単純なのに(だから)めんどくさいです。
しつこいですが、しつこい男 ヘーゲルさんです。

このひと、ホント誤解されやすい人です。

ヘーゲルの哲学では、客観的世界、すなわち社会や歴史も、
絶対精神の自己実現の過程とされ、 歴史の目的とは精神が自由を
自覚することなのだと言います。

普通はこんな言い回しするとドン引きされます。こんな言い方するから、
誤解ばかりされるのですが、言ってることは単純です。

+++++++++++++++++++++++++++++++

客観的世界、あらゆる歴史のすべてなんて、つまるところは
人間の考えたことのすべてだ。計画して起こったことも、
偶然突発的に起こったことも、そのように、考えているようにあるだけだ。
あたりまえだけど、考えられることしか考えられないし、考えられないことは
考えられないのだから。

じゃあ、既に考えたことでも、未だ考えられていないことでも、この世は全て
考えられることしかあり得ないわけだ。全部ひっくるめて名前をつけておこう。
絶対それしかあり得ないんだから、「絶対精神」と呼んでおこう。
世界は考えているこの精神のことだから「世界精神」でもいいか。

最終的な理想形が「絶対精神」。絶対精神という理想の自分を目指して、
自己実現していくのが「精神」。精神から見える世界が「世界精神」。その時々
の時代によって変わりゆく世界精神が「時代精神」。
そんな関係にしておくとわかりやすいかな。

考えるということ、は何ものにも縛られない自由なことだ。
「思いどおり」とはいうけど、「思い」そのものなんだから、
これほどの自由なんて他に無いに決まっているじゃん。
でも、考えるってことは一瞬でいっぺんにできることじゃないんだな。
段階を追って少しずつし考えていくしかないわけだ。

てことは、歴史の目的っていうのは、自由である絶対精神が段階を追いながら
自分自身の自由を自覚して自己実現していく過程なわけだ。
++++++++++++++++++++++++++++++++

書いてあるのはそれだけのことです。
様々な雑多な出来事の集積である歴史というものを、ちょっと一歩退いた
とこから見て、「つまりこんなもんだ」と事実を総括しだけです。

具体的なあれやこれやでない、総体的な歴史の事実を語っただけなのです。
しかしヘーゲルを語る人は、なぜか「だから歴史はこうあるべきだ」とか
「国家はかくあるべきだ」とかの「べき」の話を始めます。

ヘーゲルは、歴史は弁証法的に展開していくという事実を語っただけで、
弁証法的に展開していく「べきだ」…なんてことは書いていないはずなのですが。

==================================

ヘーゲルは歴史学者でなく哲学者です。彼の関心は歴史でなく認識論です。
彼は歴史をダシにして、人間精神の認識の発展を語っているにすぎません。
(だから、ヘーゲルの語っている歴史観は勢い余ってヘンなこと書いています。
でもそんなことは、どうでもよろしい^^。)

世界とは一つの単純な原理に従って成立している壮大な構築物なのだ。
その単純な原理とは精神のことである。世界の究極的な原理としての精神が、
自ら展開することによって世界が生成する。ヘーゲルはそう考えるわけです。
何故そうなるのか、それは世界の実体としての精神が主体であるからである。
主体である実体は自ら運動することができる。その運動が世界を生成させる。
ヘーゲルはそう考えるのです。(晩年はヘンな方向に行くけど…)。

この「世界精神」「絶対精神」て言葉、聞きなれないと宗教臭くて
ぎょっ!としちゃいますよね。でもじっさい、「神」の概念とほぼ同じです。
ヘーゲルもこれをよく「神」の言葉で呼んでます。
でもそれは、「様」がつく宗教の神のことじゃなくて、あらゆるもののすべて、
絶対的なもの、という意味です。
「人智を超えたもの」…ではなく、「人智」そのものです。
なんたって、絶対精神は「私」なんですから。
つまり「私」は「精神(ghost)」であり「神」なんです。

御大層な言葉が並ぶけど、ヘーゲルが大げさに言うのが好きなだけであり、
「絶対精神」「logos」「cogito」も大した違いはありません。
同じ人間の考えることだから。
問いも答えも最初っから決まっていることだし。


