徳川幕府が優遇した豊臣秀長側室(院主)の奈良興福院 | 福永英樹ブログ

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 さて豊臣秀長(1540~1591)が1586年に奈良法華寺を訪れ、接待にあたった尼僧(藤・1551~1623)に一目惚れして大和郡山城へ連れ去ったエピソードは、拙著や当ブログでも幾度となく紹介させていただきました。5年後の1591年に秀長が死去し、彼と藤との間にできた娘(菊・1587~1609)も1594年に毛利秀元へ嫁ぐと、彼女は母親(鷹山氏)の姉が院主だった奈良 興福院(当時は近鉄尼ヶ辻駅近くにあった)へ入って再び尼僧となります。太閤豊臣秀吉は興福院へ200石の寺領を寄進しますが、1615年の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると藤は窮地に陥ります。 


 まず徳川幕府は秀吉が秀長正室 慈雲院(?~1620)へ与えていた化粧領2000石(大和国添上郡)を没収し、次いで興福院の200石も没収したようです。この際に秀長家老だった藤堂高虎が動いたようで、親しかった秀長の姉智(日秀尼・豊臣秀次母・1534~1625)が院主を務める京都善正寺へ慈雲院を預けます。(同寺の過去帳に、かつて慈雲院の墓があり1620年に死去したという記録あり) 智は後陽成天皇が2000石を寄進した瑞龍寺の院主でもありましたから、さすがの徳川幕府も手が出せなかったようです。さらに高虎は1609年に死去した藤の娘菊の墓を秀長の菩提寺である京都大光院(高虎が1599年に大和郡山から移す)へ埋葬していますので、興福院へも何らかの援助をしたものと思われます。


 しかし藤が1623年に死去し、次いで高虎が1630年に死去すると、興福院は再び衰退していきます。そこで立ち上がったのが、妻が高虎の養女で、かつて秀長の小姓をしていた小堀遠州(1579~1647・近江小室藩主1万5千石)です。彼は秀長の世話で少年の頃から千利休 黒田官兵衛 大徳寺春屋と交流し、長ずるにつれて茶道 作庭 建築 書家に通じる江戸時代初期きっての文化人へと成長していきます。三代将軍徳川家光からも信頼された遠州は、1634年に畿内周辺8ヵ国を総監する「上方郡代」へ任命されます。「上方郡代」は西国大名の監視、御所の警護、京都と大坂を結ぶ水運の管理を任されるなど絶大な権限を有していましたから、遠州は1636年に家光から興福院の復興(200石寄進)の許可を得ます。さらに1642年に遠州が自らの手で本堂を再建すると、『あの遠州殿が手掛けた本堂がある寺』として名を馳せるようになります。


 そして四代将軍徳川家綱の治世である1665年になると、興福院はさらに躍進します。藤の母方の従兄弟の息子である鷹山頼茂(1602~1686)という武士が奔走し、何と家綱自らの意向により、数百間に及ぶ新たな用地(法蓮町へ移転)と参道が与えられたのです。(院内には前将軍家光の霊廟も建立しました) 鷹山家は大和国の国衆で頼茂は13歳で大坂の陣を経験しますが、滅亡した豊臣秀頼に味方したため大和国へ逃げ帰ります。そんな頼茂を拾ってくれたのが、秀長の養女 岩(1575~1607)の息子森忠広(美作国津山藩主の嫡男・1604~1633) でした。しかし忠広が30歳の若さで病死すると、頼茂は故郷の大和国へ戻ります。当時の興福院院主は従姉妹の光心尼(藤の後継者)でしたから、彼は自分の娘(後の清心尼)を彼女の弟子にして次の院主へ据えようとします。ところが院内にはそれに抵抗する勢力があり、頼茂はわざわざ江戸まで赴き幕閣や寺社奉行へ娘の徳川将軍家の忠誠心をアピールします。この運動が何と7年に及んだため、遂に将軍家綱の耳にまで達します。ちょうど家綱は全国の大名 寺社 公家の土地支配権を明確にするための「寛文印知」という法律(幕府が領地目録を交付)を発令するタイミングでしたから、頼茂の熱心さを買って特別に優遇したのです。


 豊臣秀長その人はいなくなっても、彼の恩を受けた人たちが愛妾 藤の寺を何とか成り立たせようと奔走したことに本当に驚かされます。豊臣家はすっかり根絶やしにされていたというのに・・。藤堂家が幕末まで秀長の菩提寺大光院を存続させたことを見ても、生前の秀長の人徳の高さがうかがわれます。