明智光秀が見逃した秀吉と細川幽斎の連携 | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 歴史ファンの皆さんが御承知のとおり、全国を統一する寸前だった織田信長が道半ばにして横死したのは、重臣明智光秀を不覚にも信じ切っていたことによります。しかしその光秀も、盟友だと信じ切っていた細川幽斎(藤孝・1534~1610)羽柴秀吉に味方ししたことにより、信長横死の僅か13日後に悲運な運命をたどりました。なぜ、たった13日で当時の日本国を実質的に動かしていた信長・光秀主従が同時にこの世から消えたのか? そして秀吉が台頭したのか? 最近それをよくよく考えてみましたが、結論は信長・光秀が二人とも自身の理念思想(ビジョン)にこだわり過ぎたことだと私は思っています。実は両人は似た者同士だったように思うのです。これに対して秀吉は、二人が軽視していた周辺の人物たちの当面の現実的な事情や、人間としての生の感情を直視し、それらに沿った動き方をしてのし上がったのです。 

 

 もちろん当時の秀吉にも事情がありました。主君信長秀吉たち重臣を地方に遠ざけて自身の息子たち(信忠・信雄・信孝・秀勝)を各方面の軍団長にかつぎあげ、重臣では光秀だけが中央(信長の側)に留め置かれていたからです。かなり早くから危機感を抱いていた秀吉は、まず信長を油断させるために彼の四男秀勝を自身の養子に貰い受けます。そして光秀と親しかった長宗我部家(阿波国)信長が征伐するよう誘導するため、長宗我部家と敵対する三好家信長に臣従させます。(甥の秀次三好家に人質に差し出す覚悟を示しています) しかしこれだけでは不充分と悟った秀吉は、いざ光秀と決戦という段に備えて、光秀の派閥だと思われるある有力人物の取り込みにかかります。そのターゲットこそが、細川幽斎だったというわけです。

 

 最近の調査で、光秀が幕臣時代の幽斎の家来だったことが判明しています。ただ光秀は滅びた美濃土岐氏の一族だったため、たまため京都に逃れてきて細川家に拾われた新参の家来に過ぎませんでした。しかし信長の中央への台頭により、主従の立場は逆転してしまいます。信長の抜擢により織田家の重臣に名を連ねた光秀は50万石を超える大大名にまで出世しますが、幽斎は主君であった将軍足利義昭の失脚により存在価値が急激に薄れていったのです。そこでお人好しの光秀は旧主幽斎信長に推薦し、丹後国の南部で5万石程度の大名にしてもらいます。恩返しをしたつもりの光秀は、当然細川家は自身の派閥に吸収できたと確信したことでしょう。信長もそれを見て、光秀の娘(ガラシャ)と幽斎の息子(忠興)の結婚を両家に命じます。しかしこれらを受けた幽斎の本当の気持ちはどうだったのでしょうか?

 

 まず細川家光秀より格上で古参だった重臣たちの気持ちです。成り上がり者の下につくことを、当然快く思っていなかったに違いありません。両家の婚姻も、もしかしたら細川家にとって不本意だったかもしれないのです。特に筆頭家老の松井佐渡守康之は、光秀を嫌っていたという記録まであります。敵方の有力者を味方に取り込むいわゆる調略の名人である秀吉が、これを見逃すはずはありません。まず忠興織田信忠(信長嫡男)と親しいことに目を付けました(忠興の忠の字は信忠から譲り受けたと言います) 信忠の実母生駒吉乃秀吉信長に臣従させた女性でしたから、秀吉は彼女を通じて信忠とは昵懇だったと言います。また実弟羽柴秀長の領国である但馬国(兵庫県北部と、細川家の領国である丹後国(京都府北部)が近いことも上手に活用しています。秀長幽斎丹波波多野氏攻略の際に友軍として戦い、秀吉・秀長による鳥取城攻略の際は松井佐渡守が加勢していますから、この間に親睦を深めて情報も共有し始めたと私は見ています。秀長重臣である杉若無心松井佐渡守が幾度も書状を交わしているという事実を見ても、それは間違いなく、頻繁に両家は情報共有していたのです。さらに秀長と親しい千利休松井佐渡守の茶道の師匠でもあったため、このラインの存在は確かにあったのでしょう。

 

 というわけで秀吉は着々と細川家との連携を進めていたのですが、光秀は厚遇してやった細川家がよもや裏切ることは万に一つもないと、すっかりあぐらをかいていたのですから勝てるわけがありません(苦笑) 当時畿内にいた織田家の諸将たちは思ったことでしょう。『姻戚関係である細川でさえ味方についてもらえない光秀に、天下など到底望めないあろう…』と。従って結局のところ、信長光秀も同じような欠点が身を滅ぼしたということですね。人間の強い部分も弱い部分も知り尽くした秀吉に、見事にしてやられたというわけです。