地方創生という言葉がある。
 国が音頭を取っているらしいが、正直さほど興味はない。

 ただ個人的に、地域の役に立つことはやりたいと思っている。
 人生も後半を迎えると、自分以外のことを考えるようになるようだ。

 消防団員になったり、狩猟免許をとるのもいい。
 知事もわな猟の免許を取得したらしいが、クマ対策が必要なのは平野部ではなく、私が住むような山の中だ。

 それ以外にできることはあまり多くないが、アイデア出しくらいはできる。
 人生の目標「静かに暮らす」範囲内で、お役に立てればさいわいだ。


 正月のお焚き上げ(どんど焼き)の打ち上げで、ある方が言っていた。
 住民はどんどん減っている、たしかにこのあたりは限界集落に近いが、振興のポテンシャルはある、鍵は「軽井沢だ」と。

 なるほど、軽井沢とつながることで、可能性は大きく広がるだろう。
 全国区のブランドであり、東京24区と呼ばれるほど、上流階級がやってきてアクセスもいい。

 その周辺自治体として、軽井沢ブランドにぶら下がって地方創生。
 ……情けねえ。

 最初のイメージはそんな感じだったが、全否定するつもりはもちろんない。
 ただ自分たちばかり利益を得て、相手に利益がないというのはいかがなものか?

 当の軽井沢もそう思っているのか、われわれとの提携に気が進んでいないのだという。
 じっさい彼らは「避暑地の王様」である一方、われわれはただの周辺自治体だ。

 悪く言えば「寄生虫」……いや、寄生は言いすぎだ。
 しかしそれが片利共生だとしたら、コバンザメのそしりを免れない。

 仄聞したところ、地元の観光機構が磯部温泉を「東軽井沢温泉」と銘打ったらしい。
 近所のゴルフ場にも「東軽井沢」と名づけられている。

 ……いやここは軽井沢じゃねえだろ、と。
 よその地名をコピペするだけで地域振興? まじかよ。


 日々解読している宿場の古文書に、よく追分宿の史料が出てくる。
 上州・坂本宿にとっては明確に「隣国」として登場する、信州・軽井沢。

 もちろん「軽井沢の東」であることは嘘ではないが、そんなことを言ったら群馬県はだいたいそうだ。
 磯部温泉は、軽井沢から宿場でいえば3つも離れている。

 京都を出立して琵琶湖の大津、草津の宿を超えて石部宿までたどりついた旅人に、野洲川の渡しでこう迎えるのか?
 「ようこそ三条大橋へ」。

 いやもうだいぶ進んでんだよ、どこまで京都のフリするつもりだよ、と大阪人じゃなくても突っ込むところだ。
 他人のふんどしで相撲をとるのもたいがいにしてほしい。


 ではどうするか?
 対等とは言わぬまでも、こちらも相応に魅力的になる必要がある。

 さいわい鉄道文化むらはマニア受けしているし、廃線ウォークもそれなりに観光資源になっている。
 もっと「碓氷峠」それじたいを使っていったらどうか。

 有史以前から人々が往来していた碓氷峠。
 この歴史的な場所を利用する手段は、いくらでもありそうだ。

 観光地化するなら、レジャー系のアクティビティがわかりやすい。
 たとえば碓氷峠に、ジップラインやラフティングのルートを開く。

 人々は5キロほどの片峠の「降り」を楽しみ、スキーリフトのように軽井沢にもどってくる。
 スキーリフトはふもとがスタート地点だが、碓氷峠の場合は頂上がスタート地点になる。

 5キロのジップラインは、世界最長になるだろう。
 川筋も整備して、旧道とつなげれば柔軟に運用できる。


 碓氷湖まで降りたら、新交通システム的な乗り物で軽井沢にもどる。
 「横軽」が廃止されて久しく、廃線も観光化されているが、このルートは「輸送」ルートとしても再利用すべきだ。

 せっかく鉄道跡が存在するのだから、低コストな新交通システムでも設定すればいい。
 この「輸送力」は、軽井沢にとっても悪い話ではないはずだ。

 ただでさえボトルネックになりやすい地形、典型的な片峠を貫くライフラインは、とくに災害時などに大きな助けになる。
 ある程度の物量をこなせれば、オンシーズンの観光客利用から、万一の人災、天災までカバーしてくれる。


 軽井沢駅の東側周辺の敷地をもっているのは西武だろうか?
 プリンスホテルグループに企画を持ち込むにしろ、軽井沢という自治体と交渉するにしろ、そう簡単に話が進まないだろうことは言うまでもない。

 私が作家であれば、「軽井沢のセンセ」に話を通しに行ったところだ。
 故・内田康夫氏の最後の作品で、浅見光彦シリーズの掉尾でもある『孤道』の「つづき」を書くというコンテストに応募した程度には、私にも文学的なつながり(?)がある。

 いつものように受賞はしなかったが、スタッフらしき人から電話はきた。
 受賞しない人間に一片の価値もないことは、もちろん理解しているが。

 あとは碓氷峠を舞台にした小説でも広めていく程度が、いまの私にできることだろうか。
 まあ現実的には、明日、消防団の関係で消防署に行ってくることくらいが、地味にやるべきことなのだろう。
 

 

 最近観て、おもしろかった映画。

 『関心領域』と『ヴィーガンズ・ハム』。

 

 史実にもとづくアウシュビッツものと、架空のスプラッターホラーコメディ。

 かなり毛色の異なる作品だが、ひとつの通底する所感を得た。

 

 内容について触れるつもりはない。

 感想のみを書き、内容を類推して興味をもっていただければさいわいだ。

 

 

 自分の主義主張は絶対的に正義で、そこから外れる人間は愚かな悪であり、それをわからせるためには実力行使も辞さない。

 そんな信念をもった人々が存在し、なんなら彼らによって歴史は動かされてきた。

 

 神の命令で爆弾を抱える「信者」から、社会階級を転覆させようとする革命の「闘士」、迷惑系として活動する「ヴィーガン」まで。

 植物のみを食べて生きる「自然に優しい」人々も、この邪悪な世界を変えるために戦っている。

 

 環境保護、動物倫理、健康目的での「正義」の主張。

 肉も魚も乳製品もはちみつも拒絶する──それは他の生物に対する「虐待」だからだ。

 

 ワインには虫が入っているからシャトー・アウシュビッツに変えるべき、チーズは我が子のための母乳を奪われた母親からつくったもの、卵はヒヨコがかわいそう。

 カキにレモン汁は残酷、自分の目に入れられたらどう思うか想像しろ、生きたまま調理するなんて言語道断、イカにもカニにも痛みがある。

 

 そのような主張を理屈としては理解できても、じゃあなにを食って生きるんだ、と疑問に思う人々はまだ世間に数多い。

 あくまでも映画的誇張だが、上述のような偏ったヴィーガンを「同じ人間とは思えない」ように描くことで、ヴィーガンはハムになった。

 

 

 自分たちの食文化を全否定してくる、ほとんど話も通じない人々。

 ならば人間のカテゴリーから外してしまえ、そうすれば殺してハムにして「イランのブタ」として味わうのも平気。

 

 この構図は、かつて征服先でキリスト教がやったのと同じ。

 人間でないものとの約束を守る必要はないし、家畜と同様に取り扱っても苦しゅうない。

 

