「進化」というのはそういうものです。それがいいとか悪いとかいうもの
でもありません。進化というのは、ただ状況に合わせてどんどん複雑化して
きただけなのだとも言えるわけです。
でもそう考えてみると、「必要」だの「便利」だの「効率」だのって
ひたすら邁進していくのが、なんだかバカみたいに思えてきませんか?

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「必要だから在る」と考えると、「在る」ということが必然となり、
当たり前となって、完全に意識から消えてしまいます。しかし、
「在るから必要になった」と考えると、在るということの原因が無くなる
ので、なぜ「在る」のかという不思議が姿を表します。

「在る」ということに理由はありません。理由もないのになぜか、在る。
無くてもちっとも困らなかった。無くてもよかったものがなぜか、在る。
そう思うから、在るということの奇跡に感謝できるのです。

だから日本語では、その感謝のことを
「在り難う(ありがとう)」というのです。



人とはなんでしょうか?

「本質」という言葉はちょっと硬い感じがしますが、比較的よく使われて
いる言葉です。しかし、本質ってどんな意味?と訊くと、正確に答えられる
人はそう多くはありません。辞書で引くと、【本質】 物事の根本的な性質。
…などとでますが、根本的というのがイマイチよくわからないと思います。

【本質】の本当の意味は、それに関するさまざまな性質のうち、その性質を
無くしてしまうと、そのものではありえなくなってしまう性質のことです。
したがって、根本的と思える性質だからといって、本質とは限りません。

たとえば「鳥類」の本質は「翼で飛ぶ生物」ではありません。翼で飛ばない
ペンギンやダチョウも鳥類です。たまたま鳥類のほとんどが、翼で空を飛んで
いるだけです。鳥類の本質は「前肢を(いったん)なくした生物」であります。
だから、仮に馬から翼が生えて空を飛んだとしても、それを鳥とは言いません。

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人の本質を「社会的動物」という人がいます。一見もっともらしく見えますが、
大間違いです。たまたま人のほとんどが、社会の中で他人と共同して社会生活
を営んでいるだけであって、社会が無くても人として一生を終えることも
想定は可能だからです。たとえば、宇宙船の中で一人生まれて、保育器の中で
自動的に教育されて、知能の高い成人となり、誰とも接することなく一人死んで
いく人というのも想定上可能なわけです。

社会に共同して飯を食い、他人と接することで喜びを感じるのは、人として
大切な条件ですが、人として絶対必要な条件ではありません。
ここで「人間」と言ってしまうと、この「人間」という言葉には「じんかん」と
いう「社会」の意味も入っていますので、ここでは「人」と言っております。
「人」という字は人と人が寄り添ってできている」と金八先生も言っていますが、
あれは嘘です。人の字は人が2本足で立っている姿の象形文字です。

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では人の本質は何かというと、「考えるところの精神である」ということです。

ところが、この精神とか意識というものは、自分のものはよくわかるものの、
他人のものは見ることもさわることもできないので、あるのかどうか確かめる
ことが絶対にできません。ただ他人の発する言葉や行動から、自分と比較して、
そこに自分と同じような精神や意識があると認めているだけです。

だから、たとえ口がきけなくて身振り手振りが一切できない植物状態の人でも、
その人を「精神のあるもの=人」と認めることによって、その人は「人」と
なるのです。
ということは、手足が2本ずつあるとか、直立歩行するとか、脳があるとか、
身体が有機物であるとか、ご飯を食べるとか。
そういうことは学術上分類としての「霊長類ヒト科」の条件ではあるかも
知れませんが、「人」としての絶対条件ではありません。
「人」の本質はこのように、実はそのものに備わっている性質ではありません。
「考える精神がそこにある」と認めるてしまえば、それは「人」となるのです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

こういう考えをアニミズム(英語: animism)といいます。アニメーションと同じ
語源のアニマ【anima】霊魂・生命からきています。生物・無機物を問わず
すべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。
オカルト的のように思えますが、どんな社会にも有史以前から必ず存在する
普遍的な考え方です。

