ブルジョワジーの先駆者になりたかった小西行長 | 福永英樹ブログ

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 関ヶ原の戦いに敗れた小西行長(1558~1600)が徳川家康の探索隊に捕らえられた時、彼は自らの死罪(打ち首)を覚悟し、キリスト教司祭による告悔の儀式を黒田長政(同じキリシタン大名で家康配下の大名)へ依頼しました。しかし家康はこれを許さず、刑場に駆けつけた司祭からの懇願も有無を言わさず断りました。行長の盟友石田三成には対面まで許した家康でしたが、行長だけに厳しかったのはある理由があったからです。


 太閤豊臣秀吉が死去して朝鮮出兵から帰国した行長ら外征大名たちを迎えた家康は、五大老筆頭として国元における一年間の休養を許可します。この間に五大老次席の前田利家が病死し、三成も七将襲撃事件で失脚すると、家康は豊臣政権の政務を全面的に握ります。そして外交や貿易に通じた行長を大坂城へ呼び出し、自らの取次役を命じたのです。後に家康が朝鮮国や明国との国交回復に尽力したように、行長の外交能力による国交回復に期待したのです。またかつて行長が主君秀吉を騙してまで和平条約締結(1596年)を目指した平和への姿勢についても、高く評価していたからです。従って期待していた行長が三成の挙兵に同調したことは、家康にとって少なからずショックだったというわけです。


 しかし行長の方は、自らと家康の政治理念やビジョンは決して相容れないことを良く知っていました。それは戦国期に商人のみによる自治組織を構築してきた堺商人出身であることが原点の行長が、厳格な身分制度による封建社会を肯定する儒教が原点の家康を受け入れることはあり得ないということです。織田信長が税金を課す前までの堺は、南蛮人(ポルトガル人やスペイン人)から極東のベニス(イタリアの都市)と言われた自由都市で、信長も課税こそしたものの、彼らの民間活力を尊重しながら利用した方が得策だと考えました。また行長は父親隆佐からキリスト教を授けられると、神の前では皆平等というその教えが、堺商人の自由な気質と非常にフィットしていることを知ります。堺商人の代表格の茶人千利休に師事した大名たち(利休七哲)の多くが、キリシタン大名だったことがそれを示しています。そんな環境で成長した行長が22歳の時に出会ったのが、当時信長の重臣で毛利攻略の司令官だった秀吉でした。秀吉は軍師竹中半兵衛の提案により毛利方だった宇喜多氏の調略を試みていたのですが、宇喜多側交渉担当(御用商人だった)の行長と接するうちにすっかり気にいってしまい、調略が成功すると自らの家臣へとスカウトします。秀吉は主君信長が家柄出自にこだわらない実力主義かつ抜擢主義であることを行長に解き、彼のような商人出身の若者が大名になることも決して夢ではないと伝えたに違いありません。行長も重商主義の織田家であれば、自らの商才や交渉能力を存分に発揮できると確信したのだと思います。そして信長または秀吉が全国を統一したあかつきには、有力大名になった自分が、この国の商業や貿易にリーダーとして参画するビジョンを描いたのです。そしていずれオランダのような株式会社を設立し、身分制度とは離れた、商才や政治に長けた人間たちの協議による政権に繋げていく。つまりかつての堺と似た、ブルジョワジー(民主主義を目指した欧州の中産階級)の台頭です。


 そんなわけですから金銭より土地の価値を重んじた農本主義や、それにフィットした厳格な身分制度、そして商業を蔑視する儒教を統治の精神的支柱に置いた家康が日本を牛耳る世の中になってしまえば、行長は生き生きと生きる場所が無くなってしまうということです。そう言えば家康は、一期一会に代表される平等思想を含んだ利休の詫び茶を嫌っていたといいますから、やはり本質的に自由な堺商人の気質とは合わなかったのでしょう。