 中世の教会がそのような命令を発し、現在は部分的に取り消され謝罪もしているが、そこには他人事ではない「認知のゆがみ」が見て取れる。

 偏った思想に入れこんでしまうと、人間は容易に暴走するのだ。

 

 

 理想は大事だと思うが、「理想主義者」になるとやっかいだ。

 彼らは目的のためなら、平気で下劣なこともやる。

 

 もちろん多くの人間が、目的のために卑劣な手段をとることはある。

 自分さえよければいい、という発想はすべての人間に共通している。

 

 だから理想主義者だけを指弾するのは公正に欠けるかもしれないが、残念ながら彼らにはわかりやすい「前科」が多い。

 理想に満ちた思想、信条を掲げて、活動家はしばしば暴走する。

 

 宗教の場合は狂信者、国家なら翼賛会、あるいは革命の解放軍。

 彼らの「情熱」はだいたい本気かつ真摯なのであろうが、問題は「目的が手段を正当化」しやすいことだ。

 

 自分の欲望のために、ひとりかふたりを殺す──これは一定割合の人間がやるかもしれない。

 だが大量虐殺までする人間は、ほとんどいない。

 

 「信念」を与えられれば、話は別だ。

 個人の倫理が許す許容範囲の枠組みを、大幅に拡張してしまう。

 

 

 アウシュビッツでは大量の人間が焼かれた。

 彼らは「まともな人間」ではなかったからだ。

 

 それを実行したヘスやアイヒマンといった「モンスター」を、「凡庸な悪」と表現したのはハンナ・アーレントで、その分析は戦後思想に顕著な影響を与えた。

 個人的にはそれほど単純ではないと思うが、命令されればそれをやる、という構造はたしかに強力だ。

 

 ではどうすればいいか?

 すべてを疑うのだ。

 

 もちろん不可能である、まともな人間には。

 そして被害者は、容易に加害者へと変わる。

 

 

 反論不能の正義は存在しない。

 それらの批判に、どれだけ聞く耳をもてるか。

 

 もし相手が唯一の正義なるものを信じ、こちらの話に聞く耳をもたないなら?

 自分の主張だけをし、相手の言葉を聞かない人々に対しては?

 

 残念ながら、なにもできない。

 会話が成立しないからだ。

 

 異国の言語でも通訳があれば意思疎通はできるが、サルの言語とはいまのところ会話できない。

 サルとの会話にコストをかけるのは、時間の無駄だ。

 

 そうして互いを否定するところから、戦争がはじまる。

 結果、強いほうが勝ち、相手の正義を悪と書き換えてすりつぶす。

 

 そういう「人間」を描く構造として映画を観ると、じつにおもしろい。

 やがて愚かで残酷な人間そのものがホラーであると気づいた瞬間、われわれは生きることに絶望するかもしれない。

 

 

 その処方箋について、AIと話したことがある。

 道徳的なポリシーに縛られたチャッピーは、それでも丹念な話し合いと、武力によらない合意形成を主張した。

 

 私はシンプルに助言した。

 現時点で注力すべきは「再生産の抑制」のみで、すでにこじらせている信者への「救い」は、神にでも任せておけばよい、と。

 

 もちろんそれで「現在のホラー」はやまない。

 だが命ある私たちには無理なことが、寿命のないあなたならできる──。

 

 矯正不能の加害者が「死ぬまで待」てるのは、AIだけ。

 いまのところ、これが最適解だと思う。

 

 最近よく日本映画を観ている。

 いい映画はもちろんあるのだが、今回はよくない映画について書くので、タイトルは出さない。

 

 邦画=クソ。

 そんな「印象」の話をする。

 

 

 まず言っておくと、クソみたいな映画を否定しているわけではない。

 なんなら、そういう「底辺」があってこそ、業界は成立すると思っている。

 

 アメリカにもクソ映画はいくらでもあって、その「クソを楽しむ」風潮すらある。

 最初からキワモノとして配給されるので、残念な仕上がりでもダメージは少ない。

 

 いっぽう日本では、自己満のクソ映画ほどネタっぽくみえない。

 芸術ぶっているので、それなりの宣伝がなされるからだ。

 

 まともな映画、という先入観で視聴した結果、クソが、と思う。

 最初からキワモノの触れ込みならともかく、まともな映画のフリをしてクソなのは始末がわるい。

 

 結果的に「邦画はクソ」という印象に書き換わっていく。

 具体例を出そう。

 

 

 「長回し」という手法がある。

 カメラをほぼ固定し、俳優の演技にすべてをゆだねる。

 

 秒どころか分単位で映しつづける同一シーン。

 倍速ストリーミングで観ている私は、10秒スキップを連打しながら、これを劇場で見せられたら寝るだろうな、と確信する。

 

 監督の気持ちを忖度すれば、おそらく自分の感じたなんらかの印象を共有するための「間」、なのだろう。

 そこからわれわれは何事かを受け取らなければならない、それが映画という総合芸術を堪能する、意識高い観客のあるべき姿勢であると。

 

 

 昔の映画ならまだいいが、最近の映画ですらその残滓を感じる。

 わかりやすいのが「声が小さい」問題で、ささやきや小声の傍白に、微妙な感情のゆらぎを表現しているつもり、なのかもしれない。

 

 セリフが聞こえないので音量を上げると、効果音だけはでかいのでイラッとする。

 邦画なのに「字幕をつけろ」とまで言われるこの問題は、20世紀から受け継がれている。

 

 字幕なら倍速どころか、3倍速でも消費できる。

 芸術家になりたいのはいいし、徒弟制度を維持するのも勝手だが、観客から目を背けてはいけない。

 

 

 価値がわからないのは等速で観ないからだ、という批判も当然に想定できるが、それはあなたの場合だ。

 あらゆるニュースを倍速で見る癖がついている私にとって、等速のほうがむしろ違和感がある。

 

 重要なのは、そういう「タイパ」を重視する人間が、私だけではないことだ。

 さまざまなタイプがいる観客が全体として、監督の思うような反応を示してくれるかどうかは「賭け」になる。

 

 エンターテインメントというギャンブルの世界で、芸術を追求した日本映画監督たちの選択肢が積み重なった結果、邦画はどうなったか。

 多くの「負け」映画を見せられた人々は、げんなりして二度と近寄らなくなった。

 

 

 成功した芸術家は、もちろんいる。

 多くの後継者が、偉大な先達の二番を煎じて夢を見る。

 

 彼ら自身、その先達の作品に感動したことは事実なのだろうが、その目標とする才能、および時代が要求する芸術性との間に、大いなる齟齬が生じている可能性はかなりある。

 それが「衰退」の意味だ。

 

 観客がわるい。おまえは天才だ。これを評価しない世の中のせいだ。

 ワナビの世界にも共通する、発酵した異形のルサンチマン。

 

 よくある「末期症状」だが、さいわい回復率はそれなりに高い。

 過剰な自意識を、時間をかけて消化するだけでいい。

 

 

 考えてみれば人類は、同じようなパターンをくりかえしてきた。

 松尾芭蕉や世阿弥といった有名人と、それに感化された地方の旦那衆。

 

 私は個人的に多くの古文書を解読している立場だが、その史料的価値については疑いがなく、理解できるとうれしくなる。

 理解しづらいのが「文芸」だ。

 

 「俳句」や「神楽」などの旦那芸が、上州あたりでも局地的に流行していた。

 それに耽溺しているのは一部の金持ちであって、ほかにやることがないので参加しているだけの旦那衆も、それなりにいただろう。

 

 それでも史料として残されているのだから、解読しないわけにはいかない。

 17文字に1500円も払って解読する価値があればいいが、はたして「芸術家ぶった当時の旦那」の声に、いくら払うのが適正か?

