10/21、関宿の西の追分まで来た俺、このまま旧東海道を歩いてみたい!と思って、土山宿まで歩いてみました
っていうか、最初から、関宿から土山宿まで歩く気満々で来てたんですけど
関宿から土山宿に行くには、鈴鹿峠を越えないといけないんですけど、『東の箱根、西の鈴鹿』といわれるくらい、過酷な峠越えらしいんですけど、峠越えがどんなもんか楽しみ
まず、関宿の西の端まで来ると、次の宿場町、坂下宿までの簡単な道のりの看板があります
看板通りに歩いて行きます
よく見る国道1号線を歩く
しばらくすると、転び石というのがありました
山から転げ落ちてきた石が、山に戻りたがって、毎晩声を出して人々を恐れされていたそうです
そんな時、この石の前を通った弘法大師がこの石を供養したところ、静かになったと伝わります
いつも通ってる道だけど、車で走ってたら気付かないですよね
歩いて行くからこそ、新しい事を知る事があります
またしばらく歩くと、ガードレールに右折の道案内
現在の1号線を右に曲がって、旧東海道に入ります
旧東海道といっても、ちゃんと舗装されてる場所がほとんどなので、歩きやすい
しばらくすると、また1号線に戻って、見慣れた景色が広がります
1号線を歩いていると、ある説明文があります
筆捨山(ふですてやま)という山が、川を挟んで向こう側にあり、元々は岩根山(いわねやま)と呼ばれていたそうですが、室町期の画家、狩野元信(カノウモトノブ)が、この山を描こうとして筆をとり、翌日に書き残した部分を描こうと思ったら、雲や霧がたちこめて、山の姿が全く違うものになっていたため、書き足すことができず、諦めて筆を捨てたので、筆捨山と名前がついたと伝わります
ちなみに、歌川広重は筆捨山を描いているそうですが、実際見て描いたわけじゃなく、想像で描いたそうです
実際の筆捨山は、多分これ
雲っていますが、山頂まで見えますね
川沿いをひたすら歩いて行くと、途中に右折の案内板
また右折して、1号線から外れます
昔の民家が並ぶ道を歩いて行くと、日本橋と書かれた柱がありました
この道、東海道五十三次の宿場の名前がずーっと順番に書いてある
今、この関宿から坂下宿まで行ってる途中…
最後は、ちゃんと三条大橋で終わっていました
この柱の近くに、鈴鹿馬子唄発祥之地と書かれた石碑があります
鈴鹿馬子唄というのは、『坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る』という歌詞
鈴鹿峠を越える時に重宝された馬子達、そんな馬子達の労働歌が鈴鹿馬子唄
坂は坂下宿の事で、坂下宿は晴れてるけど、鈴鹿峠に来ると曇っており、土山宿まで来ると雨が降ってる、みたいな事
実際かなり曇ってます
そして、しばらく歩くと坂下宿に到着!
関宿の様に、昔ながらの町並みはないですけど、所々、本陣跡という石碑があります
本陣とは、江戸時代、諸大名など、身分の高い人が泊まった宿
しかし、坂下宿、実はこの場所に最初からあったわけではなく、元々はここから少し離れた場所にあったのが、1650年に土石流に遭い、壊滅状態だったので、この場所に移動してきたんだそうです
坂下宿を後にして、また歩きます
しばらくすると、分かれ道が
ここは、右の坂道を上がって行きます
すると、片山神社(かたやまじんじゃ)の社号標がありました
そのまま歩いて行くと、
元々あった、坂下宿の場所に着きます
ほんとは、この辺に宿などがあったんですね
所々、石積みされている場所が残っています
近くには川が流れており、この川が土石流を発生させちゃったんですかねぇ
そんな旧坂下宿から少し歩くと、片山神社がありました
近くに、鈴鹿流薙刀術発祥之地という石碑があります
薙刀(なぎなた)の流派の一つみたいですけど、仙台藩に伝承されたそうなので、宮城県知事の書体で書かれているんですかね
そして、ここからが鈴鹿峠
結構急な山道で、足場もかなり悪いです
しばらく山を登って行くと、現代の橋が…
これは現在の国道1号線
昔は、違う道を歩いていたみたいですけど、橋を造る過程で、無くなっちゃったみたい
なので、コンクリート階段を上がって行きます
階段を上がりきると、また足場の悪い道に…
片山神社から10分くらいかな?
鈴鹿峠を越えました~
うーん、あんまり大変な道でもなかったけどなぁ…
峠を越えると分かれ道になっており、近くには、田村神社跡の石碑がありました
土山宿の近くにある、田村神社のことなのかしら?
ここまで来ると、後は平坦な道になります
そして、三重県と滋賀県の県境まで来ました~
【その2】に続く…