とある大御所タレントが、金メダリストを「トド」呼ばわりして、炎上していた。

 とあるアナウンサーが、男が臭くて苦手と書いて、クビになっていた。

 

 彼女らの発言を全体としてみると、べつにたいしたことは言っていない、と感じるのは私が「鈍感」だからなのだろう。

 それでも炎上するのは世の中に「敏感」な人々が多いせいだとは思うが、ほかにも理由はありそうだ。

 

 考察してみよう。

 まず重要なのは、「だれが言ったか」だ。

 

 

 件の大御所は、いいかげんに引退したほうがいいんじゃないですか、というランキングで堂々の一位を飾っている。

 ろくなコメントも言えない老害が、いつまでも業界にへばりつきやがって、という悪意や敵意という地盤があってこその「炎上」という部分はあるだろう。

 

 じっさい私も老害については厳しいスタンスだ。

 タモリさんの引き際は見習ったほうがいい、と常日頃から思っている。

 

 件のアナウンサーについても、そのポジションに対する相応のブーメランだったように思う。

 言葉を大切にとか、発言についての品性とか、マナー講師とかジェンダーギャップについての意見とか、それらの下敷きがあって発された「男」に対する意見だからこそ、ご自分はいいんですか、というブーメランが突き刺さった。

 

 

 ふつうに、そこらへんのおっさん、おばはんが発言したものであれば、だれも気にも留めないし、なんなら「たしかにそうですね、あはは」と笑ったかもしれない。

 じっさい、あれくらいの書き込みは、そこらのSNSを読めばいくらでも見つかる。

 

 私自身、死ねばいいのに、くらいのことはどこかで書いている。

 とある芸人が「死んでください」と書いだけで、たいへんなことになっているこのご時世に、だ。

 

 それでも世間からたたかれることなく、静かな日々を送れている。

 それは、私が相対的に情報価値の低い平民だからだ。

 

 

 一般人はいいが、有名人はダメというのは、一見ダブルスタンダードのようにみえる。

 だが有名人は、自己顕示欲という欲望を満たした代償として、行動や言葉遣いにより気をつける義務を負った、とも考えられる。

 

 個人的には、有名人であってさえ自分の「信念を貫いて」いるかぎり、もっと自由に発言していいと思っている。

 問題化するのは、ひよったり、矛盾したり、状況判断をまちがえたときだろう。

 

 ポジショントークという言葉がある。

 自分の所属する組織や部署に有利な情報しか話さないことだが、最大の問題点は主張やポリシーに「一貫性がない」ことだ。

 

 古い例で恐縮だが、昔、石原慎太郎という個性的な人物がいた。

 ふつうの政治家が言ったら外交問題になるような特定アジアに対する過激な発言も、彼が言うとなんとなく流されてしまう、という事実はたしかにあった。

 

 確固たる思想信条を貫き、そのポリシーに即した発言をすることで、彼は時代に受け入れられていた。

 もちろん令和の現在、昭和や平成のルールは通用しないこともままあるが、いつの時代だろうが「一貫性」は重要だと思う。

 

 

 テレビでえらそうなコメントを垂れ流す人間が、まともに喫煙ルールも守れなければ、たたかれて当然だ。

 破天荒なキャラで売っていた芸人ですら、いまや一定の良識を求められる。

 

 昔ほどの自由がなくなったという考え方もあるだろうが、新しいルールを調整中であるという表現のほうが的確だろう。

 そもそもルールの更新、許容範囲の変遷じたい、人類史上、不断にくりかえされてきた。

 

 なにが「正しい」かは、つねに議論があってしかるべきだ。

 むしろ問題は、自明の理として議論さえも退ける一方的な態度のほうだと思う。

 

 

 あらゆる表現行為には、すべて価値があると思っている。

 悪があるからこそ善があるのであって、悪には悪の価値がある。

 

 表現の自由や多様性などという偉そうなことを言わずとも、そもそも「人間ごとき」、罵詈雑言を吐く瞬間があってもいいじゃない?

 そもそも多様な「悪い言葉」が存在するのは、人間が「そういうものだから」だ。

 

 よって私は、これからも好きなことを書いていく。

 脅迫罪や詐欺罪などが成立しない範囲、という限度は守りつつ。

 

 夏真っ盛り、地上世界では気温が40℃を超えることもあるらしい。

 お隣の軽井沢ですら32℃を超えていた日、うちあたりでも外気温は35℃を超えた。

 

 地球が沸騰化している、とグテーレス事務総長が独特の表現で環境問題を訴えている。

 べつに今も昔も、たまに暑い日くらいはあったような気もするが、温暖化というムーブメントを掲げたほうが話の通りがいいようだ。

 

 世界について語るつもりはない……が、世界について語る方々は、個人に向けて行動を促している。

 公共交通機関を使うとか、野菜を食べるとか、節電とか。

 

 

 先日、東京で同窓会があった。

 もちろん電車で行ってきた。

 

 野菜は、なるべく食べるようにしている。

 それ以前に最近食欲がなくて、一日そうめん一束とかで生きていたりもするが。

 

 節電……お湯は基本的にシャワーでしか使わないので、水シャワーでじゅうぶんなこの時期、給湯器の電源を切った。

 そもそも私は、暖房や冷房を使わないタイプだ。

 

 考えてみれば、私ほど地球にやさしく生きている人間は少ないかもしれない。

 グンマーの奥地で、自然のままに暮らす古いしきたり(?)を守って生きている。

 

 

 この野性がグンマーだ、と言うつもりはない。

 群馬にも、健康で文化的な最低限度の生活を送っている方々は、たくさんいる。

 

 なるべく自然に合わせて暮らすのは、あくまでも私の個人的選択だ。

 祖父母が残してくれた家をそのまま使い、環境変更をあまりしていない。

 

 いわゆる古民家なので、気候に合わせて室温が上下する。

 古民家は雨風はしのげるが、気密性という概念を知らない。

 