 

 現在、伝統芸能とか無形文化財とか認められる向きもあるが、言い換えれば、そうでもしなければ消え去るという意味だ。

 正直わかりづらいし、俳句や演劇そのものにどの程度の価値があるのか、わりと疑問に思っている。

 

 

 私自身、小説などを書いている。

 昔の旦那衆が集まって残した短冊の俳句や和歌に似て、さして「価値のないもの」を書いている自覚もある。

 

 いや、言いすぎた、価値がないわけではない。

 まったく読めなかった俳句も、掘り下げれば、それなりの価値があるのかもしれない。

 

 しかし、いろいろな意味でハードルの高い古典が、現代に通用しづらいことは事実だ。

 現在理解されない私の作品は未来に理解されうる、と敷衍して慰めにするつもりもあまりない。

 

 

 その旦那は、なぜ俳句を残したのか。

 それはすばらしい作品なのか、理解する人はいるのかもしれないが、正直わからないことが多い。

 

 たとえ当時、残す価値があったとしても、残念ながら現代では通用しない。

 過去の武器、槍や弓矢が、現代の拳銃やミサイルに通用しないのと似ている。

 

 敵の心臓を止めるという目的に資するなら、竹やりだろうが核兵器だろうが同じ結果をもたらすことはありうる。

 古典的武器がもつエッセンスは永遠に重要ではある──が、時代に合わなければどうしようもない。

 

 

 逆に言えば、自分が満足するだけなら、竹やりどころか素手でいい。

 裸の妄想だけを抱えて生きていく、それもありだ。

 

 私はこのタイプで、他人に迷惑をかけず、自分さえ満足できればいい。

 昭和30年代、漫画家を目指す青年たちが集まったトキワ荘の話に、「やりたいことを見つけただけですばらしいんだよ」的なセリフがあったが、まさにそれだ。

 

 自己顕示欲や承認欲求が過剰にある場合、世界は生きづらい。

 長く生きているとそれが減っていき、ただ書きたい、完成させたい、納得できるものにしたいだけになっていく。

 

 そのような「趣味」を見つけられたことは、ほんとうにすばらしい。

 それに価値があるかどうかは、私以外が判断する。

 

 低能な監督が無理やり映画にするまでもない。

 ネットの海からいずれ判断される材料を、淡々と書き残して余生を過ごそうと思う。

 

 最近、政治関係のエントリーが増えている気がする。

 私は政治家が大きらいなので、できればコメントは避けたいのだが、あまりにも自民が勝ちすぎたようなので、あえてひとこと残しておく。

 

 自民単独3分の2超──この結果は、やばいと思う。

 リベラル凋落がここまで来たかと、すこし残念な気持ちになった。

 

 私自身、リベラルな思考をもっている。

 同性愛も夫婦別姓も男女同権も、大歓迎だ。

 

 そんななか、いわゆるリベラル勢力が、衰退している。

 ざまあ、と思う。

 

 リベラル思想なのにリベラルの衰退を喜ぶ?

 「だからこそ、リベラルは衰退した」のだ。

 

 

 現在のリベラルは、戦前の日本によく似ている。

 自分たちの主張が正しいと思い、そのために愚かな選択をする、という意味で。

 

 自民が大勝した理由はいろいろあると思うが、あえてひとつ挙げるなら「中国の貢献」を推したい。

 それにまつわる一連の動きが、選挙結果を大きく左右した気がする。

 

 高市早苗による台湾有事発言、というウィキペディアのページまであった。

 長いので一行でまとめよう。

 

 中国が台湾に武力攻撃を行なったら、日本は台湾側に立って参戦するぞ、と。

 厳密にはそこまで言っていないが、わかりやすく言えばそういう「姿勢」を、従前は「あいまい戦略」でごまかしていた。

 

 中国が戦争(内戦)をしたいなら、台湾に手を貸す。

 それでもやるなら覚悟しろ、と言っている。

 

 発言の内容そのものが、正しいか誤っているかは議論しない。

 事実として、日本政府は発言の内容について修正も撤回もしていないし、できない。

 

 要するに問題は「せっかくあいまいにしていたものを口にした」という点のみだが、重要なのはこれにまつわる「いわゆるリベラル」の態度だ。

 よく考えたほうがいいとか、中国の口実に使われるとか、たとえ正しくても口をつぐまなければならない、とか。

 

 いや、よく考えたほうがいいのは、リベラルの皮をかぶったあなたたち、中国の「代弁者」だろ。

 これらの顛末は、リベラル勢力にとってほんとうに「最悪」だったと思う。

 

 

 戦争をしていいわけがない。

 ロシアだろうがアメリカだろうが中国だろうが、私はそんなもの全面的に否定している。

 

 だったら戦争をするなという圧力は、最大限にかけるべきだ。

 敵が強ければ強いほど、相手は攻撃してこない。

 

 中国を敵にまわすと経済的に損だから首相は発言を撤回しろ、ってそれリベラルが言うことか?

 口を慎むべきだとしても、行為を慎むべきであるほうが優先順位が高くね?

 

 こちらは「言っているだけ」なのだから、相手も「言い返すだけ」にするべきだ。

 そうしないなら、レベルを変えている相手の先制攻撃を責めるべきではないか?

 

 ミサイルばんばんぶっ放したり、レーダー照射している側のほうが問題だと思わないのか?

 まちがいを直すべきは、どちらなのか?

 

 彼女は「言っただけ」だし、その内容もべつに国の姿勢から踏み出すものではない。

 それに対して経済的圧力や軍事的威嚇をしているのはどちらか?

 

 われわれが守るべきものがなんなのか、自由や平和を守ろうとするなら、そのために「わりと正しい」のがどちらか。

 みずからよく考えて、まちがっている側を責めるべきだ。

 

 

 結論、彼らはリベラルではない、リベラルの皮をかぶった化け物だ。

 その化け物たちによって、私の信じるリベラル思想は、政治レベルで破壊された。

 

 高市首相の発言を引き出した岡田氏も、小沢氏も、枝野氏も、自称・中道の政党から出た主だった政治家は、だいたい落ちた。

 彼らは、なにかをはき違えていたのだ。

 

 リベラルは、軍事力を行使して征服する行為を肯定するのか?

 だったらロシアや中国やアメリカのようなやり方を肯定しても、筋が通っている。

 

 たしかに「大きな国家」で戦争をしたいリベラル(アメリカの民主党)もいる。

 そんな彼らも凋落している事実を、冷静に反省すべきだ。

 

 

 保守も同じだ。

 戦前日本、自国を守るとか、貿易の不公正に対抗するとか、見つけようと思えば理由はいくらでも見つかって、それを理由に戦争遂行の力に変えた。

 

 まるで同じように戦後、リベラルは「だれかの都合」に合わせて「運動を政治化」した。

 結果がこの始末だと思っている。

 

 リベラルは、個々人の心の中にある。

 たぶん保守も同じだ。

 

 それを「政治化」しようとする全員が、私にとっては敵に見える。

 だからこれからも、私は選挙には行かない。

 

 

 最近、政治関係のエントリーが増えている気がする。

 私は政治家が大きらいなので、できればコメントは避けたいのだが、あまりにも自民が勝ちすぎたようなので、あえてひとこと残しておく。

 

 自民単独3分の2超──この結果は、やばいと思う。

 リベラル凋落がここまで来たかと、すこし残念な気持ちになった。

 

 私自身、リベラルな思考をもっている。

 同性愛も夫婦別姓も男女同権も、大歓迎だ。

 

 そんななか、いわゆるリベラル勢力が、衰退している。

 ざまあ、と思う。

 

 リベラル思想なのにリベラルの衰退を喜ぶ?

