財政金融をめぐる豊臣兄弟の確執 #3 | 福永英樹ブログ

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【#3 但馬生野銀山の採掘成功】

 1577年秋、羽柴秀吉は主君信長の命令により柴田勝家(越前国大名)の指揮下に入って越後国の上杉謙信と対峙していましたが、摂津石山本願寺攻めの陣にいた弟羽柴秀長から『味方のはずの松永久秀が裏切って摂津の状況が悪化しそうだから、黒田官兵衛を使って味方につけた播磨の国人たちが動揺して毛利へ寝返る可能性がある。兄者は兵を引き連れ越前から引き上げてくれ』 これを受けた秀吉は勝家に撤退を提案しますが受け入れられません。業を煮やした彼は兵を引き上げ長浜城へ帰還しますが、これを知った信長から厳しく謹慎蟄居を命じられます。しかしこの間秀長は1200人の兵を率いて官兵衛のいる播磨姫路城へ赴き、その嫡男松寿丸(後の黒田長政)を織田家への人質として近江へ連れ帰ります。秀吉が安土城で松寿丸を披露して播磨調略の順調な進捗をアピールすると、信長は一転して秀吉を許し、播磨一国の切り取り自由を認めます。かねてから望んでいた中国攻め総司令官の座を見事に秀吉は得たのです。秋が深まると秀吉は5600の兵を率いて播磨へ出陣しますが、秀長は前野長康・宮部継潤・堀尾吉晴・木村常陸介ら3200人を従えて南但馬へ北上し、岩津城と竹田城を落とします。


 秀長がわざわざ兄秀吉に『主君信長から殺されるかもしれないリスク』を負わせたのは、播磨国(今の兵庫県南部)はさることながら、どうしても但馬国(同兵庫県北部)を手に入れたかったからです。一つは丹波国(京都府北部)を攻略しつつあるライバル明智光秀が山陰地方へ出るのを防ぐ効果を狙ったともいえますが、もう一つはかつて豪商今井宗久にかっさらわれた但馬生野銀山を是が非でも手に入れたかったからです。武功夜話によれば但馬攻めを進言したのは秀長で、『多人数で播磨に進出したため出費も多く、万一軍資金が欠乏してはいけないから、生野銀山を手に入れるために岩津と竹田を攻めよう』と秀吉に訴えたそうです。無事に銀山を支配下に収め前野長康に採掘させると、秀長はなかなか従わなかった但馬の一揆衆に銀の小粒を与えて味方へ引き入れます。兵糧も充分過ぎるほどの量を備蓄しました。この結果秀吉最大の苦戦だった播磨別所氏の裏切りも、粘り強い三木城兵糧攻めにより乗り切りました。また経済力がなければ絶対できない因幡鳥取城攻めの米買い占めや、大量の土俵で実現した備中高松城の水攻めも、秀長が苦もなく費用を工面したため見事に成功したのです。もちろん秀長には利休がついていましたから、銀をただ寝かせていたわけではありません。堺の金融商人へ預けて資金運用したのです。また新たに織田家の領地となった播磨・但馬・因幡における商権を担保にして、莫大な融資も堺商人たちから受けていたそうです。そして1579年(本能寺の3年前)の秋、秀長は遂に今井宗久との最後の戦いに臨むことになります。秀吉の毛利攻略を好転させた備前宇喜多直家の調略です。

(#4へ続く)