単純なのに(だから)めんどくさいです。
しつこいですが、しつこい男 ヘーゲルさんです。
このひと、ホント誤解されやすい人です。
ヘーゲルの哲学では、客観的世界、すなわち社会や歴史も、
絶対精神の自己実現の過程とされ、 歴史の目的とは精神が自由を
自覚することなのだと言います。
普通はこんな言い回しするとドン引きされます。こんな言い方するから、
誤解ばかりされるのですが、言ってることは単純です。
+++++++++++++++++++++++++++++++
客観的世界、あらゆる歴史のすべてなんて、つまるところは
人間の考えたことのすべてだ。計画して起こったことも、
偶然突発的に起こったことも、そのように、考えているようにあるだけだ。
あたりまえだけど、考えられることしか考えられないし、考えられないことは
考えられないのだから。
じゃあ、既に考えたことでも、未だ考えられていないことでも、この世は全て
考えられることしかあり得ないわけだ。全部ひっくるめて名前をつけておこう。
絶対それしかあり得ないんだから、「絶対精神」と呼んでおこう。
世界は考えているこの精神のことだから「世界精神」でもいいか。
最終的な理想形が「絶対精神」。絶対精神という理想の自分を目指して、
自己実現していくのが「精神」。精神から見える世界が「世界精神」。その時々
の時代によって変わりゆく世界精神が「時代精神」。
そんな関係にしておくとわかりやすいかな。
考えるということ、は何ものにも縛られない自由なことだ。
「思いどおり」とはいうけど、「思い」そのものなんだから、
これほどの自由なんて他に無いに決まっているじゃん。
でも、考えるってことは一瞬でいっぺんにできることじゃないんだな。
段階を追って少しずつし考えていくしかないわけだ。
てことは、歴史の目的っていうのは、自由である絶対精神が段階を追いながら
自分自身の自由を自覚して自己実現していく過程なわけだ。
++++++++++++++++++++++++++++++++
書いてあるのはそれだけのことです。
様々な雑多な出来事の集積である歴史というものを、ちょっと一歩退いた
とこから見て、「つまりこんなもんだ」と事実を総括しだけです。
具体的なあれやこれやでない、総体的な歴史の事実を語っただけなのです。
しかしヘーゲルを語る人は、なぜか「だから歴史はこうあるべきだ」とか
「国家はかくあるべきだ」とかの「べき」の話を始めます。
ヘーゲルは、歴史は弁証法的に展開していくという事実を語っただけで、
弁証法的に展開していく「べきだ」…なんてことは書いていないはずなのですが。
==================================
ヘーゲルは歴史学者でなく哲学者です。彼の関心は歴史でなく認識論です。
彼は歴史をダシにして、人間精神の認識の発展を語っているにすぎません。
(だから、ヘーゲルの語っている歴史観は勢い余ってヘンなこと書いています。
でもそんなことは、どうでもよろしい^^。)
世界とは一つの単純な原理に従って成立している壮大な構築物なのだ。
その単純な原理とは精神のことである。世界の究極的な原理としての精神が、
自ら展開することによって世界が生成する。ヘーゲルはそう考えるわけです。
何故そうなるのか、それは世界の実体としての精神が主体であるからである。
主体である実体は自ら運動することができる。その運動が世界を生成させる。
ヘーゲルはそう考えるのです。(晩年はヘンな方向に行くけど…)。
この「世界精神」「絶対精神」て言葉、聞きなれないと宗教臭くて
ぎょっ!としちゃいますよね。でもじっさい、「神」の概念とほぼ同じです。
ヘーゲルもこれをよく「神」の言葉で呼んでます。
でもそれは、「様」がつく宗教の神のことじゃなくて、あらゆるもののすべて、
絶対的なもの、という意味です。
「人智を超えたもの」…ではなく、「人智」そのものです。
なんたって、絶対精神は「私」なんですから。
つまり「私」は「精神(ghost)」であり「神」なんです。
御大層な言葉が並ぶけど、ヘーゲルが大げさに言うのが好きなだけであり、
「絶対精神」も「logos」も「cogito」も大した違いはありません。
同じ人間の考えることだから。
問いも答えも最初っから決まっていることだし。
しつこいですが、しつこい男 ヘーゲルさんです。
このひと、ホント誤解されやすい人です。
