私は「モノを喰う」ということに、あまり関心がない。
 よって「グルメ」系の話などはあまり見もしないが、飲食店そのものに対するポストについて、すこし気になった記事がある。

 とある漫画原作者が蕎麦屋に行って、タッチパネルになっていて雰囲気も良くなかった、味はおいしかったが残念だ、というようなことを書いたらしい。
 これに対し、とある飲食店関係者が、効率化のためにタッチパネルを導入するような店に温かい接客とか人情味のある交流を求めること自体まちがっている、この漫画原作者は安い店に行って高いサービスを要求する老害だ、と返した。

 金は持ってるんだからわざわざ安い店に行かず、高い店で高いサービスを受けろよ、という意見には、たしかに同意しやすい。
 日本の「おもてなし」に、どこか危うささえ感じるのは私だけではないだろう。

 以前、業務スーパーの激安ギョウザに「肉が少ない」みたいな文句を言っていたおっさんがいたが、見当違いも甚だしい。
 いったい彼は、1個10円とか20円レベルのギョウザに、なにを求めているのか?

 日本の過剰なサービスが、このようなモンスタークレーマーを生んでいる、という議論もよく聞く。
 そこがどんな店か把握してから、問題点を指摘したほうがよい。


 もちろん、あきらかに店側に問題があるケースはいくらでもある。
 ケースバイケースなので、あとはそれを指摘する側のバランス感覚の問題に尽きる。

 今回の件ではどうか。
 最初は原作者のほうに対して批判的な意見をもったが、もとのポストをよく読めば、彼もべつにまちがってはいないと気づく。

 個人の感想を述べるのはだれであろうと自由だし、攻撃的なニュアンスもいっさいなかった。
 じつのところ問題があるのは、さきに彼に嚙みついたツイートのほうだったりする。

 まとめ記事によると、このツイート主は「外国人は日本にきたら日本語を理解しろ」とか要求する「狂犬みたい」なタイプらしく、筆致にもそれがよく表れている。
 もともと思いどおりにならない客への憎悪がハンパない人格ということだ。


 私が江頭さんのつぎに尊敬する芸人である伊集院さんが、こんなことを言っていた。
 「しかめっ面で客を選ぶ」「ガンコおやじの店」では、最初からモノを食う気にならない、と。

 たしかに、客に対して横柄な店、金を払って怒られる店とか、意味がわからない。
 お客さまは神さまではないが、店も治外法権ではないのだ。

 そもそも店と客とは、対等であるべきだろう。
 対等という前提で、支払った金額に相当のサービスが受けられる場所、それが飲食店だと思う。

 「残念だ」と感想を書いただけの人に、「老害」とか「高い店へ行け」はすこし言い過ぎだ。
 相手は感想を書いただけなのだから、こちらも「高級店ならよりよいサービスが受けられると思います」という「感想」を返すにとどめるべきではないか。


 切り口上の「命令」と、選択肢を示唆する「ナッジ(肘でつつく)」は別物である。
 書き方に注意しないと炎上しやすいことは、昨今のネットを眺めているとよくわかる。

 わざと炎上を目指すような人々もいるが、乗せられたくないものだ。
 ネットの書き込みに反応するというのは、それ自体とてもむずかしいものだな、と思う記事だった。

 

 

 来年、ニンテンドー・スイッチ2が発売されるらしい。

 そんなニュースを眺めつつ、最近、スイッチ1(?)でゲームばかりやっている。

 

 遊んでいるのは、シリーズもののRPG。

 数年ごとに発売される「おっさんホイホイ」的な作品だ。

 

 うちには基本的に、ゲーム機というものがない。

 そこで新作が出るたびに本体とソフトを買い、クリアしたら本体だけ売る、ということをくりかえしている。

 

 ニンテンドー・スイッチは、つごう3回買った。

 無印のスイッチ、バッテリーが強化されたスイッチ、そして現在、手元にあるのは三代目の有機ELスイッチだ。

 

 毎度、任天堂の株価に貢献しているわけだが、それほど損をした気分ではない。

 あまり値崩れをしないので、買ったときに近い価格で売れるからだ。

 

 

 それはいいのだが、毎回、本体ごと買い直すせいで、残念な事象が出来することに気づいた。

 まあ物事を知らない人間にとって残念なだけで、日常的にスイッチで遊んでいるお子様にとっては常識かもしれないが……。

 

 結論から言うと、セーブデータの消失だ。

 過去に遊んだシリーズのセーブデータは、もちろん保存している──つもりだった。

 

 自戒を込めて白状する。

 私はてっきり、セーブデータは「SDカードに保存」されているものだと、何年間も思い込んでいた。

 

 スマホだってSDカードを保存先に指定できるのだから、スイッチだってそうだろうと。

 SDカードとゲームソフトがあれば、本体を買い替えてもつづきができる、そうじゃなかったら、なんのためにSDカードスロットがあるのだ?

