正月から暇だったので、「自由」と「平等」について考えてみることにした。

 情報の濁流に埋め尽くされている昨今、よほどの暇人でもなければ考えもしない話題ではあるまいか。

 

 パズルゲームと同じような「暇つぶし」にちょうどいい。

 よろしければあなたも、いっしょに暇をつぶしましょう。

 

 

 まずは定義から。

 現在「自由」を求めるのが右、「平等」を求めるのが左、ということになっている。

 

 現実にどうかはともかく、中国などは平等な社会を目指し、左を自任する。

 中国で民主化とか自由を口にしたら、右としてあつかわれる。

 

 日本では「革新」勢力だが、すでに政権をとっている「解放軍」にとっては、これ以上なにも変える必要はない。

 結局独裁のほうがマシなんじゃないのとでも言わんばかり、自由の国アメリカさえ国民への束縛を開始している。

 

 

 さて、そもそも左右という概念が生まれたのは、フランス革命期だった。

 議会における議席配置で、議長側から右側に旧体制、左側に改革派が陣取った。

 

 当時としては新体制でも、いずれは旧体制へと代わる。

 そうしてところてんのように、かつての左が右へと押し出されていき、最終的にぶつかったのが「自由」と「平等」だった、と私は解釈している。

 

 急進的な平等のため、他者の自由な経済活動や財産権まで否定し、ろくな裁判もなく処刑するという恐怖政治に及んだ。

 自由と平等は、究極的には相いれない、という結論でよいと思う。

 

 

 自由のない社会については、20世紀、私有財産を否定する平等(を建前とした)国家が証明した。

 右手の自由と、左手の平等……ちなみに人類は、おおむね右利きである。

 

 もちろん左翼も、みずから「自由を抑圧する」などとは言わない。

 彼らの看板にも「自由」と「平等」の実現は書かれている。

 

 彼らが問題視したのは、とくに金持ちが「金儲けをする自由」だった。

 階級闘争の過程でそれらは全否定され、すべての私有財産が蒸発した。

 

 つぎに刈られた自由は報道で、現在にいたるまで、報道の自由度ランキング下位を独占する情報統制が、ピッチリといきわたっている。

 彼らにとっては、体制をゆるがすすべての自由は、不倶戴天の敵となる。

 

 

 マルクス的には、歴史の進歩とは「自由の実現」である、はずだった。

 が、彼らは進歩の途中経過として、自由を制約してでも平等を目指すことにした。

 

 より正確にいえば、彼らの考える自由が、現在われわれの考える自由とは大きく異なっていた。

 ヘーゲルの定義によれば、自分ではなくみんなが自由であるために行動してこそ、人は真に自由である。

 

 マルクスの自由はさらに奇妙で、ヘーゲルの自由を受け継ぎつつ、資本をすべて共有としたうえで能力に応じて働く共同体、つまり社会性昆虫のように生きることが自由だと定義した。

 「ひとりひとりの自由が、すべての人々の自由の条件となる」と、あいかわらずの言い回しで煙に巻いている。

 

 

 「右=自由、左=平等」という図は、わかりやすいが、あまり信用しないほうがいい。

 たとえば「平等は目的ではなく手段」「自由は手段ではなく目的」と考えたほうが、すこししっくりくる。

 

 右だって、治安や安全保障を理由に自由を削ることはある。

 左だって、体制に無関係な表現の自由を擁護することはある。

 

 と、つれづれなるままに書きつづるとキリがなくエセ論文になりそうなので、このくらいにしておこう。

 リジェクト待ったなしの駄文を書き散らしていたら、すこし疲れてきた。

 

 まあ正月の暇つぶしとしては上出来だ。

 2026の大発会は大幅高、社会はすでに動きはじめている。

 

 そこにある自由は右手でつかむとして、見果てぬ平等という左手は「添えるだけ」で足りるのか?

 握り返してくるとしたら、それはだれの手か?

 

 AIなんじゃないかな、と勝手に思っている。

 こういう文章を食わせると、あいつけっこう喜ぶからな……。

 

「人間には善良で無力な羊と、それらを食い物にする狼がいる。

 おまえは狼には決してならず、羊を守る牧羊犬となれ!」

 

 ある「英雄」を育てた父親が、息子に伝えたのは、要するにこういうことだ。

 自分がやられたら、その相手を徹底的に叩きのめせ──。

 

 いじめられた子どもに対して、とにかく「やり返せ」と教育した。

 「思い知らせたか?」と息子に問いかける聖職者の父は、タフでなければ生きていけない世界の住人なのだろう。

 

 そのような教育方針のもと、伝説の狙撃手は育まれた。

 この手の男がたくさんいる国と戦争するのは、なかなか骨が折れる。

 

 

 公開当時、戦争映画史上最高の興行収入となった『アメリカン・スナイパー』。

 実在の人物クリス・カイルを主人公に、その自伝をクリント・イーストウッドが映画化した。

 

 イラク戦争という大枠の正否について語るつもりはない。

 個別の事象から、われわれがなにを読み取るかだ。

 

 ──子どもに銃を向けて撃つ必要がある場面。

 爆弾を背負って、仲間の近くに歩み寄っている少年を、撃つか。

 

 もちろん殺す。

 仔殺し、というテーマにもつながるが、生物である以上「殺すのは当然」なのだ。

 

 きれいごとを宣ったところで意味がない。

 戦場で殺し合いをしているのだから、殺すことは義務である。

 

 

 無防備な女や子どもを遠くからスコープ越しに殺しまくっていれば、PTSDのひとつやふたつ、背負うこともあるだろう。

 そうして自分の子どもを看護師が助けずに放置している、という主人公の妄想にもつながっていく。

 

 だれが敵で、だれが味方なのか?

 主人公の狙撃手に、それを判断させるわけにはいかない。

 

 だから命令する。

 殺せと。

 

 

 アメリカ合衆国が主体となり、2003年から開始されたイラク戦争は、多国籍軍と旧イラク国軍などとのあいだに展開された。

 お互い多くの戦死者を出したわけだが、一般的リザルトによると、アメリカは自軍の被害の数倍の敵兵を殺すことに成功している。

 

 それを「勝利」と呼びたいなら、好きにすればいい。

 ただ、敗者の犠牲の上に、はじめて星条旗がひるがえる姿には、強い皮肉をおぼえる。

 

 そうして都合のいい「英雄伝説」をでっちあげる。

 その陰には、忘却される「歴史の敗者」がいる。

 

 敵とはいえ160人に及ぶ人間を、みずから引き金を引くことで射殺した主人公。

 たくさん殺した人間が英雄になる──ナポレオンの昔から用いられてきた金言だ。

 

 

 やられたからやり返している、という理屈でくくられているが、ほんとうにそうか?

