自らの血筋を加賀藩に繋げなかった前田利家正室まつ | 福永英樹ブログ

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 芳春院(まつ・1547~1617)といえば夫前田利家と共にNHK大河ドラマの主人公にまでなった人で、女性ながら交渉周旋に長けた政治力を保持していたことで知られています。また豊臣秀吉の正室寧(高台院・北政所)とは若い頃からの親友同士だったことでも大変有名です。しかし利家が秀吉死去の翌年に病死し、彼の側室のちょぼ(寿福院・東丸殿・1570~1630)の息子 前田利常が加賀藩当主となってからは、不遇と苦難が続き、11人もの子供を産みながら自らの血筋を加賀藩(宗家)に繋げることができませんでした。


 太閤秀吉の文禄の役(第1次朝鮮出兵)には16万もの兵員が動員されましたが、秀吉がいる国内拠点肥前国名護屋城には10万の待機軍が備えていました。そこには利家や徳川家康を初め多くの大名たちが屋敷を建てて居住したわけですが、秀吉が気を気を利かせてこんな命令を出しました。

『それぞれ世話をしてくれる女性が必要だろうから、国元の正室に頼んで気の利いた妾か侍女を呼び寄せるよう。ただし正室が嫉妬してそれが難しいようなら、正室本人を呼び寄せるように』

 これを聞いた大名たちは歓喜し、早速妾や侍女を名護屋へ呼び寄せますが、正室は一人も来ませんでした。なぜなら来れば嫉妬に狂う愚かな正室という定評がついてしまうからです。そこで秀吉の性格を知り尽くしているまつは、自分のお気に入りの侍女で聡明な22歳のちょぼを名護屋へ派遣します。『この娘なら、わらわの意に沿わぬようなことは決してすまい・・』と。ところがちょぼは賢いだけでなく非常に美貌だったため、満53歳だった利家は彼女に身の周りの世話を受けるうちに我慢できなくなり、遂に翌年妊娠させてしまい三男利常が誕生します。鬼嫁の嫉妬を恐れた利家は、利常を長女幸(まつ実子)が嫁いでいた前田長種へ預け、長男利長(まつ実子)や利政(まつ実子)より格下(後継者にはなれない)の男子であることをまつに示します。


 月日が流れ秀吉と利家が死去すると、40歳に近い利長に男子がいないことが前田家で問題となります。また正室が織田信長の娘だったため、利長は側室をもてなかったのです。そこでまつは利長より16歳も若い次男利政を利長の後継者に推しますが、利政が関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に味方したため、領地没収の上で京都へ追放されてしまいます。当時徳川への人質として江戸にいたまつは家康に利政の無実を必死に訴えますが、利長は利常と家康の孫珠姫の縁組を整え自らの後継者とします。実は利長は利政と以前から不仲だったようです。そして関ヶ原から5年たつと、満11歳の利常に前田家の家督を譲ってしまいます。こうなるとちょぼは120万石加賀藩主のご母堂様となり、前田の家政を一手に握ることになります。熱心な日蓮宗信者だった彼女は、高僧を金沢に招いて寺も建立しました。しかし大坂の陣の直前に利長が死ぬと、ちょぼはまつの代わりに江戸へ人質として出向くことになります。交代の際にまつと顔を合わせたそうですが、二人は不仲のためろくに挨拶もしなかったと伝えられています。腹を決めたちょぼは家康の側室で同じ日蓮宗信者だった万の方と意気投合し、甲斐 鎌倉 京都の寺に五輪塔や五十塔を建立します。ところが68歳のまつが大坂の陣直後に親友寧などに働きかけ、またもや利政の復権運動(利政長男に支藩を持たせる)を起こします。しかしこれを知ったちょぼが息子利常に徳川将軍家との関係重視を訴えため、利政長男は僅か2000石で前田家の家臣となります。失意のまつは2年後に死にますが、自らの化粧領8000石を利政長男に譲る許可だけは利常からもらっています。


 結局まつは親友寧と同じように、夫の側室に苦労の末に築き上げた家を乗っ取られた形になりました。勝ち気だっただけに悔しかったと思いますが、利家に柴田勝家を裏切らせて秀吉に味方させたり、利長に自分を江戸の家康に人質に出させて服従したのもこの人ですから、やや策士策に溺れた感があるとも言えそうですね。