…続きです。

かつての子供の遊びとは、本来の「考える」ことでした。
自然のあれやこれやを不思議に思い、それに身を浸し、考え、創造する。
それがすなわち、遊ぶことでした。創造が遊びでした。

今の子供の遊びは、ほとんどすべてが大人の作りだしたものです。
大人の作ったもので遊び、大人の作った情報を加工して、情報処理・情報交換を
しているだけです。テレビゲームも他のおもちゃもケータイもみんなそうですね。
答えは全部、大人によってつくられたもの。そこにたどり着くための情報処理を
しているだけ。創造性もありませんし、考える必要もありません。

大人の用意するもので遊ぶことで、子どもは経済の消費サイクルの一部に完全に
組み込まれています。子どもは大人と同じ、消費者として扱われています。

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教育についてもまったく同じです。
問題も答えも、大人が用意したものであり、その答えにいかに早くたどり着くか
ということのみが評価されます。「なぜそうなるか?」ということを、じっくり
考えることは、全く評価されません。
「結果を出さねば意味がない」という言葉が当たり前のように唱えられます。
自ずと子どもたちは考えるよりも先に、答えを要求するようになります。

美術や音楽教育も同じで、手本や見本になるような作品に近づけるような技術を
教えられ、その技術が評価の対象となります。創造性はここでも評価されないし、
そもそも評価する基準も、評価する人材もありません。

文学的なものも倦厭され、自ずと読書からは縁遠くなります。好まれるのは
漫画やドラマ、映画などですが、理性に訴えかける作品は好まれません。
あることについて「それが何であるか」という不思議に魅せられて、それを
追求していくような感性は乏しくなっているからです。

反面、人間関係にまつわる感情的なものが多くなります。感情がどう表わされて
いるかが、それらの評価の最重要基準となっています。ようするに、処世です。
それが悪いとは言いません。でもそればっかりだと、「人に好かれる・人に嫌わ
れない」事が一番の価値観になります。人間関係のみに一喜一憂し、世渡りの
事ばかり考える、カシコい人間が出来上がります。

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SNSなどで常に他人と繋がっている環境にあり、他人とコミュニケーションを
図ることが精いっぱいで、自分自身や世の中について「内省」する機会もない。
でも、そんな環境なら、「何が正しいか」を考えることが無くなってしまうのは、
もう当然のことじゃないですか。

昔の子ども達にもいじめはありました。でもいじめられた子には「自然」という
逃げ場所がありました。「神隠し」という現象は、案外そうして行方不明になった
ことを指して言うのかもしれません。
だから自然に魅せられた子を心配して、人間関係の世界に戻るように、いじめた
子が迎えに行く。そうして人間関係が修復されていたのです。

今の子どもは人間関係が全てです。とにかく他人のことばかり気にします。
今の子供は道徳性が欠如していると言いますが、そんなことはありません。
ただ、自分たちの身内・集団の道徳、つまりはルールでがんじがらめになって
いるのです。そこから疎外されたらもう逃げ場が無いからです。
それでも逃げ場のなくなった子は…どうすると思いますか?

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これが今の子供たちの置かれている環境です。
現代の都市化された我々の棲む環境です。
ところで、人間らしさって、なんでしたっけ?
人間の本質って、なんでしたっけ?
自分たちが何者なのか?何をしているのか?
どこへ向かって、どこに行きたいのか?

自分が考えるのでなくて、いったい誰が考えるのですか?



「子どもは都市化によっていなくなった」
解剖学者の養老孟司さんは自著でこのように語っていました。
とても面白いので要約してみました。「自然」「都市」
定義に注意しながら読むととてもわかり易いです。


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少子化問題の根本原因は、多くの人が「子どもはいらない」
思っていることにある。「子育てにいい環境にないから」と言うのは言訳だ。
子育て環境など、昔はもっと悪かった。それでも人口は増えた。
子育てしなければ、人類は存続しない。
つまり日本人は存続を諦めているということになる。
環境より子育てを優先させるのは当たり前のはずだ。

実はこの国では、「子どもはいなくなった」ことになっている。
子どもは自然そのものだからである。
「自然」とは、人間が設計しなかったものである。
「ああすれば、こうなる」というものではないものである。
つまり、「人の意のままにならぬもの」である。それに対して、
「都市化」とは、人の意のままにできる世界に
変えること
である。

戦後日本は、自然を消して都市化してきた。田舎を都市化した。
今や田舎は存在しない。田舎も都市も同じように教育され、同じように
情報をえて、同じように物流し、同じ価値観のもとに生活している。
そうして身の回りから原生林を消し、里山を消し、同時に子供が消えた。

自然でない世界で、子どもは存続できない。子供は育つにつれて、急速に
都市の世界、大人の世界に適応させられる。大人になることを要求される。
その中では、「子どもという自然」は必要悪とみなされる。いや、その
必要さえも認められていない。

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以上がその要旨です。なるほど。そうか、そういうことだったのか。
「考える人」が少なくなったのは、「自然」を排除してきたせいだったのです。
「都市化」つまり、意のままにできる世界への変化が、「考える人」を
排除してきたのです。なぜなら、「考える」とは、「自然」だからです。
そういうと、反論が出ますね。「考えることは、人工そのものであって、
自然ではないだろう!」…という反論ですね。ごもっとも。

しかし「考える」ということは、「考え」即ち論理を考えることでした。
その「考え・論理」自体も、人間自体も、人の設計したものではないし、
人の意のままになるものではありません。つまり、自然です。
その自然について考えるということも、やはり自然なことになるはずです。