 

 と、ほとんど逆切れ気味に信じていたのだが、これが愚かな大人の思い込みにすぎないことが、ついに判明した。

 どうやら「SDカードには保存されていない」らしいのだ。

 

 

 いまさらながら気づいたのは、新作で「引継ぎ特典」とやらを得るために、過去作のデータが必要になったからだ。

 三代目スイッチに二代目で使っていたSDカードを挿入したところ、このSDカードは使用できません、フォーマットしなおしてください、と命じられた。

 

 え、フォーマットしたらセーブデータ消えてまうやん。

 SDカードのデータを読み込んで、過去作品のつづきができるんちゃうの?

 

 そのために毎回、遊んだソフトのパッケージにSDカードを入れて、いっしょに保管していた。

 本体を買い替えたところで、同じソフトとSDカードを差せばつづきができるものだと、まだ信じていた。

 

 しかたなく、スイッチ、セーブデータなどのワードで検索をかけた。

 そこでアホなおっさんは、セーブデータはすべて「スイッチ本体に保存されている」という「新事実」を知った。

 

 過去の私の行動は、すべてまったくの無意味だった。

 各作品およそ100時間にもなるプレイ時間は、売却したスイッチ本体の初期化とともに消え去っていたのだ……。

 

 

 では、セーブデータはどうしたらいいのだ?

 新しいスイッチを買ったら、古いソフトのつづきを遊ぶことはできないのか?

 

 もちろん、そんなわけはない。

 スイッチには、スイッチ特有のバックアップがある。

 

 簡単にいえばおサイフケータイと同じで、一時的にクラウドにデータを預ける。

 そして新しいスイッチにログインして、ダウンロードしてくる。

 

 

 私は古い人間なので、そういう引継ぎの観念が低かった。

 よく言えば、ネットワークにつなげなければゲームができない、などという「つながり至上主義」には固執しない、孤独を愛する人間だった。

 

 そのためのコンシューマ機ではないか。

 本体とソフトがあれば遊べる、それがゲームの本来あるべき姿だ、とも思っている。

 

 だが、いまや自分のものであるはずのセーブデータすら、自分のもののままに保っておくことは簡単ではないと知った。

 ネットワークにつなげなければ、ゲームのつづきもできない、こんな世の中じゃ、ネチズン。

 

 まあ考えてみればそのほうが、セキュリティとしても優秀だ。

 世界はどんどん、私の知らない形になっている……。

 

 

 だったらSDカードはなんのためにあるんだよ?

 という根本的な疑問については、ダウンロードソフトや追加コンテンツ、セーブデータ以外の更新データ、自分で撮影した写真や動画などの保存、らしい。

 

 ゲームをする以外の用途をまったく意図していない私は、そのような事実にすら気づくことができず、数年を過ごしていた。

 重ねて言うが、まったく思い込みとはおそろしいものである。

 

 とはいえ、負け惜しみではなく、データの消失じたいにそれほどショックはなかった。

 情報は「利用する」ことに意味があり、利用を終えたものに価値はあまりないと思っているからだ。

 

 乗り鉄にとって重要なのが乗るという体験そのものであるように、私というゲーマーにとっては、そのゲームを楽しくプレイしたこと自体が重要である。

 撮り鉄が「理想の写真」を重視することを否定するつもりはないが、コレクター気質のない私にとっては、ゲームで作成した「理想のデータ」にもこだわりはない。

 

 セーブデータが重要なのは、プレイ中だけだ。

 ゆえに、なくなったことにもしばらく気づかなかった。

 

 ただし今回は、そのせいで前作データの引き継ぎ特典が得られなかった。

 もらったのは結局、先着購入特典とやらだけだ。

 

