小学生でもわかる「てつがくって、なに?」…というテーマで
記事を書いたら、「わかり易い哲学の本、何かない?」と訊かれました。
一応前にも書いたことあるんですけどね、あらためて。

消去法でいきます。おススメじゃないヤツ

まず、哲学の「入門書」を謳い文句にしているものはほぼダメです。
特にいろんな哲学者(主に西洋哲学)を時代の古い順番に紹介しているタイプ。
これは「哲学史の解説書」であり、哲学の本ではありません。
「誰それの哲学者がこう言ってた…。」と知ったかぶりして自慢したいなら
そういうのは打って付けですが、そうでなければほとんどムダです。

なぜ「入門書」がダメかというと、入門する門などないからです。
哲学は「学」がついていますが、実は学問ではありません。
いや、確かに学べばより深くなるには違いないので、その意味では「学」なの
ですが、哲学の本質は「考える」ことです。

したがって、考える前から学ぼうとするのはおかしいわけだから、
「ここが門ですよ、ここからお入りなさい」という入門書はすべて嘘ものです。
門なんかないから、どこからでも出入り自由。すべての人に開かれています。
開かれてはいますが、入れるかどうかはその人次第なのです。

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それから「人生哲学」とか「成功哲学」とか書いてあるもの。
書いてあることは「こうしたら楽しくなりますよ、みんなと仲良くできますよ」
「仕事でうまく行きますよ、お金が儲かりますよ」というHOW TOです。

そうして成功したり、生きたりしているのはどういうことかを考えるのが哲学
なんだから、書いてあることがまるっきりアベコベです。

そういった本には大抵、「こうしたほうがいい」とか「こうするべきだ」とか
説教くさいことが書いてあります。
人に好かれたり、つきあい上手になったり、お金持ちになりたい人、あるいは、
人に指図されてそのように生きたいマゾっ気のある人にはおススメですが
そうでなければ、余計なお世話です。

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また「街頭演説で叫んでいそうな言葉」がタイトルのもの。
「国家」「時代」「責任」…「右とか左」といったような言葉は特にそうです。
例外はあるものの、哲学ではなく、ほとんどは「思想書」です。
「日本はこうあるべき」とか「時代と向き合う」とか勇ましい言葉とともに
無責任に「~するべき」と説教、非難、攻撃のアメアラシです。

まるで、国や時代が自分とは別にあるような視点で、何かを責め立てるよう
に声を荒げています。
「国」だって「時代」だって、同じ人間のやっていることです。
したがって、何を考えるにしても、問題になるのは「自分か宇宙」「今か永遠か」
なので、中途半端な「国家や時代」をメインに語るのは、ただの政治的主張に
過ぎないものです。

それはそれで大変な問題だけど、そういうことが何で大変なのか、あるいは、
「大変」とは何かを考えるのが哲学なのです。
右とか左とか言う前に、「右・左ということはいったい何なのか?を知らなければ、
右も左もないのですから。

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あと、タイトルが著者の名前入りのもの。
「誰ダレの哲学」「私の哲学」とか。そのあとに、「人生哲学」「成功哲学」
と続いていたら最悪です。

哲学って、つまりは「考えを考えること」なんです。
考え自体は本質的に誰もが同じなので、誰が書いたかなんてどうでもいいんです。
だから、著者の名前や「私」なんてことをわざわざ書く必要もないのです。

それをタイトルに入れているのは、ほぼ間違いなく、その人が「個人的に」
思ったことや感じたことが書いてあるだけで、考えたことは書いてありません。
つまりは雑記帳か日記みたいな、ただの感想文にしかなっていません。
もしくはさっきの「人生哲学」「成功哲学」の類です。

※ インターネットとかで「哲学」と検索しても、ほとんどが上記の意味で
「哲学」の言葉を使っています。個人的なことの自己主張に「哲学」の言葉を
使っているものがほとんどなので、「哲学って何?」と尋ねている人が、
その中からまともなのを見つけ出すのは困難です。

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その他、やたらカタカナ単語を多用しているのはおススメしません。
他国の書物の単語をそのまま載せているだけですので、書いてる著者は
理解できていない可能性が大です。理解できているなら、自国語(日本語)で
書けるはずですからね。

そうしてみると、タイトルに「哲学」と書いてあるものはほとんどふり落されます。
もちろん例外はありますが、それは読んでみないことにはわかりません。
しかし、それを読んだところで、どんなに簡単に書いてあっても、
読む本人がそのことに疑問を持っていなければ、書いてある内容はちっとも
わかりません。

考えなければ哲学は不可能です。考えるためには、何かを疑問に思わなければ
なりません。そして、疑問をもつためには、何かに驚かなければなりません。
門があるとしても、入門もできないのは、入口と違う方向を見ているからです。

対象はなんでもいいんだけど、まず驚かないことには何ともならないんですね。
でも、「驚け!」といって驚くことはできませんよね。
「不思議に思え!」と言われて不思議に思うこともできませんよね。
それに驚けるか、それを不思議に思えるか、それは当の本人の感性の問題です。
それを教えることだけは絶対にできません。