都市化された世界で、自然である子どもはそこの住人になる教育をされます。
つまり、意のままになる世界に適合できるよう、自然性を排除させられます。
そこでは人工物である「情報」を処理する能力のみが求められ、考えるという
自然はむしろ否定されます。計算する能力、回答する能力は求められますが、
「なぜそうなるのか?」の問いは不必要なもの、邪魔ものとされるわけです。

都市化された世界で大人になるということは、「考えない人」になることで
あり、子どもに要求されることは、「考えないこと」だったのです。

都市化された世界の絶対的価値観は、「都市に適応する」ことです。
幸せは「いかに都市に適応できたか」によって量られ、適応できないことは
不幸であるとされます。
自然的なものは「余戯」であり、「考える」こともの道楽程度に扱われます。
そして空白化した「考える」という言葉は、単なる情報処理という意味に
とって代わられます。コンピューターで繋がった、大量の情報群の一部を
加工したり処理することが、「考える」の意味となってしまったのです。


(…長いので、次回に続きます……。)
ドラえもんドアの作者、藤子・F・不二雄さんの
生誕80年だそうです。プレゼント
昔はよく読んだっけ。今でも漫画喫茶とかでたまに読んだりします。

彼の作品は、ドラえもんに限らず、どの作品もほのぼのとかわいらしい
画風で、シンプルなストーリー、シンプルであるために本質的なことを
バッサリと描いているのが魅力的だと思います。

感情に訴えるものより、理性に訴えるしっかりした内容が多いので、
大人になって読むと、より一層考えさせられることが、また興味深いです。
紛れもなく天才的漫画家と言えるでしょう。

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彼の作品で『短編SF作品集』というのが、今注目を集めているようです。
このSFとはもちろん「Science Fiction」ロボットの略ですが、「少し、不思議」の
意味も込められているとのことです。

どの作品の主人公も、ごく普通の人々です。特殊能力を持ったスーパーマン
みたいなのは登場しません。
ただ、描かれている背景にある世界の価値観が、現実と少しずれていたり、
逆転していたりします。その価値観の世界では、それが当り前であり、
完全に調和しています。そこに現実の普通の価値観を持った主人公が加わる
ことによって、様々なトラブルが発生します。

読んでみると、この現実のアタリマエとされている価値観が、普段は空気の
ように透明なって、全く意識されていないことに気がつきます。
そしてこの現実の価値観が、どうして当たり前なのか?本当に当たり前なのか?
という疑問が生じてきます。
ただ面白いだけでなく、深く考えさせられるので、読後のあとあとまで記憶に
残ります。これが作品の支持される最大の理由なのだと思います。

藤子・F・不二雄さんがこういった作品を描けるのは、彼の戦争体験が背後に
あります。それまでの「国のため」という国家主義的価値観が、敗戦によって
あっという間に民主主義に転換しました。
昨日まで絶対的価値観だと教え込まれていたものが、今日から嘘になった。
その体験が作品を生み出すことにつながっているそうです。

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彼はかつてインタヴューで、「絶対的なものなどないんだ」と、口を滑らして
いましたが、それは半分本当で、半分は嘘です。
彼は「価値観は絶対的ではない」ということを描くことによって、その背後に
ある本質、絶対的なものを描いたのです。
本質を描いているからこそ、時代が変わっても決して古びることはありません。

天才の仕事は意図せずして、背後に不滅の絶対性を表してしまうものなのです。
シリーズ「わたしって、なに?」の10回目です。

年末になると、「今年一番新生児に多くつけられた名前」なるものが
発表されます。名前にも流行があって、最近では流行歌の歌詞や、
テレビドラマの影響が強いようです。どういうわけか、ヤ行「や・ゆ・よ」
が使われることが多い傾向がある気がします。
名前をかな読みすると、大抵は2文字か3文字で、4文字の場合はほとんどに
「ユースケ」みたいに、のばし音の棒が入ります。女の子で4文字は、
可愛い感じがしないせいか、昔からほとんどありません。

まあ、そんなことはどうでもいい、ただの前置きです。

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人はどうして自分のことを、その名前であるところの「私」と思うのでしょう。
記憶の彼方にある赤ん坊の頃。すべてが受け身になるしかない赤ん坊には、
「自分」という概念はありません。あらゆる概念に必要な「言葉」をまだ知ら
ないのだから、何の概念も持ちません。漠然としたひと塊の観念があるだけ。
すべてが自分と未分化あり、したがって「すべて」も「自分」もありません。

赤ん坊が最初に覚える言葉は、最初に世界と区別すべき存在の呼び名です。
つまり、何もできない自分の世話をしてくれる者、「母親」の呼び名です。
なんでもいいのだけど、ママとかマンマとかいうところでしょうか。

そうしてしばらくすると、「あなたは○○ちゃんですよ」と、今度は自分の名前
を覚えます。そこで「こいつは○○ちゃんなのだ」と思いこみます。
そのあと自分を○○ちゃんと呼び続けますが、ある日突然「いつまでも
自分のこと名前で呼んじゃだめよ。ワタシ(ボク)と言いなさい」と教えられます。
ここで子供の中では「○○ちゃん=ワタシ」と思うようになります。
こうして人は自分のことを、その名前であるところの「私」であると思うに
至ります。

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さて、自分はその名前のことだと信じ続けること数十年後、この高齢化社会の
もとでは多くの人が、多かれ少なかれ認知症の症状が出てきます。
つまり、「ボケ」です。これが進むと他人の名前を忘れたり、それが誰だか
わからなくなったりします。終には自分の名前を忘れるに至ります。
つまり、だんだん赤ちゃんの状態に戻っていくことになります。