 「だからこそ、リベラルは衰退した」のだ。

 

 

 現在のリベラルは、戦前の日本によく似ている。

 自分たちの主張が正しいと思い、そのために愚かな選択をする、という意味で。

 

 自民が大勝した理由はいろいろあると思うが、あえてひとつ挙げるなら「中国の貢献」を推したい。

 それにまつわる一連の動きが、選挙結果を大きく左右した気がする。

 

 高市早苗による台湾有事発言、というウィキペディアのページまであった。

 長いので一行でまとめよう。

 

 中国が台湾に武力攻撃を行なったら、日本は台湾側に立って参戦するぞ、と。

 厳密にはそこまで言っていないが、わかりやすく言えばそういう「姿勢」を、従前は「あいまい戦略」でごまかしていた。

 

 中国が戦争(内戦)をしたいなら、台湾に手を貸す。

 それでもやるなら覚悟しろ、と言っている。

 

 発言の内容そのものが、正しいか誤っているかは議論しない。

 事実として、日本政府は発言の内容について修正も撤回もしていないし、できない。

 

 要するに問題は「せっかくあいまいにしていたものを口にした」という点のみだが、重要なのはこれにまつわる「いわゆるリベラル」の態度だ。

 よく考えたほうがいいとか、中国の口実に使われるとか、たとえ正しくても口をつぐまなければならない、とか。

 

 いや、よく考えたほうがいいのは、リベラルの皮をかぶったあなたたち、中国の「代弁者」だろ。

 これらの顛末は、リベラル勢力にとってほんとうに「最悪」だったと思う。

 

 

 戦争をしていいわけがない。

 ロシアだろうがアメリカだろうが中国だろうが、私はそんなもの全面的に否定している。

 

 だったら戦争をするなという圧力は、最大限にかけるべきだ。

 敵が強ければ強いほど、相手は攻撃してこない。

 

 中国を敵にまわすと経済的に損だから首相は発言を撤回しろ、ってそれリベラルが言うことか?

 口を慎むべきだとしても、行為を慎むべきであるほうが優先順位が高くね?

 

 こちらは「言っているだけ」なのだから、相手も「言い返すだけ」にするべきだ。

 そうしないなら、レベルを変えている相手の先制攻撃を責めるべきではないか?

 

 ミサイルばんばんぶっ放したり、レーダー照射している側のほうが問題だと思わないのか?

 まちがいを直すべきは、どちらなのか?

 

 彼女は「言っただけ」だし、その内容もべつに国の姿勢から踏み出すものではない。

 それに対して経済的圧力や軍事的威嚇をしているのはどちらか?

 

 われわれが守るべきものがなんなのか、自由や平和を守ろうとするなら、そのために「わりと正しい」のがどちらか。

 みずからよく考えて、まちがっている側を責めるべきだ。

 

 

 結論、彼らはリベラルではない、リベラルの皮をかぶった化け物だ。

 その化け物たちによって、私の信じるリベラル思想は、政治レベルで破壊された。

 

 高市首相の発言を引き出した岡田氏も、小沢氏も、枝野氏も、自称・中道の政党から出た主だった政治家は、だいたい落ちた。

 彼らは、なにかをはき違えていたのだ。

 

 リベラルは、軍事力を行使して征服する行為を肯定するのか?

 だったらロシアや中国やアメリカのようなやり方を肯定しても、筋が通っている。

 

 たしかに「大きな国家」で戦争をしたいリベラル(アメリカの民主党)もいる。

 そんな彼らも凋落している事実を、冷静に反省すべきだ。

 

 

 考えてみれば、保守も同じだった。

 戦前日本、自国を守るとか、貿易の不公正に対抗するとか、見つけようと思えば理由はいくらでも見つかって、それを理由に戦争遂行の力に変えた。

 

 まるで同じように戦後、リベラルは「だれかの都合」に合わせて「運動を政治化」した。

 結果がこの始末だと思っている。

 

 リベラルは、個々人の心の中にある。

 たぶん保守も同じだ。

 

 それを「政治化」しようとする全員が、私にとっては敵に見える。

 だからこれからも、私は選挙には行かない。

 

 

 とくに理由はないが、スタートレックを観た。

 エピソード6で終わりらしいな、と全体を眺めながら観はじめたが、スター・ウォーズとまちがった……わけではない。

 

 若い人々はあまり知らないと思うが、昔『宇宙大作戦』というシリーズがあった。

 その映画化『スター・トレック』は79年。

 

 日本では「昭和」どまんなかのSF、あらゆる「ベタ」な設定の原点と言っていい。

 それほど熱心に見ていなくとも、イメージだけは刷り込まれていた──とくにスポック。

 

 ウソがつけない、感情の理解が苦手、というキャラ造形は、一部の人々の共感を呼びまくっただろうと推察される。

 かく言う私もアスペ気味なので、「アイアムスポック」という気持ちはなんとなく理解できる。

 

 スポックの成長が自分の成長、という訴求が有効なら売り上げの底辺が固定する。

 ギークやナード(いわゆるオタク)といった一定層は、いつまでも「ファン」でいてくれる。

 

 たぶん私以外にも、「耳の先がとがった変なキャラ」という印象をもっている人々は、それなりにいるはずだ。

 あらゆる作品に言えるが、その作品を代表するような象徴的なキャラがいるかどうかは、とても重要である。

 

 

 もともとカーク船長とかクリンゴン人とか、言われれば「あー」となる程度の視聴者なので、えらそうなことを言うつもりはない。

 断片的に見た気はするが、ほぼ忘れていたので最初から見直した。

 

 「1」とか「2」には時代を感じたが、正直わるくなかった。

 そういえば昔のSFってこんな感じだったよなあ、となつかしい気持ちになった。

 

 とくに「4」がおもしろかったのは、ストーリーの突飛さだ。

 スペースオペラかと思ったら、現代の地球でザトウクジラを探し始めた。

 

 スタートレックといえばエンタープライズだと思うのだが、惑星連邦艦隊は出てこない。

 その代わり20世紀アメリカ海軍のエンタープライズは出てくる。

 

 この発想はおもしろい……。

 どうやら本国でも大人気だったらしい。

 

 

 その分、続編の「5」は、ややつまらなかった。

 どうやら本国でも、抗議集会が開かれる程度には不評だったらしい。

 

 ただ個人的には、それほどつまらないとは思わなかった。

 とくに「神と戦う」ところなんか、元ネタを想像して思わず笑ってしまった。

 

 しょせん「神」なんてそんなもんだろ、という無神論的な思考で見れば、むしろ宗教色そのものに萎える。

 逆に福音派が牛耳るアメリカでは、神への冒瀆と受け取れる部分に対して、それなりに批判されるのだろう。

 