でもいーじゃないですか。驚かないなら驚かなくても。
それで困るわけじゃなし。なにしに哲学なんかしたいんですか?
哲学してる人ってですね、何かのためにやってるわけじゃないんです。
驚いて、不思議に思って、考えるのがやめられないからそうしてるだけなんです。
驚かない人が無理して驚くことなんて(無理ですが)、これぽっちもないんです。

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何かに驚いて不思議に思えば、いやでもそれについて考えまてしまうものです。
考えれば、漫画を読んだってテレビを見たって、なんでもそれを参考に(ネタに)
して考え深めることができます。その証拠に私は、アニメ映画や、ビートルズや
スマップの歌をネタにして、哲学の核心を書いていますね。
ただし、考えるときは人は外部の情報を遮断するものであることはお忘れなく。

というわけで、おススメの本などはありません。なんだっていいんですもの。
強いて言うならやっぱり古典ですね。書いてある表現は難しいんだけど、
人間の考えてることはずーと変わらないんだから、時間の洗礼を受けてなお
残り続けている古典には本物の凄味があります。

もちろん、凄味に惑わされて、ありがたがってはいけませんが。
いかがわしいタイトルです。
前回は小学生でもわかる「はず」の文章を書いた手前、
今回はちゃんと小学生に向けて書きます。
「オトナとのつきあい方ドキドキ」。

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大人というのは、難しいことをアタリマエと思い、アタリマエのことを
難しがって考えます。みんなアベコベにしちゃうのが大人です。叫び

たとえばお金。¥ただの紙切れか金属のかけらなのに、なんで
いろんなものと交換できるのか?コンビニ
なんでそれのために、朝早くから夜遅くまで働いたりできるのか。ビル
こんな難しいことを、「そんなのアタリマエだろ」と疑うことなく信じています。

反対に。「誰もが私」というアタリマエのことを、「自分は、どこどこの
誰ダレで…」といろんな肩書や役割をつけて、アイデンティティとか
存在意義とか、わけのわからない理由をつけて「自分」が何かを説明
しようとします。それをありがたがって、信じていたりします。

つまり、大人っていうのは、信じてる人たちです。

それに対し「哲学」ていうのは、アタリマエとされていることを信じないで
「なんでアタリマエなんだ!?」!?と疑って、考えます。
だから「哲学」はちっとも大人っぽくはありません。

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大人って、自分たちで勝手にいろんなことを信じたがります。
信じないと何にもできないからです。
買い物するたびにイチイチ「お金はただの紙切れだろ、なんで物が変えるんだ?」
なんて疑っていたら、物が買えませんからね。プレゼント

社会って人の集まりですね。でも、人が集まっただけではただの集団であって、
社会にはなりません。社会は目に見えないのです。オバケ
社会とは、人の集まりの中にある、いろんな決まりや約束ごとや習慣などの
まとまりのことです。

それらはぜーんぶ、それを信じることで成り立っています。
そういう決まりや約束ごとなどを信じるから、一人じゃできないことでも、
みんなと協力してできるんですね。グッド!

そうやってみんなで協力ができるように、大人はこどもに勉強やしつけをします。学校
それらのほとんどは、そういう約束事や決まりを信じさせるためにしているのです。
でも実は、それらのほとんどは絶対に正しいものというわけではありません。
とりあえずそれを正しいということにしてるから、社会が成り立っているだけです。

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決められたことが「とりあえず」正しいにすぎないわけだから、それぞれの
「正しい」の間で、どうしてもくい違いが出てきてしまいます。ショック!
でも、ほとんどの大人たちは「とりあえず」っていうのを忘れて、「絶対に」正しい
といつのまにか信じこんでいます。
その自分たちの信じたものごとで、いろいろ困ったり、争ったりしています。爆弾

だから、信じないで考えるってことは、困ったり争ったりすることを
少しでもなくすために、とっても大事なことなんです。目

ただし大人の世界は、わかっていないことを信じることでごまかしている
世界なので、信じない人を「困ったチャン」おやしらずとして扱います。ドクロ
大人にとって、信じない人は世の中の規律を乱す困った人なのです。

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そんな大人たちと上手に付き合う一番の方法が、
「信じたふり」をすることです。チョキ
間違えてはいけません、「わかったふり」ではなく、「信じるふり」ですよ。合格
わかるためには、信じないで考えなければいけないですからね。
そこだけ押さえておけば、何にも困ることはありません。クラッカー

お金が価値だということを疑っていたら買い物はできませんが、
信じるふりをしていれば買い物にも困りません。
信じるふりだけで、信じたりはしていないのでお金に振り回されることも
ありません。

でも、信じたふりをしているつもりでも、いつの間にかめんどくさくなって
どっぷりと信じちゃう人がほとんどなんですけどね。ガーン
そうならないように注意しましょう。べーっだ!