 それでもまあ、ひとつ賢くはなった。

 三代目を売り払うときは、クラウドにセーブデータを預けることにしよう……。

 

 アメリカにつづきEUでも、テムの進撃が止まらないらしい。

 またぞろ関税の議論が盛り上がっている。

 

 日本の通販業界はレッドオーシャンなので、テムやシーインは、まだそれほど大きくはない。

 とはいえ激しいネット広告に釣られ、なんとなく買い物をしてしまった私がいる。

 

 実家の親の古いドラレコと交換してやったが、とくに問題もないようだ。

 千円ちょいでこれが買えるというのは、なかなか攻めた商売だと思う。

 

 

 ひと昔まえのメイド・イン・チャイナに比べれば、品質はまあ普通になった。

 届くのに時間はかかるが、べつに急いで必要ではない、という層を狙って価格攻勢をかけるのは、じゅうぶん正しい戦略だということが証明された。

 

 ブルームバーグによると、アメリカではすでに「Temu」が「eBay」を上回っているという。

 毎月、日本の人口を超える1億5200万人が、この越境ECサイトを利用しているらしい。

 

 今回は、そんなテムを経済の観点から批評──するつもりはない。

 ただの一般ユーザーとして体験したエピソードと、感じた思いをつれづれなるままに記録する。

 

 

 テムのサイト構造は、こちらがタップした商品にしたがって、自動的に並べられた関連商品を芋づる式に閲覧、ポチ(らせ)るシステムになっている。

 他のECサイトも似たようなものだが、とくに表示システムの特化が顕著だと思う。

 

 検索の手間を省くという意味ではよいが、個人的にはマイナスの面も大きいと思っている。

 たとえば広告業界では、一度でもエロ広告をタップすると、以後すべての広告がエロで満たされる、という悲しい現実がある。

 

 考えてみれば、ニュースサイトもそうだ。

 一度でも大谷の記事をタップすると、以後は大谷で埋め尽くされてしまう、という苦い体験が脳裏をよぎる。

 

 もちろん、こちらが「調整」する方法を学べばいいだけではあるが、一般的にその精度はAIの進歩にかかっている。

 どの商品や記事を勧めればいいかというチューニングの問題は、永遠の課題といってもいいだろう。

 

 

 さて、そこで「越境ECサイト」の問題点が浮き上がってくる。

 商品の権利や年齢制限など、どの国の法律に縛られるのかなど、あいまいなところが多い。

 

 先日、こんなことがあった。

 まず前段として、それまでの私の検索履歴や購入履歴を記しておく。

 

 サンダル、御香、シートカバー、Tシャツなど、おおよそ使い捨てるような一般的な買い物が多かった。

 送料無料になるぎりぎりの線で、とくにいらないけど安いから買っておこう、というたぐいの雑貨を詰め込んでポチっていたわけだ。

 

 

 あるとき、フィギュアを見つけた。

 おいこれ権利どうなってんだよ、と突っ込みたくなるような、私でも知っている格闘系のアニメの「フィギュア」だったが、それをタップした直後だ。

 

 画面をすこしスクロールしたところ、たったいま再ソートされてきた商品として、かなりリアルな「オナホール」がオススメされてきた。

 あまりの唐突さに、飲んでいたお茶を思わず吹きそうになった。

 

 完全にそれにしか見えない形のゴム製品で、レビューの数もそれなりに多い。

 上位のアメリカ人レビュアーによると、「私はこの製品がたいへん気に入っているが、妻はこれを大変きらっている」とあり、ぐふっと恥ずかしい笑い声が出た。

 

 そうして、ひとしきり楽しませてもらったあと……私はテムを開くのをやめた。

 以後どんな製品がオススメされてくるのか、怖くなったからだ。

 

 

 色眼鏡をかけて人を見るのはよくない、とはよく言われる。

 肌の色や民族で職質をしたり、犯罪者だと決めつけるのは、たしかによくない。

 

 だが、同じロジックによる「囲い込み」には事実、実績や効果がある。

 「この商品を見た人は、こんなものも買っています」とレコメンドされてくるのは、まさにその効果を狙ってのものだ。

 

 今回、アニメ好きの人間にはこういうモノが必要なんでしょ、というバイアスがまちがいなくかかっていることが判明した。

 実績にもとづいている以上しかたないのかもしれないが、せめて成人向きとそうでないものの区別くらいは、つけてもらいたいものだ。

 

