藤堂高虎が石田三成の次男を家臣にするまで | 福永英樹ブログ

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 藤堂高虎が石田三成の次男 杉山源吾(石田重成・1589~1641)を家臣にしたことは、源吾の三男 杉山嘉兵衛成保が伝えた杉山系図に記されいます。しかし関ヶ原の戦いで三成の敵だった高虎が、なぜその息子を臣従させたかについては今もって明確になっていません。


 関ヶ原で負けた三成が斬首されると、重成は共に豊臣秀頼の小姓だった津軽信建(大名 津軽為信の長男)の助けで陸奥国弘前へ逃れます。重成は杉山源吾と改名して深味村という場所でしばらく隠棲しますが、関ヶ原の10年後に長男杉山吉成(後の津軽家重臣)が誕生すると江戸へ移っています。ちょうど同じ時期に妹の辰姫(豊臣秀吉正室寧の養女)が、二代将軍徳川秀忠と親しかった孝蔵主(寧の側近)の尽力で当主 津軽信枚(早世した信建の弟)に嫁いでいますので、源吾は出家した兄石田重家と同じように徳川家康・秀忠父子に許されたのだと思います。

 そして津軽家の江戸藩邸が上野寛永寺の近くにあったのですが、そのすぐ側に藤堂家の江戸藩邸がありました。高虎は長年信枚と親しく付き合ったという記録もあり、1616年に家康が死去すると源吾を藤堂家に迎えています。源吾は1641年に53歳で伊勢国(藤堂家領地)で死去したそうです。


 おそらく源吾(石田重成)は父親に似て有能だったことが想像され、高虎はそこを買って家臣にしたのでしょうが、豊臣秀長の重臣だった頃の高虎は三成と親しかったわけですから、源吾を通してかつての友人に報いたのだと私は思っています。