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…小学生向けって、ホントに難しいですねえ…。汗











【前置き】以下の文章、極めて簡単な日常単語を用いて、
極めて単純な文法で構成されています。
そして、極めてアタリマエの常識を一つ一つ確認する形で書いてあります。
したがって、小学生にもわかる「はず」です。

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「てつがくって、なに?」

「わかる」ということには、二つの種類があります。
「調べればわかる」ことと、「考えなければわからないこと」です。
前者のことを「情報」といい、後者のことを「知識」といいます。
本や、新聞や、インターネットで得るものが情報です。
そういうものを閉じて、情報をもとに考えることで得られるものが知識です。

「どのように戦争が行われたか?」は情報ですが、
「戦争が行われるとはどういうことか?」は、考えなければわからない知識です。
他人の知識は情報となって流れますが、それを理解するためには自分で
考えなければ理解できません。

「哲学」は、考えて知識を得ることの一つであり、情報を得ることではありません。
どんなに本を読んでも、調べても、考えないことには哲学はわかりません。
では、哲学とはいったい、何を、どのように考えるのでしょうか?

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哲学とは、
「当たり前のことから問い始めて、ぐるっと考えを一巡りして、
 当たり前の事実であるその問いそのものが、実は答えだったんだ。」
…と気付くこと
です。「チルチルとミチル」みたいなものですね。
一言で言えば、「考える」ことなのですが、何か特定のものを
それぞれ別の考え方で、それぞれ特別な答えを出すわけではありません。

じつは「考える」ということは、誰もが何を考えたところで同じ「考え」で
考えています。だからこそ、他人の言うことがわかるのだし、「社会科」でも
「理科」でも同じように問題がわかるんですね。
だから「考える」っていうことは、いろいろ考えることはあってもみんな
考えが考えを考えていることになります。
え、わかりにくい?では、もう少し説明します。
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ありとあらゆるもの全てというと、それは「宇宙」ですね。
この宇宙には、考えられるものしかありません。
「今は考えられないだけで、科学が進めば考えられるはずだ!」
…という人がいるかもしれませんが、そういうことではありません。
「考えることができるものは初めから決まっている」ということです。

ものすごく当たり前のことですが、宇宙には、
在るものだけが在って、無いものは無いですよね。そして、
考えられるものは考えられるけど、考えられないものは考えられないですよね。
ところで、在ると言えるのは、そのように考えているからそう言えるんですよね。
だったら、
考えることができないものは無くて、無いものは考えられないですよね?

この宇宙には、考えられるものしか、存在しない。そうであるなら、
「宇宙」「考え」「存在」は実は同じということになります。
そうすると、「考える」とは、考えが考えという宇宙を考えることになります。
または、「考え」が考え自身を知ることとも言えます。わかりますね?

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「哲学」はいろんな答えを用意することができますが、いかなる答えを
用意しようとも、最終的には問いそのものが答えになることに気付きます。
ということは、答えは問いの同語反復か、問いの反対語の否定となります。

たとえば、
「在るとは何か?」の答えは、「在ること」か「無いではない」です。
「生きるとはなにか?」の答えは、「生きること」か「死ぬではないこと」です。
「私とは何か?」の答えは、「私である」か「私以外のものではないもの」です。

しかし、あるものはそうでないものによって、そのものであるとわかります。
たとえば、静かに走る電車の中で「電車が走っている」とわかるのは、
電車ではない窓の外の景色が動くからです。
「そうでないもの」を知らなければ、「あるもの」をわかることはできません。

したがって、さっきの問いと答えに照らし合わせれば、
「無いとは何か?」の答えは、「無いものは無いのだからわからない」。
「死ぬとは何か?」の答えは、「死というのは無いということだ。無いのだから
わからない」となります。
「私以外とはなにか?」の答えは「そこに私が無いということだ。無いのだから
わからない」ということになります。

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つまり、答えは「それである」「わからない」のどちらかです。
したがって、何も言ったことにはなりません。何も言ったことにはならないけど、
答えられるすべてを言ったことにもなります。

さらになぜ「それである」なのか?と問うとなると、答えはひとつだけ。
最後の答えはいつも「わからない」です。

ならば考えても何もわからないか?といえば、そうではありません。
「わからない」ことがわかったし、「わからないこと以外」がわかったはずです。

最後に残った答え、「わからない」は、そのまま問いとして残ります。
答えることができない問い。それを「謎」といいます。

つまり「哲学」とは、難しいことの謎を答えるものではなく、
アタリマエのことにを見つけ出すものなのです。
したがって、まったく役には立ちません。

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まるで禅問答みたいです。そのとおり。と同じだからです。

あれやこれやと言葉を尽くして答えれば「哲学」となり、
「めんどくさいわ!」と、思い切りシンプルに答えれば「禅」となります。
どちらも同じことなんだから、答え方はもう、気分の問題です。