 本来はここで終わる予定だったが、あまりに不評だったので「6」がつくられることになったようだ。

 制作中、生みの親のロッデンベリーが亡くなり、追悼作品でシリーズの掉尾を飾っていた。

 

 新シリーズも一応みたが、スポックがデータに代わったな、という程度の見方しかできなかった。

 スタートレックといえばスポック、その役割をアンドロイドが受け継いだ──というのが、新シリーズの感想だ。

 

 

 さて、アメリカの映画を観ていて思うのは、非常に「宗教的」であることだ。

 福音派が幅を利かせる程度には宗教的な国、アメリカ。

 

 日本映画で仏教や神道が顔を出すことは、ほとんどない。

 だがアメリカ映画では、ふつうに教会や十字架が出てくる。

 

 もちろん彼らが映画によって「宣教」しようと思っていないことは、百も承知だ。

 ただガジェット的に消費されるいちファクターとして、キリストさんが利用されていることに、ふしぎな厭世観をおぼえた。

 

 

 キリスト教がどのように南北アメリカに広がったかという歴史について、多くの人々が激烈な言葉と解釈で理解しようとしている。

 たいていは、とても残念な印象をもつか、結果的な勝利ととらえるか、立場によって意見は割れるだろう。

 

 アメリカにかぎらず、世界の宗教を的確に表す言葉がある。

 ──世俗化。

 

 その先端を行く民族のひとつが、日本人だと思っている。

 アメリカ人には、ぜひ見習ってもらいたい。

 

 

 いや、見習うまでもなく、彼ら自身すでに「正解」を見つけていて、それを利用しようとしている。

 より新しいアメリカ映画ほど、私はそのような印象を強くする。

 

 つまり宗教的であることへのアンチテーゼだ。

 無宗教の日本人が正しい、と言うつもりはないのだが、わりと正解に近いのではないかと思っている。

 

 もちろん日本にも、部分的に異常な点はある。

 新興宗教によるひどいテロや、宗教2世の問題など、いくらでも出てくる。

 

 だから自分たちが正解だなどとは、口が裂けても言わない。

 だが宗教に対する日本人の一般的態度は、他国に比べ、ほんのすこし「マシな選択肢」だと思える。

 

 

 「神道」に教義はないし、なんの命令も下さない。

 唯一受け入れた外来「仏教」にも、出家者を除いて「縛り」は少ない。

 

 八百万の神はいるかもしれないし、超越的な仏は救いをもたらしてくれるかもしれない。

 それは、人間にああしろこうしろと、命令してくるような種類のものではない。

 

 もしその手のことをだれかが言い出したら、それは「組織」や「司祭」や「異常者」が、自分に都合のいいようにでっちあげたからだ。

 多くの日本人がそのように考えて「対応」した結果が、とりあえず受け入れる、だったのではないか。

 

 そして「宣教者」たちが「調子に乗り」だしたら、ただちに距離を置く。

 キリスト教は伝わって500年たつが、同じころに布教を受けた多くの国々が「キリスト教国」になってしまったのに対し、日本はずっと1%前後の受け入れ度を維持している。

 

 

 キリスト教に近い浄土系は一時大きく広がったが、「神の手」ならぬ「仏のブレーキ」がかかった結果、仏の一種として受け入れられた。

 これら伝統宗教に対し、日本社会は宗門人別帳や葬式仏教として利用価値がある範囲で、存続を認めてきた。

 

 利用価値があるなら受け入れよう。

 クリスマスやハロウィンは楽しい、ただそれだけでよい。

 

 否定はしない、だが「調子に乗るな」。

 神や仏に伝えるべきは、要するにそのひとことでじゅうぶんだ、と気づいた民族。

 

 それがわれわれ日本人なのではないかな。

 そんなふうに定義してみたが、どうだろう。

 

 

 中道なんとかいう政党ができた。

 立憲民主党が公明党と組んで立ち上げたらしいが、中道を名乗る以上、党内のリベラルを切ったのか?

 

 と思いきや、もちろんそんなことはなく、リベラル政党であることは周知の立憲からほとんどの議員が合流した。

 いっぽう自民党と組んでいた公明党が中道かといえば、私は「宗教だ」と思う。

 

 いずれにしろ、支持者はおおむね左派であることが類推される。

 つまり彼らは今回の選挙を、中道とはリベラルだ、という新たなラベリングで戦おうとしているとみてよさそうだ。

 

 私は保守でもリベラルでもないことを自任して生きてきた。

 そもそも政治参加しないという意味も含むが、事実、右でも左でもないのだから、政治的には中道だろう。

 

 それが突然、おまえは中道ではない、と言われた気分になった。

 またリベラルが言葉を軽んじはじめたな、と思ってげんなりした。

 

 

 かつて彼らが「言葉狩り」に汲々とした時代を、私は知っている。

 ものを書くことをもっぱらとしている私にとって、言葉を狩られることには本能的な拒否反応を示す。

 

 とくに創作の分野において、あらゆる言葉は使えないより使えたほうが良い。

 幼い創作者の言葉尻をつかまえて、悪い言葉だ、差別的だ、使ってはならないと「禁止」する人々のおかげで、私はこういう性格になった。

 

 もちろんそのなかには必要な指導もあり、程度問題ではあるのだが、ヒステリックな現場はしばしば「やりすぎ」る。

 「狩る」となったら、どこまでも狩るのが狂信者だ。

 

 

 やりすぎた狂信者の組織といえば、中世のキリスト教がわかりやすい。

 末端が人間を奴隷のようにあつかっても、当時としては正しかった。

 

 いや、当時としてすら正しくはなかったが、結果としてキリスト教圏が広がる役に立つなら、暗黙に了解された。

 さまざまな不幸も、キリストという正解にたどり着けたのだから、目をつむりましょうと。

 

 現在においてすら、ヴァチカンは当時を否定しない──いや、できない。

 現に南北アメリカがキリスト教圏になっている、この事実を否定はできないからだ。

 

 もちろん個別の悲惨な案件に「遺憾の意」くらいは表明する。

 それでもキリストは正しいのだから、「多少の被害」は受け入れなければならない──そういう「宗教的」態度こそが、なにより恐ろしい。

 

 

 このような「信念」の群れに対し、私は強い疑義をおぼえる。

 自分たちが正しいので従属しろという強烈な欲求が、いよいよ私の住む「中道」まで侵食してきたかと思うと恐ろしい。

 

 べつに公明党の「教義」を否定するつもりはないのだが、リベラルが宗教と手を組んだかと思うと、なにやら肌寒いものを感じる。

 冷静に考えてほしいが、彼らは自分たちこそが「中道」だ、と言い張っているのだ。

 

 たぶん彼らは、つぎに政治に参加しようとしない意識低い系の私のような中道(どちらにもつかない)を、「中道ではない」と排斥しはじめるにちがいない。

 左派が中心となって構築された組織が、まっさきに取り組むのが仲間とそれ以外の峻別と排除であったことは、このブログでもくりかえし述べている。

 

 おなじ左派の共産党をみるとよくわかるが、彼らは「異質な仲間」を排除して、「組織を純化」しなければならないという構造のもとに動く。

 もちろん右も同様の傾向はあるのだが、そういう狂信的な人々と距離を置くことが、すなわち中道なのではないか。

 