古い考え方に見えますが、例えば脳死判定や臓器移植の場面において。
あるいは、コンピューターやロボットが発達し、人間の役割を機械が担う
ようになる場面において。そういう「人間とは何か?」という根本的な問題を
考えざるを得ない時に必ず登場する考え方です。

世の中がどんどん複雑化して、多様性が広がっていけば、いつか「人」の
定義を問う時がきます。そのときに「社会的生物」とか「2足歩行の直立霊長類」
なんてカテゴリーではどうしようもありません。
そしてそういう問題が浮上するのは、そんなに遠い未来ではありません。

じゃあそれをいつ考えるの?今でしょ!?





或る物質が、在る。人間はそのことについて、或るときは「意識が先に
在る」と言い、或るときは「物質が全てである」と言います。
大雑把に言えば、前者の見方を形而上といい、後者を形而下といいます。
形而下はまたの名を、物理、科学と呼びます。

しかし、物質が物質であると言えるためには、物質は必ず意識によって
「物質」と認識されていなければなりません。何かを「言う」のは、
必ず意識によってそう言われているのだから、あたりまえですね。
「物質が先か意識が先か」の二重螺旋は、意識が必ず先に(即ちメタに)
来ます。それが形而上(メタ・フィジクス)という由縁であり、形而下の
由縁であります。

ところで、形而上はしばしば「役に立たない」とか「不要なもの」とか
揶揄されます。しかし、「役に立てる」ことを考えるのが形而下ならば、
「役に立つとはどういうことか」を考えるのが形而上なのであり、
形而上が役に立たないのはあたりまえなのです。
役に立たないものは要らない、というのなら、その限り、形而上は
不要のものとなります。

ただし、「役に立たないものは不要である」というのは、それ自体が
自己否定の矛盾した言葉になるのですが、そのことに気がつきませんか?

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あるものが「役立つ」ということは、必ず他の何かにとって役立つという
ことですよね。そうして部分同士がお互いに役に立つということは、
それを含めた全体の役立つということですよね。
その全体が役立つのは、さらに大きな何かの部分として役立つということ
ですよね。

ではお尋ねします。
もしその全体が、他の何に対しても、いかなる役にも立たない場合、
それに属する部分同士がそれぞれ役にたっていたことは、結局、役に
立ったことになるのですか?ならないですよね。
ムダなものにいくら役に立っても、それはムダですよね。

もうおわかりだと思います。
たとえば、ある人が何かに役立っているということは、ひいてはその
属する社会に役立っていることになります。その社会に役立つと
いうことは、より大きな社会(たとえば国家)に役立つこととなります。
国家に役立つということは、人類の歴史に役立つということになります。

では、人類の歴史に役立つとは、人類の存在、存続に役立つことですが、
その人類の存在、存続はいったい何の役に立つのでしょうか?
生物の進化の過程として役立つ。よろしい。ではさらに。
生物の源である生命自体の存在は?宇宙の存在に役立つ…。
では、宇宙が存在するのは、いったい何に役立つでしょうか?
チェックメイトです。ありませんよね。
宇宙には、他の何にも役に立つものはない。宇宙の存在は役立たない。

「役に立つ」とは「目的-手段」の関係を示す言葉です。
「目的-手段」を辿っていくと、最終的にその極大点において、役立つ
目的となるものが存在しないことを認めざるをえません。
役に立たない宇宙の役に立っても、役に立ったことにはならない。
親ガメこけたら皆こけた。この世に役に立つ物は存在しない。
そういう結論になります。「役立たないものは不要」というのなら、
全てのものは不要ということになってしまうのです。

「役立つ」という概念は、このように部分的な場面でのみ有用性を持つ言葉
です。しかしそれを、「存在する意味」などの全体的な分析的な判断の場面
で使ってしまうと、このような矛盾が起きてしまうのです。
つまり、本来が形而上的な分析的真偽の判断の問題を、形而下(物理や化学)
の実証的な総合的真偽の判断で測ろうとすると、カテゴリーエラーとなり、
破綻してしまうのです。

