源頼朝を手本にした徳川家康 | 福永英樹ブログ

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 戦国もののようにブログで感想は投稿しませんが、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみにして視させていただいています。今回の主人公は執権北条義時ですが、このドラマにいかに重みとクオリティを加えていくかを考えると、鎌倉幕府を創設した初代将軍源頼朝の存在(演技の出来)が大きな要素になりそうです。何といっても日本で初めて武家政権を築いた人物であり、大げさに言えば、彼がこの国に生きる人々の気質をつくったからです。そしてそんな頼朝を尊敬崇拝し、その志をより実践的かつ組織的なものにつくりあげたのが、江戸幕府初代将軍徳川家康でした。そこで今日は幕府という政治体制のシステムとは別に、家康が頼朝から引き継ぎ発展させたソフト面(内面性)の志向について記していきたいと思います。

 

 歴史ファンの皆様がよく指摘されるのは、平清盛こそが頼朝より先に武家政権を築いた本当の偉人ではないかという見方です。しかし清盛の政権運営の特徴は「貿易を主体とした重商主義」であり、それは武家や武士には本質的に相容れないものだったのです。まずは武士という日本ならではの階級が、いかにこの国で発展したかについて見ていきましょう。

 

 平安時代に発祥した武士の最初の役割は、朝廷と貴族の身辺警護でした。京都から遠く離れた夷狄から朝廷と貴族を守るため、彼らは東国を中心に全国各地へ派遣されたのです。ほどなく武士たちはそれぞれの派遣先を自ら開墾し、その土地を武力で守ることになります。そして華やかな都とは似ても似つかぬ荒地を耕して生きる糧を得るうちに、土地は人間の力によって開かれ、初めて価値あるものになることを骨身に染み込ませたのです。領民(耕作する農民)あってこその領地という価値観を持つようになった武士たちは、生まれた時から御殿で衣食に困らない生活をしてきた貴族とは背負ってきた境遇が違うのです。ただただ搾取してきた貴族とは違い、武士は為政者=人々の守護者だったとうわけです。ですから今回のドラマ終盤で上皇が鎌倉幕府を反逆者と位置付け、窮地に立った北条政子(頼朝妻で義時姉)が御家人たちに「頼朝からの大恩」を訴える名場面があると思いますが、彼女が言いたかったのは「土地あっての武士であり、それを世間や朝廷貴族たちに認めさせたのは頼朝だ」ということなのです。

 

 そしてこの基本に儒教をからませて厳格な身分制度を正当化させたのが、稀代の政治家である家康です。儒教とは親を敬い年長者を大切にすることが教えの始まりでしたが、次第に理念化され「身分の低い者は高い者を敬い、高い者は低い者を慈しむのは宇宙の真理」と説く朱子学という流派が生まれます。これに注目した家康は、戦国乱世(特に下克上)を否定し身分制度による平和政権を世間に肯定させるには、この儒教・朱子学こそが最高の道具だと確信します。頼朝が構築した「土地を介した武士と農民の深い絆」に、身分制度(封建制)の構造的肯定を加えたことで、家康は世界でも稀な長期平和政権を継続させたのです。あとは頼朝の伊豆における流人時代の境遇が、少年家康の今川氏における人質時代と似ていたことも、家康が頼朝に親和性を感じた大きな要因だったと想像します。政権を取った家康は、頼朝時代の功績が記された吾妻鏡を編集し直して家臣たちに読ませたほどです。

 一方頼朝や家康が重商主義に消極的だったのは、商業というものが身分ごとの世襲制で成り立つ武家や農民と異なり、切磋琢磨する自由な能力主義だったからです。これらがはびこって主体になってしまえば、土地本位や身分本位の価値観など、軽視され否定されてしまうのです。裏を返せば、清盛や織田信長のような重商主義を全面に押し出す政権が長期化していれば、日本はまったく違う国になっていたということになります。頼朝家康流と清盛信長流のいずれが良かったのか意見が分かれるところですが、結果的には前者が日本人というものをつくったということになります。