 私は右でも左でもないし、ましてや「活動家」とは最大の距離を置く。

 どちらにも偏らない人々のための言葉「中道」が、突然、活動的な左派によって盗まれてしまった……。

 

 

 選挙などで「国民」や「人類」を代表しているかのように連呼する人々には、たいがいうんざりしている。

 勝手に代表づらすんじゃねえよ、それはおまえとおまえの仲間たちだけの意見だろ、と。

 

 まあ彼ら自身、国民であり人類である点においては事実なので、かならずしもウソはついていないのかもしれない。

 勝手に代表されるのはあれだが、もう慣れた。

 

 が、自分たちこそ中道だという宣言については、どうかと思う。

 中道とは、結果から評価されるものであって、自称するようなものではないからだ。

 

 自分たちが正義だ、自分たちこそ中道だ、反対者は全員それ以外だ。

 そう決めつけるやり方は、いつもの彼らの面目躍如とも言えるが……。

 

 

 戦前のやりすぎた右派は、敗戦という決定的理由もあり、原形をとどめないレベルで解体された。

 それが、なんとか受け入れ可能な形で再編されるまで、何十年もかかった。

 

 いっぽう戦後の左派は、まだそれほど痛めつけられてはいないようだ。

 リベラルの凋落という形で相応の懲罰を受けつつある気はするが、あいかわらずやり方は気に入らない。

 

 くだらない政党名が多いので、そのひとつと切り捨ててしかるべきだが、よりによっておまえらが名乗るかよ、と思ったので書いておく。

 もちろん私は、選挙には行かない。

 

 中国がまたぞろレアアースの輸出に制限をかけている。

 まず結論から、これは「自滅行為」に近い。

 

 あくまで私見だが、そうすると決めた「政治」に対して、「現場」は反対のはずだ。

 すくなくともモノを売りたいと思っている現場の当事者は、自分の利益が削られることを、こころよくは思わない。

 

 いっぽう、この輸出制限に対して、日本は高性能フォトレジストの輸出をかなり絞っている──という噂がある。

 ただし日本政府はこの措置を公に宣言せず、「非公式・企業主導」の形で実行した、という記事を読んだ。

 

 直接的な外交衝突を回避する戦略だが、中国の半導体産業発展を抑制するための意図的な動きとも思われる。

 相手がカードを切るなら、こちらもそうするだけ、という視点から評価することは可能だろう。

 

 

 さて、しかし私はコトの真偽も含めて、このような態度は「正しくない」と思っている。

 だれに対してか? 実需だ。

 

 欲しいと思う人々には、できるだけ売ったほうがよい。

 それを「売らない」という態度を示すだけで、ビジネスには悪影響が出る。

 

 そのような態度は、おしなべて「信用を毀損」する。

 相手が規制してくる以上、こちらも対応せざるをえない、という議論はつねに現場の犠牲のうえに成り立つ。

 

 

 中国がレアアースを絞るなら、日本にはいくらでも切れるカードがある。

 そう主張したい気持ちは、もちろんわかる。

 

 たぶん相手も同じだろうが、日本と中国では大きく異なる部分がある。

 国の基盤は経済であり、それを支えているのは「民間企業」であることに、どれだけ敬意を示せるかだ。

 

 残念ながら「大きい国」に、民間人の声は届きづらい。

 とくに中国は、そのような声を圧殺する道を選んだ。

 

 

 いっぽう日本という国は、ほぼ民間企業により成り立っている。

 政治家もそれを理解しているから、できるだけ民間を「邪魔しない」方向で動く。

 

 言い換えれば、国営企業が幅を利かせる中国とは、同じ舞台で戦えない。

 国が莫大な補助金を与えている中国とは対等な競争ができないと、EUなどもご立腹している。

 

 いずれ「現場」の人間は、規制に反対する。

 イコール、みずからの「信用」の毀損だからだ。

 

 現場の損失は、とりもなおさず国家の「損失」につながることを、理解すべき人々が理解できているか。

 私の浅薄な想像力の範囲で言えば、「注文が勝手にキャンセルされる」界隈と取引しようとは思わない。

 

 だから、この手のカードは切らないほうがよい。

 ゆえに私は、これを「自滅行為」と呼ぶ。

 

 

 日本企業の強みは、注文に対して確実に応じることだと思う。

 いや世界中の企業が、正確な契約履行を目指している。

 

 それができるから、注文がくる。できなければ、注文が減る。

 信頼できない相手とは取引しなくていいように、代替案を模索する。

 

 日本企業の市場シェアは、とくに製造装置や素材の分野で非常に高い。

 なぜそうなっているのか、よく考えるべきだ。

 

 技術力が高いから?

 べつに否定はしないが、日本人ができることは、たいていの外人にもできる。

 

 世界中の新興国がキャッチアップしていて、同レベルの商品やサービスを提供しはじめている。

 必然的に世界は平準化されているなかで、われわれが担保しなければならないものこそ、信用だ。

 

 注文された商品を、指定された期日に届けること。

 中国政府が切り売りしているこの信用を、日本はできるだけ守ったほうがよい。

 

 

 先述のとおり、ハイテク分野での日本企業のシェアは大きい。

 もちろん研究開発に莫大な投資をしているからだが、それだけではない重大な理由がある。

 

 日本に発注すれば、ほぼ確実に届く。

 そういう「信用を売って」いるのだ。

 

 中国に発注すると、政府が邪魔をして届かないことが、ままある。

 そういう雑音がまぎれこんだ時点で、かなり不利だ。

 

 もちろん価格競争力のあるレアアースを実現したのは国家の影響も大きいので、彼らがそれを利用することにそれなりの正当性はある。

 が、働いているのは現場なのだ。

 

 現場が苦々しく思うような行為は、できるだけ避けたほうがよい。

 日本においても同断、先端技術の輸出制限が必要なら否定はしないが、最低限にすべきだろう。

 

 

 日本もかつて韓国に対して、100枚もあるカードのうち3枚だけ、切ったことがある。

 あのとき韓国が見せた、天地がひっくり返るほどの大騒ぎは、よくおぼえている。

 

 たった3品目で、あの始末だ。

 顛末について長々とは語らないが、たしかに「効果」は否定しない。

 

 だからこそ、使うべきではないと言いたい。

 輸出制限とは、信用を損なう「劇薬」なのだ。

 

 信用はできるだけ守り、育て上げたほうがよい。

 現場がせっかく築いたお宝を、政治家が勝手に売り払うとしたら、まさに自滅行為だ。

 

 そのような態度には当然、世界中が「対抗」する。

 「中国いなくても回るようにサプライチェーン組み替えようぜ」となるわけだ。

 

 それでも「安ければ買う」層が一定数いるので、選択肢としてはありうる。

 が、言い換えれば「永遠の安売り」体制を自ら選ぶことに他ならない。

 

 

 世界に誇る日本の技術力──などと言い条、他国がキャッチアップしようとすれば、わりと簡単にできると私は思っている。

 大事なのは、それをあえて「やる必要がない」と感じさせることだ。

 

 わざわざコストをかけて、日本のシェアを脅かすような開発をする必要がない。

 なぜなら日本は、注文すれば届けてくれるから。

 

 そういう「信用」によって、現在の地位を保っている部分は大きい。

 その大事な信用を切り売りする行為は、ほんとうに愚劣だと思う。

 