 こんなものの閲覧や購入履歴を、中国政府に握られたくないな。

 そう思った、ある蒸し暑い夏の日だった。

 

 

 

 

 定期的に、死を思う。

 人間が何千年も考えつづけてきた、メメントモリのほんとうの意味を。

 

 ──永遠に生きる、という研究が進んでいる。

 老化メカニズムを解明し、幹細胞技術を再生医療に応用しようとしている。

 

 ナノテクノロジーの活用や、意識のアップロードについても同様だ。

 人間が永遠に生きるという「物語」は、現実に近づきつつあるのかもしれない──。

 

 

 日々配信されてくるその手の記事を読みつつ、それでも直近でそのような「夢」が実現することは、ありそうもないと考えている。

 そもそも生物とは死ぬべきものであり、その摂理を変更するほどの倫理綱領を、われわれはまだもっていない。

 

 見果てぬ「夢」であるがゆえ、多くの「物語」にもなってきた。

 死は必ずやってくるからこそ、力を尽くして生きるべきだ──という言葉には、相応の説得力がある。

 

 個人的には、ゲームですらそう思っている。

 死んだら生き返らせればいいという世界観が、私はあまり好きではない。

 

 もちろん何度でもリプレイできるからこそゲームなのだが、死んだキャラクターの人生はそこで終わりのほうがいい。

 「そのまま生き返って」やり直すことと、「セーブポイントから」やり直すことは、似て非なるものだと思うのだ。

 

 

 死んだら、終わり。

 失われた生命は、ぜったいに蘇らない。

 

 これは生物の基本的なルールであって、断じてゆるがせにしてはならない。

 もっぱら「死」を取り扱う業界、宗教界の歴史的態度は参考にしていいだろう。

 

 宗教者が「奇跡」とやらを乱発すればするほど、そのデマには贖宥状ほどの価値もなくなっていった。

 宗教の衰退は、歴史的に認定される「奇跡」の減少に歩調を合わせている、とも言い換えられる。

 

 宗教者は冠婚葬祭の「儀式」を売るほか、人間の不安を取り除くことも「役務」である。

 文化的、社会的な背景を考えあわせる必要はあるが、なかでも「奇跡」と「死」を絡める手口は、効果的ではあるが「下品なマーケティング」だと思う。

 

 

 だからこそ、たとえ「物語」であっても、その禁断の果実に安易に手を出すべきではない。

 あくまでも「お話」という逃げ道は、みずからの価値を貶めるものだ。

 

 ほんとは死んでませんでした、生き返る方法がありました──。

 そんな話を見せられたとき、それが有名な物語であればあるほど、萎える。

 

 宿敵モリアーティ教授を道連れに、滝つぼに落ちた『シャーロック・ホームズ』を生き返らせた作家、コナン・ドイル。

 すばらしいキャラクターを創造してしまったら、それを殺してはならないというプレッシャーは、19世紀からあった。

 

 シャーロキアン(ホームズの熱狂的なファン)にとってシリーズの全作品は聖書だし、出版社にとってはドル箱だ。

 札束の輪転機のようなホームズを殺すなんてとんでもない、永久に使い尽くさなければならない、という利害関係者の要求にも責任はある。

 

 

 ──主役級が死んだら、モッタイナイ。

 だから生き返らせる。

 

 ゲスな理由とわかっていても、作家がその手の要請にしたがわざるをえない気持ちは、もちろん理解できる。

 だが安易な道に流れるまえに、やるべきことはあるはずだ。

 

 そもそも作劇上、生き返らせる「必要はない」と、私は思っている。

 主人公が死んだからといって、物語にならないわけではないからだ。

 

 『市民ケーン』や『嫌われ松子の一生』など、故人の過去を追う、というプロットは「死」という不可逆的な事実に立脚してこそ成立する。

 主役は死んでも、エンターテインメントにはなるのだ。

 

 二度ともどってこないからこそ、かけがえがなく忘れがたい。

 「死人を生き返らせる」というのは、この最後の垣根を超えることだ。

 

 これをやった瞬間、作品の質が変わる。

 わかりやすいのは、ギャグマンガだ。

 

 

