豊臣政権存続を阻んだ織田信長の怨念 | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀吉没後の豊臣家(豊臣秀頼)を滅ぼしたたのは皆様ご承知のとおり三英傑の一人徳川家康ですが、そこに至るまでのプロセスをたどっていくと、もしかしたら織田信長の怨念がそうさせたのではと感じるふしがあります。


 本能寺の変(1582年)で旧主信長が横死してからの秀吉は、次男織田信雄を相続者から外して改易(1590年)したり、三男織田信孝とその母(信長側室)も殺害(1583年)するなど、秀吉を足軽から大名まで引き上げた信長からすれば到底許せない恩知らずな行為を続けました。それによる後ろめたさは秀吉も感じていたようで、加賀藩に残した前田利家(秀吉親友の五大老)の記録によれば、信長が最晩年(1598年)の秀吉の夢枕に度々現れ、秀吉の体を引きずりながら激しく叱責したそうです。しかしその頃の豊臣政権は既にボロボロ状態で、信長による仕返しは完了しつつありました。

 後陽成天皇が聚楽第(関白政庁)に行幸した1588年は豊臣政権にとって絶頂期で、常に秀吉の暴走にブレーキをかけてきた弟の豊臣秀長もまだ健在でした。しかし同じ年に信長妹の長女である茶々(淀殿)が秀吉の側室になっており、彼女が翌1589年に鶴松を出産したことで、それまで円満だった豊臣一族に亀裂が入ります。秀吉の姉には三人の息子があり、秀長や大政所(秀吉母)はそのいずれかが秀吉の跡継ぎになることを想定していたからです。また子種がないと思われていた秀吉でしたから、果たして鶴松が本当に実子なのかという疑いも取り沙汰されました。そしてその矢先に秀長が病に倒れ、翌年1590年の小田原征伐では、将来家康に対抗できそうな有力大名堀秀政(信長晩年の側近で長久手で徳川軍に大勝)も疫病に罹り38歳て急死しています。さらに翌1591年には鶴松が夭逝して豊臣秀次(秀吉姉の長男)が関白職を継ぎます。さあこれで正式に相続者が決まり安泰かと思われましたが、あろうことか1593年に茶々が再び男子(豊臣秀頼)を出産します。為政者としては個人的感情を優先してしまいがちなタイプの秀吉は、すぐに秀次に関白を譲ったことを後悔し、2年後の1595年には粛清(切腹命令)してしまいます。また秀次に連座(死罪)した大名の多くに秀吉古参の武将たちがおり、辛くも罪を免れた大名たちの秀吉に対する忠誠心が急速に冷めていきます。もうこれは信長が茶々を使って豊臣政権をズタズタにしたと思うしかなく、結果論とするにはあまりにも偶然が重なり過ぎでした。さらに同じ年にはもう一人家康に対抗できそうな大名だった蒲生氏郷(彼も信長晩年の側近)が40歳の若さで病死してしまい、家康の行く手を阻む有力者は皆無となります。信長からすれば、自分の死後すぐに秀吉に味方して織田家をないがしろにした堀秀政と氏郷は到底許せなかったのでしょう。そして秀吉死去後の関ヶ原の戦いでは、案の定秀次と親密だった大名たちはすべて家康に味方しました。

 それでも秀頼がかつての織田信雄のように細々と命を長らえる道を選べば、家康も殺すことはなかったはずですが、秀頼は秀吉の息子である以上に信長の血筋が強かったようで、大坂城を出るくらいなら家康と戦って散っていく道を選んでしまいました。これも信長が秀頼に乗り移って秀吉に止めを刺したものと私は想像しています。怨念が遂に遺恨を晴らした瞬間でした。