豊臣秀長に仕えて別人になった藤堂高虎 | 福永英樹ブログ

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 外様大名にもかかわらず譜代重視の徳川家康から絶大な信頼を得た藤堂高虎(1556~1630)ですが、21歳までの彼の行状や素行を見ると、武勇こそ優れていましたが、誰もがお付き合いしたくないような非常に面倒くさい自惚れ屋の若者に過ぎませんでした。


 近江国出身の高虎は当時北近江の戦国大名だった浅井長政の元で15歳で初陣(姉川の戦い)を飾り、見事に武功を挙げます。長政から感状と脇差まで受けたのですが、それを妬んだ同僚と喧嘩して何と斬り捨ててしまいます。浅井家から逃亡した高虎は、翌年浅井の重臣から織田信長へ乗り換えた阿閉貞征に仕えますが、ここでも同僚二人を自らの意見に従わなかったため殺害しています。これらの悪評で近江国に居られなくなった彼は、美濃国・尾張国・三河国を放浪し再仕官を試みますが、プライドばかり高くて謙虚さに欠けていたためまったく相手にされず、遂には窮して無銭飲食までする始末でした。仕方なく近江へ戻った高虎は母親からこっぴどく叱責されて少し反省し、旧浅井重臣で信長に仕えていた磯野員昌に仕えるチャンスを得ます。勇猛で有名だった員昌は80石を与えてくれ、高虎も今度こそはと励みます。そこそこの働きを示して加増されそうになりますが、信長が員昌の養子にしていた甥の津田信澄を強引に家督相続させたため、失望した員昌は出奔してしまいます。高虎の加増も反古にされましたが、信澄は高虎の能力そのものは高く評価していました。それでもプライドが高く性急な彼は、せっかく慣れていた磯野家をあっさりと去ってしまいます。そしてこれらの高虎の噂(悪評)をたまたま耳にしたのが、北近江3郡12万石の長浜城主だった信長重臣羽柴秀吉の弟で、兄から12万石に相応しい家臣団構築(人事)を任されていた羽柴秀長(1540~1591)でした。早速高虎を長浜に呼び寄せた秀長は、たった一度の面会で彼を300石の厚遇で家臣にします。歓喜した高虎の母親は鮒寿司をつくって彼の仕官を祝い、以来藤堂家では祝い事で必ず鮒寿司を振る舞ったそうです。


 徳川秀忠が二代将軍になったばかりの頃、彼は父家康が信頼する高虎に為政者としての心得を聞きます。すると高虎は『家臣の器量を見抜いて適材適所で働かせることも大切ですが、何よりも人を信じて疑わないことです。主従が互いに疑うようになれば心が離れてしまうかららです。天下人であっても下の者が心服しなければ、肝心な時に事を謀ることもできません・・・』と語ります。これを秀忠から聞いた家康は大いに感動したといいます。

 若い頃の高虎を知る人なら『あんさん、どの口がそんな立派なことをほざいとるねん!』と苦笑したと思いますが、それほど高虎は変わったのです。まず秀長は臣従早々の高虎に、羽柴家が信長から命令されていた安土築城の手伝い(人夫の監督)を任せます。きっと武勇自慢の高虎は戸惑ったはずですが、築城は互いの信頼の上に協調性をもって当たらなければできない作業ですから、それまでのような我儘や短気は通用しません。もちろん人はそう簡単に変われませんから、秀長から激しく叱責されたり諭される場面もあったことでしょう。次に高虎は秀長が採掘を始めた但馬国生野銀山の庶務を任され、さらに堺の有力商人でもあった茶人千利休に銀の財務運用を学びます。世界が広がった高虎は人付き合いが良くなり、それまでになかった精神的な余裕が生まれたのです。そして主君秀長から命じられた一つ一つの仕事の意図や意味を知り、最終的な秀長の目標を理解するようになっていきます。後年の高虎が家康に期待した『武家政権による永続的で安定した平和』です。


 高虎に限らず、秀長の人々への影響力は計り知れないものがあります。まずリスクの高い墨俣砦構築に乗り気でなかった蜂須賀小六が、なぜ秀長の一言で秀吉に積極的に協力したのか? また前野長康はなぜ『我ら川並衆は藤吉郎殿はともかく、小一郎殿にひかれて武辺に励んだのだ』と武功夜話に記したのか? さらに茶頭商人に過ぎなかった千利休が、なぜ寿命を縮めてまで秀長がこだわった朝鮮出兵反対運動に賛同したのか? そして高虎はなぜ豊臣恩顧の大名たちから嫌われ、徳川譜代の大名たちから後ろ指さされてまで愚直に家康を支えたのか? 

 信長家臣時代の秀吉の重臣たちは、信長のそれや家康のそれと比べても不思議と好人物が多かったように私は感じています。切れ者とされる竹中半兵衛は、重病をおしてまで秀吉がいる播磨三木攻めの陣に駆けつけて若死にしていますし、黒田官兵衛だって荒木村重に幽閉されて体が不自由になるまで秀吉に尽くしています。小六も死ぬ直前まで秀吉の妹と家康の結婚に心を尽くしました。つまりこのままの気持ちが続いていれば、後の豊臣政権も安泰だったわけです。ただ彼らの心の支えだった秀長が死去し、秀吉が彼の志をないがしろにしたため、高虎を初めほとんどが家康に天下を託さざるを得なかったのです。


 高虎が75歳で死去した時、徳川三代に仕えた高僧天海は彼の戒名を寒松院と名付けました。生前の高虎の生き様が、真冬の寒さにさらされる松の木のようだったからだそうです。