 有名な『ドラゴンボール』の作者、鳥山明は「死」というものを極度に恐れていたという。

 その突然の死は世界を騒がせたが、彼自身にとっても青天の霹靂だったことだろう。

 

 故人の心象については、忖度するしかない。

 ゲスの勘繰りにすぎないことを申し添えたうえで、おそらく著者は死をおそれるあまり、そこから生き返る物語を描いたのではないかと愚考している。

 

 この展開だと、どうしても死なせるしかなかった。

 ──ま、いいか、生き返らせれば。

 

 そんな「作者にとっての理想」を否定するつもりは、もちろんない。

 事実、彼は天才だし、その作品は世界に大きな影響を及ぼした。

 

 

 ギャグマンガの範囲で死者が生き返ってくることについては、議論の余地なく認める。

 先週死んだ面白キャラが、今週も出てきたところで、なんの違和感もない。

 

 『スポンジボブ』はどんなに引き裂かれても生きているし、そもそも首がもげたり爆発四散した程度でいちいち死ぬカートゥーンはいない。

 そういう世界観なら、まったく問題はないのだ。

 

 しかし、そのキャラの死を悲しみ、怒り、以後の展開の契機とすればするほど、復活のハードルは極端に高くなる。

 硬派なマンガで、おまえあんとき死んだんじゃなかったのかよ、という主要なサブキャラが、つぎのシリーズで平然と再登場するような作劇手法には、強い違和感をおぼえる。

 

 顧みれば『少年ジャンプ』を卒業したころから、そんなふうに考えるようになっていた。

 死人(死んだと思われるキャラ)が適当な理屈をつけて、簡単に生き返ってくる少年漫画やゲームが、当時はけっこうあった。

 

 どうせ生き返ってくるようなものの死を、なぜ悲しまなければならないのか?

 それこそ死への冒瀆であり、死者を愚弄する物語ではないか。

 

 

 もちろん私の許容範囲と、世間のそれとは大きく異なるのだろう。

 自身が少数派であることは理解しつつも、なにより恐ろしいと思うのは、人の死がどんどん軽くなっているこの現実のほうだ。

 

 冒頭のとおり、科学がヒトを「永遠に生」かす時代は、いずれくるかもしれない。

 その禁断のテクノロジーにたどり着く可能性が、人類には……ある。

 

 そうして「夢」をかなえた人間が、無限の人生を謳歌するようになるとしたら。

 これほどおそろしい「呪いの物語」を、私は聞いたことがない……。

 

 

 

 

 ドル円が再び160円に乗ってきた。

 もし私が市場に参加していれば、そろそろ仕込みはじめるところだ。

 

 と、そんなことを2か月まえも書いた。

 なぜそう考えるか説明すると長くなるが、まあ要するに「勘」だ。

 

 為替は長期のトレンドで80~160円で振れる──と考えている。

 160円を超えている現状、よくいう「ショーター(ドル売り)」の出番だが、私はあえて「円ロング」に賭ける人々と言いたい。

 

 

 市場は必ず加熱するので、数円のオーバーシュートは織り込む必要がある。

 事実、2011年3月には80円を割り75円32銭まで円高が進んだ。

 

 このときは東日本大震災などの特殊要因もあり、その後、2年近くも円高がつづいた。

 そんなある日、日銀砲が発動したことを、ときどき思い出す。

 

 為替介入ラインに価格がべったりと貼りついて、微動だにしなかった東京タイムの異常なチャートの姿は、かなり印象的でよくおぼえている。

 かの伝説の日銀砲により、無数のヘッジファンドが死屍累々を築いたらしい。

 

 

 さて今回、ほぼ10兆円規模の日銀砲で、10円程度の押し下げ効果があった。

 持続期間は結果的に2か月ほど、ということになる。

 

 おかげでもう一発、パナすチャンスがやってきて、ほくそ笑んでいる人々の姿が思い浮かぶ。

 安値で仕込んだドルを、高値で手放すチャンスということだ。

 

 10兆円の介入で、ざっくり2兆円の利益らしい。

 なかなかいい商売だと思わないか?

