家康以来の理念を消滅させた秩禄処分(明治9年) | 福永英樹ブログ

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 明治新政府にとって明治4年(1871年)の「廃藩置県」が歴史的に最も意義深い内政改革といわれていますが、それは新政府が幕藩封建体制を終結させ中央集権体制を構築したに過ぎず、徳川家康以来の価値観(武家の土地支配)を完全に消滅させたのは明治9年(1876年)の「秩禄処分」でした。


 廃藩置県により藩が県に置き換えられたことで、藩主(殿様)は強制的に東京へ移住させられ、それまでの藩士たちの奉公 忠義 忠誠の対象は完全に失われました。しかし全人口の5%に過ぎなかった士族(旧武家)たちへは、新政府財政の4割にあたる家禄が依然として支給されていました。明治6年(1873年)の「地租改正」により農地の所有権は完全に農民のものになっていましたから、官職に就かず何の仕事もしない士族たちへの一般国民からの風当たりは次第に強くなり、国家の近代化へ向けて歳出が増えるばかりの新政府にとっても極めて無駄な支出でした。


 そこで新政府は士族たちへの家禄を完全に廃止する替わりに、従来の禄高に応じた「期限付きの公債」を彼らに支給しました。つまりこの資金を利用し、一般国民として自立した生活をしてくださいということですね。当然ながら藩務(年貢徴収など)しか経験したことがない士族たちが事業を成功させた例は少なく、彼らの多くが困窮しましたが、西南戦争などの一部の抵抗はあっても比較的改革がスムーズに進んだのは、やはり旧武家たちも時代の移り変わりを自覚していたからだと私は思います。


 はっきり申し上げて徳川家康が創設した厳格な身分制度による幕藩封建体制は、100年くらいで賞味期限が切れていたと私は考えています。関ヶ原の戦いまでのそれぞれの武功で決まった家禄をいつまでも引きずったせいで、平和により戦闘もせず、役人仕事しかできない無能な武士たちに途方もない無駄な費用を費やし続けたからです。また大名とその家臣たちは徳川将軍家を守護するという名目で一年置きの参勤交代を強いられ、国元と江戸の二重生活を余儀なくされていましたが、こんな費用対効果に乏しいお金の使い方をした国家は世界中を見渡しても皆無でした。もちろんそのトバッチリを受けて困窮したのは農民を初めとする庶民たちでしたが、鎖国していたため外国からの情報が入ったてきませんから、これが当たり前だとすっかり諦めていたのです。またそれにしても欧米が鉄道を走らせる時代に米という農作物しか歳入が無かった旧態依然とした国家を、よくまあ明治維新政府の人たちは僅な時間で改革したものです。ただ彼らの多くは元武士だったことも忘れてはなりません。武士という特異な身分階級が日本の近代化を阻んだことも事実ですが、それを終結させて改革した根源も彼らだけが持つ武士道(公に対する責任)だったのです。