 手元に置いてある、信頼できる温度計の記録によると、この1年間に記録された最高気温が33.1℃、最低気温が-3.7℃となっている。

 1年間暮らしている間に、この部屋は上下に30℃ほどの幅で寒暖をくりかえす、ということになる。

 

 

 寒いのは対応できる、着ればいいからだ。

 足元や腰、腹を温める装備も整えた。

 

 問題は暑さだ。

 皮膚まで脱ぐわけにはいかない。

 

 まあ暑いといっても、まわりには山と道だけで、さほど蒸すこともない。

 もちろん暑いのは暑いが、先日の猛暑日も、室温は32℃程度で頭打ちになった。

 

 古民家とはいえ、屋根や壁は温度変化を比較的マイルドに抑えてくれる。

 一般に森などにはいると涼しい風を感じると思うが、周囲が山に囲まれたうちにも、ある程度その恩恵はある。

 

 風が止まるときついが、扇風機の強さを「中」くらいにすれば耐えられる。

 じっさい、その程度ならエアコンなしでいけるでしょ、と言われたこともある。

 

 最高で33℃、夜中は25℃を下回るんでしょう?

 都会は夜中だって30℃超えるんですよ、それが昼間の一瞬だけ暑くてつらいって、甘えてるんですか、扇風機だけでいけるでしょ、と。

 

 

 なるほど、甘えてました。

 たしかに、夜中は寒いのでよく扇風機を切る。

 

 年に数日、熱帯夜なるものがあるが、扇風機を切らなければいいだけだ。

 その程度ならエアコンなしで過ごせる、という人は少なくないだろう。

 

 問題は、私は寒さには強いが、暑さには弱いことだ。

 ほとんどの日は扇風機だけでいけるが、やはり30℃を超えてくるとイライラしてくる。

 

 

 最悪の場合、エアコンをつける。

 が、これが古くて臭いので、またイライラする。

 

 なんとなくエアコンの広告を眺めるが、買い替えもあまり気が進まない。

 年に十数時間しか使わないだろうことを考えると、コスパがわるすぎるからだ。

 

 そもそもエアコンが好きではない、という根本的な問題がある。

 都会の狭い部屋で、人工的な冷風を浴びながらモニターとにらめっこしていた時代のトラウマが、刺激されるのだ。

 

 だいたいあのころから、私の頭は狂いはじめた(もともと狂い気味ではあったが)。

 なかば転地療養の目的で、この田舎に引きこもっているところもある。

 

 というわけで、エアコンは今年も却下だ。

 年に数日、耐えられなくなったときはクルマで走り出すことにした。

 

 環境問題?

 クルマなしでグンマーが生きられるか!


 最近、経済について書くことが増えた。
 いい傾向ではないような気はするが、あまりにも動きがおもしろいので、書いておかざるを得ない。

 週初、かつてのブラックマンデーを超える史上最大の下落。
 NISA初心者たちの阿鼻叫喚が響き、パニック売りが売りを呼んだ月曜日。

 翌日、史上最大の上げ幅。
 きょう水曜までに週初の水準まで戻す、まさにジェットコースターだった。


 先週末の時点、私はしたり顔で、円安の終わりを「予想通り」と書いた。
 いつまでも円安を煽っている人々に嫌悪感を示し、自分の過ちを認められない彼らを腐してすらいた。

 そのような態度を示した以上、自分自身に対しても厳しく評価しなければならない。
 私はまちがった。

 先週の時点で「早すぎる」とは書いていた。
 ショーターは調子に乗るからな、と予防線を張ってはいたものの、正直、週明けは「少し下げてから切り返すだろう」くらいに読んでいた。

 完全に甘かった。
 史上最大の下げ……これは予想できない。


 あとから分析すれば、いくらでも説明はできる。
 売りが売りを呼ぶ、ジョージ・ソロス氏の再帰性理論だ。

 ファンダメンタルズはどうでもいい、ただ動きそのものに乗って売る。
 トレンドフォローのファンドも参戦して、だれも予想しないブラックな月曜日となった。

 そんな異常事態は継続しないので、過去の「ショック」時と同様、大きく下げたら大きく戻す。
 慎重派で知られるトレーダーすら、月曜日には「買いたくなった」と言っていた。


 思い出すのはコロナショック初期のころの自分だ。
 あのころ私も、たしか1万6000円水準で全力の買いを入れ、2万あたりで利益確定した。

 必ずもう一度下げる、そのときに買い直せばいい、という読みだった。
 自分はほんとうに正しいことをした、と思っていた。

 が、二番底らしき様相を呈することは一度もなく、買いのチャンスを完全に失した。
 あのままホールドしていれば、どれだけ利益が出たか。


 これが私の「限界」だ。
 今回の相場も、参加していたところで「ほどほどの利確」で満足し、その後の「爆益」は確実に逃していただろう。

 中途半端に正しいが、大事なところでチキン。
 今回の場合、方向感は正しくとも、速度に対する予想を完全に外している。

 最近は参加者ですらなく、部外者の立場から冷静に分析していても、このざまだ。
 もちろん、市場の流れを完全に読むことなど、だれにもできはしないのだが……。


 世界に比べて、日本株の値動きが突出している。
 個人的には、ビットコインの動きとほとんど同じであったことが、すこし気にはなっている。

 リスク資産という意味で、あまり同一視したくはないが、サトシ・ナカモトとウエダ・ソウサイの共通点を考え始めたら、ちょっとおもしろかった。
 たぶん両者は学者肌で、このような日々の値動きなど超然として受け流しているのだろうが、踊らされるほうはたまったものではない。

 なぜ世界に比べて日本の株が大きく売られたのかという問いには、これまで世界に比べて調子がよかったので、その分を吐き出しただけというシンプルな答えだ。
 過去最大の下げ幅の翌日は、過去最大の上げ幅──しかし、これで安心だと思ってはいけない。

 6.4兆ドルを吹き飛ばした週初の世界株安が、大規模巻き戻しの序章である可能性は、まだ消えていない。
 当局者も、これが底打ちだと認識している人間は、ほとんどいないだろう。