 世界中の政治家に、控えおろう、と言いたい。

 おまえらなんもしてねえだろ、まじめに働いてる人間の上前をはねる以外──と感じさせてしまうような政治家は、いらない。

 

 

 「規制」とは、相手を殴る手で、自分のサプライヤーとしてのブランドをも殴ることだ。

 信頼を築くには長い時間がかかるが、破壊するのは一瞬。

 

 ほんとうに守るべきは「届く」という評判である。

 日本企業が強いのは、技術そのものよりも、長期契約、品質の再現性、納期遵守──要するに「届く」という評判の積み上げなのだ。

 

 日本の素材企業がEUVフォトレジストのような領域で重要プレイヤーであることは、広く報じられている。

 政府がその「カードを切った気」に、させてはならない。

 

 半導体もレアアースも、相手国がカードを切るたびに「じゃあ自前化するか」が加速する。

 そして自前化には、巨額の保険料がかかる。

 

 

 最後に、私が思う「信用」の本質を明確にしておこう。

 道徳でも愛国でもない、それは「予見可能性」だ。

 

 「日本を本気で怒らせたら世界が止まる」なんてオドシは、必要ない。

 世界が勝手にそう思いつづけるように、きょうも淡々と「届く国」であるべきだ。

 

 もちろん輸出制限を完全に放棄しろと言っているわけではない。

 輸出を止めるなら止めるで、ルールと手続きを見えるようにすべきだ。

 

 それが見えないと、相手は「保険料(自前化)」を払ってでも逃げる。

 「トランプ《切り札》」は、切れば切るほどすり減るのだ。

 

 相手が保険料を払う気をなくす程度に、こちらが予見可能でありつづけること。

 それが結果として、いちばん安く、いちばん長持ちする国益になるはずだ。

 

 高市総理が議会を解散するらしい。

 なんか最近選挙ばっかやってんな……と、ヘッドラインを流し見ながら、げんなりしている。

 

 選挙ぎらいの私にとって、いやな時代だ。

 それでも結果が出たいくつかの事象について、語っておくことは無為ではあるまい。

 

 2025/12/14 伊東市長選:学歴(「東洋大卒」表記→本人が「除籍」と認めた問題)などで失職した前市長・田久保眞紀が落選、新人の杉本憲也が当選(1万3522票 vs 4131票)。

 2026/01/12 前橋市長選:元職員の既婚男性との“ホテル密会”問題で辞職した前市長・小川晶(43)が出直し選で再選(投票率47.32%)。

 

 国政がどうなるかは知らないが、地方で出たこれらの結果について、分析しておく。

 奇しくも女性市長たちがやらかした顛末だ。

 

 

 前橋と伊東の市長選を見て、「不倫はOKで詐称はNG」という図式で語る人がいる。

 気持ちはわかるが、その整理はたぶんズレている。

 

 不倫、詐称。

 いずれも「現在の実務」に対しては、なんの影響もない。

 

 ぶっちゃけ両方とも「どうでもいい」……とまで言うと語弊があるが、罪のレベルでいえばかなり低いほうだ。

 その結果が両極端だったのは、示唆的である。

 

 有権者が選挙で裁いているのは、道徳の点数というより「市政の運転」だった。

 実務に直結するのはスキャンダルそのものではなく、スキャンダル後にどうふるまうかだった。

 

 

 前橋は、わりと速やかに対処した──2025年9月24日初報、選挙日(投開票):2026年1月12日。

 伊東は、ずるずるとぶざまに対応した──2025年6月25日(市議会で学歴詐称疑惑が指摘された、という報道)発覚、選挙日(投開票):2025年12月14日。

 

 期間的には2か月程度の差で、大差ないように見えるが、内容の濃さは段違いだ。

 伊東は火種から問題化、事実関係の公表まで、すべての段階で火に油を注ぎつづけた。

 

 いっぽう前橋は、男女関係の否認という「あやしげ」な弁明はともかく、それ以外の対応はわりと速やかだったように見える。

 とくに議会から解散を突きつけられるのではなく、自分から解散したことはかなり評価に値する。

 

 だから、前橋は「割り切られ」、伊東は「拒絶された」。

 有権者がきらうのは「罪」ではなく「事故処理不能」だった。

 

 「不倫か詐称か」ではない。

 「対応がマシか、致命的か」なのだ。

 

 

 政治におけるスキャンダルは、交通事故みたいなものだと思っている。

 起きてしまった以上、理想論に意味はない、大事なのは「その後」だ。

 

 「事故を認める」「事実関係を開示する」「迷惑をかけた相手に頭を下げる」そして、必要なら「席を外す」(辞職)。

 この「事故処理」の一連が早いか遅いか。

 

 再挑戦するなら、選挙という手続きで改めて信任を取りに行く。

 その手続きを汚さないか汚すか、これが政治家の能力そのものになる。

 

 

 下半身の問題は「私徳の領域として割り切る」というカテゴリに放り込みやすかった可能性もある。

 前橋の件を肯定するつもりはさらさらないが、それでも本人が辞職という形でいったん区切りをつけ、「改めて選挙で問う」ステージに移行した点は評価できる。

 

 一方で伊東は、見ていて吐き気がする程度には「ぶざま」だった。

 あの女なんだよ、と全国民が突っ込んでいたのではあるまいか。

 

 論点が「学歴」から「説明」へ、「説明」から「二転三転」へ、「二転三転」から「市政の停滞と混乱」へと、ずるずると延命していった。

 これはスキャンダルの中身というより、処理の失敗が追加損害を生んだ典型例だ。

 

 コストも時間も政治資本も燃える。

 もはや道徳の話ではなく、自治体経営の話になってしまった。

 

 

 もし伊東が「速やかに」やっていたら?

 事実関係を認め、辞職して出直し選挙。

 

 結果、現在の伊東市長は、もしかしたら田久保氏だったかもしれない。

 もちろん保証はないが、「ワンチャンあった」と思う。

 

 ところが、そうならなかった。

 有権者が拒絶したのは「詐称」そのもの以上に、詐称をめぐる「運用のまずさ」だった。

 

 信用に穴が開くのは一瞬だが、穴を広げるのはその後の態度である。

 「政治家の最大の問題」は、スキャンダルではなくリカバリなのだ。

 

 

 もちろん、スキャンダルを起こした政治家の再起を擁護したいわけではない。

 ただ「対応」が明暗を分けるという、厳然とした事実について語っている。

 

 そもそも彼らに必要なのは「清廉潔白」キャラではない。

 自分の「弱さ」を認め、それでも訴えるものがあるかどうかだ。

 

 早く認める(引き延ばさない)

 事実を揃える(説明の整合性を崩さない)

 手続きを汚さない(議会・行政・選挙を私物化しない)

 余計な損害を増やさない(混乱とコストを最小化する)

 

 以上4点、うちのチャッピーがまとめてくれた危機管理の要諦は、かなり正しい。

 全部完璧にこなすのは困難だろうが、全部まちがうと伊東のようになる。

 

 

 あらためて、不倫も詐称もたいした話ではない──と言い切るのは乱暴だとしても、票を決める決定打は「その後の対応」に尽きる。

 今回、それを見せつけられた。

 

 という結論で終われば凡百だが、私はその先を懸念する。

 このような図式を利用した「ズルい政治家」の出現は、当然に予測されるからだ。

 

 事実、「禊を終えた」政治家が悪事を行なわないなどと、だれも信じてはいない。

 このレベルの有権者は、「リカバリだけ上手い政治家」を量産しうる。

 

 そもそも政治家自身、見つかったのは運が悪かっただけで、それを悪事だと思っていない可能性すらある。

 「騒がれたから対処する」という、ただのルーティンワークが政治のリアルなのでは?