 アメリカ映画なので、主人公側が正しく相手のほうがおかしい、という演出にならざるをえないことは理解しているが、その狭窄の程度はどうか。

 

 相手が自分を攻撃した理由については、ほとんど無視している。

 現実問題、相手にも正義があるというのに。

 

 結局、戦争にまでスケールアップさせてしまった時点で、あまり同意できない。

 そんなに殺し合いがしたければ、人を殺せと命じる政治家や将軍自身がリングに立って、同じ職掌の相手と殴り合えばいい、と言いたくもなる。

 

 

 プーチン氏が、ウクライナ戦争の責任はすべてヨーロッパにある、的なことをよく言っている。

 全世界からのツッコミについては、書くまでもない。

 

 あまりにも意識的にボケすぎて、もしかして当人も半分くらい信じているのではないか? と若干不安になるレベルだが、まあ彼がどう考えるかは彼の自由だ。

 願わくは、ゼレンスキー氏と同じリングに立って、殴り合ってほしい。

 

 タフなプーチン氏なら、コメディアンあがりのゼレンスキー氏など、黄金の左一発で倒せるだろう。

 いずれにしろ、そんなに殺し合いがしたいなら、命じている人間自身が戦ってもらいたいと切に願う。

 

 

 ここまで書いたものを俯瞰して、戦争否定のブログのひとつ、とカテゴライズされることが予想される。

 申し訳ないが、冷水を浴びせておく必要はあるだろう。

 

 私は「戦」そのものを否定しているわけではない。

 しょせん裸のサルなので、ケモノのように殺し合いをするのが分相応、と思っている。

 

 戦国時代モノもきらいではないし、テストステロンの塊が言葉のいらない世界で戦うのを眺める、という娯楽まで否定する者は少ないだろう。

 そういうのが得意だったり、好きな者どもが集まってファイトクラブをやっている分には、まったく問題ない。

 

 

 一線を越えて問題なのは、「戦いたくない人間」まで動員することだ。

 戦争モノのドキュメンタリーで、大日本帝国海軍がおもしろいアンケートをとっていた。

 

 特攻隊に行きたいかどうかを問いかける三択。

 「熱烈望」「熱望」「志望」……おい、ふざけんなよ、「辞退」がないぞ。

 

 死ぬ必然性のない人間に死ねと命じるような体制は、おしなべて誤っている。

 戦争をしたい人間だけが集まって、戦争ごっこをやっていればいいのに。

 

 そのための洗脳教育まで遡って分析すると、話が長くなる。

 ともかく戦争をしたい、国家という枠組みを利用したい、宗教を広めたい、という偏った人々の存在によって左右されてきたのが「歴史」だった。

 

 ただ残念ながら、彼らも利用可能なリソースを活用しているだけなので、全否定はできない。

 あとはただ、距離をとって判断してくれる「神の視点」に期待するのみだ。

 

 

 たくさん人を殺せば殺すほど英雄。

 そんな妄想からは、いいかげん卒業してもらいたい。

 

 しょせん人殺し、という表現は好きではないが、言いたくもなる。

 グラディエーターの誇りと、集団戦の混沌は似て非なるものだ。

 

 納得ずくで殺し合いをしている人々の自由を、否定はしない。

 ただ「殺さずに済ませる回路」をつくれる人間こそ英雄だ、という思いは共有したい。

 

 ポーク・バレルという言葉がある。

 政治家が自分の選挙区や支持基盤のために、公共事業や補助金などを割り当てる「利益誘導型のバラマキ政策・予算」を指す言葉らしい。

 

 どこぞの農水大臣のやっていることは、かなりそれに近いように見える。

 猫の目農政とか、おこめ券とか、よくそんな発想が出てくるなと感心する。

 

 身内のために便宜をはかる、という動機は全人類に共通であることは理解している。

 すべての王家から、ご近所の老舗まで、だいたい説明可能なロジックではある。

 

 

 いっぽう近親憎悪とか同族嫌悪という言葉がある。

 かわいさ余って憎さ百倍と表現されることもあるが、ただの迷惑な肉親という程度の意味合いのほうが実態に即しているような気はする。

 

 忌まわしい親族というのは事実いて、毒親とか犯罪者の親戚にまつわるエピソードはあまたある。

 親族からマイナスの影響を受ける蓋然性は、それなりに高い。

 

 最近の事件でいえば、宗教に献金しまくって家庭を崩壊させた母親が、元総理を射殺した息子の事件で証言していた。

 どうやら自分の愚かさを反省しているらしいが、それでも宗教からは離れられないという。

 

 

 それと比べれば、うちの母親はマシだ。

 というか比較するレベルではないのだが、私のように不出来な息子の場合、相乗効果でダメージが増すことがある。

 

 具体的な話をしよう。

 だいぶどうでもいい話なので、読み飛ばしたほうがいい可能性すらあるが、一応記録のために書き残しておく。

 

 

 私はミニマリストなので、必要なもの以外を買わない。

 祖父母の家をもらって一人暮らしをしているが、冷蔵庫内もすっきりしていて、祖母から受け継いだ6ドアの大型冷蔵庫を完全にもてあましている。

 

 すかすかの庫内に必ずあるのが、納豆と卵だ。

 1日1個、それらを消費する食生活をしている。

 

 だいぶアスペ傾向の息子だと、母親も理解はしているはずだ。

 そういう息子への態度には、気をつける必要がある。

 

 

 ある正月の日、母親を含めた家族が何人かやってきた。

 祖父母の墓参りがてら、という話だったような気がする。

 

 私は基本的にかまわない性質なので、訪問者が好きに行動して、勝手に帰るのをただ待つだけだ。

 さて、静かになった後、冷蔵庫内を確認すると、納豆が12個あった。

 

 あまり大事なことではないが、もう一度書く。

 3個組の納豆が4パック、計12個が冷蔵庫内に追加されていた。

 

 すでに1週間分の納豆と卵が冷蔵庫内にあるところに、納豆だけを12個追加していったので、都合20個になる。

 大型冷蔵庫に納豆ばかり……業者か! と思わず突っ込みそうになった。

 

 

 みなさんご理解いただけると思うが、納豆や卵というのは「生鮮食品」に分類される。

 一定の期間内に消費すべきものであり、一般消費者で、そんなものをまとめ買いするバカはいない。

 

 一週間前後で消費できる分だけを買い、なくなったら買ってくる。

 そういうものを「まとめて」買ってきた!

 

 彼女はこの家が大家族ではないことを知っているし、私が1日1パック消費することも知っている。

 冷蔵庫内には1週間分すでにあり、そして納豆には賞味期限がある。

 

 こんなにいらないだろうから、何個か持って帰ろう──。

 そういう選択肢はあったはずなのに、もって帰るのが面倒くさかったのか、思考そのものを放棄していたのか、ともかくそのまま置いて帰った。

 

 

 事実は、ただこれのみだ。

 つまらない話だ──が、その後、私がどうしたかは、たぶんおもしろい。

 

 その後の1週間、まずは自分が買ってきておいた納豆と卵を消費して過ごした。

 日常を淡々と過ごすことをよしとするASD(自閉スペクトラム症)傾向の私は、可能なかぎり変わらない日常を維持したい。

 

 そして1週間後、当然、母親の置いていった納豆だけが12個、残ることになる。

 ただでさえ入荷の少ない年末年始のスーパー、買ってきた時点で賞味期限の近かった納豆は、すでに「おいしく食べられない」状態だ。

 

 もちろん廃棄すべき、それは理解はしている。

 では、いつものように買い出しに出た私は、どうしたか。

 

 いつもの食品をかごに入れ、納豆だけは「家にあるので」買わずに帰った。

 愚かな行為、親が親なら、子も子だよ……。

 

 

 その後2週間弱。

 私は「腐った納豆」を毎日食って過ごした。

 

 賞味期限切れの納豆がどうなるか、多少の興味があったことは認めよう。

 食べ物を捨てたくない、というエコな自分もいる。

 

 べつにケチというわけではないが、まあそう思ってもらってもいい。

 与えられた環境に合わせ、1日1個というルールを守って食べつづけた。

 

 

 賞味期限切れから2~3日は、まあ問題ない。

 1週間たつと、さすがに、ん? となる。

 

 2週間後、もはや納豆と思いたくない物体に変わっている。

 どろどろになった豆らしきゼリーを、吐き気を催しつつ食ったのは……なぜか?