ヘーゲルの哲学では、客観的世界、すなわち社会や歴史も、
絶対精神の自己実現の過程とされ、 歴史の目的とは精神が自由を
自覚することなのだと言います。
普通はこんな言い回しするとドン引きされます。こんな言い方するから、
誤解ばかりされるのですが、言ってることは単純です。
+++++++++++++++++++++++++++++++
客観的世界、あらゆる歴史のすべてなんて、つまるところは
人間の考えたことのすべてだ。計画して起こったことも、
偶然突発的に起こったことも、そのように、考えているようにあるだけだ。
あたりまえだけど、考えられることしか考えられないし、考えられないことは
考えられないのだから。
じゃあ、既に考えたことでも、未だ考えられていないことでも、この世は全て
考えられることしかあり得ないわけだ。全部ひっくるめて名前をつけておこう。
絶対それしかあり得ないんだから、「絶対精神」と呼んでおこう。
世界は考えているこの精神のことだから「世界精神」でもいいか。
最終的な理想形が「絶対精神」。絶対精神という理想の自分を目指して、
自己実現していくのが「精神」。精神から見える世界が「世界精神」。その時々
の時代によって変わりゆく世界精神が「時代精神」。
そんな関係にしておくとわかりやすいかな。
考えるということ、は何ものにも縛られない自由なことだ。
「思いどおり」とはいうけど、「思い」そのものなんだから、
これほどの自由なんて他に無いに決まっているじゃん。
でも、考えるってことは一瞬でいっぺんにできることじゃないんだな。
段階を追って少しずつし考えていくしかないわけだ。
てことは、歴史の目的っていうのは、自由である絶対精神が段階を追いながら
自分自身の自由を自覚して自己実現していく過程なわけだ。
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書いてあるのはそれだけのことです。
様々な雑多な出来事の集積である歴史というものを、ちょっと一歩退いた
とこから見て、「つまりこんなもんだ」と事実を総括しだけです。
具体的なあれやこれやでない、総体的な歴史の事実を語っただけなのです。
しかしヘーゲルを語る人は、なぜか「だから歴史はこうあるべきだ」とか
「国家はかくあるべきだ」とかの「べき」の話を始めます。
ヘーゲルは、歴史は弁証法的に展開していくという事実を語っただけで、
弁証法的に展開していく「べきだ」…なんてことは書いていないはずなのですが。
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ヘーゲルは歴史学者でなく哲学者です。彼の関心は歴史でなく認識論です。
彼は歴史をダシにして、人間精神の認識の発展を語っているにすぎません。
(だから、ヘーゲルの語っている歴史観は勢い余ってヘンなこと書いています。
でもそんなことは、どうでもよろしい^^。)
世界とは一つの単純な原理に従って成立している壮大な構築物なのだ。
その単純な原理とは精神のことである。世界の究極的な原理としての精神が、
自ら展開することによって世界が生成する。ヘーゲルはそう考えるわけです。
何故そうなるのか、それは世界の実体としての精神が主体であるからである。
主体である実体は自ら運動することができる。その運動が世界を生成させる。
ヘーゲルはそう考えるのです。(晩年はヘンな方向に行くけど…)。
この「世界精神」「絶対精神」て言葉、聞きなれないと宗教臭くて
ぎょっ!としちゃいますよね。でもじっさい、「神」の概念とほぼ同じです。
ヘーゲルもこれをよく「神」の言葉で呼んでます。
でもそれは、「様」がつく宗教の神のことじゃなくて、あらゆるもののすべて、
絶対的なもの、という意味です。
「人智を超えたもの」…ではなく、「人智」そのものです。
なんたって、絶対精神は「私」なんですから。
つまり「私」は「精神(ghost)」であり「神」なんです。
御大層な言葉が並ぶけど、ヘーゲルが大げさに言うのが好きなだけであり、
「絶対精神」も「logos」も「cogito」も大した違いはありません。
同じ人間の考えることだから。
問いも答えも最初っから決まっていることだし。


「私は幽霊です。世界も幽霊です。」
「じゃあ、実体とは何ですか?」
「幽霊=ゴーストは、たましいよね。それってつまり