わかるようにしかわからんのだし、わかりたいようにしかわからんのだから、
好きにすればいいのです。

どうせこの世のことなんだから。

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【あとがき】
…というわけで、小学生にもわかる文章の形で書いてみました。
ただし、内容は小学生向けではありません。
諧謔が含まれているため、ちゃんとした分別のある大人向けの文章です。
これで意味がわからないというのなら、何かが欠けているのか、
なにかがジャマして理解を妨げているのでしょう。


all through your life, I ME MINE …
「わたしって、なに?」の9回目。


「個人である私」と「普遍、一般である私」の二つの「私」について述べました。
しかし、自分の中に二つの自分がいるわけではありません。
この二つは、「内容と形式」の関係です。
平たく言えば、ワインとボトル。二つでワンセットになっております。

これは「存在者と存在」の関係とまったく同じです。
この世には「様々な存在者が存在する」。しかし、
この世には「存在のみが存在する」。これも「内容と形式」の関係です。
「私」や「存在」の、この「内容と形式」の矛盾は、当たり前の事実です。

この事実に自覚的な人と、そうでない人の2種類の人間がいますが、
自覚的な人は圧倒的に少ないようです。

したがって、世の中の多くの人は、自分のことを「所属や属性」によって
成り立っている「個人」であるとしか思っておりません。
自分を個人としか思っていないので、単なる自己主張
自己表現だと思っています。
そのため、自己表現をするとなると、必然的に自己顕示が強くなります。
そのために他人と違うことを目的として行動するようになります。
他人と異なることが1番の価値になってしまうのです。

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個性を尊重し、自己主張がもとめられる風潮。
…でも,考えてみてください。

「自己主張」とは何かを知らなければ、自己主張したことにはなりませんよね。
それ以前に「自己」とは何ですか?「個性」が自己なのですか?
ならば、「個性」とは何ですか?他と違うことが「個性」なのですか?
何が同じ で、どう違っていれば「違う」ということになるのですか?

「同じ」が何かをわからなきゃ、
「違い」がわかるわけがない。

ということは、この「同じ何か」を知らないということは、「個性」が
何であるかを知らないということになります。

したがって。
人は違うことを目差すほど、個性的でなくなる。
理屈でもそうだし、経験的にも、みんな知っているんじゃないんですか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

パソコンとかスマホ、ケータイが普及し、広くSNSが浸透する。
で、みなさん何をやっているか。
自分が何をしたか、何を見たか、何が好きか。それのアピールです。
人それぞれ違いはあるけれど、その限りはどれも同じ。
やってることは、みーんなおんなじ。
みんなちがって、みーんなおんなじ。
それはそれでちっとも悪いことではないし、可愛げのあり、微笑ましいこと
でもあり、他愛のないことであります。

厄介なのが、それがエスカレートして、人と違った目立つことをやりたがる
人間が増えることです。奇行を行い、それを自慢げにSNSで垂れ流す。
ときには犯罪まがいのことをする。およそ他人にアピールするような
中身のない人ほど、人と違う中身を見せたがる
そんな傾向が強いようです。

「何が同じか」を考えるのがものごとの順番だし、考えないからこそどんどん
事態はエスカレートしていきます。
でも、考えられない人間に「考えろ」といっても、やはり考えることはできない
のだから、世の中はいつも行きつくところまで行きつかないと変わらない。
そのようにできているようです。

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【おまけ】
…こういうということを書いてると。
「お前だって自己主張ばっかりしてるじゃねーか!」
とお思いになる人がいるかもしれません。もしそう思うのならこのブログ。
どこに私の「自己」が書いてあるか?どこが私の「主張」なのか?
教えていただければ嬉しい限りです。


「世界に一つだけの花」。スマップの大ヒットソング。

あの歌は、ある一点をどう聞くかによって、名曲になるか、凡庸なありふれた
応援ソングになるかが分かれます。


「そうさ僕等は、世界に一つだけの花」
この「僕・自分」は、前回に私が書いた「個人の私」なのか、
「私一般としての私」なのか。どちらを指すのかということです。

しかし歌詞全体と、世間一般的な反応をみると、この曲はどうやら
「個人の私」のことを歌っているようです。その証拠にこの後に続く歌詞は
「一人ひとり違う種を持つ その花を咲かせることだけに…」

となっているからです。

結果、ありふれた凡庸な、つまらない歌になってしまっていると思います。
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「№1にならなくてもいい」。確かに。いいと思うならそれでいい。
「もともと特別なオンリーワン」。はい、間違いなく誰もがオンリーワンです。
しかしそれが、個人としての私」のことを指し、「それぞれの個性
のことを言うのなら、それは単純に矛盾であり、したがって誤りです。

人それぞれが異なる個性を持つ。これはいいでも悪いでもない単なる事実です。
しかし、その個性がいいものか、そうでないものかを決めるのは、他人であり、
他人によって構成された社会の価値観であります。

自分が№1にならなくてもいいのはちっとも構いませんが、それを「№1」と
呼んでいるからには、その価値観・価値体系は認めているわけですよね。
かたや、オンリー1と呼ぶそれが、「個人や個性」のことを指すのであれば、
やはりそれは他人の価値観に依ってのみ存在しうるものですよね。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ということは、価値体系はしっかり認めつつ、しかし自分の個性だけは、
その体系とは無関係なオンリー1の存在である。そういうことになります。
これはちょっとムシがいい話ではないでしょうか。

それに、もし本当に「個性」がそれぞれオンリー1だったら、№1も何も
個性の優劣が完全になくなってしまうじゃないですか。

逆に言えば、そういう考え方は自分のオンリー1を主張するがために、
他人の優れた個性を無視することに繋がってしまうことになります。
それでもいいのでしょうか?

