この日記は、かなり以前にミクシィ日記として書いたものを、当時の記憶を思い返しながら、更に克明に書き直したものです。
僕には、妻とか昔の特別な友人とか、身近な人にしか話した事がない様な…
ずっと長い間、心の中に幽閉していた秘密がある。
僕の秘密なんて、僕以外の人間にとっては、別にどうだっていい事だと思うけどね。
以前の僕は、今の僕からは想像もつかない、極めて常識的かつ保守的な性格だった。
オカマだったくせに、世間体や常識って言うのも、おかしな話だけどね。
僕は高校時代、友人に紹介して貰い、サンクスっていうコンビニで、夜勤バイトをしていた。
バイトの先輩に、大学に7年間在籍している、ちょっと変わった感じのおじさん(※当時の僕にしてみれば)が居た。
そのおじさん(以後、Y)と僕には、オートバイ・心理学・哲学が好きだと言う共通点があり、つるんで買い物に行ったり遊んだりする頻度が高く、酒を飲みながらカフカや野坂昭如の魅力について一晩中話し合った事もある。
Yの住むアパートは、月寒墓地と言う古いお墓の裏手にあり、当時幾つか有った 『 第二の我が家』 となった。
ある朝、バイト明けに、Yから
ホーキング博士 の著書『 存在しなかった宇宙 』 を借りた。
『 面白いから読んでごらん。 』 と言って手渡されたけど、いつしか僕はYから、その本を借りた事をすっかり忘れていた。
そんなある時、僕は風邪をひいて学校とバイトを休んだ。
具合も悪い事だし今日はゆっくり好きな物を喰いながら本でも読もう…と決めた。
そうして僕は、コカ・コーラと、とんがりコーンを用意し て、何を読もうかと、本棚を眺めた。
本棚の中で一冊だけ、他の物との微妙なサイズの違いや角度など、どう言う訳か目立って見える本が有ったので、『この本を読むべきなのだろうな。』と思い、手に取った。
Yから借りた『 存在しなかった宇宙』 。
『早く読み終えて、返さなきゃ。』
そんな事を考えながらページを捲る。
表紙を開くと一瞬、この次元の層と別次元の層の咬み合いが、ギコッとズレた様な、どうにも不思議な胸騒ぎと、味わった事のない寒気を覚えた。
『きっと、風邪をひいてるせいだろう。』
そう思って余り気にせず、目次を飛ばし先ずは前書きから…
そこに書かれている文章の一つ一つが、戦慄を覚える内容のものだった。
『私はこの本を、宇宙や地球、そしてあなたの存在を、全否定する為に書いた。』
『地球や宇宙という概念など、あなたの妄信に過ぎず、実は何処にも存在しないのだ。』
ここまではまだ、普通。
『この本は、読む人によって全く異なる言語や、内容を表示する仕掛けを組み込んで、私が書いたものだ。』
『解釈ではなく、一文字一文字、書かれて居る単語や文字自体が、違うのだ。』
う~ん、ホーキングはいったい何を伝えようとして居るのだろうか…
『たとえば君は今、体調を崩して学校を休んでいるだろう。』
!?
ザワザワと全身に鳥肌が立って来る様な恐怖に包まれた。
『机の上にはコーラとスナック菓子を並べて、この本を読もうとしている。』
空気が急激に張り詰め、一瞬にして世界中の騒音が僕の中に集結して鳴り響いた。 …様に感じた
僕は、強い恐怖を感じ、恐怖から逃れるために叫び出したい衝動にさえ駆られたが、声は出なかった。
ただ、本を持った手をカタカタと震わせ、怯えていた。
『お前は怯えている様だが、これは現実だ。』
『現に、私はもう永い事、この逃げ場のない世界から抜け出せずに居るのだ。』
きっと疲れているのだ。…僕は、疲れているにちがいない!
本は答える。
『決してお前が疲れて居るのではなく、これが現実なのだ。』
あぁ~ダメだ!