しかし、どんなことを忘れても、絶対忘れないことがあります。「自分」です。
たとえ自分の名前を忘れても、たとえ「自分は天皇だ!」と思うように
ボケても、その自分の事は「ワシ」とか「自分」とか、必ず一人称で呼びます。
この最期まで必ず残る自分というのが、本当の「自分」です。

人は様々なものになる可能性を持って、生まれてきます。教師になったり、
軍人になったり、聖人になったり、悪人になったり。
様々な者になる可能性を持っていますが、「自分以外の者」には、どんな人も
絶対になることはできません。

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「胡蝶の夢」という詩句があります。荘子(荘周)による説話です。

昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。   …というものです。

夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めた。
はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、
それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか。  …という事が書いてあります。

人は様々な夢を見ると思います。普段の生活の延長線上のような夢もあれば、
荒唐無稽な夢もあります。そのときの自分は、自分の名前は無いはずです。
夢の中はすべて自分の作っている世界なので、自分に名前は必要ないからです。
そして夢から覚めたとき、「ああ夢だったのか」と現実の自分を思い出します。

ということは、「現実」だと思っているこの名前の自分も、夢の中の自分も、
どちらも思っているからそうなだけであるわけであり、その限りでは、
現実も夢も区別は無いんですね。どちらも夢という現実であるし、
現実という夢だということもできるんです。

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名前のついた個人としてのこの自分は、社会の中の一員としての自分です。
これはつまり、エックス分の1の自分です。この自分が消えたとしても、
世界であるエックスからマイナス1になるだけです。

名前のない(必要のない)この自分は、生まれてから死ぬまで、夢の中までも
同じ自分です。「自分という世界」の中の自分は、1分の1の自分です。
この自分が消えるということは、この世界も消滅するということです。

そして名前のついた個人の自分は、名前のない何ものでもない自分が
そのように思うことで成立しますが、その逆は不可能で、あり得ません。

さて、あなたにとって、より根源的で、より確実で、先に考えるべき自分って、
いったいどの自分のことですか?


「好奇心旺盛です!」って自己PRに書く人ってよく見かけますが、
そう書く人って「個性的」って呼ばれると喜ぶ人が多いですよね。
実際は、周りの人とちょっと違って浮いてるだけで、ちっとも個性的
でない人がほとんどだったりするのだけど。
人と違ったことをやることが個性的なことなのだと、勘違いしてる人が
この「好奇心旺盛です!」のPRをしたがったりします。

まあ、大体において、アクティブな人が多いです。スケジュールが
いつも埋まっています。埋めておかないと怖いんですね。
何かを見たり聞いたり参加したりすることが、自分だと思っているから。
他人に見せる自分が空っぽで何にも無いから、そういうイベントで予定を
埋めないと怖くてしょうがない。元気があってよろしいかと思いますが、
傍から見た人の感想は「節操がない。落ち着きがない。」…というのが
正直なところじゃないでしょうか。

「好奇心」の「奇」ってなんでしょうかね?「不思議」という意味とも
思えますが、「好奇心旺盛」という人たちが、そういう意味で使っているとは
とても思えません。人は本当に不思議に思うなら、どっぷりそれについて考え
るはずですからね。あれやこれやと手を出したりできなくなるはずです。

ということは、この場合の「奇」というのは、単に珍奇である、つまり他人と
ちょっと違うっていう程度のことにすぎないものです。
この「ちょっと」違うっていうのがミソで、好奇心旺盛な人はまるっきり他人
と違うというのには、興味を示しません。まるっきり違っていたら、誰にも
関心持ってもらえないからです。

つまり、「好奇心旺盛」な人の人の最大の関心事は、他人に関心をもって
もらうことです。しかも、そのことがあたかも自分の本意ではないように。
自分は「好きなことをやっているだけ」と言い張りますが、まず大嘘です。
他人とちょっと違うことを「自分の好きなこと」と思っているだけです。
したがって、自分が見たり聞いたり参加したことを、他人に見せることを
前提として「証拠」に残すことに執着します。
だから「好きなこと、楽しいことをやっている」…と言っている割には、
どこか義務感にかられるような、焦りみたいな気分が伴っていたりします。
誰も頼んでもないのに、勝手に変な義務感みたいなものを感じています。

「好奇心」旺盛な人は、情報に敏感です。正確にいえば、「情報に敏感」と
いうことに敏感です。ちょっと変わったもの珍しいものを発見すると喜びます。
珍しいものに会えたことを喜ぶのではなく、それを「見つけたことの珍しさ」
に喜びを感じます。
ですから、おもしろいもの見つけても、それが周知のものであった場合には
たいへんガッカリします。自分を含めた少数だけが知っている、というマイノ
リティに喜びを感じ、そういうことを「感性」とか「センス」などがいいと
いうことだと信じ込んでおります。どこまでも基準は「他人の目」なのです。

でも残念ながら、情報を発信することならいざ知らず、情報を受け取ることに
「感性」も「創造性」も「くりえいてぶ」もへったくれもありません。
そんなのはただの情報の消費者です。

自己内省することもあまりない、若い年代の人によく見られるタイプですが、
ある程度年代がいってなおそういうことをしていると、それこそ「節操がない、
落ち着きがない、目立ちたがり、出しゃばり」と思われるのがオチです。
いや、本人はどう思われようといいのだろうけど、一番気の毒なのは、その人
が目指していたはずの価値観「個性的」ということから、どんどん遠ざかって
行く点です。まあ、内省しないことも特徴だから、ほとんど本人が自覚に
いたることもないから、それはそれでいいんだけどね。