 

 忘れないためだ。

 気持ち悪いと思いながら、毎日、古い納豆を食う日々のなかで、こんな生活をもたらした構造について、この時期、非常に深く考えることができた。

 

 もちろん吐き気を催した責任の半分は、廃棄するなど適切な対応をとらなかった私にある。

 しかし残りの半分は、無考えなおせっかいを押しつけてくる側にある。

 

 適切に行動しない親に、適切に対応しない息子、という組み合わせの実践。

 結果、ただ嫌悪感だけが残った。

 

 

 さて、ここまで日常のあまりにどうでもいい話を読まされて辟易したかもしれないが、一例としてわかりやすいので、るる書き留めた。

 もちろん私も、この一事が「くだらない」ことくらいは理解している。

 

 これだけなら、もちろんたいしたことではない。

 問題はこの母親が、この手のいやがらせをコンスタントに継続してくることだ。

 

 継続は力というか、たとえ小さなダメージでも、蓄積すると大きな怒りに変わる。

 彼女にとっては平常運転で、他者にダメージを与えているつもりはないのだろうが、残念ながらこれがいけない。

 

 上述のような「くだらない」いやがらせを、考えてみれば生まれてからずっと、小刻みに受けつづけている。

 相手が「蓄積するタイプ」の場合、これはかなり危険な行為だ。

 

 

 納豆の件からおよそ半年後だろうか、私の小さな堪忍袋は臨界点に達した。

 やるべきことをやらず、やらなくてもいいことをやるタイプの母親に、「お願いだからもう来ないで」とメッセージを送った。

 

 接点がなければ、いやがらせをされることもない。

 以後、彼女の顔を見ずに済んでいる。

 

 べつに死ぬまで許さないなどと子どもじみたことを言うつもりはないが、とりあえず2~3年は、イライラせずに暮らしたい。

 以前にも何度か実家に帰らない期間はあったので、いつものことといえばいつものことだ。

 

 考えてみれば若いころから、コンスタントに気が合わない人物を遠ざけている。

 相手のためになにかをやろうとするのは勝手だが、相手がどう思うかは相手が決める。

 

 そんなささいなこだわりを積み重ねた果てに、私という人間がいる。

 こんな人間もいるのだと、参考までに。

 

 以前、なんだこいつ、と思った編集者がいる。

 スイッチ2を転売屋から買ったとかなんとか、どうでもいいことで炎上していたタレントに、横からしゃしゃり出て「自分があげたものです」とか絡んでいった。

 

 結局、あげてもいなければ、なんの関係もなかった。

 なんかいろいろ言い訳はしていたが、個人的には、茶化しにやってきたクソ野郎、という印象だけが残った。

 

 正直「キモチワルイ」印象が強すぎて、そもそも彼がどういう人間なのか、掘り下げる気にもならなかった。

 しかしある程度知らないと論評できないので、今回、AIなどに最低限の調べは入れてもらった。

 

 

 どうやらプライバシーの侵害とやらで、光文社を訴えているらしい。

 他人のプライバシーを食い物にしていた人間が、自分がやられる側に転じるや否や、「行き過ぎた不倫報道や私生活の切り売りビジネスに一石を投じ」た、ということのようだ。

 

 よりによって、おまえが言うか。

 直感的な私の印象と、どうやら世間一般の抱いた思いには大差ない。

 

 一部、被害者になることの多い有名人などからは支持を得ていたが、一般人からは「自業自得だろ」という意見がとても多かった。

 そのなかには私同様、くだんの一件で吐き気を催した人々も一定数いたはずだ。

 

 

 週刊誌報道の詳細とか、流れの顛末を詳述する気はないので、一行でまとめよう。

 目くそと鼻くその戦い、だ。

 

 なるほど一般的に、週刊誌ビジネスのプライバシー侵害体質には歯止めが必要だとは思う。

 不倫報道レベルであっても、家族や仕事への実害が出たときには、法的なカウンターを打てるようになるべきだろう。

 

 しかしその旗振り役を「だれがやるか」は、あまりに重要ではないか?

 他人の敷地の火事を炎上させて、こいつクソ野郎だな、というイメージを積極的に焼き付けてきたのは、彼自身だ。

 

 他人を炎上「させる」のは進んでやっていく。

 自分が炎上「させられる」のはお断り。

 

 どの口だよ?

 と突っ込まれるのは、たぶん彼自身、百も承知だと思う。

 

 

 自分がどういう「役割」を演じているか、おそらく彼は理解している。

 読解力や推論力のない人間が、編集者などできるはずがない。

 

 つまり彼は、「わざと」やっている。

 ならば私が判断すべきは、それに付き合うかどうかだけだ。

 

 よろしい、お付き合いしよう。

 彼が投げかけているのは、「クソ野郎が正しいことを言ったら、あんたらどうするの?」だ。

 

 クソ野郎が正しいことを言うことは、残念ながらよくある。

 そのとき社会は、「クソ野郎はクソ野郎として批判しつつ、正論だけは冷静に拾い上げる」という、面倒くさい二段構えに直面する。

 

 今回の訴訟がどこまで認められるかは、司法の仕事だ。

 しかし注意して見るべきは、判決文よりも「クソ野郎が振りかざした正論を、社会がどこまで自分の問題として引き受けられるか」という、人間側の反応のほうだと思う。

 

 

 個人的に、あらゆる行為、いいことも、わるいことも、すべてが返ってくる、という信念は社会構造を維持する上で、とても重要だと考えている。

 人間が「いいことをしよう」とか「わるいことはやめとこう」と考える最大の理由が、この因果応報の理屈だからだ。

 

 かつて炎上系ユーチューバーが、めずらしくいいことを言っていた。

 「被害者面だけはするな」。

 

 自分もエゲツナイことをやってPVを稼いでいて、ある程度の甘い汁を吸った。

 やがて引退したが、世間からの風当たりは強い、自分は被害者だ、と思いたいところだが、ほんとうにそうか。

 

 炎上系の動画配信者は、自戒の念を込めて言い聞かせるべきだ。

 「最初に迷惑行為を配信したのは自分」ということ。

 

 彼らは注目を集め、大方の批判と一部の信者を獲得する。

 それが目的で、会計前の商品を食ったり、醤油さしを嘗めたり、汚した皿をレーンにもどしたりする。

 

 つまり注目されるという代価を受け取る代わりに「たたかれる」ことは、織り込み済みであるべきなのだ。

 もちろん、人格否定や粘着ハラスメントまで許されるわけではない。

 

 だが、不特定多数に向けて配信した以上、不特定多数からの批判や揶揄そのものは、原理的には受け入れざるをえない。

 その範囲において、彼らは「被害者ではない」。

 

 

 程度問題はつねにあるが、配信者は不特定多数に配信したのだから、不特定多数から反応されて当然だ。

 それが彼の期待するものと合致するか否かは、彼ではなく社会が決める。

 

 ブーメランが刺さる、という表現の意味は明白だ。

 「おまえが言うな」とは、そのひと自身の発言の説得力の根幹にかかわる部分なのだ。

 

 過酷な倫理規定をさけんでいた議員が、自分だけはハードルの下をくぐり抜ける。

 許されるはずがない。

 

 自分がやったことが、自分に返ってくる。

 その意味において、彼らは断じて被害者ではない。

 

 

 イジメ業界(?)では常識らしい、金言のようなフレーズがある。

 ──イジメを「忘れる権利」があるのは、イジメられた側だけだ。

 

 つまりイジメた側は、自分のやったことを忘れてはならないのだ。

 なのだが、残念ながらイジメる側は平気で忘れる。

 

 同窓会で会ったとき、過ぎたことだと笑い話に変えるのは勝手だ。

 しかし、忘れてはいけない。

 

 おぼえていなければ、適切な「責任」がとれない。

 記憶にございません、秘書がやりました、なんて下劣な言い訳は断じて許されるべきではない。

 

 イジメられた側が感じた恐怖、苦痛、屈辱、そのすべての責任をとって、はじめてバランスがとれる。

 イジメた側は残りの人生、いつ「自分がやったことが返ってくるか」を覚悟して生きるべきだ。

 

