このところピグのことばっかり書いていましたので、
ひさびさに「てつがくっぽいの」をテーマに書いております。
タイトルは「わたしって、なに?」
切り口は大御所ソクラテス(書いたのはプラトンだけど)、
「ソクラテスの弁明」より。
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すなわち私は、自ら出来得るかぎり善良かつ賢明になるように、
まず自分自身のことを顧慮する前に、
自分に属する事柄を顧慮しないように、
また、国家そのもののために顧慮する前に、
国家に属する事柄を顧慮しないように、
その他一切の場合にもこの順序に従って物事を顧慮するように、
諸君のうちの何人をも説得することに努めて来たのである。
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つまりですね。
「自分とは何か?」という問いを考えるときに、
先に自分に属する事柄の属性を考えちゃったり、
「国家とは何か?」という問いを考えるときに、
先に国家に属する事柄を考えちゃうのは
順番としておかしいから気をつけようね、ということです。
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だって
「自分とは何か?」を考える前に、自分に属する
日本人という属性や、性別や、●○会社の社員という属性や、
▲▽家の長男とかいう属性を信じて疑わないのなら、
「自分とか何か?」という問いの答えが
日本人であり、●○社の社員であり▲▽家の長男というところに
行きつくからに決まっているからです。
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人は「自分が何者なのか?」という問いの答えを、
自分の所属や、自分の好みの傾向、あるいは
他人と異なる特徴などの属性で納得しようとします。
しかし、「それらの所属や属性こそが自分だ」
…と思っているところの自分というのは、
いかなる所属も属性もないはずですよね?
その「何ものでもない自分とはなにか?」というのが
本当のところの問いなのだから、所属や属性を考えるのは
論点先取だからおかしいよ、ということなのです。
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国家についてもまったく同じことです。
「国家とは何か?」と問うておきながら、
日本という国家の歴史を信じ、国民の思想や文化のあり方を信じ、
政治体制・経済体制・外交関係やらなんやらをそのまま信じていたら、
その問いの答えがそこに行きつくのは当たり前です。
「国家とは何か?」と問うておきながら、
あらかじめ答えを用意しているのなら
ちっとも疑問になんか思っていないからです。
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もちろん私は、国家の歴史や、政治・経済の制度などを
否定しろといっているのではありません。
だって否定にしろ肯定にしろ、それらをそのようなものとして知り、
疑わずに信じているからこそ、肯定も否定も可能なはずなのですから。
※たとえば「エクスタシウム粒子のガン治療効果を否定できるか?」
との問いに、多くの人は否定も肯定も答えることはできませんよね?
(私がテキトーに思いついた架空の物質の名前ですから^^。)
つまり、肯定も否定もしなくていいから、
その前に「疑え、信じるな」といっているのです。
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そうはいっても「国家は国家としてあるじゃないか!」
そう言いたくなりますよね。
そりゃありますよ。え、どこにって?
国家をあると信じている人の思考においてですよ。
国家をあると信じる人々が、国家のために憂いたり、動いたり、
争ったり、血を流したり、死んでいったりするわけです。
でも国家を構成しているのは、一人ひとりの人間であり、
その一人ひとりの人間とは別に、国家があるわけじゃありません。
(※ちなみに「国家」のところに、「社会」「共同体」「家族」「会社」「貨幣制度」
などなどを入れてもまったく同じに通用します)
……長いので続きは次回に。


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まず、分母が同じであること。

それから当たり前のことですが、正確であること。
あとひとつ大切なのは無作為であるということ。






