心理学とか哲学とか、下らない事ばかり考えて居るから、こんな事になってしまったのだ…
どうすれば良いのだ…僕は…ついに狂ってしまったに違いない。
『何度も言うが、これは現実だ。お前は狂ってなど居ない。』
僕は何故そうしたのか今となっては解らないが…何度も、本を閉じたり開いたりする行為を繰り返した。
『何度やっても同じだ、私は宇宙の真理を知ってしまったのだ。』
『お前の事も他の全ての人間の事も、過去も未来も全て知っている。』
余りの恐怖に
手にして居た本を床に投げ出した次の瞬間、空間はウネウネと波を打って歪み、恐らく世界で最も気味が悪い、恐ろしいラップ音が僕の部屋に響いた。
僕は固く目を瞑じて、声にならない声をあげて泣きながら呻き机に頭を伏せ、怯えていた。
目を瞑じて居ても瞼の裏には、存在しなかった宇宙は、僕の問いに答え続ける。
同時に、膨大な何かと何かが僕の部屋の両側から僕を目掛けて接近してくるのが文章ではなく、ヴィジョンとして見えた。
その強大なエネルギーは僕を挟み込むと同時に、膨張し…爆発した。
僕は机に顔をうずめたまま、気絶していた様だ。
僕は咄嗟に部屋の窓を開け、床に投げ出した筈なのに、何事もなかったかの様に、机の上に鎮座する本を、慌てて外へ放り投げた。
窓からは、冷たい空気が流れ込んで来る。
それから数日間 …
僕は、仮病を使って学校もバイトも休み続けたが、あの本が落下したマンションの軒下だけは、絶対に見ない事にしていた。
あの恐怖が甦るのが何よりも恐ろしかったのだ。
それ以上に、僕はあの時の恐怖に怯え続けたままだった。
これでは、未来が見えない。
きっとこの先
僕は、まともな社会生活を送る事はないだろう…
誰かがあの本を見付けて捨ててくれたかも知れない。
あの本が無くなってさえ居てくれたなら、どんなに僕は救われるだろう…
大体
たとえ、あったとしても、読みさえしなければ問題はないのだ!
そう思って、4階の自室から軒下を見ると…軒下に本はなかった。
ここ暫く自分に絡み付いていた恐怖がスッと解けた様な、究極の開放感に包まれ…
久々に、ホッとして窓を閉ざし、部屋を振り返る。
確かに、軒下に本は無かった。
軒下に…軒下には、…本は … 無かった… が…
僕の机の上には、コカ・コーラととんがりコーン、そして開かれたままの『 存在しなかった宇宙』 が…
椅子には…机に顔をうずめて気絶している僕が座って居るのを、僕はハッキリと見た。
僕はもう、僕自身ではないのだ、という事を、瞬時に悟った。
一生分の哀しみが僕の心を埋め尽くし、同時に僕は窓を開け、
『僕が眼を覚まして僕の存在に気付く前に、此処から飛び降りて、自ら命を絶たなければならない。』という
僕だけの『存在しなかった宇宙』の単語と文章の羅列が、目の前に広がる景色に混じって僕の心に映し出された。
そしてあの時、たしかに僕はマンションの四階から飛び降りて、その一生を終えた。
しっかりと目を見開いて、全ての感覚で自分の死を受け止めようと、顔面と地面とが接触する瞬間までの一部始終を見届けた。
僕は、しっかりと…心を込めて、 『 魂の死 』 を傍観していた。
地面に衝突すると同時に机の上で目覚めた僕は、もう全てを悟っていた。
霊魂が、入れ替わったのだ。
『だぁぁ~っ!』と叫びながら、開いた窓から、渾身の力を込めて本を放り投げ、勢いよく窓を閉ざした僕は、
二度と振り返らず、未来に向かって歩き出したのだ。
あの日を境に僕の中で大きな何かが変わった。
それが何で在るのかを、今はまだ把握し切れては居ない。
ただ僕には、
窓から放り投げたあの本の続きに、実はとても美しく、とても大切な事が書かれて居た様に思えてならない。
あの時に味わった恐怖の中には、実はこの世界が、どんなに美しいもので有るか、どんなに大切なものであるかを僕に知らせる為のカラクリが仕組まれて居た様に思えてならないのだ。
そうして今日も僕は、眠りから目覚め周りの人たちと、ゆるし合い愛し合う事が出来るのだ。