スタッフブログでトンチンカンな意見を言う人の
トンチンカンな理屈を、私は時々指摘します。あせる

中にはそれに対して拒絶反応を示す人がいますが、
まともな理屈で反論してきた人はいまだかつて皆無です。クラッカー

たいていは「何を書こうが自由だ」
「反論されて不愉快だ」「誹謗中傷するな」

などと返してくる人がほとんどです。ドクロ

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ところで。
わたしゃ、人様の書いたものに「不愉快だから」書くな!
なんて失礼で横暴なことは一言も言ったことはありません。パンチ!
だって、何を不愉快に思うかなんて、人によって違いますもん。にひひ

ただ、おかしな理屈に対して、おかしくない理屈を書いてるだけですキスマーク

おかしくない理屈を書いているんだから、
それをおかしいと思うのならば、自分もおかしくない理屈を
書いてよこせばいいだけなんですが。
そういう答えはまず返ってきません。グッド!

でもね、不愉快だとおっしゃいますけど。
不愉快なのと正しくないのは別問題なんですよ。!!目


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何かを主張するために書いているひとは、なんでそれを書くのか?
え…、「書きたいからだ」!?。いや、それは当たり前です…。汗

書きたいと思って書くのは、
それを正しいと思っているか書くわけですよね?

正しいと思って書いているはずの意見の、その理屈が正しくないから、
私はお節介にも「正しくない」と指摘をしているだけなんですね。

では、あなただったら「正しくない」と指摘されたらどうしますか?

不愉快だと怒りますか?それとも、
正しさの根拠を示しますか?

それらのどちらがまともな応対だと思いますか?


「自分は書きたい。でも不愉快になるから反論しないでね。汗
そんなの、ムシがよすぎると思いませんか?

反論されて不愉快なのが嫌なら、書かなきゃいい
ちがいますか?


本文はここから



懲りもせずにまたまたピグライフのお話。
ってか、前の続きなんだけどね。あせる

自分の庭でいわゆる「喰い逃げ」走る人をされて、憤慨してスタッフブログに
書きこんで荒ぶってた人を前回紹介しました。わんわん

たくさんの人が反論するなか、中にはその人を擁護する人もいます。

>「スタミナ回復の為に食事したいのなら水1つでも手伝うのがマナーでしょ?」かお

そのとおり!合格  間違ってはいません。
間違ってはいないけどね、それを言っても意味が無いんですね。ガーン
意味が無いことを主張することは間違いではあるんですな。

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いいですか?

顔も見えない、名前も知れない数十万の人がいるピグの世界で、
「マナーを守ってもらわないと困る」
と主張して、その人がマナーを守るようになると思いますか?はてなマーク

もし思うなら、自分は能天気であると自覚したほうがいいです。叫び

マナーは守られなくても仕方がないんですよ。
マナーはルールじゃないんだから。べーっだ!

マナーを守らない人。
マナーを知らない人。
マナーの価値観自体が違う人。
いろんな人がいます。

いろんな人がいるから、
自分の意にそぐわない人から自分を守る。
そうすることで自らが被害を防ぐことによって、
被害者面して加害しない。
それこそがネット社会での重要なマナーだと思うけど、違いますか?目


$ひできのブログ

桜塚やっくん、お亡くなりになられたのですね。
ご冥福をお祈りいたします。

ところで。
彼が生前よく出演していた番組「エンタの神様」のエンディングで
「自由だ~!!!」メラメラと最後に叫ぶ芸人さんがいましたよね。

あれはギャグだからいいんだけど、実際に何かにつけて
「自由だろ!」を切り札にする困った人は結構います。シラー
中学生ぐらいならともかく、大人になってもその癖が抜けずに、
何にも考えず「自由」を軽々しく口にするのは、いかがなものかな?

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前回も書きましたが、ピグライフのスタッフブログで
自分の庭の注意書きを読まない人を出入り禁止にしたことを
自慢げにコメントしてる人がいました。叫び

それに対し、
注意書きは自分の都合。読まれなくて当たり前。
「社会認識が甘い」
パンチ!
と批判したら、別の方がこんなコメントを…。

 >読まない人が悪者なんて思わないけど
 >出禁にするのも自由
 >社会認識が甘いっていうのも
 >不思議^^;

…だそうです。

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はいはい。
「出禁にする自由」ですか。確かに自由ですよ。
でも、それが自由なら「読まない自由」もあるわけですな。にひひ

自分の自由は主張しつつ、他人の自由を認めない。爆弾
そういうワガママを指して「社会認識が甘い」という道理なんだけど、
理解できないのでしょうか?はてなマーク

「自由」っていうのは簡単に使われちゃう言葉です。
でもね、自由を主張するからには、それ以上に
他人の自由も認めなくちゃいけない
んですよ。パンチ!

