家康へ繋いだ豊臣秀長の宗教政策 | 福永英樹ブログ

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 天正2年(1574年)総勢12万の大軍を率いた織田信長は、先年自らの弟や多くの重臣を討ち取った伊勢長島一向一揆軍を砦へ追い込み、2万人の一向宗門徒を焼き殺しました。重臣羽柴秀吉は明智光秀と共に越前一向一揆に備えて不在でしたから、羽柴軍の大将は実弟羽柴秀長でした。秀長は丹羽長秀と共に殺戮作戦の先鋒として戦っており、この経験が後の彼による宗教政策に大きな影響を与えたと思われます。


 秀長も信長と同じ合理主義者でしたから、僧兵を中心とした宗教勢力が武器をもって領地を支配することには反対の立場でした。寺社は武家政権が定めた法やルールに従いながら宗教活動に専念し、人々に心の拠り所、心の豊かさ、慰みを与えるだけで充分だという姿勢です。特に信長が焼き討ちした比叡山延暦寺の僧侶たちは、仏法のならいをないがしろにして女淫、肉食、金欲を日常としていましたから、秀長も密かに反感を抱いていたのです。ただ彼は殿様育ちの信長と違って庶民出身でしたから、高僧たちに利用されてきた無知無教養な門徒たちを哀れに思っていたに違いありません。『本願を信じ念仏申さば仏になる』という教えを信じこませ、門徒たちを進んで死地へ赴かせた高僧たちや、戦いの指揮を取る代わりに高額の報酬を得ていた牢人たち(かつて信長と戦い負けた武士)こそ憎むべき人たちだったのです。


 従って信長が横死して兄秀吉の世になると、秀長は本願寺に兵を集めないことを条件に存続を許し協調共存しています。また当時秀吉と敵対していた徳川家康と連携する紀伊国根来寺を副将として攻めた際も、追撃するたびに降伏を促し、信者たちの死傷者を最小限に留めたのです。

 そして寺社勢力が跋扈する大和国(今の奈良県)の大名になった時、ついに秀長は温めてきた宗教政策を断行します。まずは彼らが保有していた武器をすべて没収しています。秀吉が始めたとされるいわゆる刀狩りは、秀長が先行して行ったのです。次に寺社と奈良商人たちとの癒着のシステムの解体です。実は信長登場以前の商業は寺社が管理して税金(地子銭)を徴収しており、この財源が宗教勢力拡大の要因になっていました。そこで秀長はすべての商人たちを居城のある郡山の城下へ移住させ、奈良の寺社から物理的に完全に引き離します。そして商人たちに自治(箱元制度)を促したのです。さらにこれまで興福寺に配当されてきた25000石もの年貢のうち、8000石もの過剰申告があったことを暴きます。こうなると奈良の寺社も真面目に檀家信者に対して宗教活動し、彼らから得る布施のみを財源としなければならなくなります。こうして豊臣政権における宗教勢力は、関白秀吉の傘下に従うことになったというわけです。そして秀長の政策を踏襲した家康は、すべての宗派の本山を江戸幕府寺社奉行の傘下に置き、すべての寺社とすべての檀家を組織的に統制したのです。以後日本国では、諸外国のような宗教の違いによる内乱は皆無となったのです。