湖底の剣 第9話 秀長の遺言① | 福永英樹ブログ

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年が明けた天正十七年(1589年)二月、昨秋めでたく懐妊された茶々様のために、秀吉様が山城国淀城の修築工事を秀長様に命じた。これは茶々様にお寧様ら秀吉様の親族とは離れたところで気遣いなく出産させようという配慮であり、わざわざ重臣筆頭の秀長様に修築させたのも、生まれてくる赤子が豊臣家の相続者であることを諸大名や世間に示すためであった。

 

そしてこの時期の三成は行政関連の仕事に忙殺されていた。まず方広寺の大仏を鋳造するためという名目で、農民たちから一切の武器を没収した。世にいう刀狩りである。これは百姓一揆を未然に防ぐことはもちろん、信長公の時代から始まった兵農分離をより徹底するための措置であった。

さらにこれと並行して猛烈な勢いで全国的な検地を推進した。すべての田畑を漏れなく測量させた三成は、上田は一反につき一石五斗の収穫、中田は一石三斗、下田は一石一斗という格付けをし、隠し田の摘発も行った。そして田畑の所有者と耕作者を記録した土地台帳を作成し、大坂城内の書庫に整然と並べて組織的な管理を行った。この結果、中世的な荘園制度や中間搾取は打破され、豊臣政権に確固たる経済基盤が確立されたのである。ただこれらが齟齬なく成し遂げられたのは、三成が四年前に秀長様に示した検地役人への法度が概ね遵守されたからである。

(わしが目指す天下の元で一人が万人のために、万人が一人のために命を注ぐような、互いが信じ合える平穏で心豊かな世は、すぐそこまで来ておる……)

充実した日々を過ごす中、三成はそれを固く信じていた。

そんな折の五月二十七日、茶々様が淀城において秀吉様待望の男子を出産した。知らせを聞いた秀吉様は狂喜し、男子に棄丸(後の鶴松)という名を付けた。

(此度の御実子の誕生により、殿下が無謀な外征を思い留まってくれればよいのじゃが……)

 三成は、幼い息子の将来を見据えて秀吉様が内政に専念してくれることをひたすら祈った。

 

 夏になると三成は堺奉行の役目を解かれ、代わりに北条家を水面下で包囲するための外交交渉に着手するよう命じられた。まず柴田討伐の頃から懇意にしてきた上杉家家老の直江兼続と連携し、常陸国の大名佐竹義宣の取り込みを図った。当時佐竹家が北条家と敵対関係であったことに加え、義宣の父義重が古くより上杉家と親しかったことも巧みに利用した三成と兼続は、佐竹家を豊臣家に臣従させることに見事に成功した。さらにこれを知った下総国の結城家と下野国の宇都宮家も同じように北条家と敵対していたため、すぐに三成を通じて豊臣家に擦り寄ってきた。一方、奥羽最大の大名である伊達政宗と交渉を続けていた前田利家殿と浅野長政殿は、政宗が豊臣家への臣従を誓っていた会津の蘆名義広の領地へ許可なく侵攻したため、秀吉様からの信頼を著しく失っていた。

 

 秋になると秀吉様が密かに北条征伐のための軍役を定め、三成に二十万人分の兵糧の調達を命じた。そして十一月になりすべての備えが整ったことを見届けた秀吉様が、遂に諸大名に向けて正式な北条攻めの軍令を発した。

この年の二月に秀吉様が下した裁定では、上野国の沼田領について三分の二を北条領にし、三分の一を真田領とすることが決定していた。ところが秀吉様が、北条傘下の沼田城代猪俣邦憲がそれに違反して真田領の名胡桃城を乗っ取ったと糾弾し、それを征伐の名目としたのである。これに対して北条側も、先の裁定では名胡桃城は北条家の領地になったはずと主張して潔白を訴えたが、秀吉様はそれを完全に無視した。

 

この知らせを郡山城で受けた秀長様は、すぐに聚楽第に赴いて秀吉様に諌言されようとした。ところが聚楽第に到着した直後、わしの目の前で大量の血を吐いて倒れてしまった。

「殿、いかがされました! 殿!」

「よ、与右衛門……。すぐに徳川に使者を送れ。家康殿にとっては不本意であろうが、決して北条を庇い立てしてはならぬと伝えてくれ……。殿下の罠にはまるなとな……」

 翌年の天正十八年(1590年)正月を迎えても、秀長様の病が癒えることはなかった。五十歳を過ぎたばかりの若さであり、暫し療養すれば必ず回復するとわしは信じていた。しかし医師の見立ては難病である労咳であり、一向に回復する気配を見せなかった。そして病の床に就いていた秀長様に追い打ちをかけるように、家康様に嫁いでいた妹の旭様が四十八歳で病死した。