本当に感性が豊かで、本当の意味で「好奇心旺盛」なら、わざわざ珍しい
ものなんか探さなくたって、日常のあれやこれやに「奇」を見いだせるはず
です。日本の「一期一会」の感性なんてまさしくそうですよね。
いまここ、に目の前にあることが、いかに数奇なことか、いかに奇跡的な
ことか、それを感じられることが、感性が優れているというもんですよ。
わざわざ「好奇心旺盛です!」なんてアピールするのは、「自分は珍奇な
事にしか奇を感じない鈍感な人間です」とアピールしているようなものです。


神だの宗教だの信仰だのを語るのは面倒くさい。
どんなことを言っても、その辺の言葉を使っただけで「いかがわしい」と
思われるのは、間違いないからだ。
精神、意識、存在、宇宙、…などという言葉も、それはそれで同じく
いかがわしく思われているには違いないのですが。

と、いうわけで今回は「神」と「宗教」とは何かを書きます。
どうせわからない人には何を言ってもわからないし、
わかる人には書かなくてもわかるので、ごく簡単にすっとばします。

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考えるのはどこまでも「自分」が考えることである。
「考え」という理性が、「考え・理性」という自分自身を考えることでもある。
考えの果てにはいつも、考えられない地点が待っている。つまり「謎」である。
正確に言えば、「考える」ということは、この「考えられない謎」を見つける
事である。
「わからない」ということを知るということが、「わかる」ということである。
しかし、理性の本質は「わからないことを考える」ことなので、
「謎」を「謎」と知りつつどこまでも考えようとする。

自分ひとりならその無限にいつまでも耐えうるが、
他人といれば、どこかで終止符を打たねばいけない。
考え続けていては何もできないからだ。それでは社会が成立しないからだ。

だから、「謎」の原因をとりあえず「自分ではないもの」と外部化して、
それを「神」と名付けて保留にする。不問にする。
つまり「神」とは、思考する精神が必然的に持ってしまう絶対的矛盾性、
それによる無限に続く思考のスパイラルを、一時的に断ち切るときの、
「標(しるべ)、印(しるし)」みたいなものにすぎない。

したがって、「神は在りや無しや?」と問えば、在る。
その問いを出した時点で、「問われている神」として、そこに、在る。
無いものを問うことはできない、という意味で、そこに在る。
人智の外側ではなく、人知の外と内を隔てるその内側の壁面として、在る。

人智の外側を語ることは絶対にできない。語られているものを、人智と
呼んでいるのだからだ。そして語ることが絶対にできないものについては、
「存在しない」としか言えない。したがって「人智を超えた神」は存在しない。

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それをわかっている人は、「神は人智を超えている」は便宜上のものであり、
実は「神=自分(人智)」であるとわかる。自分で考えればわかることなので、
集まることも教えることも、信じることも何もない。故に宗教はあり得ない。

ところが考えない人にとっては、ただの印である神を、自分でない外部のもの、
「人智を超えたもの」ということをそのまま信じ、そして崇めることになる。
信じたことを、集まって、教えて、それをまた信じる。考えたりはしない。
これが宗教である。
故に宗教は、わからない人の集団であり、そうして集まって教えてもらっている
限りは、いつまでたってもわからない。わからないということがわからない。

**********************************

たぶん、どんなに言葉を費やしても、信じている人には
わからないでしょう、この理屈。

「これだから宗教を信じる人は困ったもんだ」と笑っている人も同じである。
神を信じるている人も、信じていない人も、それはまったく同じである。
「神とは、神を考えている私」のことだと気がつかなければ、信じていない
と言っている人も、人智を超えた神を実は信じているのである。信じたうえで、
崇めていないだけである。つまり、素直じゃないだけである。

考えることがどういうことかをわからなければ。
 【60年前に生まれたある男性が、生まれた病院で別の新生児と
 取り違えられていた事が最近になって発覚しました。
 この男性は「本来、経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、
 取り違えで貧しい家庭に育ち、苦労を重ねた」と病院を訴えました。
 裁判長は「男性の本来の家庭は裕福だったのに、高等教育を受ける
 機会を失わせて精神的な苦痛を与えた」と認定。
 計3800万円の支払いを病院側に命じた。】

不謹慎かもしれませんが、思わず噴き出しました。
このニュース、人が自分では絶対にどうしようもない、「出生」という運命の
不思議さについての、えも言われぬ諧謔なのではないかと思ってしまいます。

*********************************

なぜ取り違えが起きたかなんて理由はどうでもいいです。
60年も前のこと、まだ自宅出産が当たり前だった頃から、急激に病院出産が
主流になった時代です。当時の技術的水準からして、十分起こりえた事件だし、
今さら原因追求しても意味がありません。賠償金額もどうでもいいです。

おもしろいと思ったのは、告訴理由と判決理由です。
いったいこの男性が訴えた本当の理由はなんなのでしょうか?
実の両親のもとで育たなかったということが理由なのでしょうか。それとも、
裕福な家で育つはずだったのに、貧乏生活を余儀なくされたことでしょうか。

取り違えられたということは、当然、もう一人の取り違えられた60歳の男性が
いるはずですよね。その人には、裁判所は対応するのでしょうか?
対応しなければおかしいですよね。両親が違うという事実は同じなのだから。
対応するとしたら損害賠償はさっきの男性と異なるのでしょうか?