早い話、なんでも科学的に説明できるという思いこみです。科学にできること
は、科学でできることでしかないのだから、その外郭を知っておくことは
大切なはずなのですが。
そういうことに無自覚的な科学者というのは案外多いようです。
【追記…この記事のコメント欄にも、そのような方がいらっしゃるようです。】

=====================================

さてさて、あなたが存在宇宙に存在する物質としての生物、その極々一部
としての個体生物というのなら。あなたがいてもいなくても、ほとんど
何の影響もなく社会は在り続け、国家は在り続け、生物も宇宙も変わること
なく存在し続けます。
あなたがいないことによるその影響は、全体が大きくなればなるほど、
限りなく無に近づいていきます。

ところが、ありとあらゆるもの全て、この存在宇宙全ては、それを認識する
意識によってのみ、存在が可能でありました。
あなたは間違いなく、その「存在」を認識しているところの意識であるはず
です。あなたがいなくなるということは、その意識が消滅することであり、
そこに意識されている「存在」全てが消滅することです。

したがって、存在が存在するためには、役立つ立たないとは無関係に、
あなたであるところの「意識」が絶対不可欠になります。

また、物理が「物理」として成立するためには、当然「論理」が必要であり、
その「論理とは何か」を問うのが形而上であります。
したがって、形而下を形而下として成立させているのは、形而上であり、その
逆はあり得ません。それでも形而上は不要だと思いますか?


長々と書いてはみたものの、「思うから、在る」というアタリマエすぎる事実
について、ぐるっと一廻りしてみただけです。

『私この世に完全にいらないんじゃね?』......


そう言って自分を否定している人がいました。
あなたならこの方にどんな言葉を投げかけますか。

この方は「自分がいる」ことについて、真剣に思い悩んでいます。
それゆえ、「自分がいる」とはどういうことかについて、相当に
考えているものと思われます。

そんな方に、真実でない、矛盾のあるような気休めの言葉を送るのは
失礼なことだし、逆効果です。騙そうとしてるのと同じことなのですから。
慰めの言葉は、真実を伝えるしかありません。
真実とは、何か。

以下に私がこの方に宛てて差し出したメールを掲載します。

*****************************************


完全に必要な人なんて、この世にはいません。
どんなに必要とされている人だって、その人がいなくなっても
何とかなるものだからです。
同じように、完全に不必要な人も、この世にはいません。

誰かが誰かに必要なんてことに、0%と100%はありません。
つまり、ただの程度の違いにしかすぎません。
そして、程度の違いというのは、実はたいした問題ではありません。

誰かが誰かにとって必要だとして、その誰かも他の誰かに必要だとして、
そうしてあらゆる人間が多かれ少なかれ、誰かにとって必要であるとして。

では、その全ての人間がいるってことは、いったい何に必要なんですか?
人間が全ていなくなっても、困ることはなにもありません。
違いますか?

人間が存在するということ自体が、何の必要性も無いことなのだから、
その人間のうちの誰かに必要とされないことが、その人の存在を否定
する理由にはなりえない。これは論理的事実、つまり真実です。
誰かに必要とされることなんて、実はどうでもいいことだとは思いませんか?

「あなたもきっと誰かに必要とされている」。
そんなチンケなことはいいません。
私はあなたを知らないのですから。

必要とされているかどうかなんて、どうでもいいと思うのです。
「必要」という言葉が必要なのは、道具だけです。
人間は道具ではないので、「必要」かどうかなんてどうでもいいのです。