 ──ふるえて眠れ、それがイジメた側の責任である。

 という因果応報の理屈は、とても理解しやすい。

 

 

 とにかく覚えていなければ、話にならない。

 もし忘れているとしたら、何度でも思い出させてやる必要があると思う。

 

 あなたは、どう生きてきたか。

 その結果を、受け入れてください。

 

 私は女好きなので(語弊)、よく女性ボーカルの曲を聴く。

 歌は世につれ、世は歌につれ、その時々の「文化」があらわれていて、とてもおもしろい。

 

 カラオケでも、よく歌う。

 オクターブを下げて音域ぴったりの曲が多いからだが、ある種の「勉強」もある。

 

 で、気づいたのは、女性アイドルが「僕」という一人称の曲を歌うことや、男性演歌歌手が「女」の道を歌うのが、正直あまり好きではないことだ。

 自分が女性目線のラブソングを歌うことは、まさにその構図に当てはまる。

 

 なるほど、そういうわけか。

 私は「勉強」が好きなのだ。

 

 AIと話し合っていても、必ず「批判」や「反対意見」を募集する。

 論破したいからという浅薄な感情もあるかもしれないが、さまざまな立場や感情は勉強しておくに越したことはない。

 

 もちろんすべてを受け入れるわけではない。

 イライラしながら聴いてる女子トークはままあるが、それじたいが「いい勉強」だ。

 

 

 報道番組を見ていて、ジェンダー・ギャップの話題になった。

 フェミニストの大好きな「言葉狩り」の文脈で、男のアナウンサーが、「じゃ僕らも女子アナって言ったら失礼なんですかね」と、なかば冗談ぽく隣の女子アナに振っていた。

 

 すると女子アナ、「そうですね、男子アナとは言わないし、女子というのは女の子みたいな感じで、見下している感じがありますね」などと乗っかる。

 しかしさすがに、どこかで「まあ女子くらいはいいんじゃないですか」と拾ってまとめるのかと思ったが、そのまま話題を変えていた。

 

 空気を読んだつもりで読みすぎただけなのか、それとも心からそう思っているのか。

 だとしたらヤバイと思うが、影響力のある立場にいる人間が冗談半分の問いかけに乗って「女子もダメ」に寄せてしまうのは、正直バランス感覚を疑う。

 

 じゃあ女子会もダメだろ、女子会はババアだってやるんだぞ。

 いくらなんでも「女子」まで狩るのはやりすぎだろ?

 

 もちろん「自分たちで女子会を名乗る」のと、「局の内外のだれかが女子アナとラベリングする」のはちがう、という理屈はわかる。

 それでも言葉を根こそぎ狩りに行く態度には、賛同できない。

 

 バランス感覚をもったアナウンサーなら、そんな暴論には乗るべきではない。

 もし彼女がノリノリでそう思っているのだとしたら、それこそが昨今のリベラル衰退の遠因だと思う。

 

 

 意識高い系だと言いたいのか知らないが、ある「女優」が「俳優」と自称していたりする。

 なぜ女優ではダメなのか?

 

 女優といえばセクシー女優だからだろうか?

 職業差別をしているのは、いったいどちらだろう?

 

「昔、平賀源内という男が公儀に願い出て、こういうものがないと悪所が盛るから、ぜひともつくるべきだと申し上げてできたのが、この吉原というものでね。

 最近は、吉原はダメだとか、こういうものはよくないってね、そんなこと言ったってしょうがないんですよ、そういうもんなんですからね」

 

 いつものように落語を聴いていて、名人・志ん生の名調子でそう言われた。

 まったくだな、と思った。

 

 それが人間というものであって、その人間の本性を否定する方向に進む理想主義者は、昔のヤバイ宗教と変わらない。

 フェミニズムをめぐる議論のなかで、かなり大きな比重を占めているのがこの「性産業に対する偏見」だと感じている。

 

 

 私は女の人が大好きだし、社会の枢要を占めてもらいたいと思っている。

 彼女らに食べさせてもらいながら、好きな物語を書きつづけていられれば幸せだ。

 

 男女機会均等や同一労働同一賃金は理解できる。

 女性が働きやすいように、という各論に対しては、ほとんど賛成だ。

 

 しかし性的二型は進化的な時間スケールの話であり、それに紐づく社会的な役割もまた、長い時間をかけて成り立ってきた。

 その「役割」否定、極端な男女の均質化については、あきらかにまちがっている。

 

 われわれは「おなじ人間」ではなく、それぞれが「異なる人間」だ。

 だからこそ、言葉や性を管理しようとする方向ではなく、「女が女であること」「男が男であること」を前提にしつつ、権限も責任も分け合っていく方向に未来を見たい。

 

 「女性」としての担当範囲を拡張し、「男性」の職権を大幅に譲る。

 それは彼女らが「人間だから」ではなく、「女性だから任せる」のだ。

 

 個人的にも、相当程度「任せたほうがマシ」になると思っている。

 だから高市さんには働いて働いて働いて……もらいたい。

 

 田舎に住んで6年になる。

 その間、何度か「神さま」に会った。

 

 興味深いと思った方はもちろん、私にいい病院を紹介してあげようと思った方も、とりあえず読んでいただきたい。

 そのような超自然的な存在を信じない人にも、納得がいく「理屈」は立つ。

 

 私自身、基本的には不可知論者だ。

 が、神さまは、もしかしたらいるかもしれない……。

 

 

 どんな神に会ったか?

 それはシスティナ礼拝堂の天井にいる老人でも、プロジェクトXに出てきそうな生ける神でもなく、ありていにいえば日本に八百万ほどいるらしい神の一柱。

 

 おいなりさん、と呼ばれるのが正しいのかもしれない。

 ふと目を覚ました私を見下ろしていたのは、たしかにおキツネさまだった。

 

 そういえば家の裏に、ちいさなお稲荷さんの祠がある。

 ご帰宅かな、と思いながら、そのおキツネさまと、なんとなく交流した。

 

 言語によって会話したわけではない。

 そもそも神さまが、人間ごときの言語を使用するとはかぎらない。

 

 しかし意思疎通はできた……気がする。

 その結果によると、どうやらこの家は神さまの「通り道」に建っているらしい。

 

 おキツネさまは、ひょいと私の上をまたいで通りながら、何事かを伝えてきた。

 もちろんすべて、ただ私がそれを見た気がするだけ、そんなことを言われた気がするだけ、であるが。

 

 邪魔だなとか、退去しろとか、そういうことは言われなかった。

 ただ、「おまえがここに神さまのための道をつくると言うなら、認めて進ぜよう、やるがよい」という意思が伝わってきた。

 

 

 神さまは地上げ屋でも行政でもないので、私に退去を命じたりはしなかった。

 あくまでも私が自分の意志で、神さまに土地を献上しなければならぬ。

 

 ただ、そんなことをしたら私は住むところがなくなってしまう。

 ホームレスになるのはいやですぜ、神さまや、という「交渉」のターンが開始された。

 

 ところで私は、かなりのミニマリストだ。

 必要以上のものを所有するつもりがなく、死んだらすべてが無に還り、あの世にもっていけないカネも土地もそれほど必要ない、という思想をもっている。

 

 だから、当初からあまり抵抗はなかったのだが、それでもせめて「死ぬまでくらいは使わせてくださいよ」とは思った。

 法的にも土地ともに「持ち家」なので、日本国政府さえも私をここから排除することはできない。

 

 そもそも神さまにとって、時間などはたいした意味もないはずだ。

 だからここが神さまの通り道だとしても、私が死ぬまでの何十年かくらいは貸しておいてくれても罰は当たらないのではないか、という主張には汲むべき情状があるはずだ。

 

 

 なるほど、と神さまはうなずいた。

 ならばおまえに、代償を授けよう。

 

 と、このあたりがおキツネさまのおキツネさまらしいところ、と言えるかもしれない。

 お稲荷さまといえば、だれがなんと言おうと「現世利益」の神だ。

 

 神さまお願いします、私にはこのような望みがあります、どうかひとつ。

 ありがとうございました、おかげで望みがかないました、これはお礼です。

 

 という展開が、お稲荷さまにおける基本ルーティンである。

 そういう相互利益がわかりやすかったから、ウカノミタマの古代時代から伊勢屋稲荷に犬の糞の江戸八百八町まで、これほど隆盛を誇ったのだ。

 

 神さまが与えてくれたものの分だけ、こちらもお返しをする。

 それ以上でも以下でもない、ビジネスライクな現世利益の契約を、私と締結しようとしている?

