織田信長は北条氏をどうするつもりだったのか? | 福永英樹ブログ

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 本能寺の変(天正10年6月)時点の織田信長の東方領地を確認すると、武田勝頼を滅ぼしたことで甲斐国(今の山梨県)、信濃国(今の長野県)、上野国(今の群馬県)まで急拡大し、越後国(今の新潟県・上杉景勝)を滅ぼすのも時間の問題でした。これに対して関東において240万石の広大な領地を有していた北条氏政はどう動いたかといえば、意外にもこの2年3ヵ月前の天正8年3月に正式に織田家に臣従しています。従って本能寺の3ヶ月前に信長が武田氏を滅ぼした時には、氏政は駿河国興国寺城まででむいてに信長を手厚く接待しています。後の豊臣秀吉に対してはなかなか臣従の意志を示さず滅亡への道をたどった北条氏ですが、なぜ信長に対してはこうも従順だったのでしょうか? 


 そもそも関東の北条氏は越後の上杉氏と古くから争ってきた間柄で、上野国は上杉謙信の領地だった時期もありました。そのため氏政は甲斐の武田勝頼や徳川家康と臨機応変に組むことがあったわけですが、天正6年3月に謙信が病死し上杉で家督争いが起きます。氏政は実弟で謙信の養子だった上杉景虎を推しますが、勝頼は妹の夫である上杉景勝に味方します。そして翌年に景虎が敗死したことにより、武田氏を敵に回してしまった氏政は一気に劣勢となります。氏政は家康に助けを求めますが、家康は同じ年の9月に信長の命令により息子松平信康が殺されそれどころではありませんでした。さらに翌天正8年に入ると信長が苦戦してきた相手の摂津石山本願寺を降伏させ、中国毛利氏に味方していた播磨国の別所氏も滅亡させます。ああこれはいずれ武田氏も信長に滅ぼされるなという見通しをつけた氏政は、直後に織田家への臣従を信長に誓ったのです。しかし信長の対応は冷めており、氏政が度々贈り物をしてきてもまったく無反応でした。ついに勝頼が信長に滅ぼされると、織田家重臣滝川一益が上野国と信濃二郡を領する関東管領に任命され、甲斐国にも川尻秀隆が入ります。それでも信長は弟の織田信包には氏政と密に連絡を取るよう命じていますが、おそらくかつての伊勢国神戸氏・北畠氏のように、自らの親族を北条氏の養子にして骨抜きにするか、伊豆国あたりに押し込めるつもりだったと私は考えています。キリスト教宣教師からの情報により海外事情に詳しくなっていた当時の信長の理想は、あくまでも中央集権国家創設であり、外様の大大名など無用だったからです。


 信長に比べれば秀吉は理念理想より効率性を重んじる現実主義者でしたから、氏政はそこを見ぬいて早めに豊臣家に臣従すべきでした。さらに伊豆 相模を除く領地を返上するくらい謙虚であれば、まだ豊臣秀長も健在だったでしょうから存続の可能性があったわけです。実際に秀吉は和平派だった氏政の息子氏直の命は助けています。信長が長命なら間違いなく根絶やしにされていますからね(笑)