 「落ちてくるナイフをつかむ」という格言は、暴落している資産を買うタイミングをつかむことの難しさを表現している。
 このまま上げ戻す可能性はあるものの、破滅の序章にすぎない可能性も、いぜんとして残されている。


 円キャリー取引が完全に巻き戻ったとも思えないが、昨今のボラティリティじたいがテクニカルに与えたダメージは甚大らしい。
 要するに、低金利の円を借りて高金利で運用するという「マーケットは破壊」され、すぐには修復できない、ということだ。

 まあ、かつてイングランド銀行やスイス中銀、LTCMやリーマンブラザーズがやらかした、「死人が出る」「壊滅的な」「市場の破壊」がくりかえされただけのこと、という見方もできる。
 問題はその先、どう転ぶかだ。

 大山鳴動のようにも思えるが、一定規模の「ショック」のリスクは常にある。
 アップル大好きバフェットさんが、それすら手放して現金を増やしていることは、かなり不気味だったりもする。

 すくなくとも相場がここまで壊れてしまうと、もとの水準に戻すまでにはかなりの時間がかかる。
 そこまでに二番底を形成したり、長いボックス圏を経ることもある。

 1000円レベルの調整はよくあるが、落ち着くまでに1か月くらいはかかるという。
 今回5000円レベルの暴落とそれに近い暴騰があったわけで、こうなるともう年内は不安定な相場になると考えざるを得ない。


 GPIFや銀行系のクジラの動きには注視すべきだろう。
 短期的に下げすぎたあと、うまく拾える投資家が莫大な利益を得るという構図は、今回も変わらない。

 しかし私のような小市民の脳裏には、失われた平成バブル直後の下げ相場がよぎる。
 当時、下げつづける株を売りつけるため、証券会社の営業がくりかえした「いまが買い時」の水準までもどるのに、何十年かかったか。

 それでも持ちつづけていられる人々は、バフェットさんのようになれるかもしれない。
 長期的には、どのタイミングだろうと(やばい銘柄はともかく)買っておいたほうがいい、とアメリカ人の知り合いも確信をもって言っていた。

 そうしてゆっくりと待てる富豪はいつだって勝ち組だが、目先の損失を気にする小市民はつい考えてしまう。
 これが中期的な「世界規模のハードランディング」の端緒ではないと、なぜ言えるのか?


 考えはじめると、どうみても割安の水準ではあっても、安易に飛びつくことができない。
 これが私の「器」でもあるのだろう。

 小説でも、さまざまな賞で選考には残る。
 が、けっして1位にはなれない。

 自分の限界を知ったうえで、できることを精一杯やろう。
 最近の相場にことよせて、そんな教訓を得ている。
 

 

 私は地方の零細企業で会計の仕事をやっている。

 7月が決算月なので、来月までに法人税の納付手続きなど、所定のお仕事をやっつけなければならない。

 

 新しい会計ソフトのおかげで、昔に比べればたいへん楽な仕事ではあるわけだが、それでも相応の時間はかかる。

 ことしは社長が投資業務もはじめたので、さらに手間が増えた。

 

 外国株式のオプション取引という、すこしやっかいな投資手法だ。

 FP2級をとったときにこんな感じの実技問題をやった気がするな、いやあのときは不動産の税率だったか、などと感慨にふけりつつ計算していく。

 

 べつに機関投資家ではないので、莫大な利益が出ているわけではない。

 とはいえ零細企業が片手間でやっているにしては大きい額で、とくにテスラが稼いでくれたらしい。

 

 それでもまあ、うまいこと中小企業の軽減税率の枠内にはおさまりそうだ。

 うちの社長は、この手のやりくりが地味にうまい。

 

 

 さて、先月ドル円が161円だったとき、いまこそショーター(ドル売り)の出番やで、と書いた。

 ただの逆張りではなく、順当な思考の結果としての予想が当たったわけだが、こんなに早く当たるとは思っていなかった。

 

 この週末は、雇用統計も受けて終値146.60まで売られたが、さすがに早すぎる。

 たしかトヨタの想定為替レートが145円だったから、かさ上げ分が吹っ飛ばされた格好だ。

 

 腐っても輸出国である日本の株価が、盛大に調整するのも理解できる。

 まあぼちぼち窓を埋めてくるとは思うが、ショーターはこういうときこそ調子に乗るんだよな……。

 

 日銀が怒ってもいいくらいスピード違反だが、上げようが下げようがモメンタム系ファンドにとっては関係がない。

 彼らにとっては、ボラティリティ(変動率)こそが正義だ。

 

 カネ転がしどもの跳梁跋扈が、怖いくらい透けて見える。

 機関投資家がようやく超高速取引に手を染めていった時代、私もスキャルピング(高速売買)であぶく銭を稼いでいた時期はあったが、いまは思い出すだけでヘドが出る。

 

 

 もはや投資の世界に復帰するつもりはない。

 が、日経やテレ東の番組はなんとなく見る癖がついている。

 

 グーグルも理解しているらしく、その手の記事を勧めてくれる。

 そんななか、おもしろかったのは、最近ずっと円安を煽っていたサイトがついにド外しした、現在の書きっぷりだ。

 

 このまま180円とか、200円に備えろとかいう惹句で、煽りまくっていた連中である。

 150円を切ってきた8月現在ですら、まだ見当はずれのレンジで円安を予想していた。

 

 同じサイトでも、いろんな人が記事を書いているとは思うが、過去記事の「自分で考える個人投資家を目指すべきだ」には、皮肉しか感じない。

 結果的に、他人の正しい考えの邪魔ばかりをしてきた7月を、彼らはこのように自己評価している。

 

 

 ──7月は個人投資家の8割が円安を予想していた。

 要するに、自分らの書きっぷりではなく、みんなまちがってたんだよ、と責任転嫁する書き方だ。

 

