大坂冬の陣で江戸留守居だった旧豊臣系大名 | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 慶長19年(1614年)晩秋 大御所徳川家康は、大坂城内に多くの牢人を集めた豊臣秀頼の征伐を決意します。息子の将軍徳川秀忠は早速全国の大名に出陣命令を出しますが、家康は次の大名に限り江戸留守居または在国を命じています。すべて秀頼の父親 豊臣秀吉と深い関係があった者たちで、彼らのまさかの反逆を恐れたとも、彼らが旧主へ弓を引くことを避ける家康ならではの配慮があったともいわれています。いずれにしても家康が彼らを信用しきれなかったことは否めないところで、彼らそれぞれにも疑われるような複雑な思いがあったわけです。


【江戸留守居】

・福島正則(54歳)

 この人は秀頼が大坂の福島家の蔵から兵糧を収奪するのを黙認したり、弟(後に改易)を大坂方に内通させるなど、家康への裏切り行為を平然とやっています。家康は2年後に病の床につくと、秀忠に正則改易を密かに命じています。個人的にはこんな中途半端なことをするくらいなら、関ヶ原で石田三成へ味方しておけば良かったと思います。

・加藤嘉明(52歳)

 父親や祖父が徳川家の旧臣だったため関ヶ原では家康に味方したのですが、三河一向一揆で徳川から離れて放浪していたところを拾ってくれたのは秀吉でした。当初は秀吉養子の羽柴秀勝に仕えていましたが、軍例違反を犯してまで秀吉の側で戦ったといいますから、相当心酔していたのでしょう。従って家康は嘉明の息子のみを大坂の陣へ参戦させたのです。

・黒田長政(47歳)

 父親黒田官兵衛は秀吉が織田信長の重臣だったころからの軍師であり、長政自身も秀吉の下で多くの合戦に参加してきました。しかし三成ら官僚大名が主導する豊臣政権には早々に見切りをつけ、関ヶ原では毛利一族を寝返り日和見させる大貢献をして家康に称賛されます。しかしながら豊臣家存続だけは願っていたふしがあり、家康はそんな長政の中途半端な思いを見抜いていたようで、息子のみに参戦させています。

・蜂須賀家政(57歳)

 秀吉最古参の重臣蜂須賀小六の嫡男であり、家政自身も多くの合戦で秀吉の下で戦ってきた身でした。しかし当主になっていた息子蜂須賀至鎮がすっかり徳川贔屓になっていましたから、影響力を残していたとはいえ隠居家政が行動するには限界がありました。

・平野長康(56歳)

 賤ヶ岳の七本槍の一人でしたが、若い頃から秀吉とはあまり気が合わなかった譜代武将でした。一方で家康のことは早くから一目置いており、関ヶ原では徳川に協力しています。しかし徳川と豊臣の対立が明らかになると、何と『自分は長く豊臣の旗本を務めた者だから大坂方として戦いたい』と家康に告白します。驚いた家康は江戸留守居をするよう必死に説得したというわけです。


【在国】

・脇坂安治(61歳)

 彼も賤ヶ岳の七本槍の一人で、浅井長政の旧臣から秀吉に拾われた一人でした。しかし同郷で仲が良かった藤堂高虎の手引きにより、関ヶ原では三成方の致命傷となる裏切りを断行しました。それでも豊臣家存続だけは願っていましたので、家康は安治の息子を参戦させて本人は在国するよう配慮したのです。

・細川忠興(52歳) 

 薩摩島津家を監視するために領地豊前国で待機するよう家康から命じられますが、実際は忠興の次男が大坂へ入城して秀頼に味方したことが在国の理由でした。そんな家康の配慮を知っていた忠興は、戦後家康がその次男の命を助けようとすると、丁重に断って次男を斬首しました。 

・津軽信枚(29歳) 

 信枚は三成の娘を密かに側室にしており、家康はとっくにそれを見抜いていました。また彼の父親津軽為信が秀吉を信奉していたこともあり、津軽家が大坂攻めに消極的だったことも知っていたのです。

・島津家久(39歳) 

 内政上の事情で戦いに間に合わなかったともされていますが、戦後秀頼薩摩逃亡説があったくらいでしたから、島津家は豊臣家にかなり同情していたようです。従って家康もあえてリスクの高い島津参戦を催促しなかったというわけです。