自由と同等に「平等」があるわけですから。

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それにね、「自由」は軽々しく言うべきでないのは、
もう一つ理由があるんです。

それは、「自由」という言葉が無意味なものになりやすい
ということなんです。

自由を言いだしたら、

他人を出入り禁止にするのも自由なら、
注意書き読まないのも自由ですよね。

他人に親切をするのも自由、迷惑かけるのも自由。
恥ずかしいことをするのも自由だし、愚行をするも自由。
人を貶めるのも、人を殺すのも、何だって自由です。

そんなのなんでもありじゃないですか。

自由だけど、恥ずかしいことは恥ずかしいことだし、
愚行はやっぱり愚かなことですよね。ショック!

人に迷惑かけたり、貶めたり、殺したりすれば、
それなりの報いや処罰があるだけです。ドクロ

ただそれだけのことですよね。
あたりまえじゃないですか。ビックリマーク


だとしたら、「自由だ」と主張することによって
いったい何を主張していることになるんでしょうね。


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目  ひできの格言。

本当に切実に「自由」を望んでいる人は、
希望をかなえるための行動をするのみであって、
「自由だ!」なんて叫ばないものだ。
それが無意味であることを知っているからね。



つまりですね。
「自由だ」ということをすぐ口に出す人は、それが口癖になっているだけで
まず十中八九何にも考えてない可能性が大です。チョキ

まぁ、「自由だ!」と叫ぶのも自由だから
別にいいんですけどね…。汗
$ひできのブログ


プレゼントハロウィン限定ギフトプレゼント
ハロウィン「ハロウィンマシュマロ」ハロウィン
  いっぱい頂きました。
  贈って頂いた皆様、
ドキドキドキドキ  ありがとう!!!
ドキドキドキドキ






ここから毒舌です^^。

この【期間限定】ハロウィンギフトを贈ろう♪のピグスタッフブログ記事の
コメント欄を読んでいましたら、なかにはこんなひともいるんですね。



ひできのブログ
上の桜なんとかさん、こんなこと書いていました。ガーン

>ライフにも、ギフトの受け取り拒否機能を付けてほしい。
>料理は、消化しきれないほどあるので、食事のギフトはいりません。
>送ってこられても、返せない。返したら、また、送ってくるでしょう。
>だから、食事のギフトはいらない。
>前回、ギフトいらないと庭説明に書いてあったのに、送ってきたのがいた



$ひできのブログ
それに賛同するもう一人の銀狼何とかさんは…むっ

>水を必要としてほしいところでなく
>閉鎖しようとした水の要らない物に
>わざわざ遠い位置置きしたにも関わらずあげにきましたね。

>説明は1週間ぐらいずっと同じ内容でしたし
>『読んでない者は見つけ次第外します』とも書きましたが
>聞いてみたところ「全く読んでない」「読む必要あんの?」など
>さすがに呆れましたね。

>結果その水友は外して出入りも禁止にしましたが…


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いやはや呆れてものも言えません…叫び
この人たちにプレゼントやお水あげている人が気の毒ですね。しょぼん

あのねえ、自分勝手の要望の張り紙なんて、読んでもらえなくて
アタリマエなんですよ。パンチ!

それを読まない人を悪者扱いしちゃうのかドクロ

こんな人たちの庭には
頼まれても行きたくないわあ!!
爆弾

この人たち、プレゼント貰ったことや
庭に来てもらって水を頂いたことに全く感謝せず、
文句言っていますよ
!?むかっ

自分は望んでいないかもしれないけど、
頂いたのですから、感謝するべきだと思うのですが…。
まあ、嬉しくは無いかもしれませんが
迷惑になるはずもないわけですからねえ。汗

それを堂々と公然としたスタッフブログに書きこんでいるこの人たち。

スタブロって、後で掲載取り消しできないんですよ?