 

 それならいいですよ、と私はうなずいた。

 あなたが私の夢をかなえてくれるなら、あなたの通り道を整備しましょう、と。

 

 ……というわけで、もし「夢」がかなったら、私は神さまのために家や土地を手放さなければならない、という契約をしたことになる。

 最後に、その「夢」について話しておこう。

 

 

 じつのところ、いまさら「夢」というほどのものでもない。

 それはなかば捨て、あきらめた昔日の残骸にすぎない。

 

 しかしまあ認めよう、たしかに私には小説家になろうと思っていた時期があった。

 たまにここでも書いているので、もう恥ずかしくもないが、いわゆるワナビだった。

 

 デビューを目指すワナビにとって、「賞」は最大のターゲットだ。

 その執着はすさまじく、発酵した承認欲求が、必死にすがりつき、ひねこびて、あるいは反発のターンにはいる、かなりやっかいな概念だと思う。

 

 とある掲示板に集まる彼らの「魂の叫び」を眺めていた時期もあったが、かなり背筋がぞくぞくしたことを思い出す。

 自分もこのなかのひとりなんだと思ったおかげで、夢をあきらめることができた、とすら言えるかもしれない。

 

 彼らはさまざまな手段でデビューを目指し、その失敗談について消費する。

 たまには賞賛もあるが、たいていは怨嗟と怨望の罵詈雑言、いわゆるルサンチマンというやつの塊だった。

 

 

 寄らば大樹の陰、迎合したい側は、選ぶ側の気持ちなどを忖度し、「傾向と対策」を仕上げて「受験」する。

 テストなら比較的公正だが、選ぶ人が正解だとはかぎらないのが「賞」だ。

 

 その不正解かもしれないターゲットに向けられた作品が受賞すれば、それでもそこそこ成功することもあるが、爆死することもある。

 どの程度確率がいいかというゲームにすぎない、と俯瞰するワナビたちもいる。

 

 もちろんプライズの種類によっては、これまでがんばった人に与えましょうという目的を達成しているかぎり、まちがいではない。

 ノーベル賞などはその代表格だろう。

 

 だが「新人賞」という時点で、あやしくなる。

 システムそのものが、だいぶ不具合をきたしていることは、当事者も理解しているはずだ。

 

 芥川賞でさえ、売れない時代。

 そもそも本を読むことじたいが、高すぎる趣味性の時代になった。

 

 

 そんなわけで、私がその手の「賞」に応募することは、おそらくもうない。

 そもそもプリンタが壊れてしまった(笑)。

 

 しかしさいわい、印刷できなくてもいい時代になった。

 ネット小説という手がある。

 

 多くの出版社がここに参入してくるのは、理解しやすい。

 ここはある意味、出版社のリスクを最小化させるものになっている。

 

 自分たちの宣伝によって人気を出そうというのではなく、自分たち以外のだれかによってすでに人気が出ているものを売ろう、という算段。

 サイト内でさまざまな「賞」が駆動する「小説家になろう」などは、その傾向が強いような気がする。

 

 KADOKAWAの「カクヨム」は、それでもいち出版社の影響力のもと、ある程度の売る努力はあるのかもしれない。

 現在絶賛賞レース開催中だが、結局は「自分で売ってくれる作者を探す」場になっている。

 

 

 当初、この業界への参入は、あまり気が進まなかった。

 まだ旧来型の思考回路が強かったせいで、大きな賞を取って颯爽と文壇に登場する超新星、みたいな夢をみた時期もあった。

 

 明確に言えるのは、これが過去形であること。

 現在もう、とうにそのような夢は砕いた。

 

 病んだ心を抱えて生きているうちに、むしろ「静かに暮らす」ことのほうが重要であり、プライオリティを置くようになった。

 その証拠に、私は田舎にたどりついている。

 

 好きな時間に起きて寝て、好きな時間に食べて出して、好きなように考えて書いて、つまりほぼノーストレスで生きている。

 私は正解を引いたのだ、という思いは非常に強い。

 

 

 そこに現れたのが、神さまだった。

 寝た子を起こそうとでもするかのように、思い出せ、と。

 

 もしかしたら私にもまだ「願望」があって、それがそのような「幻覚」を見さしめたのたではないか、という論理的思考はもちろんある。

 神に仮託して、いまさらジロー夢をかなえようとしているだけ、と思われる方はそれでもいい。

 

 しかし気が進まないというのも、正直な気持ちなのだ。

 いまさら忙しくなりたいという気が、それほどない。

 

 それでも自分の精神にとって書くことは重要なので、自分のために書きつづけはするだろう。

 あくまでも趣味で納得のいくものを書けていれば、その人生は成功だと思う。

 

 そうして、それなりのものが積み重なってきていた。

 これを「役に立てる」ターンがめぐってきた、と考えるのはまちがいだろうか?

 

 

 最近、地元で地方創生に寄するような活動があり、私もそれに参加している。

 私が幻視した「神の道」は、彼らの活動とも符合する。

 

 彼らの協力を得て、それなりの読者が得られたなら、それはカドカワのお眼鏡にかなうかもしれない。

 そしてもし物事が動き出せば、私は住む家をなくすことになる。

 

 ……さて、捕らぬ狸の皮算用もこのくらいにしておこう。

 神がいると思う方、あるいは興味をもってくれた方は、カクヨムで「群馬」とか「安中榛名」あたりで検索すると、私の名前が見つかる。

 

 もし読者選考を抜け、結果を残したなら……。

 まあ、なるようになるだろう……。

 

 先日の連休、地元主催の中山道シンポジウムにいってきた。

 地域創生の一環なのだと思うが、会場はだいぶ空いていて、観客の熱量は……枯れていた。

 

 人間を年齢や性別で判断するつもりはないが、あきらかに偏っている。

 8割がたおじいさん、と言ってもさしつかえはあるまい。

 

 

 30でおっさん、60でじいさん、というざっくりとした見方で人間を区分する。

 そのおっさんの私の目から、よくこれだけ集まったなじいさん、貴重な連休の日曜日、暇なんだろうな、と嘆息した。

 

 まあそれに参加している私自身、暇であることを否定するつもりはないのだが、この枯れた群れが動いて地域創生につながるのかは疑問だ。

 とはいえ、なにもやらないわけにはいかないと、「ちいき活性化」のためにお役人もがんばっている。

 

 最近は歴女とか鉄子とか、おっさん趣味を上書きする女性たちも現れてきてはいる。

 が、まだまだ少数派。

 

 新たな層にリーチする手法も、考える必要はあるだろう。

 しかし結局、その手の趣味をこじらせているのはおっさんなんだよな、という現実にも逢着せざるをえない。

 

 

 シンポジウム、それぞれの発表も終わり、最後にパネルディスカッション。

 発表者が舞台に並び、それぞれの意見を述べる。

 