 煽るだけ煽って、外れれば自己責任の壁に隠れる。

 日銀が介入に何兆円も使う必要はなかったとか、トランプやFOMCのせいにする書きっぷりもエグイ。

 

 もちろん投資が自己責任であることは大前提だ。

 とはいえ、彼らに煽られてまちがった人々も一定数いるだろうに、だまされたおまえらがわるい、とでも言わんばかりなのは、どうかと思ってしまう。

 

 

 そういうことを言い放って平気でいられる性格の人間でなれければ、こんな仕事はできないのかもしれない。

 それに、このようなサイトが成立している以上、残念ながら彼らは必要とされている。

 

 虚言癖や妄想狂といった手合いが一定割合で存在するように、タブロイド紙的な俗悪な筆致のメディアも、この世からなくなることはない。

 平気な面の皮でテキトーな予想を駄々洩れさせつづけるアジテーターは、業界の「必要悪」として求められている、ということだ。

 

 どんな人間も、必要とされている。

 ほぼだれからも必要とされていない私ですら、仕事をしているときだけは多少、役に立っているような気になれる。

 

 

 まあ私がいなくても、代わりにだれかがやるだけだが。

 それでよい、私のような狂った脳の持ち主は、あまり多くを望んではいけない。

 

 こうして文章が書ける程度の平静を保てていることじたい、恩恵なのだと考えよう。

 それに、狂った脳は狂った脳で、奇妙な発想を楽しめる。

 

 あまりにも常識人すぎる人間に、おもしろい小説は書けないのではないだろうか。

 私はそういうものを書きたい……。


 前回、好きなRPGシリーズを遊ぶためにスイッチ本体を買った、という話を書いた。
 その末路を書いておこう。

 ゲームはクリアした。
 マルチシナリオではあるが、ほぼ同じルートを結局3周もしてしまった。

 新シナリオは2周で回収できるのだが、せっかくなので悪魔全書をコンプリートしたかったのだが。
 ……あきらめた。

 なんだよ合体事故でしかつくれない悪魔ってよ!?
 そんな暇なことまでしたくなかったので、全書は98%で断念した。

 ゲームについて言いたいことはあまたあるが、ファンではない人々にとってはあまり意味をなさない。
 意味のわからない年寄りの繰り言ほど、読まされて不快なものもあるまい。


 さて、ゲームはクリアしたので、使う予定のなくなった本体を売る、つもりだった。
 前回、セーブデータはSDカードには記録されない、という話を書いたが、こんどこそセーブデータを残すつもりだった。

 データをオンラインに預けるやり方を調べてみる。
 そこではじめて、有料だと知った。

 ま、そりゃそうか。
 任天堂も商売だ。

 しかし、数年後にプレイする可能性があるかもしれないセーブデータのために、年に2400円払うか?
 まあ払ってもいいが、だったらセーブデータのあるスイッチ本体を売らずに持っておいたほうが、手っ取り早いような気もする。


 有機ELスイッチ本体いくらか、相場を調べてみた。
 いまなら2万円は固い、たぶん3万くらいで売れる。

 コントローラはPCのsteam兼用の社外品を使っていたから、Joy-con含めてほぼ新品。
 じつのところ最初から売る予定で、内袋などもそのまま残してある。

 使わないものを手元に置きたくないミニマリストとしては、妥当な計画だと思う。
 が、100時間分のセーブデータのために、計画は破綻した。

 そこで、使い道さえあればいいのだ、と発想を転換する。
 いまさらながら、ゲーム以外にできることを調べてみた。


 無料のゲームをダウンロードして遊ぶ──スマホでじゅうぶんだ。
 静止画や動画の撮影──上に同じ。

 ゲームニュースをみる──ネットで調べればいいだけでは。
 動画や音楽の視聴──これもスマホでいいな。

 結局、だいたいスマホで事足りることがわかった。
 まだスマホを与えられていないお子様のためにはいいかもしれないが、年をとったゲーマーにとってありがたいような機能は、当然のようにないらしい。

 唯一、「AAAクロック」というアプリをダウンロードして置いておけば、卓上時計の代わりになる、という機能だけは使えそうだ。
 3万円の卓上時計とか、ミニマリスト失格のような気もするが。


 ふと思う。
 みんな、どんなことにスイッチを使っているんだろう。

 そもそも50近いおっさんが、スイッチで遊んでることじたいがまちがいなのか?
 そういう時代じゃないと言いたいところだが、非常識な人間である私がなにを言っても説得力はあるまい。

 まあいずれ使い道も見つかるだろう。
 必要のないゲーム機だが、そのうち遊びたいゲームが見つかるかもしれない。

 ……と、ゲームが遊びたくてしかたなかった少年のころの自分に、聞かせてやりたい。
 これが「おとなになる」ということなのだ、と。

 ゲームとみれば、なんでもやりたがった少年期。
 不要なものを削ぎ落してきた結果、やることが見つからなくなった更年期。

 そしてきたるべき老年期、私はなにをしているのか。
 とりあえずスイッチの使い道くらいは見つけられているといいが。

 


 私は「モノを喰う」ということに、あまり関心がない。
 よって「グルメ」系の話などはあまり見もしないが、飲食店そのものに対するポストについて、すこし気になった記事がある。

 とある漫画原作者が蕎麦屋に行って、タッチパネルになっていて雰囲気も良くなかった、味はおいしかったが残念だ、というようなことを書いたらしい。
 これに対し、とある飲食店関係者が、効率化のためにタッチパネルを導入するような店に温かい接客とか人情味のある交流を求めること自体まちがっている、この漫画原作者は安い店に行って高いサービスを要求する老害だ、と返した。

 金は持ってるんだからわざわざ安い店に行かず、高い店で高いサービスを受けろよ、という意見には、たしかに同意しやすい。
 日本の「おもてなし」に、どこか危うささえ感じるのは私だけではないだろう。

 以前、業務スーパーの激安ギョウザに「肉が少ない」みたいな文句を言っていたおっさんがいたが、見当違いも甚だしい。
 いったい彼は、1個10円とか20円レベルのギョウザに、なにを求めているのか?