もし逆に、あなたが誰かを「必要性」で測っているとするのであれば、
あなたはその人を「道具」とみなしていることになります。

人を道具と見なす人は、自らを「必要性」で測ることになり、
必ずそのことで苦しむことになります。

そういうわけで、あなたが「必要」かどうかなんて、
本当はどうでもいいことだとは思いませんか?
…続きです。

そもそも、道徳が「教えられるもの」と思っていることも、いまさらです。
道徳は「学ぶ」ものであって、「教えることができるもの」では
ありません。「学ぶ」と「真似る」は同じ語源です。真に似せる。
まねることが学ぶことの本質です。
真似したくなるような、学びたくなるような他人の発言、行動、価値観を
真似することによって、道徳の教育は可能なのです。

教師も親も、教えるのではなく、真似したくなるような規範を示さなくては
なりません。子どもはちゃんと見ています。
大人が子どもにできる道徳教育は、見られて恥ずかしくない、真似したく
なるような行動規範を示すことだけです。大人はそれだけの自信と自覚が
ありますか?

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多くの人が道徳にのことを、たかだか「ルール」や「決まり」のことだと
思っているのも間違いです。(※「倫理」という言葉に対しての「道徳」
というのなら、それでも間違いではありませんが。)
日常的に道徳の語は、「善悪」の一般的な広い意味として使っています。
だとしたら、道徳的というのは、善悪の何であるかについて考えること
ではないですか。

道徳的でない人は、善悪が何であるかについて考えません。
ただ法律やルールに従っているのみです。なぜ従うか。
従わなければ罰せられるからです。ということは逆にいえば、罰せられな
ければ、あるいはバレなければ、その人は平気で法律やルールに従わない
かもしれないということですよね。
これのどこが、道徳的なのですか?

「道徳を、教育すれば事足れり」という考え方は、結局「いけないことは、
発覚しなければ罰せられない」、つまり「バレなければいい」という考え方
をふやすだけのことになるのではないでしょうか。

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多くの人は勘違いをしてると思います。
「いい・いけない」ということと「善い・悪い」ということは違うのです。
「いけない」はただの規則です。「悪い」とは何か、というのが
倫理であり、広い意味での道徳です。

【※注、本来「いけないからしない」は道徳的であり、「悪いから
 しない」と言うのは倫理的なことなのですが、混乱を避けるため、善悪を
 「道徳」の範疇として話を進めています。】


法律は、「いけない」ことに関しての記述であり、
「善い・悪い」については書いてありません。
法律やルールは社会や時代によって変わるものです。
殺人は現代日本においては「いけない」だけで、かつての戦争の下の戦闘や、
仇討、決闘などでは「してもよい」だったのです。

「いけない」ことではなく、悪いことがなぜ「悪い」
それを考えなければ、ちっとも道徳的とは言えません。

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いじめがいけない理由は簡単です。「ルール」だからです。
サッカーでボールに手で触れて行けないのは、「ルール」だからです。
「ルール」はペナルティがあるからこそ、効力を発揮します。

いじめが「いけない」というのなら、「ルール・決まり」ですので、罰則を
行使しなければ効力は発揮しません。ただし、「バレなければいい」あるいは
「罰を受けても構わない」と思っているものがいる限り、「ルール」はその
効力を完全に発揮することはできません。つまり、
「いけない」というだけでは、いじめは無くなりません
いけないということをを承知でやっているんだから。馬の耳に念仏です。

いじめが「悪い」というのなら、その本人が「なぜ悪いのか?」あるいは
「悪いとは何か?」を自覚しなければなりません。そして、本人が「悪い」
について考えなければ、「悪い」を自覚することは決してできません。
「悪い」について考えさせることができるかどうか
ここが道徳教育が成立することのカギとなるのです。

ただし、「考えろ!」と言って、考えることができればの話ですが…。
無理でしょ。できないでしょ。でも道徳教育って、それ以外では
あり得ないんです。「いけない、いけない」って繰り返しても無意味なのです。

それができなくて、いじめを本気で無くしたいのであれば、「ルール」を
徹底して、罰則を強化して、管理監視を厳しくするしかないじゃないですか。
子どもの人権?子どもの自由?それを言い訳にして、子どもを野放し
(正確には都市放し)にしたからいじめが凶悪、陰湿化したんでしょ。
それもできないのであれば、いじめを無くすことはあきらめるしかありません。
三者択一です。

それくらい本気になるということが、道徳教育が意味あるものとなることだ
と思いますが、いかがですか?