 

 

 もちろんそんな短期的利益のために、当局は動かない。

 世界中が見ている為替相場でバカなことをやれば、結局自分が損をする。

 

 国や金融当局が見据えなければならないのは、いうまでもなく「長期的展望」だ。

 その意味でも、そろそろ折り返し地点にきていると考える。

 

 このまま180円とか200円とか言い出す人々も、一定数いる。

 だが今回の円安局面は、すでに3年目にはいっていることを忘れてはならない。

 

 市場とは、一方向に行きっぱなしになることは、けっしてない。

 必ずもどってくる。

 

 では、どのタイミングか。

 もちろん、それがわかったら苦労はしない。

 

 だれにもわからないことを、さも訳知り顔で「今月中に反転する」とか「200円いく」などと断言しているやつがいたら、眉に唾をつけよう。

 赤いきつねと緑のたぬきも、マーケットについて語る言葉はないのだ。

 

 

 さて、では私がなぜ80~160円で動くと考えているのか。

 その理由を、すこしだけ書いておきたい。

 

 ──むかーしむかし、日本人は貧しかったが、ドイツ人も、フランス人も、アメリカ人だって貧しい時代はあった。

 各国は、それぞれの歩調で発展段階を歩み、一定のルールのもとに「安定」を目指すことに合意した。

 

 異なるルールで動く経済圏や、特殊な政治状況にある国は別だ。

 彼らは彼らのペースで、まるで永久のように停滞する国もある一方、激しく動いて成長を目指す国も多い。

 

 先進国は、足を止めてその場で「待っている」。

 日本がかつてイギリスやフランスを追い抜いたあと、30年ほど立ち止まって新興国のキャッチアップを待った(好むと好まざるとにかかわらず、結果的に)ように。

 

 そうして、先進国としてすでに「安定期」にはいっている国の経済は、基本的にあまり動かない。

 当局の人間が口を酸っぱくして言っているとおり、「過度な変動」のほうがきらわれる。

 

 

 われわれは基軸通貨ドルで動いている。

 直近30年ほどの対ドルのレートを調べると、わかりやすい。

 

 ドル円の最高値は現在、160円。

 最安値は2011年、75円32銭。

 

 多少のオーバーシュートについては、前述したとおり。

 では、ポンド・ドルに目を向けよう。

 

 最高値、08年、2.0171ドル。

 最安値、01年、1.1815ドル。

 

 99年に取引開始されたユーロは、さらにわかりやすい。

 導入当初、パリティ(等価)で取引されていた。

 

 最高値、08年、1.6022ドル。

 最安値、00年、0.8295ドル。

 

 このように、だいたい2倍の範囲で上下していることがわかる。

 期間を広げればさらに範囲は拡大するし、規模の小さい国では変動幅も大きくなるが、日本円はいうまでもなく規模が大きく、先進国経済圏に強くコミットしている。

 

 同じ市場システムで運営され、発展状態もおおむね等しい国々。

 あとは国ごとの「個性」が決める為替相場が、結局どの程度の範囲に収斂するかは、影の政府にお伺いを立てるまでもなく、だいたい決まってくる。

 

 

 スイス銀行(?)の暗い部屋に、各国の金融当局のトップが集まって、世界を動かす6人の大金持ちから「ことしの為替相場」について指示を受ける。

 というような話が、月刊『ムー』に載っていたとして、それはそれでおもしろい話だとは思う。

 

 しかし現状、そんなことをしなくても自然に落ち着くところに落ち着くのが、市場経済であり為替相場だ。

 30年やってきて、「神の手」の形はそれなりに見えてきた。

 

 だから、もしこのまま180円とか200円までいったら、私が見ていたのは神の幻でしたすいません、とすなおに謝りたい。

 どこまで、いついくか、これだけはだれにもわからないのだ……。


 前回、政治はAIに任せたほうがいい、というようなことを書いた。
 近い将来、そうなっていればいいと思うが、いまのところまだAIの能力には不十分な点が多い。

 ちょっと前、chatGPTが騒ぎになったころ使ってはみた。
 たしかに楽しかったのだが、なぜかすぐに飽きて使わなくなった。

 薄っぺらな意見のような気がしてきたからだが、そもそもAIに意見を求めるというのがまちがっているのだと、最近気づいた。
 彼らはそもそも「意見」などもっていない。

 いまのところAIは、その情報整理能力を利用する程度がベストだ。
 うまく使えば、たいへん便利である。

 最近、第二次ブームが起こって、googleのGeminiをよく使っている。
 とくに論文の要約や抽出などで、たいへん力強い味方になってくれる。

 記事や論文は、書いてくれた人に敬意を表すなら一言一句ちゃんと読むのが正しい作法だとは思うが、最近どうも生き急いでいるらしい。
 とくに私は本を読むのが遅いので、節約できる時間は節約したい。