現実のすべては、意識で起きていることです。

自分の知らない世界のことも、自分の知らない世界のこととして、
意識の中で起きています。「無意識の世界があるだろう」といっても、
それをそのように意識において意識しなければ、存在は不可能です。

在るものはすべて意識されたものであり、無いものもすべて「無い」と
意識されたから無いのです。そうすると、
最も確実に無いものは「意識においてさえ無いもの」ということになります。、
しかし、「意識にまったく無いもの」については、当然「在る」とも「無い」
とさえも言うことが全く不可能なのです。

意識は必ず「私の意識」です。他者の意識は「私の意識」において
想像・推測・承認することによって存在可能なのであり、そうでなければ
他者の意識は存在しません。

「すべてが私の意識」ならば、「私」と「意識」は同じものになります。
「すべて」なんですから。そうするとこう言うこともできます。
「すべて現実とは、私であるところの意識である」
つまりこれ、「天上天下、唯我独尊」と同じ意味ですよね。

==============================================================
理性的なものは現実的なものであり、
 現実的なものは理性的である。」

 F・ヘーゲルの有名な命題です。

「考えられるものが現実的であり、現実とは考えのことである。」

逆に言えば、考えられないものなんて、ちっとも現実的でない。
そりゃそうですよ。考えられないんだから。
考えたり、思ったりできないものは、ないんだから。
思っちゃったら、思っちゃったように「在る」んだから。
「在る」ということが「現実的」なことなんだから。

ものすごーく、あたりまえなことなんですね。で、それが転じて
「世界は思ったように、在る」ということになるわけです。
誤解しないでくださいね。「思いどおりになる」じゃないですからね。

====================================================================

「思考」することの主格を「精神」といいます。ドイツ語でgeist。英語はSpirit。
つまり、「私」「自分」とは「精神」です。
精神が思考してできたそのまとまりが「観念」
この自分の観念のことを「主観」といいます。

でも、自分以外にも他者もいますよね。みんな同じように「自分」ですよね。
そう、同じように。それぞれみんな「主観」を持っています。たぶんです。

同じようにとは言いますが、決して同じではありません。
他者の主観は決してわかることはできません。
他者の主観は「他人の主観」として想像・理解・納得している「自分の主観」です。
他者の主観そのものが、自分の主観となることは絶対にありません。
なぜなら、主観が異なるものを、定義として「他者」と呼ぶからです。

したがって「他者」の心を理解するということは絶対に不可能です。
方法的・技術的に不可能ではなく、定義的に不可能だから絶対なのです。
ただ、他者の心を意識・推測・想像などはすることはできます。
そうすることによってのみ、「他者」として存在可能なのです。

===================================================================
現実は、ghostだ!!ドンッ
現実的とは存在が明らかなことです。
存在は意識=精神によって存在が可能です。
意識=精神の主格は「私」です。
したがって最も現実的な存在とは、「私」である精神の存在となります。

ヘーゲルもデカルトも釈迦もソクラテスも、やっぱりみんな
おんなじことを考えていたんです。
GHOST IN THE SHELL

「てつがくっぽいの」なのに、のっけからピグ話です。

私「ひでき」であるアバターは、大抵は「道化」か「おばけ」の格好で
出現します。先日は「おばけ」の格好でピグ友とお話ししました。オバケ
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ひできおやしらず  「私は幽霊です。世界も幽霊です。」
Sさん男の子   「じゃあ、実体とは何ですか?」
ひできおやしらず  「幽霊です」オバケ
Kさん女の子  「幽霊=ゴーストは、たましいよね。それってつまり
       神経を伝達する電気信号じゃないか」

ひできおやしらず  そう思えばそうなる。
     思わなければそうならない。

       私は自分を電気信号だとは思いません。
      「電気信号」なんて考えが無かった昔の時代の人は、
       自分のことを何だと思っていたのでしょう?
  
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「科学」は世界を「説明」するものではありますが、
謎を解明するわけではありません
その限りにおいて、「科学」は世界を説明するための「方便」であり、
それ自体は真実ではありません
技術や社会背景といった状況でころころ変わるものであり、
したがって「絶対」ではありません

「私= ゴースト(精神)=電気信号」であるとして、
科学が真実であるとして。…そうであると 仮定して。

それだと「電気信号」を知らなかったすべての昔の人は、
自分が何ものかということをまったく知らずに生きていたことになりますが、
それでもいいですか?

