正反対の世界観が見られる公演!


 いよいよ今週末に国際バレエアカデミア(旧東京小牧バレエ団)の舞台が迫って来ました。

 演出指導のバッチの作品作りへの情熱に溢れたリハーサルを熟して来たメンバー達は皆俳優ばりの演技で物語の登場人物と成り切っていますので私も本番が楽しみです。

 ドラマティックな『シェヘラザード』とロマンティックな『ショピニアーナ』のダブルビルと云うのも今回の公演の面白い所です。 両作共にミハイル・フォーキンによる振付けでバレエリュッスのレパートリーとして有名です。 初演も『ショピニアーナ』の1907年(1909年改訂版が現在遺っている版)と『シェヘラザード』の1910年と近く、これだけスタイルの異る作品が次々に生み出された時代とは本当にバレエの隆盛期だったのですね。


 特に『ショピニアーナ』は特別なストーリーがある訳ではなく森の中で月明かりの下、シルフィード達と戯れる詩人と云う面白い設定の作品となっています。
 『ショピニアーナ』別名『レ・シルフィード』はオーギュスト・ブルノンヴィル作『ラ・シルフィード』と混同される事もありますが両作は全く関係がありません。 ラとレはフランス語の単数形の定冠詞と複数形の定冠詞の違いで、要するにシルフィードが一人なのが『ラ・シルフィード』で沢山出て来るのが『レ・シルフィード』つまり『ショピニアーナ』なのです。





シルフィードは見える?見えない?


 シルフィードとは『風を司る精霊・妖精』で人間の目には見えない存在です。
 しかし『ラ・シルフィード』ではシルフィードは主人公のジェームスだけに姿が見えてしまい誘惑される事から話が展開しますが、一方の『ショピニアーナ』では、どうなのでしょうか? 詩人にシルフィードは見えているのか見えていないのか? その解釈によってダンサーの表現は大きく変わります。


 私の解釈では、詩人にはシルフィードは見えていないけれど、その存在を風の音(ね)を聞く事で察知していて心の目でシルフィードを感じているので一緒に踊るシルフィードを見ている様で見ていないと云う感じに踊らなければなりません。
 男性のサポートもシルフィードを確りと支えるのではなく、触れていない様で触れている、支えていない様に見えて支えて上げる、まるで空気と踊っているかの様な錯覚を観客に与えられる様なサポートというとても難しい事をやらなければならないのです。

 シルフィードはイタズラっ子の妖精で詩人をからかう様にまとわり付き、存在を察知させたり消してみたりしながら、その周りを飛び回っていると云う表現を観客に感じさせなければならないので、こちらもまた詩人とは別の難しい表現をしなければならないのです。

 この作品の面白い所は、観客に見えているシルフィード達は、実は詩人の目を通して見ている世界だという事なんです。 だってシルフィードは人間には見えない存在なのですから。

 でも、もし詩人とシルフィードが舞台上で本当に見つめ合ったりするとシルフィードに人間臭さが出て観客は急に現実に引き戻されてしまうのです。


 『ショピニアーナ』の世界観は観客が瞬きをしたらシルフィード達が消えて居なくなる様な儚い夢の世界を泡沫の夢として表現しているので、それを踏まえて公演を観てみると違った趣が感じられると思いますよ。



 残席わずかですので、まだチケットを手に入れていない方はお急ぎ下さい。