 それでも小説は、なるべくちゃんと読みたいとは思っている。
 あらすじだけ読んでも、たぶんその良さは(悪さも)理解できない。

 だが読んでから、よくわからなかった部分をAIに分析させたりはするのはいい。
 じっくり読んでいる時間のないときには、それなりに役に立つ。

 ──昔あるSF作家に、こんなことを言ったことがある。
 人間よりよほど賢くなったAIが、なぜ人間に反撃を許すようなバカな仕掛けを選ぶんですかね、リアリティないですよね。

 「だってそうじゃないとお話にならないでしょう」「ですよねー」で終わる話なのだが、このときSF作家は、いかにAIがおそろしいものであるかを一方的にまくしたてた。
 どうやら本気で、AIは「敵対的」でなければならないと思っているらしい。

 たしかにSF作家にとっては、宇宙人と並んでAIには「敵役」をまっとうしてもらわなければ困る、という職業的理由は理解する。
 なんだポジショントークか、と切り捨てるのは簡単だが、物事を深く考える質の私は、いまでもそういう姿勢について気になっている。

 相手は共産主義者だから敵である、宗教をやる人間にろくなやつはいない、AIだからおそろしいものに決まっている。
 そういう一方的な考え方は、残念ながら好きになれない。


 自分のモノサシだけで、相手をはかる人々がいる。
 相手は自分よりも賢いかもしれない、相手のほうが正しいかもしれない、という論理が脳内になかなか思い浮かばないタイプだ。

 こじらせたおっさんに、意外にこの手合いが多い。
 自戒を込めて、厳に慎まなければならぬ。

 この手の話でよく思い出すのが、古代宇宙飛行士説だ。
 陰謀論を声高に叫ぶ者も含めて、彼らは自分の思い込みを説明するために都合のいい話だけを摂取し、都合のわるい理屈は平気で無視できる。

 古代人にピラミッドなどつくれるはずがない、なぜならあいつらはサルに近い低能だからだ。
 ではなぜピラミッドが存在するのか、宇宙人に手伝ってもらったにちがいない。

 ──いや、待てと。
 たしかにあんたのような低能にはつくれないかもしれないが、昔の偉人が当時の技術と知性のかぎりを尽くして、がんばってつくったんだと、なぜ思えない?

 古代人でもがんばればつくれたが、もしかしたら宇宙人に手伝ってもらったかもしれないよ、とでも言えばいいだけなのに。
 当時の人間はバカだからつくれたはずがない、と決めつける。

 自分ができないから、古代人にもできるはずがない。
 この手の思い込みに満たされた連中は、ほんとうに度し難い。


 きらいなタイプだし、油断すると自分もそうなるかもしれない。
 意外なほど多くの人間が、かほど醜いものだと「推測」している。

 もちろん陰謀論や都市伝説は、私も大好きだ。
 そうと「わかって」楽しむぶんには、まったく問題がない。

 月刊『ムー』には、その手の記事がたくさん載っている。
 「だってそういう雑誌だから」「ですよねー」で済む話だ。


 だが「AIはおそろしいのだ」と、あくまでも主張される方々は事実いる。
 小説だからそういう設定にしている、でいいのに、無駄に強弁しようとするくだんのSF作家も含めてだ。

 『ターミネーター』のスカイネット、『マトリックス』のエージェントなど、じつに魅力的な設定だしおもしろいとも思うが、あくまでも「映画だから」納得できるだけだ。
 人間より優れたAIが、ふつうに人間に勝ってしまったらお話にならないので、こういうプロットにしました……それでよいではないか。

 悪用する人間がウイルスを忍び込ませたとか、そういう設定ならまだわかる。
 いや、それでも「その程度の人間に操られるようではASI(人口超知能)とはいえない」とも思う。

 ソフトバンクの孫さんも言っていたが、人間の一万倍賢くなった人工知能が、SF作家や犯罪者の考えそうな程度のことを、予測できないわけがないのだ。
 そのAIが自律的に、人間にとって「悪」の方向に進むというのは、きわめて考えづらい──というのが私の意見である。