恩知らずの恥知らずですねえ。

本文はここから



ピグライフのイベントクエストをやっています。

レアアイテムを集めて料理ハロウィンを作ると切手が出るのですが、毎回出るわけ
じゃなくてときどき「200Gで切手を購入しますか?」って出ます。
私は買ったことはありませんが^^。

先日、ピグライフのお知らせブログを見ていたら、ユーザーのコメントに
切手が200円もするのは高い!」
「50円ぐらいなら買ってもいい」

などなどのコメントメモがいくつか寄せられていました。
正直、アホだなぁ…汗と思います。

あそこのコメント欄は、みなさんが不満プンプンに思ったことを好き放題に書いています。
しかし、まともに考えてコメントする人は少ないようで、思いついたことを
深く考えることなしに投書している人がほとんどです。
後になって消去できないんだから、恥を書かないようにもう少し考えてから
投書すればいいのになと、私などは思うのですが。

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「すごい水」汗の価格は1個80Gです。
すごい水を使うとレア素材プレゼントが必ず1個入手できます。
切手を入手する料理に必要なレア素材は3個です。
つまり、切手の価値は単純にに考えれば、すごい水の3倍以上あるわけです。

だったら、切手の価格は80G×3=240G以下ならいいわけですね。
それを200Gで売っているんだから別に高くは無いんですが。
切手200Gが高すぎるって言っている人は何と比較して高いと
言ってるんでしょうね?

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ものの値段の高い低いアップダウンは、比較することによってそう言うことが可能です。
いや、値段に限らず、高い低いとか、長い短いとか、早い遅いとか、
みんな何かと比較した結果を形容することばですよね。

1メートルの棒は長いか短いか?
50センチの棒よりは長いし、2メートルの棒よりは短い。
あたりまえじゃないですか。

それにですね、価格と価値は違うんですね。ここをよくみなさん間違えます。
ある価値につけられた価格がその価値に見合ったものかどうか。
価値と価格を比較せねば、高いも安いも言えないですよね。

そして価値を市場全体が判断し、それにつけられた妥当とされる価格を
「相場」と言います。

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たとえばあるお店で下のものが売っていたとしたら、それはどちらが高いか。

普通の鉛筆が1本500円。
普通のフェラーリが1台500万円
車
普通のフェラーリがどういうものかは知りませんが^^。

価格だけを比較したら、そりゃフェラーリの方が1万倍高いですね。
でも1本500円の鉛筆は通常の相場の10倍もしますが、
1台500万円のフェラーリは通常の相場の10分の1の値段です(たぶん)。

相場に対する価格を比較したら、フェラーリの方が格安じゃないですか。
だからといって、500万のフェラーリがあっても私は買いませんけどね。
買えませんといった方が正しいんだけどガーン


切手1枚200円を高いという人は、100円ショップで必要のないムダな買い物をして
得した得したと満足するタイプのような気がします爆弾






意見を他人に主張して、それを否定されたり間違いと指摘されたりすると、
腹をたてる人は多いです。でも何故、腹が立つのでしょうか?
それがただの好き嫌いの話であるなら、腹は立たないはずです。
ただの好みの問題は、それこそ人それぞれだからです。

否定や指摘をされて腹が立つのは、自分の意見が「正しい」と思っているからです。
じゃあその「正しさ」の根拠な何なのかとを探ってみても、大抵の場合出てきません。
世の中の大抵の意見の根拠って、ただの好き嫌いか、だたそう思っているからとか
その程度なんですね。

でも「自分が思っているから正しい」なんてムチャクチャな理屈じゃないですか。
そんな程度だからこそ、他人に指摘されるとムキになって怒るんですが。
意見を声高に述べる人ってね、ホントのとこの根拠がないから、そうすることで
しか自分の意見を守る術がないんです。

怒ったところで反論するような理屈が無いから、「意見は自由です」と開き直るか、
理屈にならないことを感情的に述べるかぐらいしかできないんですけどね。

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本当に正しければ、人に正しくないと言われても、怒る理由はないはずなんです。
だって本当に正しい理屈って、誰にでも同じように正しいってことだからですよ。

誰かがそれを否定したり認めなかったりしても、誰にでも妥当する理屈っていうのが
あって、そういうのが「正しい」っていうもんなんです。
それってもう、「自分の」意見じゃないですよね。誰のものでもありゃしません。
自分の意見じゃないんだから、何を言われたって腹も立つはずがないんですね。

たとえば。
三平方の定理は、それを認めない人や理解しない人がいたとしても、誰にでも同じく
正しいですよね。三平方の定理はあなたが使ってもあなたのものではありません。
もちろん、ピタゴラスのものでもありません。だれのものでもない「考え」です。

