豊臣秀弘(羽柴長吉)の正体について | 福永英樹ブログ

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 読者様のお一人から、豊臣秀弘(羽柴長吉・?~?)なる豊臣系大名の出自について問い合わせをいただきました。結論から申し上げますと、秀弘は池田輝政の弟池田長吉(1570~1614)だと私は考えています。以下にその根拠を示していきます。まずは彼について記された三つの一次史料を確認していきましょう。

①慶長4年(関ヶ原の戦いの前年)1月に記録された五大老・五奉行連著による大坂城勤番定書において、詰衆二番衆の中に羽柴長吉の名前があり、彼が豊臣秀頼の馬廻(旗本)に列していた。
②二代将軍(慶長11年~)に就いたばかりの徳川秀忠が羽柴長吉宛に手紙を出しており、文中に榊原康政(徳川四天王の一人)の名前が登場する
③慶長7年に朝廷が発給した文書に、羽柴長吉(豊臣秀弘)を従四位下に叙すと記されている。

 そしてこれまで秀弘ではないかと候補に挙がった武将は次のとおりです。
【伊達秀宗(1591~1958)】
 伊達政宗が文禄3年(1594年)に豊臣家への人質として出した長男で、豊臣秀頼の小姓となり豊臣姓を豊臣秀吉から与えられています。秀弘と名乗った時期があり候補になりましたが、従四位下に叙任されたのは寛永3年(三代徳川家光の治世)ですから、明らかに別人物ということになります。
【長谷川秀弘(?~?)】
 織田信長の小姓から秀吉に臣従(越前国15万石)した長谷川秀一の息子が秀弘を名乗っていました。しかし朝鮮出兵中に秀一が病死した直後に長谷川家は跡継ぎ不在で改易されていますので、この息子は夭逝していたと思われます。
【浅野長政(1547~1611)】
 秀吉正室の義弟であることから豊臣姓・羽柴姓を早くから与えられ、また関ヶ原の戦いまでは浅野長吉と名乗っていたことで候補になりました。しかし長政の従四位下叙任は秀吉生存中であり、また①では五奉行の一人として連著しているため別人物です。

 さて池田長吉ですが、彼は信長生存中の天正9年(本能寺の変の前年)に秀吉の養子(12歳)となり、羽柴藤三郎長吉と名乗っています。さらに天正13年に僅か16歳にして従五位下備中守にされ、兄輝政と同格の官位を得ています。しかしながら秀吉が彼を側から離さず、自らが死ぬまで長吉を豊臣家の旗本とします。それでも関ヶ原では輝政と行動を共にし、敗走して居城に籠る長束正家を切腹に追い込む大功を挙げています。家康と秀忠から称賛され、輝政とは別に因幡国鳥取6万石を与えられます。この時から池田姓を名乗るようになったそうです。そして彼が羽柴長吉である決定的な根拠ですが、②で将軍秀忠が手紙を出した時期は輝政の長男池田利隆と榊原康政の次女鶴子(秀忠養女として)の婚約が成立した頃で、秀忠が利隆の叔父で輝政が頼りにしていた長吉と連絡を取った可能性が高いということです。わざわざ将軍が6万石の小大名に過ぎない長吉へ丁重な手紙を送ったのは、彼が池田家の嫁の養父だったからです。また関ヶ原前年に五大老五奉行に大坂城勤番を任されたのも、当時30歳でまだ羽柴姓(豊臣姓)を名乗っていた旗本の長吉だったのです。さらに長吉は16歳で従五位下に叙任されていますので、31歳で迎えた関ヶ原における武功で従四位下に上がった可能性はかなり高いのです。