もし、科学における体系が変化したら、自分を電気信号と信じていた
自分の生涯のすべては、それこそ嘘・戯言になってしまうのですが、
それでもいいですか?

GHOST IN THE SHELL
もし、自分のこの身体がすべて機械になったとしたら、
その仕組みは電気信号に依ることはまちがいないでしょう。
しかし、身体の仕組みがそうであるだけで、「私」自体は
電気信号でも金属でもプラスチックでもないはずです。

あなたが自分を電気信号だと呼ぶのは一向にかまいませんが、
私は決して電気信号ではありません。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

心身一如、あるいは心身一体とはいいます。
手を上げようと思えば手は上がる。歩こうと思えば歩けます。
(もちろん、例外の人もいる)

しかし、思うことで自分の心臓を止めたり動かしたりはできません。
思うことで自分の細胞の成長や老化を止めることもできません。
思うことで、自分が生まれたり死ななかったりできる人はいません。

肉体を動かすことの一部は意思に依るが、全部ではない。
それに親は子を産むことを意志できますが、親も子も意志して
子の肉体を(もちろん精神も)作ることはできません。

だったら、肉体と精神はやはり別のものです。
依存はするけど、同じものではない。
デカルトが「コギト」と呼んだのは、その「精神」のことです。

そうであるから、私が「精神=ゴースト」であるのは確実ですが、
私が肉体であるのは不確実なのです。
わからんひとは、わからんでよろしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ところで前回に、コギトとは「思う私」であると書きました。
しかし、誰もがものを考えている時は、イチイチ「私」という
主語などはつけていないはずです。
自分でものを考えるとき、2人称・3人称は必要であっても、
自分にイチイチ1人称は使う必要はないからです。

何故って?すべての出来事は、「私」という意識の中で起こっていること
だからです。いわば、「私」という劇場の舞台
全てが上演されているようなものです。
演目は「世界」、キャストは「全存在」。観客は「私」。
その上演に中に、わざわざ自分に「私」という劇場で上演中ですと
宣伝する必要など全くないですからね。

つまり「私」という言葉は、他者の存在があって初めて成立する
のであって、「私」が先にあるわけじゃありません

コギトを一字で表すせば、「思」ではあっても「私」ではありません。
これを逆にするところから、すべての間違いが始まっています。

釈迦は「天上天下唯我独尊」といいましたが、
あの「我」もまったく同じことです。

デカルトも釈迦も、ソクラテスも、おんなじことを言っていたのです。


ソクラテスから2千年のち、デカルトという人がコレまた有名なあの一言、
「cogito ergo sum」って言うんですね。

日本語では「我思う、故に我あり」なんてヘンな訳で広まっちゃったから、
これまた大きな誤解をされている文なんですが。
「私は思っている。だから私がいる。」これ、意味がよくわかんないですよね。

sumは「存在する」、ergoは「故に」という接続詞。じゃあ cogitoは?
「私」なの「思う」なの?って疑問になるじゃないですか。

両方です。「思う私」というのが cogitoの意味です。
ここを間違えると、ヘンな意味になります。
「思う」は動詞ですから、それの主語(正確には主格)が必ずあります。
動詞がそのまま主格になっている言葉、「思っているなにものか」と
いうのが、cogito のホントの意味になります。

したがって、「我思う、故に我あり」は正確には
「思考するなにものかが、故に存在する」であり、さらに言えば、
「思考が在る」ということなのです。
ここで「私」をほうを強調しちゃうと、勘違いしちゃうんです。

============================================================

デカルトはあらゆることにおいての、
最も確実なものは何だろうと考えました。
 疑うことによって。それを「方法的懐疑」といいます。

その懐疑においては、見えるもの聞こえる音、におい、触感、味といった
五感で感じるすべての存在が疑われます
ひょっとしたら、夢・幻で実在しないかもしれない。
その可能性は否定できないから五感で感じるものは確実ではない。
したがって、五感のもとであるこの身体を含めて、
あらゆる物質の存在は、絶対の確実ではない。
そう考えたのです。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

しかし、最後にどうしても疑えないものが一つだけ残りました。
それが cogito です。どんなに疑っても、疑っているまさにこの
「思考」だけは、無いということができない。