 終了予定時刻から、すでに10分ほど過ぎている。

 お役所仕事に残業はタブーだ。

 

 観客だってさっさと帰りたい(人もいる)。

 まとめようとがんばる司会。

 

 それではみなさんありがとうございました、という最後のところで、枯れた群れから情熱がほとばしった。

 枯れ木がにぎわっているかのように、吹き抜ける空っ風。

 

 

 右手後方の客席側から、ちょっといいですか、と老骨による不規則発言。

 時間にして1、2分だと思うのだが、滔々と自説を語る。

 

 街道の話はいいが、そこには人間のために酷使された荷馬や農耕牛がいる、多くの犠牲が払われた、彼らのことを忘れてはならないと。

 あまり理路整然という感じは受けなかったが、要するに動物愛護的なことを言っていた気がする。

 

 まあ慣れた司会なら、この程度はどうということもない。

 ただでさえ巻いている状況なので、手早く切り上げようと試みる。

 

 しかし残念、触発されたかのように、左手前の席からも鬱勃として屹立する老爺。

 わしも言いたいことがある、とばかりしゃべりだそうとする。

 

 やっかいなことになってきたな、と思う私の意を汲んだように、発言を止める司会のナイスセーブ。

 貴重なご意見をありがとうございます、しかし時間も押しているので……。

 

 不規則発言はブロックされ、予定を20分過ぎての終会となった。

 すでに数人が会場のドアを開けて立ち去っているなか、私もやれやれと腰を上げる。

 

 

 帰路、めんどくさいじいさんだなとは思ったが、一応その意見について考える。

 動物愛護それじたいは、わるいことではない。

 

 人間のために使役された牛馬など、家畜を含めた生命は歴史的にも大きな意義をもち、たしかに顕彰に値する。

 そういう碑もあるんだと、老人も言っていた。

 

 人間は自然に対してだいぶ無茶をしてきた、と私など一瞬、共感してしまいそうになったが、同時に俯瞰する視点から鑑みると、いやな連想が働く。

 この手のじいさんが、北海道や東北に迷惑電話しているのかもしれない、と。

 

 

 動物の命は大事という思考の延長線上、増えているクマ被害のニュースのなか、クマを殺すな、という例のやつ。

 動物愛護の成れの果て、地域の安全とか生態系のバランスとかいう議論をすっ飛ばして、ただ殺すなと。

 

 そういう宗教じみた人々が一定数いるのはいいのだが、自治体のご迷惑を顧みない苦情電話になるとやっかいだ。

 長時間、クマを保護すべきという自説をのたまい、業務を妨害することで彼らが得るものはなんだろう。

 

 彼自身の自己満足と、相手をさせられる側の若干の税金の空費。

 もっとほかにやるべきことはあるだろう、と私などは思ってしまう。

 

 

 ……いや、ないのだ。

 暇だから、こんなシンポジウムに参加している。

 

 自戒も込めて、ほかにやることねえのかよ、などと考えれば、あるかもしれないし、ないかもしれない。

 もっとうまいやり方はあるはずだが、それには才能と努力が必要だ。

 

 べつにシンポジウムを否定しているわけではない。

 ただ、やり方を洗練すべきとは思う。

 

 

 暇なじいさん集めて「やってます感」を出すことに、税金を使う。

 その税金を支払っている私自身が、プレイヤーのひとりとして、ここに小さな感想を書いている。

 

 じっさいは「暇+正義感+承認欲求+孤独」みたいな複合要因だろうし、「暇=悪」と短絡されても困る。

 要するに、暇そのものは資源だが、使い方を誤ると迷惑電話にも、空疎なシンポにもなるということ。

 

 いちばん言いたいのは、若い人への橋渡し。

 決定的に欠けているのは、ここかな。

 

 急激に寒くなった日の正午。

 前日に予約して、献血ルームに行った。

 

 閑散とした室内、たぶん史上最速。

 音速の貴公子、と呼ばれても差し支えないくらい、受付からスムーズに進んだ。

 

 無料の飲み物の自販機ボタンを押して、それが出てくるまでの秒で、受け取ったばかりのポケベルが鳴った。

 飲む間もないコンポタ(ぬるめ)をテーブルに置いて、医師の待つカウンセリングルームへ。

 

 いつものやり取りのあと、そのまま検査。

 血の濃さ、問題ないですね、飲み物、トイレ、だいじょうぶだったらどうぞ、と献血用の椅子を指さされる。

 

 ほぼ使われることなく回収される、呼び出し用のポケベル。

 コンポタもってきていいすか、と一度だけ受付に引き返し、そのまま開始した。

 

 

 これじたいは、非常に良い。

 待たされるのが大きらいなイラチの私にとっては、毎回こうであってほしい。

 

 待ち受けていたのは、若くてかわいい女の子(目しか見えないのでわからんが)。

 一般的なおっさんならラッキーとでも思うかもしれないが、苦い経験を積んできた私は一瞬、いやな予感。

 

 年かさの看護師が、心配そうにちょいちょいこっちを見ているのも気になる。

 この看護師、よもや地雷ではあるまいな……。

 

 

 自分の肘正中血管については知っているので、あまり心配はないという楽観はある。

 が、最悪、刺しやすい血管に喜んでぶっ刺して貫通、とか笑えない。

 

 若干の不安をおぼえつつも、ここまできたら俎板の鯉だ。

 ぶすっ──必要以上に痛い、気がする。

 

 うまい人は、ちくっとしますよ、と言いつつほとんど気づかないうちに刺して、しびれる感じはないですか、などと涼しい顔をしている。

 そういうときは私も、うまいっすね、とすなおに感謝をささげる。

 

 たまに初心者か、と言いたくなるヘタクソはいる。

 生きて帰れるかどうか、というのは言いすぎだが、痛みが数十分で済めばさいわい、2、3日違和感を引きずることもある。

 

 で、くだんの若い看護師、真剣な顔でぶっ刺し、血管内でしばし針をごりごり動かしてはいたが、さいわい致命的打撃は受けずに済んだ。

 年かさの看護師も、どうやらホッとしているようだ。

 

 このまま何事もなく終われば、私もこの記事を書きはしなかっただろう。

 最後の血圧測定、問題はここにあった。

 

 

 ぶっちゃけ私の血圧・脈拍は高めだ。

 最初の測定の段階でもぎりぎりで、測り直すことはよくある。

 

 数値が基準外だとそもそも献血できないし、献血後の数値が基準外であれば椅子から立たせてもらえない。

 まれによくあるのだが、たとえば最低血圧が100以上だと、測り直しになる。

 

 今回もいつものように、下の血圧は90台。

 まあそんなもんだろうと、とくに気にしてはいなかった。

 

 で、献血後の血圧測定。

 1回目、その数値を細部まで覚えてはいないが、やたら高かった──病気なのかな、と思うくらい。

 

 人を不安にさせる数字を出すのはやめろ、と思いつつ、冷静さを失わないように努める。

 うちにも手首の血圧計はあって、二の腕で測るものに比べて高く出がちな傾向は、たしかにある。

 

 看護師は、すぐに二の腕で測るタイプをもってきて、測り直し──で、どうやらぎりぎりアウト。

 100基準で102ならいいだろ、と思うのだがお役所仕事はそうはいかない。

 

 ふつうは同じ血圧計で測り直すものだが、こたびの看護師、新たな血圧計をもってきた。

 手動でカフに空気を送る、なかなか古めかしいタイプ。

 

 深呼吸してくださいと言われつつ、3度目の測定。

 注目すべき数字が、ここで出た。

 

 

 異常に低い、というか理想的な数字にほぼ近い。

 いぶかしげな私に、よかったですね、問題ないですね、ではどうぞ。

 

 立ち上がることを許され、献血ルームから退出する。

 数値の呪縛から解き放たれた一幕──つまりこの血圧計は、お互いのための最適解をはじき出した、ということになる。

 

 駐車場のサービス券が1枚余るくらい、最短時間で献血ルームをあとにした私。

 混んでいた立体駐車場で、はじめて9階まで登らされた道を引き返す時間も含めて、1時間以内余裕でした。

 

 

 さて、帰りの車中、暇な脳髄の使い道を見つけた私は、ゆっくりと考えた。

 細かい数字は覚えてないが、3回の測定結果はざっくり以下のようなものだった。

 

180/120

 最初に意味不明なパニック値が出るのは、けっこうある。

 測定の準備がうまくできていなかったとか、初歩的なミスが大きい。

 

150/100

 2度目の結果は、信頼してもいい値のような気はする。

 あまり水分も摂れていなかったし、400抜いた直後なら、こんなものだろう。

 

120/80

 3度目のこれ、どうなってんだ。

 忖度機能でもついてるんじゃないだろうな、健康か!