==================================

この男性は、取り違えの事実が発覚しなければ、苦労はしたけれども
それが自分の「本来の」人生だったと思ったまま、天寿を全うしたはずです。
しかし、裕福な家の子と取り違えられた事が発覚し、「本来の」人生は裕福
だったと思い、提訴しました。

つまりこの男性は、自ら提訴したその理由によって、「今までの人生は本来の
ものではなかった、したがって〈仮の〉人生だった」と、自分の過去をを否定
してしまったのではないでしょうか?

もし仮に彼が、取り違えのもうひとりの立場だったらどうしたんでしょう?
本当は貧乏な両親のもとに生まれたのに取り違いがあって、誤ってとても
裕福な家に行ってしまい、何一つ経済的に不自由しない生活を送った。
しかし、ひょんなことから取り違いが発覚してしまった。

そうなってた場合、「本来」貧乏な生活を送るはずだったことになるこの男性は、
いったいどんな訴えを起こすつもりなのでしょう?

+++++++++++++++++++++++++++++++++

「本来の」両親と取り違えられたことを訴えるのはよくわかります。
生みの親と会うこともなく死別したことは、大きな精神的苦痛でしょう。
しかし、「本来は」裕福な人生を送れるはずだった、という理由で訴えることは、
いかがなものでしょうか?
そのことを理由にさえしなければ、たとえ貧しくても、この人は自分の人生を
立派に生き抜いたことになると思うのですが、それを否定してしまったことに
なるのではないでしょうか。

つまりこの男性は、普通の人では絶対に選べなかった自分の出生という運命を、
裁判に訴えることで、二者択一の天秤にかけることになってしまったのです。
いや、正確に言えば、出生の事実はやはり選べないことに違いはないのですが、
「本来の人生は違っていた」と考えてしまったことにより、自分の生きてきた
人生を、自ら否定したのです。これはとても不幸なことではないでしょうか。

男性は、育ての母や兄弟にとても感謝しています(父親は幼少期に死去)。
しかし「本来は」裕福な家に生まれたはずだ、ということを理由に訴訟をして
しまえば、口では感謝はしていても、「この家族じゃない方が良かった」と
言ってるのと同じなのではないでしょうか。

この男性は勝訴して3800万円を獲得したのですが、それと引き換えに
自分の人生を「嘘もの」だったと自分で完全に認めたことになります。
それで納得していればいいんですが。
この方、事実を知らなければ、それはそれで幸せだったのではないかと思います。

誰かが男性に向かって、「残りの20年(←これもおかしいが)、本来の自分の
人生を取り戻してください」とか言って慰めているようでした。
何なんですかそれは。あなた、自分が何を言っているかわかっていますか?

===============================
実はこの裁判の本当のカギは、
取り違えのもう一人の男性に、どんな対応をするか
その一点にかかっています。気付いている人は少ないようですが。

告訴理由をそのまま判決理由にしてしまうだけの裁判所は問題だと思います。
訴えた理由を、そのまま通すことが原告のためだと思っているのでしょうか。
取り違えの慰謝料としての判決なら問題ないのですが、それだったら、
もう一人の男性も条件は全く同じなはず。

もし、もう一人の男性を、「訴え出なかったから」ということを理由に、
訴えた男性と同等の賠償をしなかった場合どういうことになるか。
それは、訴えた男性の、「本来は裕福な生活を送るはずだった」という理由のみを
そのまま判決理由にしたことになってしまいます。

しかし、「本来なら裕福な家庭に育ったはず…」という告訴理由は、
認めるべきではなかったのではないでしょうか。

それを認めてしまえば、もう一人の男性は「本来なら貧乏な家庭に育ったはず」と
いうことになります。
一方の男性が「運悪く貧乏な家で育つことになった不幸な人生」というのなら、
もう一方は、「運よく裕福な家で育つことになった棚ボタ人生」という
ことになってしまいます。
おそらくそう言われることになるであろうもう一人男性の人生は、いったい
なんなのですか?

++++++++++++++++++++++++++++++++

生みの親が違っていようが、違っていまいが、親に「本来」なんてないんです。
どうせ親は選べないんだから。
だったら、誰から生まれてきたなんてことは、実はあまり問題なのではないんじゃ
ないでしょうか。

とんでもないこと言ってるようだけど、理屈としては間違ってはいませんよね。
どこから生まるかを選べない以上、どこから生まれたかは問題じゃない。
「血縁」なんて実は幻想です。「血は水よりも濃い」なんていいますが、
そうではない例も星の数ほどいっぱいあります。

この男性だって、実の親が違うことに、60年間気付かなかったではありませんか。
親と似てないことが多少気になったぐらいで、困ったことがあったわけでもなし。

だったら、産んだ親が「本当の」親だなんていうのは、きっとただの思いこみです。
「血」に意志は無いのだから、血を信じすぎると、「血でないもの」を裏切ったり
裏切られたりして、失望することになりますよ。

******************************

【追記】
じゃあどんな判決がいいかを考えてみました。

病院側に対し、取り違えられた二人の男性に、二人とも同額の賠償金を支払う
ように命じます。
但し、条件付きです。裕福な方に育った男性が、貧乏な家庭に育った男性に
受け取った金額の半額を贈与する条件付きです。

法律的にそれが可能かどうかわかりませんが、それが一番いいと思います。
え、最初から1対3の金額で支払いを命じればいいって?
それじゃだめなんですよ。「贈与」の形がなければ意味が無いんです。

死後の世界はあるのか?
オカルトっぽいでしょ?いいえ、哲学です。
最後の結論まで大マジメです!