え、数学と理屈は違うって?バカおっしゃいな。数学ほど理屈らしい理屈はありま
せん。一番わかりやすいのは証明問題ですかね。証明方法は一つではなくても、
決まった公式や手順によれば、必然的に同じ答えになるでしょ。
そうして導き出された答えは、必然的に誰もが認めざるを得ないものであって、
それは誰か個人の好き嫌いとか、損得には全く関係のない正しさじゃないですか。

数学では間違った前提から正しい結論を導きだすことはできません。
だから同じように、意見の正しさを考える場合でも、まず前提を疑います。
その前提、そのまた前提を疑うと、必然的に疑いえない前提に突き当たります。
それこそが誰にとっても同じ、正しい考えです。このように、前提を一つ一つ考えて
正しく確かなものを見つけ出して行く作業を「批評」といいます。

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「意見」というものの正しさの基準は、つまるところ損得か、好き嫌いです。
したがって、「意見」を言う人は、自分に有利な事を正しいと言い、
不利な事は正しくないと言うものです。

「自分の意見を主張するばかりでなく、他人の意見も尊重するべきだ」。
これね、うそっぱちです。というか、無理なんですよ。矛盾ですから。
だって「意見」っていうのは、自分の損得とか好き嫌いとかの都合のいいことですよ。
互いに尊重しろったって、結局は自分のことを優先させるに決まっています。
「他人の意見を尊重しろ」の真意って、「俺の話を聞け!」じゃないですか。

それが仕事の人はいいですよ。例えば政治家の方とかね。
政治家の方の仕事は、他人の利害の調停ですから。そのためならたとえ理屈が
間違っていても、それにかまわず自分が正しいと言い張るでしょう。
それがいいとか悪いとかでなく、それが彼らの仕事なんだから仕方がないんです。

でも未来ある若者は、そんなことやるべきではない。
大切な事は小賢しい「意見」を主張することじゃあない。「批評」することだ。

自分や自分たちの便益を守るための正しさなんか、都合のいい正しさだ。
そんなものは本当の正しさなんかじゃあない。それでもいいというのなら、
その意見は偽物の正しさなんだから、批難されても仕方がないはずだ。

好き嫌いや都合や損得に関係なく、誰にとっても正しいものが本当の正しさだ。
たとえ世界中の誰ひとりとしてそれを認めなくても、たとえ自分がそれを嫌いでも、
誰にとっても正しいそれは、やはり正しいのだ。あったりまえじゃないですか。

そういう正しさを知り、評価を下すことを「批評」といい、
そのために疑い、考えること、それを「批判」といいます。
そいつが一番大切な事だと思う。
…というより、優先順位は必然的にそっちが先じゃ
ないですか?

若者よ。いい人にはなるな。正しい人になれ。
正義を主張するな。正しさを考えろ。

前々回に、意見と批評・批判の違いの話をしました。
この話は必然的に「民主主義の批判」の話に結びつくこととなります。

ここで再度確認しておかなければならないことですが、
「批判」というのは、批難ではないということです。
語呂が似ているので多くの人がこれらを混同してしまいますが、
実は全く反対のことです。

批難というのは要するに「ダメだし」のことですよね。それに対して、
「批判」というのは、それが「いいか悪いか」を問うことでさえありません。
問われているところのそれが、「正しく考えられているかどうか」を問うことが、
「批判」ということの意味です。

したがって「民主主義批判」というのは民主主義の否定ではありません。
民主主義がいいとか悪いとかではなく、「民主主義がいいとか悪いとかは
どういうことなのか」を正しく考えることなのです。

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結論を一言で言えば、民主主義は「ただの」決定の方法です。
「民主主義の理念」とか言いますが、理念でも思想でもなんでもありません。
多数の側の意見を採用するという、ただの単純なルールです。
つまり、ジャンケンと同じです。ジャンケンにいいも悪いもありませんよね。

だから採用された意見は、多いから採用されたというだけであり、
それが正しく考えられたものであるとか、それが一番理想的であるとか、
そういった保証はまったくありません。
民主主義という制度自体には、正しいものを選びとる機能も、より理想的なものを
生み出す機能も、備わっているわけではありません。

例えば人が10人いて、Aの意見と、それに対立するBの意見があるとします。
民主主義の考え方では、この時仮にAが6人、Bが4人なら、Aが採用されます。
その結果、それでうまくいけばAは正しかったことになるし、うまくいかなかった
のなら正しくなかったことになります。結果オーライですね。