 日本の過剰なサービスが、このようなモンスタークレーマーを生んでいる、という議論もよく聞く。
 そこがどんな店か把握してから、問題点を指摘したほうがよい。


 もちろん、あきらかに店側に問題があるケースはいくらでもある。
 ケースバイケースなので、あとはそれを指摘する側のバランス感覚の問題に尽きる。

 今回の件ではどうか。
 最初は原作者のほうに対して批判的な意見をもったが、もとのポストをよく読めば、彼もべつにまちがってはいないと気づく。

 個人の感想を述べるのはだれであろうと自由だし、攻撃的なニュアンスもいっさいなかった。
 じつのところ問題があるのは、さきに彼に嚙みついたツイートのほうだったりする。

 まとめ記事によると、このツイート主は「外国人は日本にきたら日本語を理解しろ」とか要求する「狂犬みたい」なタイプらしく、筆致にもそれがよく表れている。
 もともと思いどおりにならない客への憎悪がハンパない人格ということだ。


 私が江頭さんのつぎに尊敬する芸人である伊集院さんが、こんなことを言っていた。
 「しかめっ面で客を選ぶ」「ガンコおやじの店」では、最初からモノを食う気にならない、と。

 たしかに、客に対して横柄な店、金を払って怒られる店とか、意味がわからない。
 お客さまは神さまではないが、店も治外法権ではないのだ。

 そもそも店と客とは、対等であるべきだろう。
 対等という前提で、支払った金額に相当のサービスが受けられる場所、それが飲食店だと思う。

 「残念だ」と感想を書いただけの人に、「老害」とか「高い店へ行け」はすこし言い過ぎだ。
 相手は感想を書いただけなのだから、こちらも「高級店ならよりよいサービスが受けられると思います」という「感想」を返すにとどめるべきではないか。


 切り口上の「命令」と、選択肢を示唆する「ナッジ(肘でつつく)」は別物である。
 書き方に注意しないと炎上しやすいことは、昨今のネットを眺めているとよくわかる。

 わざと炎上を目指すような人々もいるが、乗せられたくないものだ。
 ネットの書き込みに反応するというのは、それ自体とてもむずかしいものだな、と思う記事だった。

 

 

 来年、ニンテンドー・スイッチ2が発売されるらしい。

 そんなニュースを眺めつつ、最近、スイッチ1(?)でゲームばかりやっている。

 

 遊んでいるのは、シリーズもののRPG。

 数年ごとに発売される「おっさんホイホイ」的な作品だ。

 

 うちには基本的に、ゲーム機というものがない。

 そこで新作が出るたびに本体とソフトを買い、クリアしたら本体だけ売る、ということをくりかえしている。

 

 ニンテンドー・スイッチは、つごう3回買った。

 無印のスイッチ、バッテリーが強化されたスイッチ、そして現在、手元にあるのは三代目の有機ELスイッチだ。

 

 毎度、任天堂の株価に貢献しているわけだが、それほど損をした気分ではない。

 あまり値崩れをしないので、買ったときに近い価格で売れるからだ。

 

 

 それはいいのだが、毎回、本体ごと買い直すせいで、残念な事象が出来することに気づいた。

 まあ物事を知らない人間にとって残念なだけで、日常的にスイッチで遊んでいるお子様にとっては常識かもしれないが……。

 

 結論から言うと、セーブデータの消失だ。

 過去に遊んだシリーズのセーブデータは、もちろん保存している──つもりだった。

 

 自戒を込めて白状する。

 私はてっきり、セーブデータは「SDカードに保存」されているものだと、何年間も思い込んでいた。

 

 スマホだってSDカードを保存先に指定できるのだから、スイッチだってそうだろうと。

 SDカードとゲームソフトがあれば、本体を買い替えてもつづきができる、そうじゃなかったら、なんのためにSDカードスロットがあるのだ?

 

 と、ほとんど逆切れ気味に信じていたのだが、これが愚かな大人の思い込みにすぎないことが、ついに判明した。

 どうやら「SDカードには保存されていない」らしいのだ。

 

 

 いまさらながら気づいたのは、新作で「引継ぎ特典」とやらを得るために、過去作のデータが必要になったからだ。

 三代目スイッチに二代目で使っていたSDカードを挿入したところ、このSDカードは使用できません、フォーマットしなおしてください、と命じられた。

 

 え、フォーマットしたらセーブデータ消えてまうやん。

 SDカードのデータを読み込んで、過去作品のつづきができるんちゃうの?

 

 そのために毎回、遊んだソフトのパッケージにSDカードを入れて、いっしょに保管していた。

 本体を買い替えたところで、同じソフトとSDカードを差せばつづきができるものだと、まだ信じていた。

 

 しかたなく、スイッチ、セーブデータなどのワードで検索をかけた。

 そこでアホなおっさんは、セーブデータはすべて「スイッチ本体に保存されている」という「新事実」を知った。

 

 過去の私の行動は、すべてまったくの無意味だった。

 各作品およそ100時間にもなるプレイ時間は、売却したスイッチ本体の初期化とともに消え去っていたのだ……。

 

 

 では、セーブデータはどうしたらいいのだ?

 新しいスイッチを買ったら、古いソフトのつづきを遊ぶことはできないのか?

 

 もちろん、そんなわけはない。

 スイッチには、スイッチ特有のバックアップがある。

 

 簡単にいえばおサイフケータイと同じで、一時的にクラウドにデータを預ける。

 そして新しいスイッチにログインして、ダウンロードしてくる。

 

 

 私は古い人間なので、そういう引継ぎの観念が低かった。

 よく言えば、ネットワークにつなげなければゲームができない、などという「つながり至上主義」には固執しない、孤独を愛する人間だった。

 

 そのためのコンシューマ機ではないか。

 本体とソフトがあれば遊べる、それがゲームの本来あるべき姿だ、とも思っている。

 

 だが、いまや自分のものであるはずのセーブデータすら、自分のもののままに保っておくことは簡単ではないと知った。

 ネットワークにつなげなければ、ゲームのつづきもできない、こんな世の中じゃ、ネチズン。

 

 まあ考えてみればそのほうが、セキュリティとしても優秀だ。

 世界はどんどん、私の知らない形になっている……。

 

 

 だったらSDカードはなんのためにあるんだよ?