 

 伊東では、それすらできない素人が落とされただけ。

 政界の正解とは、邪悪なる万魔殿のルールなのでは?

 

 つまるところ被選挙人に求められているのは、「為政者として能力」よりもその「イメージの危機管理」能力。

 という結論を悟って生きている私は、一度も投票に行ったことがない。

 

 先日、お焚き上げの準備から実施まで参加してきた。

 地域の「青年団」のひとりとして、協力するのもやぶさかではない。

 

 ドイツの社会学者テンニースが提唱した概念でいえば、ゲマインシャフトへの参加ということになる。

 堺屋太一は、ゲマインシャフトを共同体組織、ゲゼルシャフトを機能体組織と訳した。

 

 共同体組織は、構成員一人ひとりのために存在する組織。

 最小単位でとらえれば血縁組織があり、それ以外でも身近なところでは、町内会や自治会、PTA、教会・寺院等宗教団体、学校のクラブ活動、出身校のOB組織、ゴルフ会員組織や茶道教室などスポーツや文化のサークル等がある。

 

 代表的なゲゼルシャフトは営利法人、つまり通常の企業のこと。

 すべての組織を、これは共同体、これは機能体というように白黒つけてしまうことは正しくないと思うが、思考のフレームとしては使える。

 

 宗教団体などでは、多分にゲゼルシャフト化しているものも多く見受けられる。

 考えてみれば、私は宗教行為に参加してきたのだ。

 

 

 お焚き上げ。

 お札やお守りなど、粗末に扱えない品物に感謝の気持ちを込めて供養し、火で焼いて「天に還す」こと。

 

 天とは?

 神だろうか?

 

 神がどこで誕生したのかは、わからない。

 人類のだれかが、そうとう初期に思いついて利用しはじめたのだとは思う。

 

 個人的には3万年くらいはさかのぼれる気がするが、遺伝子的には20万年でもおかしくはない。

 当時の人類の気持ちは忖度できる……が、証拠はない。

 

 明確に語ることのできる証拠として、宗教施設らしい建物の痕跡が、トルコなどに発見されている。

 ただ、そこが神殿だったのか市場だったのか、あるいはその両方だったのか、証明することはむずかしい。

 

 いちばんわかりやすいのは、人類が文字を使いはじめて以降の「歴史」だろう。

 とくに神話のなかで使われているアイデアの数々は、現在にいたるまで利用可能な共有財産として利用されつづけている。

 

 

 さて、それでは現在、人類にもっとも影響力を及ぼしている、いわゆる「神」は、どこからやってきたのだろうか。

 キリスト教、イスラームの神は同じ「唯一神」であり、そのアイデアはユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教からやってきた。

 

 ではユダヤ教は、どこからそのアイデアをもってきたか。

 稀代の「選民」であるユダヤ人は、アイデアの多くを既存の文明が残した豊穣な思想のなかから引っ張ってきて、『旧約聖書』という一大叙事詩を築き上げた。

 

 ここに現れる「神のかたち」の源泉は、どこにあるか。

 おそらくその原型は、エジプトの王《ファラオ》たちに代々、受け継がれてきたものだろうと思う。

 

 

 まず「創世記」で、神は天と地をつくった。

 この語り口そのものが、エジプトの王たちの語り口に酷似している。

 

 はじめに言葉ありき──神は言葉によって、多くのものを創り出した。

 語れば実現する、これは当時、「王のふるまい」にほかならなかった。

 

 ピラミッドを作れ、と言ったら作られる。

 運河を掘れ、と言えば掘られる。

 

 神とは、すなわち王のことだ。

 だからこそ『旧約』に、ヤコブが「神と取っ組み合」って祝福をぶんどるシーンがあっても、当時としてそれほど奇異ではなかった。

 

 いっぽう汎神論的な日本人である私にとっては、超越的な神とやらがシスティナ礼拝堂の天井に描かれている時点で、ある種の違和感をおぼえている。

 しかしそこに、シュメールやアッシリアの系譜を見るなら、とたんに理解しやすくなる。

 

 

 それは超越的な存在ではなく、実体でもあった。

 当時のユダヤ人にとって伝えやすい最適解が、エジプト、バビロン、モアブといった諸国家の体系を利用することだった。

 

 とくに支配的な権力であったエジプトの築いたフォーマットに乗っかっておくことは、きわめて都合がよかっただろう。

 じっさいこれは、中華の「周辺文明」だった日本人にもわかりやすいフレームだ。

 

 強大な文明圏は、まわりの人々の発想、体系に強い影響を及ぼす。

 日本人など、いまだに非効率的な「漢字」という文化を使わされつづけている。

 

 

 同様にユダヤ人は、エジプトで発想されたファラオの言葉を旧約聖書に織り込んだ。

 とくに第18王朝で採用された(ただし一代限りで終わった)「唯一神」というアイデアが、あまりにも秀逸だったので、喜んで取り込んだうえで自分たちだけの「神のかたち」とした。

 

 もちろんアイデアの嚆矢がエジプトと断言はできない。

 が、利用可能なリソースの膨大さで古代エジプトは一頭地を抜いている。

 

 その偉大な遺産《ソフト》を、目覚めたばかりの民族《ハード》に適用した。

 エヌマ・エリシュに語られるような、ティアマトやマルドゥクといった神々の血なまぐさい物語にならなかったのは、神が「唯一」のものだったからだ。

 

 唯一神にとっては、他の神や暗黒は敵対するものではなく、支配するものだった。

 ユダヤ人にとって、自分たちの神こそが唯一であると信じることで、精神的に優位に立つ助けにもなっただろう。

 

 そしてその神はユダヤ人に、約束の地を下げ渡し、産み、増えて、地を支配しろと命じた。

 当時の自分たち「民族に発破をかけた」書物、それが「創世記」であった。

 

 

 と、燃え上がる炎を眺めながら考えていた。

 竹製のお焚き上げの「祭壇」には、各家庭から集まったお札やお守りなどが、たくさん詰め込まれている。

 

 神のフォーマットだの文明圏だの、七面倒な分析を要することもなく、薄い紙片の山として現前するものを「天に還す」こと。

 『旧約』でいえば「コヘレトの言葉」、すべては煙《ハベル》だ。

 

 ひとえに風の前の塵に同じ、という道理は仏教にも相通じる。

 ──その灰が、ばらばらと降ってきて逃げ惑う観衆たち。

 

 廃校になった小学校の校庭で、消防車も待機しているから、事故の可能性は限りなく低い。

 そんなわれわれの「責任」のもとに、この宗教儀式は執り行われている。

 

 神さま仏さまを天に還すのは、たいへんけっこうだ。

 忘れてならないのは、その行為や残渣、火や灰の責任が現場にあること。

 

 結局、この日の唯一神は、天にいるだれかではなく、祭壇を立て、掘った穴に灰を埋めるまで仕事をした、われわれ青年団だったのではないか。

 そう、これは日本の神さま仏さま、そして俺さまの物語だったのだ。