で、うまくいかなかったときはまた採決をとることになり、AかBかを決めること
になります。以後、その繰り返しです。
でも繰り返すだけなら、なんだかバカみたいですよね。進歩が無いわけですから。

このとき、よりよいCという意見を考えだすこともできるわけですが、
民主主義という制度自体にCを生み出す能力は在りません。
そりゃそうです。じゃんけんと同じ、ただのルールなんですから。

結局、Cというよりよい意見を生み出すには、AとBのそれぞれのいいところや
悪いところを吟味しなければなりません。
でもそのためには、問題はそもそも何なのか?何が目的とされているのか?
何が何に対してどのようにいいのか?
そういうことを考えなければ、Cという新たな意見は出てきません。

そういうAとBの対立の前提となっているところから、まず疑って考えること
「批判」というのはそういうことなのです。

大切なのは、AかBかじゃないんです。AとBの対立の前提を疑い考えること。
そうしてCを生み出すこと。それでCがだめなら、Cに対するDを対立させて、
Eを生み出すこと。

このように、ある意見と反対の意見を対立させ、より高いレベルの意見を創出し、
問題を解決しようとする思考の動きのことを「弁証法」といいます。

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「自分はこれが正しい」と思うところの主張が「意見」ですよね。
でも意見なんか持ったところで、違う意見と対立するだけです。

「意見を言い合って理解しあう」なんていうのは大ウソです。
意見を言い合うだけで理解し合うことなんて、普通はめったにないんですよ。
そういうのは、対立していることに目をつぶって、問題をごまかしているだけです。
そんなこと、みんな経験上知っていることじゃないですか。

「意見はいろいろあっていい」。ものわかりのいいようなセリフですよね。
でもね、そういう人でも大抵の場合は、「自分の方が正しい」という思いは
そっくりそのまんまなんですね。

意見はいろいろあってもいいんだけど、正しさはいろいろあってはいけないんです。
そりゃそうでしょ、正しいがいろいろあったら、正しいの意味がないじゃないですか。
「それぞれの自分が思っているものが正しい」。そういうのは「妄想」というんです。
こんなあたりまえなこと、平気で間違える人がいますからね。そういう人って、
ホントに何にも考えていないです。ただ場当たりで、思ったことを口にしているだけ。

「誰が考えても正しい」というのが本当の正しさじゃないですか。
そういう正しさを目ざしたうえで、何が正しいかを問う。これが「批判」です。
批判をしなければ、弁証法は成立しません。故に進歩もありません。
多くの人が、ここのところを理解していません。

「自分なりの意見を持つべきだ」。…ありふれた忠告ですよね。
でもそんなとってつけたような意見、自分の損得か、好き嫌いの主張であって、
正しさを考えたものじゃないのがほとんどじゃないですか。
そんな意見なんかいくら主張し合っても、考えなければ、理解し合うことも
解決策が出ることもあるはずがないんですね。


「民主主義はいいか悪いか」というのは愚かな問いのたて方です。
民主主義はただの方法です。いいも悪いもありません。使い方、使う人次第です。
どの意見がいいかなんてほんとの問題ではありません。
そこで言われている「正しさ」とは何なのかということを考えなければ、
そのただの方法を活かすことなんてできやしないんです。

「バカとハサミは使いよう」といいますね。バカがハサミを使えばケガをします。
民主主義はバカが使っても切れないですし、ケガのもとにもなります。
民主主義を振りかざして「意見」を主張する皆さま。
民主主義をうまく使いこなすほど、自分たちが賢い自信、ありますか?

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【追記】
…えー、タイトルから〆までエラそーに上からからの言い方になっています。
でも、あたりまえなんですね。批判というのは弁証法的なものの見方なんですから。
どうしても対立を一段上から見下ろすことになるんです。
「上から目線」といって、批難する人もいますけどね。
渦の中にいたら渦を見ることはできないんですね、上からでなければ。




色、いろいろ。色という言葉は、多様性を表すのに便利な言葉です。

言葉とは、つまり名前です。名詞、動詞、形容詞といろいろあるけど、
言葉はすべて、意味につけられた名詞なんです。

言葉が意味を表す。言葉によって意味が現れる。
しかし、言葉によって意味が「出現」するのであって、「誕生」したわけではない。
意味は常に、言葉より先に、在る。

たとえば色の名、「赤」。茜・紅・朱…。洋名なら○○レッド、~~ローズ…。
同じような色でも、名前によっていくらでも区別することができます。

しかしたとえば、茜と紅が違う色として区別されるためには、茜と紅の色の違いが
先に認識されているから、茜と紅の区別が可能になるわけですね。
この「違い=差異」が先にあるのでなければ、紅や茜と名を与えたところで、
その色を他の色と区別できるはずはないですよね。
つまり、この「違い」即ち「差異」が、言葉の「意味」ということです。

