石田三成の冤罪を晴らす ②千利休切腹事件 | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

②千利休切腹事件

 豊臣秀長が1591年初めに病死すると、彼の盟友 千利休(豊臣秀吉茶頭)は豊臣政権内の有力者を次々と茶室へ招きます。秀長の遺言に従って朝鮮出兵反対の賛同を得ようとしたのです。しかし徳川家康を迎えた直後から客がぱったりと途絶えます。そして翌月秀吉から堺追放の命令が下り、その15日後には京都聚楽第屋敷で切腹するよう言い渡されたのです。罪状は利休が大徳寺の山門を改修した際に自らの木像を門の上に設置したことで、門をくぐった秀吉を足蹴にしたという難癖でした。さらにこれは当時京都奉行だった石田三成が秀吉に讒言した結果ともされ、江戸時代にはそれが広く人々に信じられていました。ひどいものでは、三成が利休の妻子を蛇責めの拷問にかけて殺したというものまであったのです。


 しかし当時三成は京都奉行ではなく、彼は前年12月より勃発した大崎葛西一揆の鎮圧軍に同行しており、秀吉の元へ戻ったのは利休が追放された後でした(三成が京都奉行になったのは1595年) そもそも一次史料に三成と利休の対立をうかがわせるものはなく、それどころか親密な仲を示す記録が複数あります。1590年に奥州検地から上方へ戻った三成は、佐竹義宣と共に利休の朝茶会に招かれており、その7日後には兄の石田正澄も朝茶会に招かれています。さらに利休の娘婿である堺豪商 万代屋宗安は、三成と非常に親しい間柄であり、関ヶ原の戦いの前には大切な茶道具を宗安の息子に預けるほどでした。そして三成は利休の後ろ楯だった秀長とも親密な関係でした。三成は1578年に結婚していますが、相手は秀長の重臣 尾藤頼忠の娘で仲人も秀長でした。また秀吉が秀長養子の仙丸(丹羽長秀三男)を廃嫡して兄弟の仲が険悪になった時は、三成が藤堂高虎(秀長重臣)と相談して見事に解決(仙丸を高虎養子へ)しています。さらに頼忠の兄尾藤知宣が失脚して秀吉に殺された時は、秀長が三成へ頼んで頼忠を石田家で匿ってもらっています。また三成盟友の大名小西行長は、利休と同じ堺出身で古くからの仲でした。あとは前回①で紹介させていただいたように、三成は大徳寺高僧の春屋(三成参禅の師)・古渓(秀長参禅の師)を通じて利休とは若い頃からずっと親しかったのです。