学校教育で、道徳教育を正式教科に格上げするという法案があるとか。
いじめ問題の深刻化で、道徳教育の重要性が再認識されているとかとか。
「命の大切さ。思いやりの心の大切さ」を教えねばならない、とかとかとか。

何をいまさら。いろんな意味で、いまさら。

「教えなかったからこうなった。教えてやれば、ああなるだろう。」
その程度の認識だから、今の社会がこのようにあり、子どもの問題がこのように
なっていることを、全く理解していません。

教育は基本的に、「この親にして、この子あり」なのです。
この場合の親とは、両親だけでなくまわりの大人、皆さんのことです。
子どもは大人を映す鏡です。今の大人がこうだから、
今の子どもはああなのです。それをいまさら大人はそのままで、子どもの方だけ
学校の教科で変えるなんて、そんなムシのいいことできるわけ無いじゃないの。

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道徳的なことが大切だなんて、何をいまさら。
そんなの、ずーっと昔から、学校制度のはるか以前から、アタリマエ
すぎる常識じゃないですか。そういうのを後回しにして、経済成長に
いそしんで、効率重視のビジネス重視の社会を作り上げてきたんでしょうが。

そして、その社会にうまく順応できる大人にすることを目指して、
子どもたちの教育をしてきたんですよね。考えることよりも、答えを出す
ことを優先して、教育をしてきたんですよね。
そんな中で、今さらその弊害が出てきて都合が悪くなったからといって、
道徳を正式教科に加える程度で、いったい何がよくなるやら。

道徳を他の教科同様にするということは、成績評価の対象になるという
ことですよね。じゃあ、想像してください。
善悪について、命の大切さについて、教師が熱弁したとします。
子どもたちの反応は?どうなりますか?

「ああそうですか。ところで答えは何ですか?模範解答を教えてください。
 試験のためにそこだけ憶えますから。

…そうなるに決まっているじゃないですか。
あるいは、教師の顔色をうかがい、いかにも教師の喜びそうな、
心にもない回答をする技術を身につけるだけじゃないですか。
それらのどこが、道徳的なんですか?
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問題.『人を殺すのは悪いことなのかどうか。またその理由は何ですか?』
の問いに、「人を殺すのは悪いことです。命はかけがえ無いからです。」
…と答えたA君は、おそらくマルをもらえるでしょう。
「人を殺してなんで悪いかわかりません。命はかけがえのないの意味が
 わかりません。僕は牛肉が大好きです。」と書いたBくんは、たぶん
バッテンをもらうでしょう。

その結果、B君はA君のような回答をすればいいんだ、と思うようになる
でしょう。さもなくば、そのように矯正させられるでしょう。
でも、本当に道徳的であるのはA君ですか、B君ですか?
そしてB君の質問に、正当に答えられる大人は、どれくらいいるのですか?

道徳を正教科化するということは、道徳的なことについての
考える機会を奪うということになるのではないでしょうか。
行きつくところは、メンタルヘルス好きな人が喜びそうな「名言格言」の
ような言葉を、意味もわからないまま丸暗記する教育になるでしょう。
そしてテストが終わったら、きれいさっぱり忘れていることでしょう。

歴史の年号を憶えたり、元素記号表を憶えたりすることと同列で、
善悪の何であるかを教育できるとでも思っているのでしょうか。
年号や化学式を知らなくても、その人がその人であることにほとんど影響
しませんが、善悪についてどう考えるかは、その人をその人と在らしめる
最も根源的なところではありませんか。

問題があるから正式教科に「格上げ」すれば何とかなるなんて、
道徳教育をチト舐め過ぎなんじゃあ、ありませんか?