思っている自分はこのデカルトという自分ではないかもしれない。
ひょっとしたら自分はデカルトという人間どころか、物質でさえないかも
しれない。
でも、「思うこと」その事実は夢・幻だろうがなんだろうが
確実であって、疑うことは不可能だ。
「思っている」からには、脳であれ、石ころであれ、非物質であれ、
必ず「何ものかが思っている」。その何ものかは「私」だ。

したがって「思考=私は、存在する」
これをあらゆることの最も根源的な第一原理とて、
あらゆることをそこから考え始めるようにしたのです。

とはいえ、「cogito」 も、ソクラテスの言う 「logos」
大して違いはない、おんなじものことなんですけどね。
LOGOS ~whisper words of wisdom~
There will be an answer :  LET IT BE.

「ロゴスって意味わからん」といわれたので、もちょっと書きます。

======================================================

ギリシア語の「ロゴス(理法)」ってのは「考え」ってことです。
「考え方は人それぞれ違う」と一般的にはそういいます。
しかし、考えの中身は人それぞれでも、本当に「考え方」がそれぞれ
違ってたら、他人の言ってることなんか全くわからないはずです。

他人の言うことを肯定できるのも否定できるのも、何を言っているか
理解できる可能であって、理解できなければ肯定・否定は不可能です。

他人の言うことが理解できるということは、そこに「理」を認められるから
それを「解る」わけで、「理」がなければ「解」もないわけです。

その「理」というのは、何ものかが何かを「考える」とき、言葉や数が
絶対に辿らざるを得ない筋道(法則)のことです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

その法則というのは、ひらたくいえば
「なるようにはなるが、
ならないようにはならないよ」
という
アタリマエお断わりのことです。
だから「理」のことを「ことわり」と呼ぶのです。

「理」が絶対的なものなら、それをたどった「考え」も絶対であり、
その限り理」も「考え」もまったく同じものです。

一般的に言う「考え方が違う」というのは、価値観や立場、ものの見方
などがお互いに違うだけのことを、「考え方が違う」と呼んでいるだけです。
本当は「考え方」自体は誰にも等しく同じなのです。

=========================================================

ただし。あたりまえのことですが。
にも等しく同じではあります。しかし!
でも等しく考えることができるわけではありませんし、
でも等しく考えられたことを理解できるわけでもありません。

「考え」はひとつでも、「人」はそれぞれです。
わかる人はわかるし、わからん人はわからん。
これもアタリマエの理法=ロゴスだからです。

このようにロゴスというのは、つきつめると必ず同語反復になります。
正しく考えるとは、正しく論理をたどったことなのだし、
正しい言葉とは、正しく考えられた言葉です。
したがって、正しい言葉は正しく論理をなぞらえたものであるため、
それをあらためて確認すれば、同語反復にならざるを得ないのです。

==================================================================

「正しい言葉」とは「賢い言葉」ですよね。
ビートルズの名曲 『LET IT BE』の歌詞
whisper words of wisdom LET IT BEの意味は
「ロゴスとは何か」がわかると、とても味わい深い歌になります。
音楽性はもちろんですが、こういう詩を歌えるところが、
彼らの素晴らしいところだと思います。

なるようになる というのは、諦めの言葉ではありません。
ロゴスという 絶対的必然性に対する 信頼 の言葉です。

There will be an answer :  LET IT BE.

なぜ、an なのか。わかりますよね。
THE LONG AND WINDING ROAD, to your door
ポール来日、ばんざい!

あたりまえですが、脳は物質の一つです。
では、「あらゆる物質すなわち万物の根源は一体何か?」。
そういうことを、古代ギリシャの哲学者は考えていました。
火だとか水だとか、空気だ、原子だ、いや数だとか、いろんなことを言って
いましたが、ソクラテスが現れて「汝、自身を知れ」と言いました。

この言葉はとても有名なので、いわゆる「哲学」というのがここから始まった
ことになっていますが、多くの人が勘違いをして受け取っております。

「汝、自身を知れ」が「おまえら、自分のこと考えろ」ということになって、
「生き方講座」とか「人生論」みたいなことをソクラテスが始めたと、
そう思っている人が多いようです。