「死後の世界は必ずある」と科学者が言っていました。
何かのテレビのドキュメント番組の予告でちらりと見ただけなのですが、
たしか脳神経科学者だったかと思います。正気なんでしょうか?
そんなことを言う科学者も、それでまじめにテレビ番組を作ろうとして
いる人も、自分達が何を言おうとしてるのか、考えてのことなんでしょうか?

「死後の世界がある」。
これを非科学的だと否定するのではありません
科学的だろうがなんだろうが、これは単純な矛盾です。
そんなことに何故気がつかないのでしょうか?

死後の世界はありえません。いいですか。
「死後の世界は無い」とは言いません。もちろん「在る」とも言いません。
「在るとか無いとかいうことが絶対に不可能」

だということです。
つまり、「在り得ない」。したがって、「無い」。それだけ。

科学で語る以前の、論理の問題なのです。
科学に出番はありません。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

死後の世界が在るという人は、それをどうやって確認するのでしょうか?
[臨死体験をした人の体験談] ?なんですかそれは。
体験談を話しているってことは、その人はまだ生きているってことですよね?
じゃあその人が死後の世界を見ることなんかできるわけないじゃないですか。

臨死体験っていうのは、死にかけた、死にそこなったっていうだけで、
死んだわけではありませんよね。一度死んで、生き返ったのでもないですよね。
生き返ったというのなら、それは間違いです。まだ死んでいなかっただけです。
身体の機能が一時的に止まっただけであり、死んだのではありません。

死んだ人は絶対に生き返りません。
あたりまえじゃないですか。
そんなの断言できないっていう人がたまにいますが、間違いです。
なぜなら、生き返らないことを定義によって「死んだ」というのだからです。
したがって、死んだ人が生き返ることは100%ありません。未だかつて
死んだことのある人は一人もいませんし、これから先もそうです。

============================================

他人が死んで、その身体が無くなっても、その意識だけはどこか別に
存在するということは、誰にでも想像はできます。
その想像によってあらゆる宗教が成立しているのも、ただの事実です。

仮に幽霊を見たなどの心霊体験をしたとしても、見た人がそういう不思議な
体験をしただけです。いかに不思議な心霊体験をしようと、どういうわけか
そういう体験をしてしまっただけであり、理由は別に探さねばなりません。
その人が死後の世界にいるということにはまったくなりません。

死んだはずの人がはっきりと目の前に現れたのであれば、その人とそっくりな
人が現れたのか、あるいは、死んだ人が実はその人ではなく他人だったかの、
どちらかです。
++++++++++++++++++++++++++++++++++

自分が死んだ場合は、まだ死んでいないのだからわかるはずがありません。
自分の死を想像しても、「自分が死ぬ」ということは、その想像する
自分がいなくなることなのだから、絶対に想像することはできません。
ただ単に、自分という個人が故人になった社会を想像するか、自分の
肉体がなくなって、意識だけがある状態を想像しているだけです。

しかし想像しているその状態は、他人にとっての自分の死であり、
自分にとっての「自分の死」ではありません。
なぜなら、自分がいると思っている限りは、思っている自分が確実に存在して
いることだからです。自分が全く存在しないことは、想像さえできません。
つまり、肉体はどうあれ、意識がある限り、自分は必ず存在しています。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

肉体が無くなって意識だけが残ることを指して「死後の世界」だ、
と言いたいのはわかります。だけどそれはやはり「在る」とは言えません。
なぜなら、この今、確実に在る「意識」の存在は「肉体」の存在をもって
のみ他人に示すことが可能
なのだからです。

その肉体が無くなる、あるいは肉体が完全に動かなくなるということは、
その意識の存在を他人に示す方法が完全になくなるということなのです。
したがって、死後の世界があるということを示すことは絶対に不可能なのです。

人は「他人の死」をその肉体の存在が無くなること、もしくはその肉体の
機能の停止をもって、その人の「死」としています。「死」を認めた以上、
その人が死後の世界で生きていることを確認する術は絶対にありません。
したがって、他人の死後の世界は「在り得ない」のであり、「無い」のです。

そして「自分の死」については、先の説明のとおり、語ることは不可能です。
自分については、「死後の世界」が無い以前に、「自分の死」そのものが
あり得ないわけです。つまり、自分の死は、無いのです。
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何度も言いますが、在るとも無いとも言うことが「絶対に」不可能なことは、
すなわち「在り得ない」ということです。
「在り得ない」ということは、すなわち「無い」ということです。
そうとしか言えないのです。それが理屈であり、論理でなのです。

「そんなのただの理屈じゃないか」と言いたいでしょうが、
理屈を侮ってはいけません。
人が生きて、死ぬ、ということは、徹頭徹尾、理屈でしかないのです。
嘘だと思うなら、証明してみてください。
その証明も、やはり理屈以外の何ものでもないはずですから。

「死」とは何かを考える場面においてこそ、
「現実とは理屈である」

ということを、人は強く知ることになるのです。


しかし逆に言えば、
現実が理屈であるならば、逆に理屈は現実なのですから、
人の存在は、「その人がいる」と思うことによって存在することになります。
だからこそ人は、死んだ人のことをなお「想う」のです。

つまり、肉体は生きていようが、死んでいようが、
「その人がいる」と想い続ける限り、
 その人は「存在」し続けます。


これも紛れもなく真実です。
これこそが、ホントに、本当に驚くべき逆説です。

これが科学がいかに発達しようと、宗教が無くなることのない理由です。


【あとがき】
こういう記事をマジメに書いても、キーワードが勝手にひっかかってしまうようで、
下のほうに「電話でイタコの降霊術」とかいう広告がついちゃいます。
ちょっと悲しいです。
カントの「純粋理性批判」を、中学生でも(たぶん)わかるようにしてみました。

「批判」ってなに?