(…長いので、続きにします。)
これはたぶん、純粋理性の独白。


ありとあらゆることについて、それの全てを統括して、
簡潔に一言で説明すれば何となるのだろう。

普通で言えば、「宇宙」とか「世界」「存在」、あるいは「神」とか
そんなところになるのでしょう。しかし、それは何なのか?ということの
答えを一言で言わんとしているのだから、それでは答えになりません。

それで考えた結果として、出てきた答えがコレ。「縄」です。
世界は二重螺旋の、あざなえる縄なのです。
二重螺旋と言うと、DNA構造の話かと思う人もいるかもしれませんが、
そのことを言おうとするのではありません。
二重螺旋のうちの、一本の紐は「存在」、もう一本の紐は「思考」です。
そして、あざなえる縄のその端に、それ自身を問う「問い」があります。

「在る」と思う。
それは、思考したから存在するのか。存在するから思考できるのか。
思考しなければ存在しなかったのか。無とは思考にないことなのか。
「存在」と「思考」を、思考として存在させているのは、「在る」からなのか、
それとも「思う」からなのか…。

「存在」と「思考」の関係は、どこまいってもでもこのように、無限の
パラレルスパイラルを描くことになるのです。「思考」という言葉に
違和感を覚えるなら、そこは「意識」でも「精神」でもかまいません。

縄の端は処理をしなければ、そこから解けてしまうので、使い物になりません。
つまり「問い」は処理しておかないと、どこまでもほどけてしまいます。
縄の端は殺しておかなければいけません。殺すといっても世界には、
「存在」と「意識」しかありません。、
したがって、自らの問いをを自らで殺しておくしかありません。

存在と意識、それぞれの紐で互いを結び閉めて、問いを互いに締め殺す。
つまりそれが「神」なのです。神とは、存在と意識で撚り合わされた縄が、
自分自身を問うことによって、解きほどけないように、問いを封じ込める
ための処理の仕方なのです。

cogito ergo sum  思う、故に、在り。
思うは「思考・意識」、在りは「存在」、その二つが撚り合わさって、
「わたし」という名の縄がある。

神の概念がなぜあるか?縄が縄として存在するためです。
私が私として存在するために、私が私自身を超越するものを作ったのです。
存在だけの存在、意識だけの意識だけというのはあり得ません。
存在は必ず存在という意識であるし、意識は必ず何かの存在を意識している
ということです。

そうして撚り合わされた「存在=意識」の縄は、それだけでありとあらゆる
全てであり、そこには外部は在りません。在り得ません。
あり得ないものをあり得ないものとして、問いを封じるために
「神」が存在するのです。その限り、神とは実は私であり、私でありながら
私を超越しているという、絶対的な矛盾の観念なのでありました。

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ところで、「ほどけた縄は使い物にならない」と言ってはみたものの、
「存在」自体は、いったい何の使い物になるのでしょうか
使い物になるとは、役に立つということですが、
「宇宙が在る」事が、いったい何の役に立つのでありましょうか?
役に立つとは、「意味がある」ということでもありますが、
「人生が、在る」ということに、何の意味が在るのでしょうか?

これらの問いに答えは在りません。
正解が無いという意味ではなく、答えることがそもそも不可能ということです。
問い自体が矛盾であり、無意味だからです。
それではこの、存在に意味のない「存在」という名の縄は、どんな形をなして
いれば完全となるのでしょうか?

問いという名のその端を、神で殺して解けなくした縄が、それ自体が完全体で
あるためには、尚も問いとしての縄の端が二つ残ります。

一方の端は「始原」、もう一方の端は「終焉」。あるいは、有と無。
神によっていかに存在と意識の二重螺旋を固めても、この問いだけは永遠に
消滅しません。

仕方が無いので端と端を撚り合わせ、縄を輪の形にしてみたところ、
もとより神など必要なく、始原も終焉もなく、無限に自身を問い続ける、
完全に完結した形になりました。

存在と意識であざなえる、Parallel Spiral Rope Loop。
あるいは、存在のウロボロス。

これが存在の形式です。これが宇宙の形です。
これが私の姿です。