これはとんでもない間違いで、ここを勘違いしちゃうと「哲学」はなにやら
「人生とは何か?」みたいな説教くさい話だ…になっちゃうわけです。
「人生哲学」みたいなの、「人生論」ではあって「哲学」ではありません。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

all through your life, I ME MINE …

「汝、自身を知れ」というのは、
人間を含めた自然のいっさいである「万物」は、
人間、つまるところ「自分」がそう思っているから、その様にある。
だから、「万物とはなにか?」を知りたければ、
「私とはなにか?」
を知らなければ
何にも知ったことにはならんのだ。そういうことです。

そこでソクラテスは「弁明」において、
まず自分自身のことを顧慮する前に、
自分に属する事柄を顧慮しないように、…


といって、ものには考える順序があることを示したわけです。
私の所属や属性以前の「私」とは何か?そこから考えるべし、と。

=======================================================
whisper words of wisdom LET IT BE

万物は、自分が思うからそのようにあるのであって、
自分が思わなければその様には無い。

脳や物質がどうなってるかは知らなくても、
見えたり聞こえたり考えたりしたことは、見えたり聞こえたり考えたり
したこと。そのようにそこにある。
そして、考えられることは考えられるけど、
考えることができないものは考えることができない。
なるようになりますが、
ならないことにはなりません。


その当たり前の「お断り」「理(ことわり)」と言い、
ギリシア人はそれを「理法(ロゴス)」と言いました。
「理」とは筋道のことであり、したがって「道理」ともいいます。
言葉の辿る筋道が「論理」であり、数の辿る筋道が「数理」です。

つまり、「私」が「ロゴス」にしたがって「考える」。
そうすることによってのみ「万物」がある。それ以外は無い。
そうでしかないんだから、「私」も「ロゴス」も「考え」も「万物」も
実はみんなおんなじものじゃないですか。

ソクラテスの言ってることは、そういうことなのだと思います。

「万物であり、考えであり、ロゴスである私」
いったいなにもので、何故そのように在るのか?と問えば、
そんなの、わかるわけがない。答えは、
「お・こ・と・わ・り。お理。」
…ということになるんですね。
ありとあらゆる自分の所属や自分の属性が「私」ではない。
自分の名前もこの肉体も、そして、この脳でさえも。

しかし「私とはなにか」の問いに「私とは脳である」
いうところの結論で納得してしまう人はかなり多いと思います。

じゃあ、脳がわかれば「私」がわかるのでしょうか?

=========================================================

今回は、その脳の話をしてみたいと思います。

先日、テレビで「爆笑問題」の二人が出ている「バクモン」という
番組を見ていました。
「仮想現実と脳の関係」みたいなテーマだったと思うのですが、
なんでも、脳の状態がわかれば、人の気持ちが
わかるようになる
…、というような内容でした。

何にも考えずに科学をやってると、こういうおバカなことを
言い出すものだと、つくずく思いました。

私は自分が脳で考えている実感なんて、これっぽちもないのですが、
一般的には脳でものごとを感じたり、考えたりしてることになっています。
だから脳の状態を調べれば、感じたり考えていることがわかるようになる
…という理屈らしいのですが、私にはこの理屈がさっぱりわかりません。

脳において感じているから、脳がわかれば感じていることがわかる。
これは、運動場において運動会が行われているから、
運動場の状態がわかれば運動会の結果がわかる…といっているようなもの
なんじゃないですか?屁理屈でしょうか。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ビールを飲んで「美味い」と思った時、脳がある状態になったとします。
「美味い」と思ったから脳がその状態になったのでしょうか、
それとも、脳がその状態になったから「美味い」と思ったのでしょうか?

脳がその状態になったらから、ビールが「美味い」と思ったことになる。
そういうのであれば、ある人の脳を何らかの技術でその状態にしたら
その人はビールが「美味い」と思ったのでしょうか?
ではその人が、未だかつてビールを「美味い」と思ったことのない人だったら
どうなるのでしょうか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

Aさんが夕陽をみて切ないような哀しいような気分になったとします。
その時の脳の状態をそっくりそのまま、Bさんの脳に再現したとします。
そのときのBさんの気分が、Aさんの感じたことと「同じ」だと、
どうやって確認するのでしょうか?