「批判」って言葉から、どんなイメージが浮かびますか?
多くの人にとっては普通の生活に使うような日常的な言葉でないですので、
この言葉の意味を訊かれると、答えに困ると思います。
大方は、言葉を並べたてて、人に詰めよったり、攻撃したりする、
そんなイメージが強いのではないしょうか。

「批判」という言葉をよく使う人においても、この言葉の意味を正確に
使っている人は、そんなに多くはありません。「非難」と区別せずに使って
いる人がほとんどなのが実情だと思います。

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このブログのタイトルにもある「純粋理性批判」は、カントという哲学者の
書物です。「批判」とはまさしくそのことです。
「批判」とは、
考える性(さが)である理性が、理性自身の妥当性を考え、判断すること。
平たく言えば、「考える」こと自体を考えることによって、
ある事がらがどう正しく、どう正しくないか、それをはっきりさせることです。

なぜそうするのか?はっきり正確に知りたいからです。
「知る」ということは、正しいことを知りたいと思い、知ることだからです。
「知りたい」と思うことが、理性の本性・本質だからです。
そして、その理性こそが、人間の人間たる本質だからです

正しいとは、「正しいと誰かに決められているから」正しいのではありません。
「正しい」とはまず、理屈が通っていること、論理的に正しいことです。
それが「正しい」に絶対に必要な条件あり、そうでなければ「正しい」と
いうことはできません。
だから、たとえ法律で「正しい」と定められたとしても、理屈に合って
いなければ、人はそれに対して、「おかしい!」といいますよね。

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人が何かを「批判」するのは、知りたいからなのです。知りたいのに、
理屈が理解できない。「おかしい、どこがおかしいのか?どこが正しくて、
どこが間違っているのか?」それを知ろうとするのが「批判」という行為で
あり、「批判」という精神なのです。
したがって、批判の対象は、他人も自分もありません。
「罪を憎んで人を憎まず」と言いますね。批判は「理屈を疑って人を疑わず」
なのです。
 
「批判」とは、考えることを考えることです。そのことは必ず「否定」
形をとることになります。ある事柄を正しく知りたいということは、
その事柄を「疑う」ことになるからです。疑わずに信じていたら、
考えることなど不可能です。故に正しく知ることなどできません。
理性の本性・本質とは「否定」することでもあるのです。

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「非難」ってなに?

残念ながら「批判」という言葉の多くの使われ方は、知りたいがため
ではなく、人を責めたり、自分を守ったりすることに使われています。
つまり、「知りたいための否定」ではなく、「否定のための否定」です。
しかしそういうのは「非難」といいます。
したがって「非難」の対象は自分以外、他人に向けられます。
「批判」と「非難」は似た語感であるため、混同して使われたり、時には
意図的にすり替えて使われたりします。

さらに「非難」のためには、理屈の正しさを無視したり、ねじ曲げたり、
時には理屈抜きになされることもあります。この場合は非難でさえ無く、
「揶揄、誹謗、中傷」といったものになります。

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「言論」と称して、「批判」の語をただの非難や揶揄に使っている人の多くは
そのことに自覚的ではありません。「考える」ということがどういうことかを
知らないからです。
「考えを知る」ということは、つきつめれば「考え(論理・理屈)」は同じ
1つのものである
ということを知る、ということです。
「純粋理性」とは、簡単に言えば、自分も他人もみんな同じところの
「考え」であるということです。

それを知らないと、他人が知りたいと思って「批判」してきたことを、自分に
たいする「非難」だと思って、攻撃と防御することが目的になります。
つまり、他人に対して「非難」することになります。
攻撃と防御が目的なので、「知る」ことは目的ではなくなり、考えることも
なくなる。当然、論理性もなくなり、理性的でなくなる。つまり感情的になる。

理性的である批判と、感情的である非難は全く異なるものです。
意外に思うでしょうが、感情的というものは、表面的な見た目の態度や
言葉遣いのことではありません

見た目はいくら冷静を取り繕って、いくら涼しげに難しく見える言葉を並び
立てても、そんなのは理性的とは言いません。
どこがどう正しく、どう正しくないかを理路整然と説明することが
できなければ、そんなのはただの感情的な「非難」なのです。


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批判ではない「非難」の見破りかた。簡単です。

非難する人はドンドン話を核心から遠ざけようとします。別の視点とか、
参考意見とかいって、話を突き詰めるのではなく、話を広げていきます。
いわゆる「煙に巻く」「はぐらかす」というものです。
そのつど話を核心に戻すのは手間であり、話が長くなるので、そういう人は
相手にするだけムダになります。

もうひとつ、非難する人は外からの「情報」を根拠にします。
「誰かがこう言ったから、何かにこう書いてあったから、何処そこではそういう
ことになっているから、それが常識だから…。」そういうものを頼りにします。
当然「自分はこう考え、必然的にこの結論になる」という説明はなくなります。

最後には、「私はこう思う」。「これが自分の見解だ」。と自己完結した
ただの「意見」で終わらせようとします。個人の自由意見という、
自分だけの土俵に逃げ込むわけです。

