…続きです。
かつての子供の遊びとは、本来の「考える」ことでした。
自然のあれやこれやを不思議に思い、それに身を浸し、考え、創造する。
それがすなわち、遊ぶことでした。創造が遊びでした。
今の子供の遊びは、ほとんどすべてが大人の作りだしたものです。
大人の作ったもので遊び、大人の作った情報を加工して、情報処理・情報交換を
しているだけです。テレビゲームも他のおもちゃもケータイもみんなそうですね。
答えは全部、大人によってつくられたもの。そこにたどり着くための情報処理を
しているだけ。創造性もありませんし、考える必要もありません。
大人の用意するもので遊ぶことで、子どもは経済の消費サイクルの一部に完全に
組み込まれています。子どもは大人と同じ、消費者として扱われています。
++++++++++++++++++++++++++++++++
教育についてもまったく同じです。
問題も答えも、大人が用意したものであり、その答えにいかに早くたどり着くか
ということのみが評価されます。「なぜそうなるか?」ということを、じっくり
考えることは、全く評価されません。
「結果を出さねば意味がない」という言葉が当たり前のように唱えられます。
自ずと子どもたちは考えるよりも先に、答えを要求するようになります。
美術や音楽教育も同じで、手本や見本になるような作品に近づけるような技術を
教えられ、その技術が評価の対象となります。創造性はここでも評価されないし、
そもそも評価する基準も、評価する人材もありません。
文学的なものも倦厭され、自ずと読書からは縁遠くなります。好まれるのは
漫画やドラマ、映画などですが、理性に訴えかける作品は好まれません。
あることについて「それが何であるか」という不思議に魅せられて、それを
追求していくような感性は乏しくなっているからです。
反面、人間関係にまつわる感情的なものが多くなります。感情がどう表わされて
いるかが、それらの評価の最重要基準となっています。ようするに、処世です。
それが悪いとは言いません。でもそればっかりだと、「人に好かれる・人に嫌わ
れない」事が一番の価値観になります。人間関係のみに一喜一憂し、世渡りの
事ばかり考える、カシコい人間が出来上がります。
==================================
SNSなどで常に他人と繋がっている環境にあり、他人とコミュニケーションを
図ることが精いっぱいで、自分自身や世の中について「内省」する機会もない。
でも、そんな環境なら、「何が正しいか」を考えることが無くなってしまうのは、
もう当然のことじゃないですか。
昔の子ども達にもいじめはありました。でもいじめられた子には「自然」という
逃げ場所がありました。「神隠し」という現象は、案外そうして行方不明になった
ことを指して言うのかもしれません。
だから自然に魅せられた子を心配して、人間関係の世界に戻るように、いじめた
子が迎えに行く。そうして人間関係が修復されていたのです。
今の子どもは人間関係が全てです。とにかく他人のことばかり気にします。
今の子供は道徳性が欠如していると言いますが、そんなことはありません。
ただ、自分たちの身内・集団の道徳、つまりはルールでがんじがらめになって
いるのです。そこから疎外されたらもう逃げ場が無いからです。
それでも逃げ場のなくなった子は…どうすると思いますか?
=================================
これが今の子供たちの置かれている環境です。
現代の都市化された我々の棲む環境です。
ところで、人間らしさって、なんでしたっけ?
人間の本質って、なんでしたっけ?
自分たちが何者なのか?何をしているのか?
どこへ向かって、どこに行きたいのか?
自分が考えるのでなくて、いったい誰が考えるのですか?
かつての子供の遊びとは、本来の「考える」ことでした。
自然のあれやこれやを不思議に思い、それに身を浸し、考え、創造する。
それがすなわち、遊ぶことでした。創造が遊びでした。
今の子供の遊びは、ほとんどすべてが大人の作りだしたものです。
大人の作ったもので遊び、大人の作った情報を加工して、情報処理・情報交換を
しているだけです。テレビゲームも他のおもちゃもケータイもみんなそうですね。
答えは全部、大人によってつくられたもの。そこにたどり着くための情報処理を
しているだけ。創造性もありませんし、考える必要もありません。
大人の用意するもので遊ぶことで、子どもは経済の消費サイクルの一部に完全に
組み込まれています。子どもは大人と同じ、消費者として扱われています。
++++++++++++++++++++++++++++++++
教育についてもまったく同じです。
問題も答えも、大人が用意したものであり、その答えにいかに早くたどり着くか
ということのみが評価されます。「なぜそうなるか?」ということを、じっくり
考えることは、全く評価されません。
「結果を出さねば意味がない」という言葉が当たり前のように唱えられます。
自ずと子どもたちは考えるよりも先に、答えを要求するようになります。
美術や音楽教育も同じで、手本や見本になるような作品に近づけるような技術を
教えられ、その技術が評価の対象となります。創造性はここでも評価されないし、
そもそも評価する基準も、評価する人材もありません。
文学的なものも倦厭され、自ずと読書からは縁遠くなります。好まれるのは
漫画やドラマ、映画などですが、理性に訴えかける作品は好まれません。
あることについて「それが何であるか」という不思議に魅せられて、それを
追求していくような感性は乏しくなっているからです。
反面、人間関係にまつわる感情的なものが多くなります。感情がどう表わされて
いるかが、それらの評価の最重要基準となっています。ようするに、処世です。
それが悪いとは言いません。でもそればっかりだと、「人に好かれる・人に嫌わ
れない」事が一番の価値観になります。人間関係のみに一喜一憂し、世渡りの
事ばかり考える、カシコい人間が出来上がります。
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SNSなどで常に他人と繋がっている環境にあり、他人とコミュニケーションを
図ることが精いっぱいで、自分自身や世の中について「内省」する機会もない。
でも、そんな環境なら、「何が正しいか」を考えることが無くなってしまうのは、
もう当然のことじゃないですか。
昔の子ども達にもいじめはありました。でもいじめられた子には「自然」という
逃げ場所がありました。「神隠し」という現象は、案外そうして行方不明になった
ことを指して言うのかもしれません。
だから自然に魅せられた子を心配して、人間関係の世界に戻るように、いじめた
子が迎えに行く。そうして人間関係が修復されていたのです。
今の子どもは人間関係が全てです。とにかく他人のことばかり気にします。
今の子供は道徳性が欠如していると言いますが、そんなことはありません。
ただ、自分たちの身内・集団の道徳、つまりはルールでがんじがらめになって
いるのです。そこから疎外されたらもう逃げ場が無いからです。
それでも逃げ場のなくなった子は…どうすると思いますか?
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これが今の子供たちの置かれている環境です。
現代の都市化された我々の棲む環境です。
ところで、人間らしさって、なんでしたっけ?
人間の本質って、なんでしたっけ?
自分たちが何者なのか?何をしているのか?
どこへ向かって、どこに行きたいのか?
自分が考えるのでなくて、いったい誰が考えるのですか?
の作者、藤子・F・不二雄さんの
の略ですが、「少し、不思議」の