Aさんの見た映像や聞いた音声を、技術的にBさんの脳に再現させて
実際に見ても聞いてもないことを、そのような感覚にさせることは
可能かもしれません。

しかし、その時Aさんが感じたことや思ったことを、Bさんにおいて
再現できるのでしょうか?
できるというのなら、「Bさんに起きたAさんの感情」と、
「Bさんの感情そのもの」とを、どうやって区別するのでしょうか?
Aさんの視覚聴覚を受けたBさんが、Aさんとたまたま似たような感情を
持っただけかもしれないではないですか。

いずれにせよ、どんな感情や気持ちが起こったのかは、AさんとBさんの
言葉を聞いてみないとわからないはずですよね。
でも、二人にいくら聞いてみたところで、それが同じものなのか、
それとも、二人それぞれ別のものが限りなく似ていただけなのか、
それをどうやって確かめることができるのでしょうか?

=========================================================

運動会に参加できなかった人が、運動会の様子を知るには、
運動場をいくら調べてもわかりません。
運動会に参加した人にきいたり記録を見たりして、想像するしかありません。

心と脳は、別のものです。
脳や脳波はどこまでも脳や脳波であり、
それは人の気持ちや思いなどではありません。

脳や脳波がどうであろうと、その人が考えたこと思ったことや、
感じたことはその人に聞いてみないことにはわかりません。
言葉や態度から想像することによってのみ、
そのひとの考えや思ったこと、感じたことが
わかった「ことになる」のじゃないですか。

だったら、人の思ったことや感じたことを知るのに、
脳や脳波を調べることの意味なんか全然ない。
そうじゃないですか。

え、嘘発見器が作れる?
うん、まあ嘘をついている可能性があることを表す器械くらい作れるかも
しれないけれど、その程度だよねえ。
それとも、本心発見器が作れるとでも思っているのかな?
作ったとして、それで出た結果が本心であると、どうやって証明するんだろ。
それこそ、本人に訊いてみるしかないんじゃないだろか?

さんざん手間をかけて、なにをやっているか
わけがわからないですよね。

「脳がわかると、何がわかるか」…ですって!?
そんなの、脳のことがわかるだけですよ。
あったり前じゃないですか。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

脳は物質ですが、心は物質ではありません。
科学は物質を扱う学問です。 しかし!
考えや思いや気持ちは、物質ではありません。

「科学でなんでもわかる」
「非科学的なものはよくない」


そういう思い上がった思い込みが、物質しか扱えないのに
物質でないものまで扱おうとして、こんなバカみたいなことになるんです。

この世に物質しかないと思ったら
大間違いなんですよ。













「わたしって、なに?」


まだまだつづきます。

すべての人において「私」とは、他人にとっては所属や属性です。
つまり、自分の名前や立場・肩書、身体的性格的な特徴などで、
他人に対して自分を自分たらしめています。

しかし自分にとっての私とは、その自分のいかなる所属や属性が
なくなったとしても、やはり私は私です
ではその何ものでもない私とはいったいなんなのか?

何ものでもないんだから、「なんなのか?」と訊かれても困るところですが、
「何ものでもない」では答えになっていないので、
やはり問いは続くわけです。

=========================================================

ところでこの問いに対して、多くの人が
「私とはこれですよ」と人差指で自分の鼻をさします。
「え、鼻があなたなんですか?」…というのは冗談ですが^^。

指されている身体全体が「私」であると言いたいのでしょうが。
でも、指をさされている身体が「私」であるのなら、
指をさしているのはいったい何なんでしょう。

身体もやはり属性の一つ、というか属性の最たるものであり
あらゆる属性の大元が身体なんですよね。

この身体のことを普通、「私身体」といいますよね。
「私身体」とは言いませんよね。
「私身体」というのであれば、
「身体」は「私」に属するものであり、身体は「私そのもの」ではありません。

-----------------------------------------------------------
「ドラえもんはどこまでドラえもんか?」という問題があります。
ドラえもんはロボットですから、部品の交換ができます。
腕1本交換してもドラえもんはドラえもんです。
ではそのあと、脚も胴体も頭もそれぞれ順番に交換して言ったら、
どうなるでしょう。
それはやっぱり「ドラえもん」ですか?
それとも、別のネコ型ロボットですか?
もし、別のネコ型ロボットだというなら、
いったいどの時点で、彼は「ドラえもん」でなくなったのでしょうか?
--------------------------------------------------------------

このドラえもんを、自分に置き換えてみてください。
指が1本なくなっても、腕が1本なくなっても、私は私ですよね。
脚も無くなって、サイボーグに改造されて、顔も完全に別人に整形手術
されたとしても、私は私ですよね。

===============================================================

ここまでいうと多くの人は「自分は脳である」という結論を出します。
でもこれ、ホントに正しいんでしょうか?