つまりこの歌の「オンリー1」のことを、「個人や個性」のこととしてしまうと、
「他人の価値観なんて関係ない、自分の個性は自分がいいと思えばいい」
ということになってしまいます。ただのワガママです。
意地悪に言えば、「価値体系の中での競争に敗れた敗者の慰みの歌
という、非常につまらない凡庸な歌にならざるを得ないのです。

「みんなちがって、みんないい」の一文が有名な、金子みすずさんの詩
『わたしと小鳥とすずと』も、個性尊重の詩として捉えてしまうと、
同じようにとたんにとてもつまらないものになってしまいます。

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本当の個性って何ですか?

社会の中で、№1はおろか、その個性を価値として認められないものが、
個性を認めてもらうために、その独自性を強調する。
結果、価値体系と外れた奇異なものを個性だと思い込み、奇怪な行動を
アピールする。ありふれた、とてもわかりやすい図式です。

しかし、果たしてそんなものが「個性」と呼べるのでしょうか?
そもそも、「個性」というのはそこまでして追い求めなければならない
価値なのでしょうか?人と違う。それだけのことが、なんで価値であり得る
のでしょうか。

「他人と違う」そのことを目差す個性は凡庸です
他人と違うことのみを目差す個性は、優性よりも差異のほうを優先させます。
でも、他人と違ってはいても、違っているという点でみんな同じく、凡庸です。

しかし、本当に優れた個性は、結果的に他人と違っているだけ
であり、最初から異なることを目差していたのではないのだと思います。
何かを「違う」と言えるためには、「同じ」ということが認識されているから、
「違う」と言えるのです。
「同じ」が何かを知らなければ、「違い」がわかるはずがありません。
呑み比べやるなら、銘柄は違っても日本酒ってことは同じじゃなきゃダメでしょ?

他人と違うことよりも、他人がどうあれ、自分のすることを自覚し理想を目差す。
理想を目差すということは、なにが「同じ」かを知っているということです。
そうして、圧倒的、絶対的に優れたものを目差そうした結果が
個性的な人を個性的にしたのではないでしょうか?

それができないなら、無理して個性的になることなんて、みっともないことでは
あっても、目指すことでもなんでもないと思います。

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そうだとしたら、あの歌詞はどこが間違えていたのでしょうか。
それは、「一人ひとり【違う】種を持つ」というところではないでしょうか。
そうではなくて「一人ひとり【同じ】種をもつ」のが正解だと思うのです。
このたったの一点だけで、歌の全体の意味が全く違ってしまうのです。

誰もが等しく、内容はどうあれ、生まれて、生きて、死んでいく。
誰もが等しく、「考える私」であり、「精神」である。
またの名を「魂」
それを自覚して生きることが、本当のオンリー1、絶対的オンリー1だと思います。

ソクラテスはそのことを
「人生の目的は、魂の世話をすることだ」
と言いました。

自分のちっぽけな個性などではなく、「普遍性」を自覚した意識のみが、
その普遍性を実現しようとして、その表現において結果的に「個性的」なる。

天才の偉業は、そこに普遍性が認められるから讃えられるのです。
表現だけ他人と違ってもちっとも個性的ではないし、それを個性と呼んだところで
そんなものには意味が無いんですよ。違がってるっていうだけなんだから。

天才とよばれるほどの個性的な人の偉業を見れば、そうとしか思えません。


「わたしって、なに?」の8回目。…ところで。
なぜ、「わたしって、なに?」なのか?
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「あなたって何?」
と他人に訊かれた時の「私」とは、個人としての私です。
名前、年齢性別、身体特性、戸籍国籍、職業肩書、特技趣味嗜好、思想宗教信条…。
「個人としての私」とは、様々な答えが用意できますが、その答えはすべて
私の属性と所属であり、相手との関係次第で必要に応じて変わってきます。

「わたしって、何?」
という問いは自問自答の問いです。
自分に応える問いなので、他人との関係性に縛られる必要性はありません。
自分の知っているありとあらゆる所属や属性は、答える必要はありません。
したがって、すべての人が同じ条件となります。
つまり、誰もが同じであるところの、一般概念としての「私」です。

言葉は、他者に伝える道具としてある以前に、思考としての道具、いや
思考の論理そのものであります。
同じように「私」というのは、誰かに対しての「個人としての私」である
以前に、他の誰でも絶対にありえなかった「この私」が先にあります
「個人の私]は相対的な私ですが、「この私」は
絶対的な私です。


ふつう、「私」が語られる文脈は、他人に向けて語られるため、ほとんど
例外なく「個人の私」です。「個人の私とは何者か?」を思い悩み、
それに答えを見つけては喜び、生きて、死んでゆくというのがほとんどの
人の人生です。どんな立派な人も、普通の人も、その図式を生きています。

