とある大御所タレントが、金メダリストを「トド」呼ばわりして、炎上していた。
とあるアナウンサーが、男が臭くて苦手と書いて、クビになっていた。
彼女らの発言を全体としてみると、べつにたいしたことは言っていない、と感じるのは私が「鈍感」だからなのだろう。
それでも炎上するのは世の中に「敏感」な人々が多いせいだとは思うが、ほかにも理由はありそうだ。
考察してみよう。
まず重要なのは、「だれが言ったか」だ。
件の大御所は、いいかげんに引退したほうがいいんじゃないですか、というランキングで堂々の一位を飾っている。
ろくなコメントも言えない老害が、いつまでも業界にへばりつきやがって、という悪意や敵意という地盤があってこその「炎上」という部分はあるだろう。
じっさい私も老害については厳しいスタンスだ。
タモリさんの引き際は見習ったほうがいい、と常日頃から思っている。
件のアナウンサーについても、そのポジションに対する相応のブーメランだったように思う。
言葉を大切にとか、発言についての品性とか、マナー講師とかジェンダーギャップについての意見とか、それらの下敷きがあって発された「男」に対する意見だからこそ、ご自分はいいんですか、というブーメランが突き刺さった。
ふつうに、そこらへんのおっさん、おばはんが発言したものであれば、だれも気にも留めないし、なんなら「たしかにそうですね、あはは」と笑ったかもしれない。
じっさい、あれくらいの書き込みは、そこらのSNSを読めばいくらでも見つかる。
私自身、死ねばいいのに、くらいのことはどこかで書いている。
とある芸人が「死んでください」と書いだけで、たいへんなことになっているこのご時世に、だ。
それでも世間からたたかれることなく、静かな日々を送れている。
それは、私が相対的に情報価値の低い平民だからだ。
一般人はいいが、有名人はダメというのは、一見ダブルスタンダードのようにみえる。
だが有名人は、自己顕示欲という欲望を満たした代償として、行動や言葉遣いにより気をつける義務を負った、とも考えられる。
個人的には、有名人であってさえ自分の「信念を貫いて」いるかぎり、もっと自由に発言していいと思っている。
問題化するのは、ひよったり、矛盾したり、状況判断をまちがえたときだろう。
ポジショントークという言葉がある。
自分の所属する組織や部署に有利な情報しか話さないことだが、最大の問題点は主張やポリシーに「一貫性がない」ことだ。
古い例で恐縮だが、昔、石原慎太郎という個性的な人物がいた。
ふつうの政治家が言ったら外交問題になるような特定アジアに対する過激な発言も、彼が言うとなんとなく流されてしまう、という事実はたしかにあった。
確固たる思想信条を貫き、そのポリシーに即した発言をすることで、彼は時代に受け入れられていた。
もちろん令和の現在、昭和や平成のルールは通用しないこともままあるが、いつの時代だろうが「一貫性」は重要だと思う。
テレビでえらそうなコメントを垂れ流す人間が、まともに喫煙ルールも守れなければ、たたかれて当然だ。
破天荒なキャラで売っていた芸人ですら、いまや一定の良識を求められる。
昔ほどの自由がなくなったという考え方もあるだろうが、新しいルールを調整中であるという表現のほうが的確だろう。
そもそもルールの更新、許容範囲の変遷じたい、人類史上、不断にくりかえされてきた。
なにが「正しい」かは、つねに議論があってしかるべきだ。
むしろ問題は、自明の理として議論さえも退ける一方的な態度のほうだと思う。
あらゆる表現行為には、すべて価値があると思っている。
悪があるからこそ善があるのであって、悪には悪の価値がある。
表現の自由や多様性などという偉そうなことを言わずとも、そもそも「人間ごとき」、罵詈雑言を吐く瞬間があってもいいじゃない?
そもそも多様な「悪い言葉」が存在するのは、人間が「そういうものだから」だ。
よって私は、これからも好きなことを書いていく。
脅迫罪や詐欺罪などが成立しない範囲、という限度は守りつつ。