じゃあ仮に、医療と電子技術が進んで、脳の機能をすべてコンピュータに
移植できるようになったらどうでしょう。
自分にその技術で手術されたら、あなたはあなたでなくなりますか?
もしそうだというのなら、
その手術が、眠っている間に知らないうちに行われたとしたら、
あなたはいつのまに「私」でなくなったのでしょう。

このたとえからわかると思いますが、
脳を含めて身体のいっさいは、「私のもの」であったとしても
「私そのもの」ではありません。

もうお分かりだと思いますが、
「私」とは物質ではないんです。



「わたしって、何」ってテーマで3回目。

自分の肩書や特徴、つまり「それら所属や属性こそが自分だ」
…と思っているところの自分というのは、いかなる所属も属性もない。

人間は一人残らず誰もが「私」であり、その「私」とは実は何ものでもない。

=========================================================
前回までにそう書きましたが、この理屈、
たいていの人は理解できないようです。

…なにいってんの?誰だって人間じゃないの!だったら、
「私」ていうのは人間だし、「人間」て言う属性があるじゃないか。

といいたい人が多いと思います。

でもね、人間は一人残らず誰もが「私」だとしても、
「私は必ず人間である」という論理は成り立ちませんよね。
(ニワトリは必ず鳥だが、鳥は必ずしもニワトリでない)

確かに、あなたは(たぶん)人間です。
でも、人間だと思うから人間なんだし、男とか女とか思うからそうなんだし、
日本人と思うから日本人なのだし、某誰々という姓名だと思うからその名前の人
なんじゃないですか。

「私」とは「それ」である。…と、自分で決めているんだから
「私とはそれである」という答えになるのはアタリマエじゃないですか。
それで納得するんなら、もともとが自分で答えを用意している問いなのだから
それでおしまいです。

ところで、よく考えてください。
その「私は何々だ!」という答えって、
「あなたって、何?」って
そうきかれた時の答えじゃないですか?

でも、ここでの問いは「わたしって、なに?」なんですよ。
つまりは、自問自答なのです。他人に説明するための自分ではなく、
自分で納得するための自分とはなにか?なのです。

----------------------------------------------------------

自分からいっさいの所属や属性を取り除いてみてください。
日本人でも何国人でもない、男でも女でもない、姓名もない、
人間でも動物でもない…自分。

そうしたところで、あなたはなお自分の事を「私」と呼びますよね。
「そんな私は、私じゃない!」と言うかもしれませんが、やっぱり
自分は「自分」であり、「私」ですよね?

属性のないあなたは他人にとっては「あなた」ではないけれど
(あたりまえです。既に人間ですらないのですから)
自分にとっては「自分」であり、「私」ですよね?

その「わたし」って、いったいなんなのか?
というのが、ここでの問いなのです。

さあ、答えてみてください、自分自身に対して。







前回の続きです。

では、その一人ひとりの人間とは何ものか?

歴史や制度以前の国家、その国家以前に人間がいて、その人間は
一人残らず誰もが「私」であり、
その「私」とは実は何ものでもない。

そう書きました。

だったら、その何ものでもない「私」である一人ひとりの人間によって
作られているもの。
即ち、「国家」「社会」「組織」「共同体」「家族」「会社」「学校」「肩書」
「貨幣制度」などなど…。
それらすべてが何ものでもないのは当たり前
じゃないですか。


それなのに。
何ものでもない「国家」だの「社会」だのを、何ものかである
信じて疑わないから、それらのために他人を蹴落とし
争いあったり、血を流したりしているわけです。

勝手に信じ込んでおいて、勝手にそのために争っているんだから
それってなんだか、バカみたいですよね?

================================================================

だからそれを「信じるな、疑え」というのが「哲学」という
なにものかであります(…学問ではありません)。

そうしてみると、「哲学」ってすっごく平和的で、すっごく役に立つものだと
思いませんか?