石田三成の冤罪を晴らす ③関白秀次粛清事件 | 福永英樹ブログ

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③関白秀次粛清事件

 1593年夏に太閤豊臣秀吉の実子秀頼が誕生すると、前年に関白職を継承したたばかりの豊臣秀次(秀吉甥)ににわかに暗い影が差します。秀吉が早計に秀次を関白にしたことを後悔していることは、誰もが想像できるところだったからです。老獪な秀吉は『全国の5分の4を秀次に与え、5分の1を秀頼に与える』だとか『秀次の娘を秀頼と婚約させる』などと公言し油断させますが、いずれ秀次が秀頼を廃して自分の息子を三代目の関白に据えるに違いないと、密かに信じて疑いませんでした。ジリジリ(伏見城下に諸大名の屋敷を建てさせるなど)と秀次を追い詰めた秀吉は、秀頼誕生2年後にあたる1595年夏に秀次を謀反の罪で高野山へ追放(出家)し、その7日後に切腹させました。秀吉による粛清は凄まじく、秀次の後見役だった木村重茲 前野長康 羽田正親(豊臣秀長旧臣)らも連座の罪で死罪となり、秀次の妻妾子女も皆殺しにされます。秀吉が謀反の詰問をさせた奉行衆の中に石田三成の姿があり、妻妾子女の刑場にも三成の姿があったことから、江戸時代の書物には『利休切腹に続き、またもや三成が秀吉に讒言して秀次を殺した』とまことしやかに記されます。


 まず秀吉が秀次を追い詰め謀反をでっち上げた時期に、三成は上方にいませんでした。三成は文禄4年3月に常陸国の大名佐竹氏の検地に派遣されていますが、その最中に秀次実弟の豊臣秀保(17歳・秀長後継者)が不可解な死を遂げいます。秀保の家老だった藤堂家の記録によれば、家臣の一人が秀保を抱き抱えて川の淵に飛び降り秀保だけが溺死したといいます。5月に三成が常陸国から上方へ戻ると、前野長康から『いよいよ秀次様の立場が危うくなってきた(武功夜話)』と告げられ助成を求められます。しかしまたもや秀吉から薩摩国島津氏の検地を命じられ、上方から遠ざけられます。仕事を終えて6月下旬に秀吉の元へ戻ると、『既に秀次謀反の証拠が上がっている』と秀吉から告げられ、詰問の使者に加わるよう厳命されます。つまり三成が秀次について秀吉に讒言することは、物理的に不可能だったということです。


 さらに秀次切腹の検死役に官僚である三成や増田長盛が派遣されず、彼らと不仲な福島正則が役割を担ったことも不思議といえば不思議です。血縁でありながら秀次とも不仲だった正則は、この事件直後に秀次旧領に加増(11万石→24万石)の上で転封され、秀次粛清で最も得をした人となります。つまり『秀吉の個人的感情を満たすことより、豊臣政権の行く末を優先して関白秀次を温存すべきだ』と考えた良識ある人たちは、秀吉からあらかじめ遠ざけられたということです。『単純で自分本位な正則なら必ず素直に命令に応じるだろう』という秀吉らしい計算です。自ら(豊臣政権)の首を絞めることになってしまった秀吉による粛清は、三成ら心ある譜代大名たちを困惑落胆させるばかりの愚行だったというわけです。三成や藤堂高虎が秀次旧臣や長康旧臣を複数自らの家臣に迎えたことがそれを示しています。


追記:三成は自らの参禅の師である大徳寺の春屋を通じても、前野長康と深い関係にありました。長康が春屋の弟子 薫甫宗忠に領地但馬国出石にある定鏡寺という寺の住職になってもらったからです。そして長康が秀吉から粛清されると、三成は同じように薫甫に領地近江国佐和山の寺の住職になってもらったのです。これは単なる偶然ではなく、二人が同じ志を持っていた証拠なのです。