例えば日本人として、あるいは勤め人として、芸術家として、王侯として、
乞食として、慈善家として、犯罪者として、誰かの親として、誰かの子として、
男として、女として。何者かとして。その人を生きて、死んでいきます。
=====================================

でも、その「個人としての私」とは、
どんなに功績を上げようと、どんなに変化に富んだ特殊な人生であろうと、
他人や環境や時代によって変わる私でした。

それは即ち、他に依存する、他に依って存在する「私」です。
もちろんそれは、とてもとても大切なことではあるけれど、
他人と比較しては一喜一憂する、とても不安定な「私」です。
それを生きただけで「自分の人生」を生きたことになるのでしょうか?

もうひとつの「この私」。誰もが自分を「自分」と呼んでいる「この私」。
普段誰にも語ることがないため、完全に忘れてしまうような、「この私」。
誰かのための「個人である私」以前に、確実に存在している、「この私」。
誰でもないが故に、誰でもある「普遍の私」。

これについては、考えることなく生きて死んでいってもいいのでしょうか。
もちろん、人生は人それぞれ。何を考えようと自由だけれど。
でも、本当に大切なことは、「この私」という絶対的な私を
考えなければわからないのではないでしょうか?


「この私」が何であるかわかってこそ、
「個人の私」のかけがえなさや素晴らしさ

わかるんじゃないのでしょうか?

=================================

どんなに偉大な人でも、個人であるまえに「この私」です。
どんなに偉大な人でも、誰もが等しく、生きて、死ぬ、「この私」です。
偉大な人ほど、最期の時に、その偉業と「この私」を想い、
その不思議な因果をを強く意識するでしょう。かならず。

そうであるならば、最期の時を迎える前に、「わたしって、なに?」を
考えるのもいいのではないかと思い、このシリーズを書いてみました。

…なーんちゃって。
偉そうでしょ。宗教臭いでしょ。そりゃそうですよ。
あらゆる宗教のいうことなんざ、とどのつまり、この一点なんだもの。
ここのところを、ありがたがって信じるのが「宗教」。
ここのところを、不思議に感じて考えるのが「哲学」。
ここのところを、何とも思わなければ、何とも思わない人生。
ただそれだけのことですもの。

どれでもどうでもいいんです。深刻ぶっても仕方がないです。
いずれにせよ、いずれにしかあり得ないわけだから。
自由にして必然なんだわな。こればっかりは。

だまされているのは、誰なのか?
またまた脳のお話。4回目です(たしか)。


脳科学の説明に見られる滑稽さは、脳科学の前提にあると言いました。
つまり、「脳が考えている」という前提。
しかし脳科学は、都合によって自らこの前提をいとも簡単に覆します。

テレビ番組などで見かける、視覚の錯覚。たとえば、残像効果。
しばらくある映像を見た後、映像を切り替えると、画面に映っていない
ものが見えてしまうという、あれです。

この時よく使われるセリフが、「脳はだまされている」
************************************

ここでよく考えて欲しいのですが。
「考えているのが脳」なら「私は脳」ですね。
「だまされているのが脳」なら、「だまされているのは私」です。
しかし、「だまされているのは私」というのは不可能な事態だという
ことに気がつきませんか?

「だまされたのは私」という過去形なら可能です。
しかし、「私はだまされている」と現在進行形で言えるためには、
だまされていない自分がいなければ、「だまされている」とは言えません。
完全にだまされているのなら、だまされていることに気がつかないはず
ですから。

ということはこの時、「脳がだまされている」
と言っているのはいったい誰なんですか?

====================================

だまされたことを知っているのも脳だというのでしょうか?
ということはこの時、だまされていない脳とだまされている脳の二つが
同居していることになります。
すると、「私=脳」でしたので、私も2つあることになりますね。

だとしたら、だましている私は「だます仕組み」を知っているので、
私をだますことも可能です。
でも、「自分で自分はだませない」と言いますね。

だまされている私と、だまされたことを知っている私(だましている私)。
どちらがホントの私なんですか?

「脳が考えている」と言いつつ、都合の悪い時だけ「だまされているのは
脳だ。私はだまされているわけではない」と言うのはズルイと思うのですが。

脳科学はいったい誰をだましているのですか?
あると思う心、あると信じる心
物質と精神のお話です。

===================================
「存在」即ち「在る」という事態は如何にして可能か?
と問えば、答えは「思うから」以外ではない。
思考即ち「意識」によって存在が存在するのであって、その逆ではない。
しかし、意識もやはり存在である。
したがって、存在とは意識が存在するのであり、それ以外ではない。

これが「存在と意識」を考える三段論法の帰結である。
では、「物質」とはなにか?物質の存在とは。

意識即ち「精神」と「物質」は同じ存在の二面性である。
存在を、精神の側から見れば、精神と言うことになる。
反対に、物質の側から見れば、物質と言うことになる。
「科学」は、物質の側から存在を見るから、物質に見えるのである。