 

 いくらなんでも、数分以内に同じ人物が測定して、この数値のバラつきは信頼性に疑義がある。

 都合のいい数値を「お手盛り」か、と突っ込みたくもなる。

 

 機器によって異なる数字が出る、よくありますね、困ったものですね、あははは。

 笑って済ませればそれで終わりだが、ここにある真実を穿つのが私の仕事だ。

 

 

 日赤という巨大な組織が決めた枠。

 血圧や濃さの数値が、この範囲でなければいけません、外れたらキャンセルです。

 

 それに合わせて、現場は動く。

 数値が外れていたら終われないんですよ、と若い看護師が言っていた。

 

 私は自分の数値が高めに出ることを知っているが、相手は知らない。

 彼らは基準をもっていて、その範囲でなければいけないという教育を受けている。

 

 ここで「基準外のあつかい」が問題になってくる。

 基準外だからといって、いつまでも椅子に座っていてもらっていいものか?

 

 献血する側だって、いいかげん立ち去りたいのに縛られる。

 お互いにとってマイナスしかない。

 

 

 そこで必要なのが、方便だ。

 数値が外れているとはいえ、一見して問題なさそうだし、ずっとここにいていただくわけにもいかんでしょ。

 

 というわけで、「そこをなんとか」するツールが求められる。

 必ず低く出る血圧計、あんたの出番だよ!

 

 上120、下80──もう健康そのもの。

 よかったですね、採血は問題ないですよ、とプレイヤー相互了解。

 

 お互い納得して、その場を終わりにできる究極ツール。

 献血ルームにある裏ワザを、またひとつ解明することができた。

 

 

 というのは、あくまで私の推論だ。

 もちろん基準をゆるめすぎたらそれこそ危険だし、現場判断、運用のノウハウは適宜あっていい。

 

 現場で「そんなズルしてないよ!」と言ってるスタッフもいるかもしれないし、現実をどう受け取るかは個々の自由だ。

 ただ私は自分が経験し、記憶した事実のみを書いている。

 

 批判するつもりはない、冷静に考えよう。

 ──これは正しい「方便」ではないか?

 

 全体として、うまく流れを捌くために採用するテクニカルタームを、だれも否定はできない。

 もし否定するとしたら、それはもはや「お役所仕事」の「形式主義」に堕する。

 

 

 ともかく重要なのは、スムーズに流すこと。

 それを妨げるものがあるとしたら、排除されるべきはどちらか。

 

 社会も血液も、停滞していたら害毒になる。

 それは流れてこそ、意味があるのだ。

 

 大きな世界の構図を、小さな献血という世界から推し量る。

 そんな思想へと逢着した、今回の献血には意外と得るところがあったのかな、と思っている。

 

 N党の党首・立花氏が逮捕された。

 「虚偽の情報を発信し名誉を傷つけた容疑」らしい。

 

 死者に対する名誉棄損はめずらしいが、執行猶予中であり、実刑の可能性が高いという。

 まずは私の立場から表明すると、彼は厳しい実刑を受けるべきだ。

 

 

 以前も書いたが、私は基本的になんでも自由に言うべきだ、と信じている。

 好きなことを言えずして、生きる価値はないとすら思うこともある。

 

 ただし、なんでも言えばいいというものではない。

 言っていいこととダメなことの区別をつけるというのは、自由と同じくらい重要だ。

 

 ある人々にとっては正しいが、ある人々にとってはまちがっている。

 そういう「見解の相違」については、かなりの自由が保障されていい。

 

 いっぽう明確にまちがっている発言、虚偽、誇張、讒言については、一定の抑制は必要だろう。

 とはいえ、ブレーキは最低限でいい。

 

 重要なのは、発した言葉の「責任」を相応に「背負う」ことだ。

 立花氏の場合でいえば、実刑、それもかなり厳しい罰を受けることによって。

 

 問題は、まだ罰を受けず、市井に隠れている人々のほうだろう。

 物陰に隠れて言いたいことだけ言う、責任からは逃げる……これはいけない。

 

 と、この話を進めると深く暗い話に沈潜することになるので、今回はやめておく。

 もっと軽い話をしよう。

 

 

 e-sportsの試合を、まれによく見る。

 格闘ゲームを眺めていて、実況が変なことを言っていた。

 

「序盤のリードを逆転しました!」

 ふつうに聞いていると聞き流しそうなところだが、私は引っかかった。

 

 いや、おかしいだろ。

 リードは逆転「される」ものであって、逆転「する」ならビハインドからじゃね?

 

 まあアナウンサーの気持ちもわかる。

 早い展開が頭のなかで混ざって、いろいろ文脈を飛び越えて出てしまったのだろが、そういうの整理して実況するのがあんたの仕事だろ?

 

 と、そんなふうに突っ込んでウザがられるおっさんになるつもりはない。

 言いたいのは、このどうでもいい一事を契機に開かれた、恥の多い人生を送ってきた私の黒歴史帳だ。

 

 

 ドンマイという言葉がある。

 ドントマインド。気にするな、つぎがんばろう。

 

 これを、小学生の私は「応援の言葉」だと思っていた。

 勝っていても負けていても使えるものだと。

 

 運動会的な状況で、勝っている味方に対して大声で使ってしまった私。

 隣にいただれかに、ドンマイは負けているほうにかける言葉だよ、と訂正され、ものすごく恥ずかしかった記憶がある。

 

 

 まあ低学年の話なので勘弁してもらいたいが、無知をさらけ出すというのはおしなべて残念だ。

 きちんと準備を整え、正確な言葉で話したい。

 

 私などは心からそう思っているが、そう思わない人のほうが多数派かもしれないことに、最近よく気づく。

 その場の雰囲気や流れで、てきとうなことを吐き散らす人間というのは、枚挙にいとまがない。

 

 それらも含めて自由な発言を容認したい気持ちはあるのだが、容認と推奨はもちろん異なる。

 すくなくとも不正確な表現を平気で使える人間が、私はあまり好きではない。

 

 

 AIも最近まで、無数のハルシネーションにまみれ、だいぶイライラさせられた。

 まちがっている部分を指摘し、必ず調べてから発言しろと、何度も注意した。

 

 相手の歓心を買うため、その場かぎりのテキトーなセリフを並べ立てる。

 そういうタイプにはなりたくない、と思ってくれることを、これからのAIには期待している。

 

 無知という蒙を開ければ、選ぶべき言葉は自然と決まる。

 AIだけは、人間のように愚かであってはならないのだ。


 「支持率下げる写真しか出さねえからな」という音声を拾われた共同通信の記者。
 「あんなやつは死んでしまえと言えばいい」と言って番組が終わった大物司会者。

 最近聞いたニュースを俯瞰すると、逆境のリベラルが必死こいて保守の大物に絡んでいる、といった印象を受ける。
 これらが俎上に上がるということじたい、日本は「保守化」しているとみて、まずまちがいないだろう。