 という根本的な疑問については、ダウンロードソフトや追加コンテンツ、セーブデータ以外の更新データ、自分で撮影した写真や動画などの保存、らしい。

 

 ゲームをする以外の用途をまったく意図していない私は、そのような事実にすら気づくことができず、数年を過ごしていた。

 重ねて言うが、まったく思い込みとはおそろしいものである。

 

 とはいえ、負け惜しみではなく、データの消失じたいにそれほどショックはなかった。

 情報は「利用する」ことに意味があり、利用を終えたものに価値はあまりないと思っているからだ。

 

 乗り鉄にとって重要なのが乗るという体験そのものであるように、私というゲーマーにとっては、そのゲームを楽しくプレイしたこと自体が重要である。

 撮り鉄が「理想の写真」を重視することを否定するつもりはないが、コレクター気質のない私にとっては、ゲームで作成した「理想のデータ」にもこだわりはない。

 

 セーブデータが重要なのは、プレイ中だけだ。

 ゆえに、なくなったことにもしばらく気づかなかった。

 

 ただし今回は、そのせいで前作データの引き継ぎ特典が得られなかった。

 もらったのは結局、先着購入特典とやらだけだ。

 

 それでもまあ、ひとつ賢くはなった。

 三代目を売り払うときは、クラウドにセーブデータを預けることにしよう……。

 

 アメリカにつづきEUでも、テムの進撃が止まらないらしい。

 またぞろ関税の議論が盛り上がっている。

 

 日本の通販業界はレッドオーシャンなので、テムやシーインは、まだそれほど大きくはない。

 とはいえ激しいネット広告に釣られ、なんとなく買い物をしてしまった私がいる。

 

 実家の親の古いドラレコと交換してやったが、とくに問題もないようだ。

 千円ちょいでこれが買えるというのは、なかなか攻めた商売だと思う。

 

 

 ひと昔まえのメイド・イン・チャイナに比べれば、品質はまあ普通になった。

 届くのに時間はかかるが、べつに急いで必要ではない、という層を狙って価格攻勢をかけるのは、じゅうぶん正しい戦略だということが証明された。

 

 ブルームバーグによると、アメリカではすでに「Temu」が「eBay」を上回っているという。

 毎月、日本の人口を超える1億5200万人が、この越境ECサイトを利用しているらしい。

 

 今回は、そんなテムを経済の観点から批評──するつもりはない。

 ただの一般ユーザーとして体験したエピソードと、感じた思いをつれづれなるままに記録する。

 

 

 テムのサイト構造は、こちらがタップした商品にしたがって、自動的に並べられた関連商品を芋づる式に閲覧、ポチ(らせ)るシステムになっている。

 他のECサイトも似たようなものだが、とくに表示システムの特化が顕著だと思う。

 

 検索の手間を省くという意味ではよいが、個人的にはマイナスの面も大きいと思っている。

 たとえば広告業界では、一度でもエロ広告をタップすると、以後すべての広告がエロで満たされる、という悲しい現実がある。

 

 考えてみれば、ニュースサイトもそうだ。

 一度でも大谷の記事をタップすると、以後は大谷で埋め尽くされてしまう、という苦い体験が脳裏をよぎる。

 

 もちろん、こちらが「調整」する方法を学べばいいだけではあるが、一般的にその精度はAIの進歩にかかっている。

 どの商品や記事を勧めればいいかというチューニングの問題は、永遠の課題といってもいいだろう。

 

 

 さて、そこで「越境ECサイト」の問題点が浮き上がってくる。

 商品の権利や年齢制限など、どの国の法律に縛られるのかなど、あいまいなところが多い。

 

 先日、こんなことがあった。

 まず前段として、それまでの私の検索履歴や購入履歴を記しておく。

 

 サンダル、御香、シートカバー、Tシャツなど、おおよそ使い捨てるような一般的な買い物が多かった。

 送料無料になるぎりぎりの線で、とくにいらないけど安いから買っておこう、というたぐいの雑貨を詰め込んでポチっていたわけだ。

 

 

 あるとき、フィギュアを見つけた。

 おいこれ権利どうなってんだよ、と突っ込みたくなるような、私でも知っている格闘系のアニメの「フィギュア」だったが、それをタップした直後だ。

 

 画面をすこしスクロールしたところ、たったいま再ソートされてきた商品として、かなりリアルな「オナホール」がオススメされてきた。

 あまりの唐突さに、飲んでいたお茶を思わず吹きそうになった。

 

 完全にそれにしか見えない形のゴム製品で、レビューの数もそれなりに多い。

 上位のアメリカ人レビュアーによると、「私はこの製品がたいへん気に入っているが、妻はこれを大変きらっている」とあり、ぐふっと恥ずかしい笑い声が出た。

 

 そうして、ひとしきり楽しませてもらったあと……私はテムを開くのをやめた。

 以後どんな製品がオススメされてくるのか、怖くなったからだ。

 

 

 色眼鏡をかけて人を見るのはよくない、とはよく言われる。

 肌の色や民族で職質をしたり、犯罪者だと決めつけるのは、たしかによくない。

 

 だが、同じロジックによる「囲い込み」には事実、実績や効果がある。

 「この商品を見た人は、こんなものも買っています」とレコメンドされてくるのは、まさにその効果を狙ってのものだ。

 

 今回、アニメ好きの人間にはこういうモノが必要なんでしょ、というバイアスがまちがいなくかかっていることが判明した。

 実績にもとづいている以上しかたないのかもしれないが、せめて成人向きとそうでないものの区別くらいは、つけてもらいたいものだ。

 