しかし、見るのは必ず精神が見ているのである。
眼球で見ようと、脳で見ようと、そう言えるのはそう思うからである。
思っているその当の主格を、精神と呼ぶ。
したがってやはり、存在とは精神である。

=====================================

「物質と精神」の二項対立は、このように必ず精神が先に来る。
精神の確実性は絶対だが、
物質の確実性は精神との相対性に依存する

にもかかわらず、人は物質の存在こそをまず信じる。信じている。
そう、信じているのである。
人は絶対確実なものに対しては、「信じる」の語は使えない。
不確実なものを理屈を超えて選択するとき、人は信じるの語を使う。

したがって、「唯物論」とは一つの信仰である。
「哲学」とはすべてを疑い、確実なものを探す行為であるが、
「唯物論」とは、疑うことではなく信じることが求められるのである。

存在するのはこの物質だと信じ、この肉体と
現実を信じ、生存を価値とし、その価値を信じる。

これはもう、立派な宗教である。
現代の人は信仰心が少ないと言うが、なんのことはない。
信仰の対象が、宗教の神から「物質」という神に変わっただけである。

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宗教も唯物論も、信じることが求められます。
まともに考えたら、それはその程度だということがわかり、
適当なお付き合いで事足りると思うのですが。
宗教も唯物論も、いかんせんものを考えない人にはわかり易いようで。
それを疑う人こそを「異端者」として排除したいのかも知れません

当節、精神だの存在だのの言葉を使うだけで、何かの信仰の話か?
と早合点する人の多いこと。「生活と娯楽が人生のすべてだ」と思えば、
ものを考える必要もありませんからね。
「汝、自身を知れ」なんて言葉が理解されないのも
無理からぬことでしょう。

自分を含めたすべてを「物質」と対象化してしまったからには、
知るべき自分なんて出がらしの「個人」ぐらいしか残っていないのだから。




またまた脳の話。第3回目かな?

ものを考えるには考える順序というのがあります。それを論理といいます。
ニュートンは「リンゴが落ちたから、引力がある」なんて非論理的なことを
言ってはいません。リンゴが落ちたのを見て、万有引力理論の構想を練る
きっかけになっただけです。

「リンゴが落ちたから、引きよせる力がある」は理屈がアベコベだと
すぐ気がつく人でも、「脳がリンゴ味がすると感じたから、リンゴの味が
すると思う」
という理屈がアベコベだと気がつく人は少ないようです。

それだと、「脳がバナナ味がすると感じたのに、リンゴの味がすると思う」
ということが、文法上可能ですよね。でも原理的に可能だと思いますか?
リンゴ味がすると思ったら、脳がどんな状態であれ、脳はリンゴ味と感じている
と認めざるを得ないのではないですか?

だったら、「リンゴの味がする思うから、脳がリンゴ味と感じている」
というのが正解じゃないですか。
そのうえで、「リンゴの味がすると思うのに、脳はバナナの味がすると
感じた時の状態になっている」
ということが言えるのじゃないですか。

科学への過信は思考を停止するので、この転倒に気がつかないのです。

こういうことを書くと、以前にもありましたが「あなたは科学というものに
嫌悪感があるのか」
というような粗雑な意見をいただいたりします。
嫌悪も否定もなにも、「盲信はいかんよ、考えなくなるから。
考えないと、無茶を無茶と気がつかなくなるから」

という批判をしているだけなんですがね。

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昨今のテレビ番組では、ある事象の解説を科学者にコメントさせて、
視聴者の納得を誘うパターンのものが多いようです。
しかし、脳科学に依って解説しているものの多くは、問いと答えが転倒して
いたりして、無意味になっているものが多く、滑稽です。

先日見た番組では、「おいしく食べるにはどうすればいいか」のテーマに
脳学者がコメントしていました。
「脳科学的には、楽しい時の気分と美味しいと
いう感覚は結びつきやすい」
…だそうです。
それに対して、番組は「すごいぞ、脳科学!」だって…。アホですか?

「楽しい時に食べればおいしい」。そんなことは脳科学に教えられなくても
誰でも知っている、経験的事実です。
脳科学が経験的事実を裏付けしているのではなく、脳科学が経験的事実に
裏付けされている。そんな当たり前なことを忘れちゃうと、こういうナンセンス
なことをやってしまうんですね。

これは極端な例としても、テレビ番組の脳科学による解説は、こういった
バカバカしさが随所に見られます。

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「脳と考え」の関係は時計と時間」の関係に似ています。
時間が経つから時計が廻るのであって、その逆ではありません。
時計をいくら探っても、そこに時間はありません。
時計をいくら反対に回しても、昨日が来るわけじゃありません。

ひとつおたずねします
あなたの脳が考えているのですか?
あなたが脳で考えているのですか?


