知られざる細川幽斎と前野長康の友情 | 福永英樹ブログ

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 前野但馬守長康(将右衛門・1528~1595)といえばあの蜂須賀小六の弟分ともいうべき川並衆(木曽川沿岸の野武士)の元首領で、遠藤周作さんの小説などで見るように、少々荒っぽい屈強の武辺者というイメージがあります。かくいう私も著書「志 豊臣秀長伝」ではその基本線に沿って人物設定したのですが、彼について丹念に調べていくと、まれに見る冷静な教養人だったことがわかってきました。特に豊臣政権で最も教養を有していたといわれた大名 細川藤孝(幽斎・1534~1610)との親交は密なものがあり、それは長康嫡男 前野長重(景定・1566~1595)と幽斎孫娘 御長(おちょう・1579~1603)の結婚へと発展していきます。


 長康の父 前野宗康(1489~1560)は尾張国上四郡を支配する守護代織田伊勢守家の家老で、それは宗康の何代か前から続いてきました。宗康は「南窓庵記」において旧主 織田信安が浮野の戦い(1558年)で織田信長から追放された際に、それを悲しむ格調高い詩を詠んでおり、その詩心は息子長康へと引き継がれました。


 長康は1566年の墨俣砦構築を機に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉で当時は信長侍大将)へ臣従しますが、どちらかといえばその弟小一郎(後の豊臣秀長)と気があったようで、秀吉が信長から中国攻めを命じられると、但馬国を攻略する秀長の軍に加わっています。そして1579年(本能寺の変の3年前)に明智光秀が丹波国赤井氏を攻めた時に、秀長と藤孝が明智軍に合流し、初めて顔を合わせた長康と藤孝の交流がスタートします。翌1580年に秀長が但馬国主(今の兵庫県北部)となり、藤孝が隣の丹後国主(今の京都府北部)になると、両者の仲は親密となり、羽柴兄弟の鳥取城攻めの際には細川家老 松井佐渡守康之が海路から参戦しています。さらに運命の本能寺の変(1582年)の直前には秀長と藤孝を結ぶ通信ルート(丹波夜久氏記録)が構築されており、いざ藤孝が光秀謀反の報に接すると、播磨三木城にいた長康へ真っ先に通報しています。つまり変のかなり前から、秀長と長康は藤孝が明智サイドへ向かわないように事前工作していたのです。そして秀吉が天下をとって秀長が1585年に大和国100万石へ移ると、長康は但馬国11万石へ加増移封されて丹後国細川家12万石と隣同士となり、両者の親交はますます深まっていきます。


 築城の才能があった長康は秀吉が大坂城を建てた際には工程(縄張りは黒田官兵衛)を管理する奉行を任されますが、1588年に後陽成天皇が聚楽第(関白秀吉の政庁)へ行幸することが決まると、その饗応役と行列の先導役に任命されます。一世一代の晴れ舞台に立つにあたり、長康は親友藤孝と秀長を通じて親しかった千利休と面会し、しきたりや作法について念入りに確認します。堺市博物館にある「後陽成天皇聚楽第行幸図」を見ると、烏帽子に素襖袴立ちの長康が口上を述べながら行列を先導する姿があります。見事に役目を果たした長康は23歳の息子長重を連れて丹後宮津城を訪問し、藤孝に感謝の意を示します。藤孝と嫡男忠興は10歳だった御長(忠興長女)を紹介し、次回は我々三人で但馬出石城を訪ねる旨を約束します。前野父子はキリシタンの洗礼を受けていましたので、敬虔なクリスチャンだった忠興夫人ガラシャとも意気投合したと思われます。そしてこうした家族ぐるみの交流が重なるうちに、長重と御長の婚約が整ったのです。


 しかしそんな両家に暗い影が差します。両家を繋げてくれた秀長と利休が1591年に続けて死んだからです。長康著の武功夜話では、『秀長が秀吉に朝鮮出兵を思いとどまるよう説得していた』ことを長康が藤孝へ告げ、それを受けた藤孝は『この外征には大義名分がなく、これまでの国内統一戦と違い必ず苦戦するだろう』と予言しています。それでも26歳の長重と13歳の御長の結婚は、秀吉の許可を得た上で同じ年に果たされました。そして翌1592年に豊臣秀次(秀吉甥)が新関白となり、秀吉による文禄の役が始まります。65歳になっていた長康は老体にむち打ち軍監として朝鮮へ渡海しますが、翌年帰国すると豊臣秀頼誕生の報に接します。秀吉が秀次を関白にしたことを後悔していると長康は察しますが、間もなく秀吉から『長康は秀次の後見役に、長重も秀次の家老になるよう』命令が下ります。古くから秀吉に仕えてきた長康はこの命令の意図を見抜きます。それは『秀次が自から関白職を辞するよう、長康からそれとなく説得してくれ』ということで、これはあの黒田官兵衛も指摘していたところでした。しかし秀次の若い取り巻き大名たちがそれを許さず、長康は彼らと秀吉の間に挟まれで苦悩します。きっと藤孝にも心の内を打ち明けたことでしょう。しかし彼の努力は通じず、遂に1595年に秀吉は秀次を粛清(切腹命令)し、秀次を弁護した前野父子も連座の罪で殺されてしまいます。秀吉は御長も捕らえるよう命じますが、松井佐渡守が事前に離縁の手続きを完了して秀吉へ示したため、御長は細川家へ戻ることを許されました。丹後へ戻った彼女は母と夫が寄与したキリスト教の信者となり、1603年に25歳の短い生涯を終えています。


 長康は生前多くの優れた漢詩を残していますが、最後に残した中に『60余歳生きて老い朽ち果てた今日、世継ぎ争いなど御免だ。関白でも若君でも、どちらでも良いではないか・・』というものがあります。従って長康の理不尽な死の影響は多大なものがあり、細川家はもちろん多くの豊臣大名たちが徳川家康に味方したのも無理はなかったのです。