関白秀次に殉死した豊臣秀長次席家老 | 福永英樹ブログ

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 関白豊臣秀次が太閤豊臣秀吉に粛清(切腹命令)された時、その4日後に豊臣秀長の次席家老だった羽田正親(?~1595・大和宇陀松山城主)が連座の罪で越前国で殺されています。しかし寛政重修諸家譜(徳川幕府文書)では死罪ではなく、自発的な殉死と記されています。また正親は豊臣秀保(秀長の跡継ぎ)が不可解な死を遂げた後に秀次に臣従したといいますが、秀次が殺されたのは秀保溺死の僅か3ヶ月後でした。さらに当時 本多正氏(徳川重臣 本多正信の甥・26歳)が秀次への臣従を望んで正親に仲介を依頼していたのですが、直前に秀次が失脚したため、正氏は正親を介錯して自らの命も絶ったと記されています。この異常な展開にはどこか裏がありそうで、私は秀長の意志(秀次による長期平和政権創設)を引き継いだ正親が、徳川家も巻き込みながら乾坤一擲の勝負に出たのではないかと想像しています。


 正親の生年は不明ですが、出身地である今の滋賀県近江市上羽田町の位置を確認すると、近江国守護六角氏の旧臣だったようです。織田信長が浅井長政を滅ぼし秀吉を北近江12万石の大名にすると、秀長は藤堂高虎ら浅井旧臣の多くを自らの家臣としていますが、正親は六角旧臣でしたから、わざわざ南近江へ出張してスカウトしたようです。正親は文武に優れた武将で、賤ヶ岳の戦いでは秀吉不在中の賤ヶ岳砦を秀長の下で死守する武功をあげています。秀長が大和・紀伊100万石の大大名になると、横浜良慶に次ぐ次席家老(4万8千石)に抜擢され、築城や木材調達など行政にも手腕を発揮しています。しかし順風な日々はすぐに過ぎ去り、秀長の跡継ぎだった秀保が急死し大和豊臣家は改易されてしまいます。藤堂家の記録には『秀保の大和十津川における溺死は秀吉による暗殺』を匂わせる記載がありますので、正親は大いに落胆したことでしょう。さらにこの時期は秀吉による朝鮮出兵で日本中が課役と課税に苦しんでいましたから、正親が秀長の志を現役関白の秀次に託そうとしたとしてもおかしくありません。(藤堂高虎は失望のあまり高野山で出家しましたが・・)


 正親が秀次に接近した文禄4年5・6月頃は既に聚楽第(関白政庁)は不穏な空気(秀吉の圧力による)で溢れていましたから、いつ両者による合戦が勃発してもおかしくない情勢でした。そんな時に正親がわざわざ秀次に正式に臣従する余裕はなく、彼は生前の秀長と親しかった大名たちと秀次を繋ぐ連携活動を進めていたのではないでしょうか。高虎従兄弟の藤堂良政(37歳)も秀次の家臣でした。その準備(秀吉への謀反)はあともう少しで完成するところにあり、だからこそ失敗したら他家の家臣(本多正氏)もろとも潔く死に行く覚悟ができていたのだと思います。正親の無念は高虎が晴らしていくことになります。