 こんなものの閲覧や購入履歴を、中国政府に握られたくないな。

 そう思った、ある蒸し暑い夏の日だった。

 

 

 

 

 定期的に、死を思う。

 人間が何千年も考えつづけてきた、メメントモリのほんとうの意味を。

 

 ──永遠に生きる、という研究が進んでいる。

 老化メカニズムを解明し、幹細胞技術を再生医療に応用しようとしている。

 

 ナノテクノロジーの活用や、意識のアップロードについても同様だ。

 人間が永遠に生きるという「物語」は、現実に近づきつつあるのかもしれない──。

 

 

 日々配信されてくるその手の記事を読みつつ、それでも直近でそのような「夢」が実現することは、ありそうもないと考えている。

 そもそも生物とは死ぬべきものであり、その摂理を変更するほどの倫理綱領を、われわれはまだもっていない。

 

 見果てぬ「夢」であるがゆえ、多くの「物語」にもなってきた。

 死は必ずやってくるからこそ、力を尽くして生きるべきだ──という言葉には、相応の説得力がある。

 

 個人的には、ゲームですらそう思っている。

 死んだら生き返らせればいいという世界観が、私はあまり好きではない。

 

 もちろん何度でもリプレイできるからこそゲームなのだが、死んだキャラクターの人生はそこで終わりのほうがいい。

 「そのまま生き返って」やり直すことと、「セーブポイントから」やり直すことは、似て非なるものだと思うのだ。

 

 

 死んだら、終わり。

 失われた生命は、ぜったいに蘇らない。

 

 これは生物の基本的なルールであって、断じてゆるがせにしてはならない。

 もっぱら「死」を取り扱う業界、宗教界の歴史的態度は参考にしていいだろう。

 

 宗教者が「奇跡」とやらを乱発すればするほど、そのデマには贖宥状ほどの価値もなくなっていった。

 宗教の衰退は、歴史的に認定される「奇跡」の減少に歩調を合わせている、とも言い換えられる。

 

 宗教者は冠婚葬祭の「儀式」を売るほか、人間の不安を取り除くことも「役務」である。

 文化的、社会的な背景を考えあわせる必要はあるが、なかでも「奇跡」と「死」を絡める手口は、効果的ではあるが「下品なマーケティング」だと思う。

 

 

 だからこそ、たとえ「物語」であっても、その禁断の果実に安易に手を出すべきではない。

 あくまでも「お話」という逃げ道は、みずからの価値を貶めるものだ。

 

 ほんとは死んでませんでした、生き返る方法がありました──。

 そんな話を見せられたとき、それが有名な物語であればあるほど、萎える。

 

 宿敵モリアーティ教授を道連れに、滝つぼに落ちた『シャーロック・ホームズ』を生き返らせた作家、コナン・ドイル。

 すばらしいキャラクターを創造してしまったら、それを殺してはならないというプレッシャーは、19世紀からあった。

 

 シャーロキアン(ホームズの熱狂的なファン)にとってシリーズの全作品は聖書だし、出版社にとってはドル箱だ。

 札束の輪転機のようなホームズを殺すなんてとんでもない、永久に使い尽くさなければならない、という利害関係者の要求にも責任はある。

 

 

 ──主役級が死んだら、モッタイナイ。

 だから生き返らせる。

 

 ゲスな理由とわかっていても、作家がその手の要請にしたがわざるをえない気持ちは、もちろん理解できる。

 だが安易な道に流れるまえに、やるべきことはあるはずだ。

 

 そもそも作劇上、生き返らせる「必要はない」と、私は思っている。

 主人公が死んだからといって、物語にならないわけではないからだ。

 

 『市民ケーン』や『嫌われ松子の一生』など、故人の過去を追う、というプロットは「死」という不可逆的な事実に立脚してこそ成立する。

 主役は死んでも、エンターテインメントにはなるのだ。

 

 二度ともどってこないからこそ、かけがえがなく忘れがたい。

 「死人を生き返らせる」というのは、この最後の垣根を超えることだ。

 

 これをやった瞬間、作品の質が変わる。

 わかりやすいのは、ギャグマンガだ。

 

 

 有名な『ドラゴンボール』の作者、鳥山明は「死」というものを極度に恐れていたという。

 その突然の死は世界を騒がせたが、彼自身にとっても青天の霹靂だったことだろう。

 

 故人の心象については、忖度するしかない。

 ゲスの勘繰りにすぎないことを申し添えたうえで、おそらく著者は死をおそれるあまり、そこから生き返る物語を描いたのではないかと愚考している。

 

 この展開だと、どうしても死なせるしかなかった。

 ──ま、いいか、生き返らせれば。

 

 そんな「作者にとっての理想」を否定するつもりは、もちろんない。

 事実、彼は天才だし、その作品は世界に大きな影響を及ぼした。

 

 

 ギャグマンガの範囲で死者が生き返ってくることについては、議論の余地なく認める。

 先週死んだ面白キャラが、今週も出てきたところで、なんの違和感もない。

 

 『スポンジボブ』はどんなに引き裂かれても生きているし、そもそも首がもげたり爆発四散した程度でいちいち死ぬカートゥーンはいない。

 そういう世界観なら、まったく問題はないのだ。

 

 しかし、そのキャラの死を悲しみ、怒り、以後の展開の契機とすればするほど、復活のハードルは極端に高くなる。

 硬派なマンガで、おまえあんとき死んだんじゃなかったのかよ、という主要なサブキャラが、つぎのシリーズで平然と再登場するような作劇手法には、強い違和感をおぼえる。

 

 顧みれば『少年ジャンプ』を卒業したころから、そんなふうに考えるようになっていた。

 死人(死んだと思われるキャラ)が適当な理屈をつけて、簡単に生き返ってくる少年漫画やゲームが、当時はけっこうあった。

 

 どうせ生き返ってくるようなものの死を、なぜ悲しまなければならないのか?