脳科学が前提にしている仮説、「脳が思考する」は、
脳科学を進める上で必要な前提に過ぎないだけなのですが、
それを過信し続けると人間はヘンな方向に走り出すかもしれません。

最も極端な想定は、映画マトリックスのように、仮想現実で生きる世界。
脳が幸せに感じれば幸せな気分になれる。だから脳に幸せを感じさせよう。
そういって、脳にコードを繋ぐ。あるいは薬品で操作する。
何のことはない、ただの麻薬じゃないですか。

本末転倒のバカさ加減に気がつかず、行きつくところまで行けば
いいのかもしれませんね。

再び、脳の話。
先週につづいて、「バクモン」という番組の脳をテーマにした回を見ました。
と言ってもたまたまやってただけなので、見たのは最後の10分だけですが。
その10分間に、次から次に妙なことばかり言いだしました。

「SF映画のように、人をコードでつないで意志疎通ができるようになる。」
「脳の仕組みが解明されることによって、思考の仕組みがわかり、
 人文科学の分野が大きく変化する。」
とかとか…。

ああ、やっぱり考えていないんだ、と萎えるものを覚えました。
ああいうのは諧謔なのだ、冗談で言っているのだと思っていたが、どうやら
本気らしい。第一、テレビでそんな諧謔をやるのはよろしくありません。
見る人はみんな、まともに本当だと受け取ってしまいますからね。

コメントしてる人は脳科学の技術者かもしれませんが、とても科学者の
発言とは思えません。科学者の言なら、科学者として根本的なところが
欠如しているのではないかと思います。
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科学は「学」であるかぎり、論理的でなければいけません。
論理的とは、前提から段階的に正しさを確かめながら、結果にいたることです。

脳科学の前提とは「脳が考えている」なのだが、それはあくまで
仮説であり、脳が考えているかどうかは確かめようのないことです。
それは技術的に不可能なことではなくて、タイムマシンと同じく原理的に
不可能なことなのです。科学の前提というのはみなそうなのですが。

科学は物質を扱う学問です。脳は物質です。
しかし、考えや気持ちは物質ではありません。
「考え」は見たり触ったりできないし、薬品に反応することもありません。

「考え」や「気持ち」というのは、人の言葉や態度で示されたものを見て、
そこから考えや気持ちと判断しているだけです。
脳をいくら探っても、「これが考えだ」と見つけ出すことはできません。

仮にある人が怒るときに、必ず脳に特定の状態が認められたとします。
脳科学の前提にもとづけば、脳がその状態になったのが原因で、
「怒り」はその結果だということになります。
しかし「怒り」は物質でないので、原理的にそれを確かめるのは不可能です。
「怒り」によって、脳がその状態になったということもできるわけです。

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「人をコードでつなげて、気持ちや考えを伝えることができるようになる」
ほう。ではお尋ねしますが。
「伝わる」というのはそれがなんであれ、もともとのものと届いたものが
同じものだと思えるから、「伝わった」と思えるわけですよね。
少なくとも同一であるか、あるいは同質であるかのいずれかにより、
「同じものである」と思えることが
「伝わる」ということの本質であるわけですよね。

それでは、たとえば「痛みの感覚」をコードを経由して伝えることが可能に
なったとして、それが「同じ」痛みであると、どうして思えるのですか?
もとより同一ではないわけだし、同質であることも確認できないですよね?

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Aさんの痛みをBさんに伝えたとします。
Aさんが「痛みを伝えた」と言う。Bさんは「痛みを感じた]と言う。
その限り、Aさんは痛みを発信し、Bさんは痛みを受信したのは間違いありません。
しかしそれが、Aさんの痛みと同じものと確認することは絶対にできません。

Aさんが「すごく痛い」と思って送った痛みを、Bさんが受け取りました。
Bさんはその痛みを「なんだ、たいしたことないじゃん」と思いました。
この場合に彼らはそれを同じ痛みと思えるのでしょうか?

もちろん、その時にまったく脳の状態が同じ反応を示すことを確認することは
できるかもしれません。だからといって「同じ痛み」かどうかはわかりません。
「同じ」ということが確信できなければ、伝わったことにならないですよね。

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「脳がわかると人文科学の分野に大きな革新がおこる」
へえ。でも、なにがどうかわるの?大風呂敷をしいたところで、品物は
なんなのか、本当のところ自分でもわかってないじゃないですか。
何がしたいのかわかっていなくて、何がどう変わると言うのでしょうか。

「脳科学」は脳の科学であり、考えを扱うのは「人文科学」です。
脳科学はどうやっても考えを扱うことはできません。
それは、住み分けやシェアの問題ではなく、カテゴリー、つまり枠組みの
問題なのであるから、どうしようもないのです。

ポテトとニンジンはいっしょにして料理できるけど、
ポテトの代わりにニンジン使ってポテト料理はできません。
ポテトをいくらおいしくしても、ニンジンがおいしくなるわけじゃありません。

だとしたら、脳科学で脳がいくらわかったところで、
人文科学はちっとも変わるわけがないじゃないですか。

こういった間違いはすべて「考え」を物質のように扱える
という誤った認識からきているのだと思います。
そういうことがわからないのなら、脳科学を知る前に、科学とは何かを
知ることのほうが先に来るのが道理というものです。