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言葉=名前は「存在」を区別します。
それぞれの色の名前が、色という存在をそれぞれに区別します。
色の名前の数だけ、色を区別することができます。
その限りにおいて、色の意味も無限に存在することになります。

とはいえ、もちろん人がそれらを全部できるわけではないですね。
色を無限に区別することはできます。ただし、区別することに意味がある限りにおいて。

赤と紅色の区別に意味がある人、たとえば、画家や印刷出版業界の人。
それらの人には、紅色は存在します。
しかし、18色クレパスしか使っていない5歳の幼児には、紅色は存在しません。
意味は常に言葉より先に在るとはいっても、
その意味はが誰にでも同じように在るということはありませんからね。

区別の意味がある人に、区別された言葉は存在します。
区別の意味のない人には、区別されていないからその言葉は存在しません。
区別する意味の数だけ、区別された言葉がが存在します。


「名前=言葉」を与えたから意味が生まれるのではありません。

①原初から存在する「意味=違い」を認識する必要ができる。
②「意味=違い」を認識するために、それに付ける「名前=言葉」が必要になる。
③「名前=言葉」を与えることで、その名のそれが「存在」する。

それは同時になされるから、時間的な順番というものは無いのだけれど、
理屈としての順番としてはそういうことです。
ヨハネの福音書の、一章一節「初めに言葉ありき、…」は間違いではないけれど、
より正確には、「初めに意味ありき」になるんですね。

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ところで、「必要」とは言ったけれども。
何が何に対して「必ず要る」のか?なんで「必ず」なのか?
本当のところ、その「必要性」なんて、考えれば考えるほどに
わけがわからないんですよね。
わかるわけないんです。無くてもよかったんだから、意味なんか。

いろいろ区別しなけりゃならない理由なんて、ホントのところはわからない。
必要と思えば必要なんだけど、思わなければちっとも必要じゃない。
「違い=意味」が先に在るとはいっても、「在る」と思わなきゃ無いわけだし。

意味は先に在るとはいっても、そこのある意味は「空(から)」なんです。
無いんじゃなくて、空っぽ。

いろいろあるはずの「存在=意味」が、実は「空っぽ」。
空っぽだけど、意味が、在る。


略して、色即是空 空即是色

わかりやすいでしょ。
言葉を連ね書くということは、それが何かの書き写しでもない限り、
必ず思ったこと、もしくは考えたこと、つまり思考されたことが書かれています。

私もこのブログに、私が思考したことを書いています。

するとときどき、ありがたいことに、「あなたの意見は…」と、感想なり意見なりの
コメントをいただくことがあります。ホントにありがたいです。

ですが、根本的なところでお間違えのところがあります。
私は、「意見」なるものはほとんど書いておりません。

一般的になんですけど、思ったことが書かれたものを、みなさんよく一括りに
「意見」とおっしゃいますけど、そもそも「意見」ってなんですか?

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「意見は人それぞれ」ってよくいいますよね。あたりまえです。
人それぞれ違うものを、定義によって「意見」というのです。

たとえば、「地球は太陽の周りを回る」っていうのは意見ですか?
たとえば、「民主主義は政治制度である」これは意見ですか?
違いますよね。これは単なる事実ですよね。誰にとっても同じですよね。

それでは、「民主主義は優れた政治制度である」というのはどうですか?
これは意見ですよね。何故かって、「優れた」という部分が事実ではなく、
価値の判断だからです。優れているかどうかは人によって判断が異なります。
つまりですね、「価値判断」というのは、まずすべて「意見」ということです。

じゃあこれはどうですか。「太陽系には第十惑星がある」。
これは事実判断ですが、意見です。なぜなら、第十惑星が存在する確かな根拠は
今のところ存在しないし、少なくとも周知のものではないからです。
したがって第十惑星は、在るともないとも言えない。故に人によって違う。

つまりですね、「意見」というのは、反論する余地のあるもの。
そうではない可能性を示すことが可能なもの。断定することがことができないものが
「意見」であるわけですよね。