「考え」と「意見」はまったくの別物です。
「批判」の目指すところは誰にでも共通するところの「考え」であり、ただの
個人的な見解は「意見」といいます。
考えた結果、こういう結論にしかなるはずがない、というのが「批判」です。
それに対し、理屈はどうあれ「自分はこう思う」というのはただの意見です。
ただの意見で他人を責めることを、まさしく「非難」と呼ぶのです。

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ただ知りたいがためだけに、ことを明白にしたいがために、言われていることの
理屈の正しさを問うこと。それが批判です。
その批判に対して腹を立てて「勝つための」議論をする。つまり、非難する。
そうする人がほとんどです。批判に対して、批判で対応できる人は、おとなと
呼ばれている人でもめったにいません。

一休さんに登場する「どちて坊や」。彼はおとなを困らせます。
しかし彼は、困らせようとしてるのではなく、知りたいだけなんですよね。
あれは純粋理性の権化です









「哲学」をテーマにブログを書いてる方がいたので、ちょっと読んでみました。

「真の哲学者とは」という記事だったのですが、その方の記述によると、
「そのような哲学者は今の日本には絶対にいない。」ということだそうです。

ところで、「哲学者」っていったい何でしょうか?
哲学を教える、もしくは哲学を研究する「学者」というのなら、話は簡単です。
学者になるための必須資格はありませんが、哲学を教えたり、研究したりを
生業にしていれば、まちがいなく「哲学の学者」ということになります。

しかし当然、この方はそれを「真の哲学者」とは認めていません。

となると、「真の哲学者」は「真の哲学をする者」ということになります。
そうすると、「真の哲学」いや、「哲学」とは何かを知らなければ、「真の哲学者」
も、「ただの哲学者」もわかるはずはありませんよね。

ここで問題なのは「真の哲学とは何か?」ではありません。
とても簡単なロジックの問題なのです。
「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が行った。】自己言及のパラドックスです。
だってこの方、自分のことを「哲学者」と名のっているのですから。

それに、この方が「真の哲学」を知らなければ、「真の哲学者」がいるか
どうかは、この方にわかるはずがありません。
しかしこの方が「真の哲学」を知っているならば、それを知っているこの方が
「真の哲学者」ということになります。

この方はその理屈とご自身のことがわかっていないようなので、
真の哲学者がいない結論に至るのはあたりまえなのです。
哲学以前の論理学の問題です。

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【追記】
この方の記事の疑問に思うところを、コメントとしてお送りしたところ、
お返事いただきました。

> 『私は学会やメディアで多くの哲学者を見てきましたが、…(中略)…
「社会衰退」という認識を持っている人すら皆無でした』

…ということですが、そりゃそうです。

「哲学者」は「社会衰退するということはどういうことなのか」の本質を
考えている人のことを言うのであって、社会衰退する現象やその原因を
観察したり考えたりする人のことではないからです。

それはあたかも、料理(現象)の材料(原因)となる野菜をもとめて、
種苗屋さんに行くようなものです。
種苗屋(哲学者)にしてみれば、「うちは種(本質)を扱っているんだから、
野菜は八百屋(思想・評論家)に行ってくれ!」てなことになるでしょう。

「原因」と「本質」は全く異なります。「現象の原因」もまた現象に過ぎません。
世の中の様々な現象を観察し、その「原因」を探ることが「本質」を理解する
こと、すなわち「哲学」だと思っている人が多いようですが、
そういうことしかしない人を「哲学者」とはいいません。

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【ふたたび追記】
その他、「若いうちは何もわからない状態なので…」とか、「私の立場になって
みたらわかりますよ。」
というお返事もいただきました。
(なにをもって、私が「若いうち」なのかよくわかりませんが…。)

あらま、その立場にならないとわからないことなんて、とても「個人的」な
ことじゃないですか。立場にかかわらずわかるのが「本質」であり「哲学」
であるはずなのですが、ならばこの人はいったい誰に向けて、何を語り
かけているつもりなのでしょうか。

終いには、> [私は日本の哲学者みたいに、「哲学だけ」という狭小なくくり
では語らないですし、ルソー…ヘーゲルや、…デュルケイムや、サルトル…
レヴィ=ストロースなど、人文諸学として、もっと広いくくりで語っています。]

だそうです。(…線は中略)

まぁ、いろいろ幅広く勉強してるのはわかるんだけど、だからなんですか?
「真の哲学者」というのは「哲学の核心」の話ではなかったのでしょうか。
広いくくりで語るのは結構だけど、それは周辺の広がりの話ですよね。

結局この方は、いろんな哲学者や思想家の本を読んだと自慢したいだけ
ではないでしょうか。語れば語るほどに、話の本筋がぶれていくようです。
いろいろな難しい哲学の本を読んでいる割には、論理的なところが変ですし。
正直、あの程度の論理力では、上に掲げているような哲学者の文章は理解
できるはずもありません。

> 私の意図する「真の」とは、「卓越した」とか、「世に影響力のある」とか、
「国際的に評価されている」・・・
だそうです。
要するに、他人の評価が高いものを、私は「真の哲学者」と評価する。
そういうことになります。呆れて、それ以上関わるのはやめようと思いました。

「本物の哲学者など今の日本にはいない」と非難することで、自分の立場を
高みにおき、自分の言うことに信ぴょう性を持たせようとする、紛れもない
偽物でした。
ちなみに、プロフィールに「日本哲学会 哲学者」と、自らを称してました。
たしかに、ご自身は「真の哲学者」でないことは間違いないようです。
自分が本物なら、わざわざ自分が群れているところの所属をアピールすることも
ないですからね。「雑魚は群れる」といいますが、群れるから「雑魚」なんです。