まれに見る人格者だった黒田官兵衛孝高(秀吉軍師) | 福永英樹ブログ

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 戦国三英傑の重臣をそれぞれ見ていくと、織田信長のそれは一癖も二癖もある個性派揃い(秀吉含め)だった印象で、徳川家康のそれは忠誠心溢れる譜代衆を中核にしたイメージがあります。これに対して豊臣秀吉が壮年時の重臣たちは、それぞれ優れた知恵者軍略家であると共に、いわゆる「いい人(好人物)」ばかりだったように私は感じています。弟の豊臣秀長を筆頭に蜂須賀小六 前野長康 浅野長政 竹中半兵衛 黒田官兵衛といった面々がそれですが、彼らを引き付けた当時の秀吉には『この人についていけば必ず明るい未来が広がっている』といった特別な魅力に溢れていたのでしょう。そんな重臣たちの中でも黒田官兵衛孝高(1546~1604)は比較的新参(1578に秀吉と出会う)でしたが、彼の生涯とその人間関係を見ていくと、改めてまれに見る人格者だったことがわかります。以下に官兵衛の交友関係を記していきます。


■新参重臣時代

 保守的といわれた播磨国人(土豪)たちの中でいち早く信長の革新性と合理性を見抜いたのが官兵衛で、彼は織田家の中国方面司令官だった秀吉に自らをアピールし、その意に沿うように国人たちをどんどん親織田家化していきます。しかしあまりに頭の回転が早く口も達者だったため、あの秀長でさえ小六や長康に『官兵衛には用心せよ(武功夜話)』と注意するほどでした。つまりこの頃までの官兵衛は、頭の良さが顔に出過ぎて本来の誠実な性格を表現しきれていなかったのです。しかし竹中半兵衛だけはそれを見ぬいていました。官兵衛が信長に謀叛した荒木村重の説得に赴きかえって捕らえられた際も、秀吉に官兵衛の無実を解き、信長による嫡男 黒田長政殺害命令に背いて密かに匿いました。村重が逃亡し不自由な体になった官兵衛が秀吉の元へ戻った時、半兵衛は既に病死していましたが、秀長らは官兵衛の姿を見て初めて彼の真の人間性を知ることになります。感動した秀長は小六の娘糸と長政の結婚を秀吉に勧め、秀吉もすぐに快諾しました。こうして官兵衛は羽柴家の重臣たちから全面的に受けいられ、半兵衛に続く軍師(秀吉の右腕)として活躍するようになります。またこれは大河ドラマの名シーンにもなりましたが、官兵衛は村重と共に自らを幽閉(体を不自由にした)に陥れた旧主小寺氏を殺さず、その息子を長政の家臣にする寛容さを示しています。


■親交を深めた達人たち

 毛利攻略のための羽柴家外交は、秀長が戦略を立てて官兵衛 小六が使者及び交渉者として活躍したといいますが、官兵衛は相手外交担当者である小早川隆景とやり取りするうちに、すっかり隆景の優れた人格に敬服するようになります。隆景は官兵衛にこう注意しています。『貴殿は頭の回転が早すぎて時折しくじることがあるが、それがしにはそんな才能がないため慎重に事を進めるので失敗はほとんどない』 短所を的確に指摘された官兵衛は、隆景が病死した時に『これでこの世に賢人はいなくなった』と嘆きました。また秀吉が小早川秀秋(当時は豊臣秀俊)を実子の無かった毛利輝元の養子にしようとした際は、毛利本家の血筋を絶やすまいと苦悩する隆景の立場を察し、官兵衛が秀俊を隆景の養子にするアイデアを出して助けています。さらに秀吉養子で家康次男だった豊臣秀康(秀吉実子誕生で居場所を失った)を救ったのも官兵衛で、関東の名族結城氏10万石の当主になるよう根回ししています。

 高山右近や蒲生氏郷らと共に敬虔なカトリック信者の印象がある官兵衛ですが、京都大徳寺の高僧 春屋宗園とは深い交流がありました。二人を引き合わせたのは秀吉の茶頭 千利休といわれており、同じく大徳寺高僧の古渓宗陳と秀長の仲を取り持ったのも利休でした。そしてこの春屋は石田三成とも大変親しく、関ヶ原で敗死した彼の遺骸を丁重に葬り、その長男 石田重家の命を家康に懇願して助けています。従って記録にはありませんが、もしかしたら官兵衛と三成にも交流があったかもしれませんね。官兵衛が病死すると、息子長政は春屋に頼んで大徳寺に官兵衛を祀る塔頭を建立しています。


■新関白秀次を支える

 秀吉の天下取りが進むにつれて、官兵衛は為政者としての秀吉に限界を感じるようになります。秀吉に後の家康のような「長期平和政権を保つための政治理念」が無かったからです。それを自覚する秀吉は無謀な外征に逃げ、官兵衛ら配下の大名たちは困惑します。そこで期待したのが学問に熱心だった新関白 豊臣秀次で、官兵衛は何かと時間を設けて彼にアドバイスしています。また豊臣秀頼が誕生して秀次が窮地に立つと、彼に朝鮮半島へ渡海して秀吉に忠誠心を示して疑いを晴らせと助言しています。秀次もそんな官兵衛に感謝していたようで、官兵衛が朝鮮で病気になると名高い医者を現地へ送っています。しかし秀吉はジリジリと秀次を追い詰め、秀頼誕生から2年たつと高野山へ追放して切腹させました。この時官兵衛の従兄弟だった明石氏も、連座の罪で秀吉から死罪に処されています。官兵衛の深い落胆と失望が想像できますが、それでも秀吉が伏見大地震で圧死寸前の危機に陥ると、官兵衛は加藤清正の次に秀吉救助に赴いています。しかし秀吉は官兵衛にこう悪態をついたそうです。『わしが死ななくて残念だったな』


■徳川新政権樹立を助ける

 家康の関ヶ原勝利最大の要因は毛利一族の寝返り(小早川)や日和見(吉川)といわれ、その根回しをした功労者が官兵衛の嫡男長政ですが、私は官兵衛も全面的に息子を後押ししていたと考えています。なぜなら彼には、毛利一族でその軍事顧問だった吉川広家と長い交流があったからです。おそらくそれは秀吉九州征伐の途中で広家の父親と兄が急死した時から始まっと思われ、広家を新たな吉川家当主に推薦し、宇喜多秀家の姉と結婚するよう根回ししたのも官兵衛でした。つまり官兵衛は豊臣政権に見切りをつけ、家康による長期平和政権に長年の望み(かつて秀次に期待した)を託したのです。官兵衛は長政の関ヶ原における奮戦とは別に、九州で加藤清正と共に徳川方として大いに戦っています。戦後の論功行賞では藤堂高虎が九州における黒田軍の働きを家康に伝え、官兵衛にも長政とは別の加増をするよう願い出ています。家康は快諾しますが、官兵衛は丁重に断ったそうです。


 黒田家普によれば、官兵衛は生涯一人の家臣も死罪にしなかったそうです。どれほどの重罪を犯したとしてもです。また自らの死に続いて家臣たちが殉死することも固く禁じています。

 まあ官兵衛にしても秀長にしても利休にしても、秀吉がいかに人に恵まれていたかがわかるというものです。しかしどうやら歴史上の偉人にはそれぞれ役割というものがあるようで、秀吉には秀吉の役割があったと思うしかありません。官兵衛たちが彼に託した夢は道半ばで挫折しましたが、決して意味のないものではなかったはずです。