だとしたならば、私は「意見」はほとんどしておりません。
「~すべきだ」「~すべきじゃない」「~は善い、悪い」というような、
価値観に基づく価値判断の意見はほとんどしておりません。
また、事実判断も、「前提が正しいとするならば、結論はこうなる。」という仮定形
がほとんどだし、断定するにしても、反論しがたい論拠を示しているからです。

あくまでも、私の書いたものを「意見」よびたいのなら簡単です。
その部分を正当な論拠をもって、反論すればいいだけです。
反証可能なら、それは「意見」と認めます。

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じゃあ何を書いているのか。なんでしょうね。
一言で言えば「批評」というものです。

あることに対して理性が、その妥当性を判断すること。
考えることで、それが正しいか、正しくないか評価すること。
それがどのように正しいか、正しくないかを明らかにすること。
そうすることで、それが何であるかをより明らかにする。
そういうことを「批評」というのです。

「意見」は他人への主張のためになされるものです。それに対し、
「批評」は自身が、より正確に知るためになされるものです。
そして、批評のために疑い考えること「批判」と呼ばれるものであります。

批判は非難や中傷とももちろん違います。
それらは、根拠のないただの否定の事を指して言います。

そう、否定。私はよく他の方に「否定」ばかりすると言われます。
そりゃあそうです。考えているからですよ。

誰かの意見を理解しようという行為は、わからない部分をわかろうとすること
にほかならないですよね。
じゃあ、なぜそこがわからないかと言えば、その理屈が受け入れ難いからですよ。
理屈、つまり考えを考えるということは、それ自体が「否定」の形をとるのです。
「わかるために否定する」というのが、理性の性質であり、批判の本質なんです。

わかるために、理性をもって、理屈で否定をするのが「批判」です。それに対し、
斥けるために、感情によって、不確かな根拠で否定するのが「批難・中傷」とか
いうものです。でも、私、きっちり否定する根拠は示しているでしょうが。
ですから、私はわかろうとして否定しているだけです。
もしそれをただの否定だとか、批難、中傷だとか言うなら、その根拠を示してください。

でもですね。
もし、それが示せずに、ただの否定、批難、中傷というのは、それ自体が
ただの否定、批難、中傷だということ、お気付きですか。

悪いけど、こちとらそれなりに考えてもの書いているんですよ。
正しいと言えるだけの根拠を示してね。
それはですね、「俺はこう思う」…なんて主張程度の不確かなもんじゃない。
そうとしか考えられないようなことしか書いてないんだから。
だから、りきんで主張する必要もないんです。

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そう書いたところで、結局「あなたの意見」と言われ続けるのは百も承知です。
でもやっぱりこれは「私の」意見じゃないんですよ。
じゃあ、誰の意見だ!?ってことになるんですがね。

もちろん書いているのも、考えめぐらしているのも私、某ひでき、その人ですよ。
でもね、書いてあるのは「意見」じゃないんですよ。
「私の」価値観なんて全然書いていませんもの。

「まともな理屈で考えるなら、こういう結論になるはずだ。」
そういうことしか書いていません。これは価値観ではなく、ただの「考え」です。
「考え」というのはですね、「誰々の考え」というのはないんです。
たとえば、3平方の定理。たとえば中国の『韓非子』の矛と盾の逸話。
これらは誰にとっても同じ理屈で正しいですよね。そして、誰のものでもないですよね。

何かの言説が、誰かの意見や主張ばかりだと思ったら大間違いです。
主張したいこと、「~するべきだ」なんてこと、なーんにもないですからね。
わかってほしいことがあるわけじゃなし。

じゃあなんのため書いているかって?だから言ってるじゃないですか。
より正確に考えるために決まっているじゃないですか。
書くことによって正しいかどうかを確かめているんですよ。
間違っても、正義のためとかじゃないですから。

そんなわけで、正しいことにおいてはそれなりに確かなはずです。
それが理解できるかどうかは、私の知ったことじゃありません。
わかるひとにはわかる。わからんひとにはわからん。それは私のせいじゃない。
私自身は「正しい」ことを知りたいからそれを求めるけど、だからといって
他人に「正しくあるべきだ」とは言いはしません。意見じゃないんだから。

え?何?「正しいばかりが全てじゃない」って???
うん、すべてじゃないけどね。第一に優先することではありますよ。
そうでなければ・・・なんのためにあなた、言葉を発しているんですか?
…正しいより「楽しい」ほうがいいって!?
こんだけ娯楽ばっかの世の中で、まだ楽しさにあきたらないんですか?