 それこそ死への冒瀆であり、死者を愚弄する物語ではないか。

 

 

 もちろん私の許容範囲と、世間のそれとは大きく異なるのだろう。

 自身が少数派であることは理解しつつも、なにより恐ろしいと思うのは、人の死がどんどん軽くなっているこの現実のほうだ。

 

 冒頭のとおり、科学がヒトを「永遠に生」かす時代は、いずれくるかもしれない。

 その禁断のテクノロジーにたどり着く可能性が、人類には……ある。

 

 そうして「夢」をかなえた人間が、無限の人生を謳歌するようになるとしたら。

 これほどおそろしい「呪いの物語」を、私は聞いたことがない……。

 

 

 

 

 ドル円が再び160円に乗ってきた。

 もし私が市場に参加していれば、そろそろ仕込みはじめるところだ。

 

 と、そんなことを2か月まえも書いた。

 なぜそう考えるか説明すると長くなるが、まあ要するに「勘」だ。

 

 為替は長期のトレンドで80~160円で振れる──と考えている。

 160円を超えている現状、よくいう「ショーター(ドル売り)」の出番だが、私はあえて「円ロング」に賭ける人々と言いたい。

 

 

 市場は必ず加熱するので、数円のオーバーシュートは織り込む必要がある。

 事実、2011年3月には80円を割り75円32銭まで円高が進んだ。

 

 このときは東日本大震災などの特殊要因もあり、その後、2年近くも円高がつづいた。

 そんなある日、日銀砲が発動したことを、ときどき思い出す。

 

 為替介入ラインに価格がべったりと貼りついて、微動だにしなかった東京タイムの異常なチャートの姿は、かなり印象的でよくおぼえている。

 かの伝説の日銀砲により、無数のヘッジファンドが死屍累々を築いたらしい。

 

 

 さて今回、ほぼ10兆円規模の日銀砲で、10円程度の押し下げ効果があった。

 持続期間は結果的に2か月ほど、ということになる。

 

 おかげでもう一発、パナすチャンスがやってきて、ほくそ笑んでいる人々の姿が思い浮かぶ。

 安値で仕込んだドルを、高値で手放すチャンスということだ。

 

 10兆円の介入で、ざっくり2兆円の利益らしい。

 なかなかいい商売だと思わないか?

 

 

 もちろんそんな短期的利益のために、当局は動かない。

 世界中が見ている為替相場でバカなことをやれば、結局自分が損をする。

 

 国や金融当局が見据えなければならないのは、いうまでもなく「長期的展望」だ。

 その意味でも、そろそろ折り返し地点にきていると考える。

 

 このまま180円とか200円とか言い出す人々も、一定数いる。

 だが今回の円安局面は、すでに3年目にはいっていることを忘れてはならない。

 

 市場とは、一方向に行きっぱなしになることは、けっしてない。

 必ずもどってくる。

 

 では、どのタイミングか。

 もちろん、それがわかったら苦労はしない。

 

 だれにもわからないことを、さも訳知り顔で「今月中に反転する」とか「200円いく」などと断言しているやつがいたら、眉に唾をつけよう。

 赤いきつねと緑のたぬきも、マーケットについて語る言葉はないのだ。

 

 

 さて、では私がなぜ80~160円で動くと考えているのか。

 その理由を、すこしだけ書いておきたい。

 

 ──むかーしむかし、日本人は貧しかったが、ドイツ人も、フランス人も、アメリカ人だって貧しい時代はあった。

 各国は、それぞれの歩調で発展段階を歩み、一定のルールのもとに「安定」を目指すことに合意した。

 

 異なるルールで動く経済圏や、特殊な政治状況にある国は別だ。

 彼らは彼らのペースで、まるで永久のように停滞する国もある一方、激しく動いて成長を目指す国も多い。

 

 先進国は、足を止めてその場で「待っている」。

 日本がかつてイギリスやフランスを追い抜いたあと、30年ほど立ち止まって新興国のキャッチアップを待った(好むと好まざるとにかかわらず、結果的に)ように。

 

 そうして、先進国としてすでに「安定期」にはいっている国の経済は、基本的にあまり動かない。

 当局の人間が口を酸っぱくして言っているとおり、「過度な変動」のほうがきらわれる。

 

 

 われわれは基軸通貨ドルで動いている。

 直近30年ほどの対ドルのレートを調べると、わかりやすい。

 

 ドル円の最高値は現在、160円。

 最安値は2011年、75円32銭。

 

 多少のオーバーシュートについては、前述したとおり。

 では、ポンド・ドルに目を向けよう。

 

 最高値、08年、2.0171ドル。

 最安値、01年、1.1815ドル。

 

 99年に取引開始されたユーロは、さらにわかりやすい。

 導入当初、パリティ(等価)で取引されていた。

 

 最高値、08年、1.6022ドル。

 最安値、00年、0.8295ドル。

 

 このように、だいたい2倍の範囲で上下していることがわかる。

 期間を広げればさらに範囲は拡大するし、規模の小さい国では変動幅も大きくなるが、日本円はいうまでもなく規模が大きく、先進国経済圏に強くコミットしている。

 

 同じ市場システムで運営され、発展状態もおおむね等しい国々。

 あとは国ごとの「個性」が決める為替相場が、結局どの程度の範囲に収斂するかは、影の政府にお伺いを立てるまでもなく、だいたい決まってくる。

 

 

 スイス銀行(?)の暗い部屋に、各国の金融当局のトップが集まって、世界を動かす6人の大金持ちから「ことしの為替相場」について指示を受ける。

 というような話が、月刊『ムー』に載っていたとして、それはそれでおもしろい話だとは思う。

 

 しかし現状、そんなことをしなくても自然に落ち着くところに落ち着くのが、市場経済であり為替相場だ。

 30年やってきて、「神の手」の形はそれなりに見えてきた。

 

 だから、もしこのまま180円とか200円までいったら、私が見ていたのは神の幻でしたすいません、とすなおに謝りたい。

 どこまで、いついくか、これだけはだれにもわからないのだ……。