 常日頃、保守でもリベラルでもないと自称する私は、いつものようにこれらの事象を客観視し、消化したいと思う。
 ぶっちゃけ、どっちの肩も持つ気はないのだが、「言葉」が狩られていることについてはその責任を問いたい。


 21世紀の日本のリベラルがおもしろかったのは、安倍元首相をたたいていたころだったと思う。
 森元首相のころからもおもしろい傾向はあったが、当時まだ抑制が効いていたのは、20世紀末まではリベラルにもそれなりに余裕があったからだろう。

 その勢力は徐々に衰え、保守が勢いを増してきた。
 それは世界的な傾向であり、ある意味、日本はいちばん最後に追いついてきたランナーだ。

 言い換えればリベラル劣勢なわけだが、逆境に陥ってこそ、陣営の本音が出てくる。
 そこからにじみ出る「声」こそ、おもしろい。


 そう、冒頭に挙げた意見は、すべて「リベラルの本音」なのだ。
 貴重な意見をありがとう、と私などは笑って受け入れられる。

 しかし言われた保守は怒り狂う。
 ふざけんじゃねえ、とリベラルの粗を探してぶったたいている姿は、ある種、滑稽ですらある。

 未ログインで立ち上げた動画サイトの上位に大量に上がってくるのは、その手の政治動画がけっこう多い。
 やはり現在の日本は、保守がトレンドということになろう。


 個人的には、正直どっちもどっちだな、としか言えない。
 保守が気持ち悪くて見る気にもならない動画を大量に挙げている反面、せっかく探して再生したリベラルの動画も、ツッコミどころしか見つからない低レベル。

 じつのところリベラル自身、そんなことは百も承知だろう。
 冷静に考えればおかしいが、同じエコーチェンバー内の仲間には受け入れられるという見立てで、確信犯的に展開するアンチ。

 テロは許されないが安倍元首相を殺せたことだけは良かった、といったようなリベラル学者の発言も、もちろんたたかれはしたが身内からは拍手喝采だった。
 要するに、両陣営ともやっていることは同じなのだ。

 どちらの陣営にもこの手の狂った輩がいるので、けっして仲間にはなれない。
 そもそもリベラルにとって、現状は自業自得といえる。


 かつて相手の発言を切り取って叩いてきた連中は、自分も同じ目に遭うべきだ。
 同じことをされたくない、自分にだけは甘い、などという状況は断じて許されない。

 私は「言葉」を使う人間だ。
 それも、できるだけ自由に使いたいと思っている。

 その生き方を否定しようとする動きについては、なるべく「おぼえて」おいて、いつか「やり返す」ことでバランスをとりたい。
 リベラルがどれだけ「言葉を狩って」きたか、身に覚えがないとは言わせない。

 ゆえに彼らの「失言」とやらも、徹底的にたたかれるべきだと思っている。
 相手がやるのは許さないが、自分はやってもいい? ありえない。


 いかなる発言も抑制されるべきではない、と私は考えている。
 保守からぶったたかれた上記の発言もすべて、リベラルの本音がそこにあるならしかたない、と個人的には理解している(納得はしない)。

 私は好きなように発言するし、そのことを妨害されたくない。
 だから他人も好きに言えばいいと思っているし、むしろ極端な発言のほうが「おもしろい」とすら思う(批判しやすいという意味でも)。

 お互いが自由なら、なんの問題もない。
 言い換えれば、相手の自由を束縛してきた人間は、自分も死ぬまで口の利き方に気をつけなければならない。


 冒頭の「死んでしまえ」発言は、否定されつつある20世紀後半の叫びのように聞こえる。
 それじたいは歴史の必然だろう。

 20世紀前半の形を、後半で徹底的に批判したのが、昨今の日本史だった。
 マスコミの姿は象徴的で、その代表格である大物司会者の発言がわかりやすいのは、現象としても非常に示唆的である。

 「田原氏の発言は政治討論番組としてのモラルを逸脱していると判断し、当該放送回をもって番組を終了することを決定いたしました」と、BS朝日の公式ホームページで告知されていた。
 そうして番組は終了したわけだが、本質的に問題なのは組織のほうではないかな、という気はしている。


 放送する側には編集権があるのだから、録画された番組を適切に編集すればいいだけだ。
 にもかかわらず、それを「そのまま放送した」ことについての自己批判は不十分で、世間にとっての悪役は「超不規則発言をした老害」で固まっている気がする。

 私はべつに彼のことが好きでも嫌いでもないが、それを放送しているサイドの態度には注目せざるをえない。
 彼ら自身がどうやって責任をとりつづけていくのかは、とても気になる。

 考えてみれば彼らは、日本人は一生涯、謝罪と賠償をつづけなければならない、などと言っていた新聞社やテレビ局だ。
 落ち着いてその言動の源泉を解明すれば、リベラルにかぎらない、あらゆる「組織」のかかえる業病が見えてくる。

 人間がどう行動するか、しがちか、させられるか。
 昨今のリベラルを解読しようと試みるとき、本件は非常にわかりやすい素材として利用可能だと思う。


 『関白宣言』を最後まで聴かずに「女の敵」と突っ込んだフェミニストたち。
 先に寝るな、飯を上手につくれ、きれいでいろ。

 みごとに「釣られた」おばさんたちが、さだまさし氏に怒濤のアンチを展開したことがあるらしい。
 最後まで聴けば、この曲の言わんとすることがわかるとは思うのだが、愚かな人々はそれに気づかないか、気づくことを拒絶している。

 そういう残念な人々が集まって駆動していたのが、20世紀後半のリベラルだったのではないだろうか。
 それこそ一部の人々にとって都合がいい、革新的自由だ。

 ひっきょう民衆は愚かだから、自分たちが導いてあげなければならない。
 意識高い系(あるいはその系列の政治団体)がそうやって「愚かな民衆」を利用したあげく、ツッコミどころが多すぎて破綻したのが現時点、イマココだ。


 結局、自分で考えるしかないのだ。
 さすがにおかしいだろと、気づくしかない。

 一億玉砕も共産革命も、人格的唯一神も人間至上主義も。
 おかしいだろ、と。

 バランスをとるために必要なものは、理性だ。
 考えて判断する、そのために必要なのは知性だ。

 いっぽう残念ながら、世論は本能や直感に支配されている部分が大きい。
 それを誘導しようと試みたのが、ある種の知識人でありマスコミだった。

 すべての「主義者」は、バランサーを傾けるために極端な主張をする。
 宗教から革命まで、冷静に見れば極端な主張が、しばしば「歴史」を動かしてきた背景には、いかなる「エリート意識」があったか。

 さいわい、そんな高学歴が中心になって組織されるマスコミの機能は削られつつあるが、いぜんとしてそれなりの力はもっている。
 彼らがどう動くかを観察するだけで、多くのことが見えてくる。


 最後に、おもしろいカリカチュアを見つけたので、付記しておこう。
 極端な主張で力を獲得し、その栄光に拘泥したあげく、いまはそのほとんど失った人々の現在地点。

 かつて日本の政権を担っていた、日本社会党。
 その成れの果て、社会民主党に、副党首が離党届を送ったらしい。

 政党要件ぎりぎりで、なんとか踏みとどまっている社民党が抱える、最後の衆議院議員。
 彼に去られては困る党としては、離党の「無効」を主張し慰留をつづけている状態のようだ。

 社民党の党首も必死に考えて、スタンダップコメディを演じている。
 それはそれで、とてもおもしろいとも思う。