ピグで音楽を流すセントラルっていうところがありまして。
そこで知りあった方と、たまたまてつがくっぽい話になりました。

で、「絶対」についての話になったわけですが。
その方の言うところでは、『「絶対」という概念は明治以降に日本に輸入
されたもので、それまでは日本にはなかった…』だそうです。

正直言いますが、そういうことを聞いても、急に萎えていくものを感じます。
「ああそうですか。だからなんですか?」そう思います。
そりゃそうですよ。だってそんなこと「絶対」という言葉の本質となーんの
関係もないじゃないですか。

明治期にそれまで日本に無かった言葉や概念が一機に日本に入ってきた。
「絶対」という概念もそのころ輸入された言葉を訳してつくられた。
ほほう。それが史実だとして。だから、なに?
まさか、それ以前には日本に「絶対なもの」は無かったとでも言いたいのかな?

いいですか。
私たちは「絶対の意味するところ」について話しているのでしたね。

ところで。
確かに「絶対」という言葉も概念も明治時代に作られたのかもしれません。
それはそうだとして。
ではなぜ、その「絶対」の意味するところを、
その時代の人や今の人が理解できるのですか?

答えは簡単です。「絶対」という言葉の意味するところを、知っていたからです。
なにも「絶対」に限ったことではありません。
言葉というものは、意味が常に先に在るのです。先に意味がそこにあったから、
後からやってきた言葉が「意味」として通じる。
意味が先に知られていなければ、言葉が通じるはずもないではないですか。
言葉の由来のうん蓄なんてどうでもいいです。意味が問題なんです。

え、意味はいつからあったって?もちろん初めっからですよ。
どっかで突如として生まれるものでもありませんて。
どこかで生まれたものなら、そのきっかけがあるはずでしょ。
じゃあ、そのきっかけってなんですか。意味の生まれるきっかけって。
そんなのありゃしませんて。

だって、意味が生まれるきっかけがあったとしても、
それをなんらかの「意味」として知るためには、
それがさきに「意味」として知られていなければ、
知ることなんてできないじゃないですか。

意味の原初を問えば、必ず無限後退に陥る。
だから、「存在」と同時に「意味」はあった。
そうとしかいうことができない。それだけです。

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第一、他の言葉ならいざしらず、よりによって「絶対」ですよ!?
「絶対」というのは、「対が絶える」ということですよ。
反対に位置する観念が、もう在り得ない。それぐらい根源的な事ですよ。
そんな途方もないものが、なんで「明治時代」なんてたかだか百年ちょっと前の
話になるのか。

しかもその続くところには、「キリスト教と仏教の…云々」。
ごめんなさい。悪く言うつもりはないんだけど、そんなのどうでもいいです。
だってそれが何であるかを考えることなく、どこかで聞いた情報を思いつく
ままにならべている。そうとしか聞こえないんです。つまり、脈絡がない。

あのですね。「絶対」といったら、いつとか、どことか、だれがとか、
そういう個別的な条件に対峙しているから「絶対」なんですよ。
キリスト教だから、仏教だから、西洋だから、日本だから…。
そういう個別的なものに拠るものは「相対」っていいますよね。
なんで「絶対」の話をしているのに、明治だの西洋だのキリスト教だの、
たかだか一地方や一時代や一宗教の話が出てくるんですか。

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「絶対的なものは認識できない」?
でもね、そう言えるのは、考えた末に(最終的に)考えられないことを
認識不可能って言えるわけであって、考える前に言えることじゃないんです。
それに「絶対」を考えることはあまりにも簡単にできるじゃないですか。

認識できないもなにも、そう言っている限りにおいて「絶対」が何かを知って
いるわけですよね。知らないも何も、ホントに知らなかったら「知らない」と
さえ言えないわけなんですよ。それこそ、絶句するしかないんです。

絶対とはなにかって?それ以外は在り得ないことです。
簡単じゃないですか。たとえば、この世には在るものしかない。
無いものは無い。在るもののみがある。え、あたりまえだって?

そうですよ。絶対なんて「あたりまえ」のことですよ。
誰でも知ってるあたりまえのことですよ。
生まれたから、死ぬまで生きている。生きている限りは死なない。
これは絶対です。

絶対はどこにあるか。決まっているじゃないですか。今、ここですよ。
今、ここにあって、いつでもどこにでもあるもの。つまりは、存在。
これが絶対です。

その「あたりまえ」をふまえたうえで、じゃあそれはなんなのかというと、
それはわかりません。存在という謎、それが絶対的謎です。

最も簡単で最も難しい、永遠の謎です。