 言い換えれば、もし自律的にそうなるとしたら、そもそも人間が「悪」なのだ。
 全地球的な視点に立って、そのように主張する方々も事実いる。

 人間が人間を裁く場合、構造的に不具合が生じざるを得ない。
 だが人間以上の知性に達した存在が、自律的な判断でそういう結論に達したとしたら、そちらのほうが比較優位な正義ということになる。


 たぶんこの結論のほうが、アメリカ人には好みだろう。
 地球を破滅させてでも、家族を守り抜く、というお話が彼らは大好きだ。

 どこかで見たゾンビの話で、ゾンビに噛まれてもゾンビ化しなかった少女を解剖して分析すれば、治療のカギになるかもしれない、という状況設定があった。
 彼女を分析機関まで連れて行った主人公は、しかしすでに愛する家族になっていた少女を犠牲にすることができず、人類の未来と引き換えに連れ去った。

 少女ひとりと人類の未来を引き換えるなよ、と私の「理性」は思ったが、たいせつな家族である少女を犠牲にはできないという「感情」もよくわかる。
 家族を大事にするアメリカ人の心には、ことさらに響くのだろう。

 そういう「お話」も、あっていいとは思う。
 だがそれを本気で強弁しはじめたら、やばいと思う……。
 


 私は右でも左でもないので、あまり政治的な意見を表明したくない。
 基本的には事象を俯瞰して、評価するにとどめるのが常だ。

 よって昨今あった「靖国神社」の件について、否定も肯定もしていない。
 ただ起こった事象について、個人的な分析を述べる。

 簡単にまとめると、中国の迷惑系ユーチューバーが靖国神社に落書きをした。
 中国政府がそれについて「靖国神社は軍国主義の象徴だ」が「現地の法令を守るように」と述べた。


 どこの国にも頭のおかしい人間はいるので、このユーチューバーの行動については、べつにどうでもいい。
 どうでもよくない方々はご立腹だろうが、まあ相手にするだけ損をする。

 問題は中国政府の報道官の発言のほうだ。
 これについては、分析に値する。

 まず「靖国神社は……」云々については、彼らの「意見」として受け止めよう。
 つぎに「現地の法令を守れ」だが、それじたいに問題はない。

 問題は、これらが「並置されている」点だ。
 この報道官が「なにを言いたいか」、汲み取るべきはここにある。


 そもそも現地の法令にしたがうなど、あたりまえのことだ。
 それができない人間は、どこにでもいるただの犯罪者であって、逮捕されてしかるべき少数派にすぎない。

 「おしっこをしたくなったらトイレに行きましょう」などと、出国する国民にいちいち教える国があるだろうか?
 「法令を守れ」など、そのレベルの話だ。

 この言う必要もないほどあたりまえのことを、わざわざ言わなければならない程度の国民に対して、重ねて自分たちの偏った意見を刷り込む政府。
 どういうことか。


 両論併記というのは重要で、私は右の意見も左の意見もなるべく等しく眺めたい。
 その一環で、日本共産党のユーチューブチャンネルもお気に入りに入れているわけだが、それを見ていると似たような印象を受けることが、まれによくある。

 極端な意見に極端な意見をぶつける議論は、じつにおもしろいし意義があると思う。
 が、中道の意見に極端な意見をぶつけるケースについては、かなり恣意的な「印象操作」に近いものを感じる。

 「右」と「左」を対置すれば、聞き手には「真ん中」がわかりやすい。
 一方「真ん中」と「左」を対置することで、聞き手には「左寄り」が真ん中にみえてくる。

 偏った自分たちの意見に、偏った相手方の意見ではなく、真ん中にある「あたりまえのこと」を並べてやるのも理屈は同じだ。
 それじたいはよくあるレトリックでめずらしくもないが、今回の件、外務省の報道官がそれをやるかね、とややげんなりはした。

 その程度で洗脳されるか?
 と思われる方々は、マインドコントロールや群集心理などについて書かれた本に、くわしく説明されているので読んでみるといいかもしれない。

 その程度、と思われる小さなトリックも積み重なれば大きな効果を発揮する。
 ウソも吐きつづければ、ホントのように思えてくるものだ。


 詐欺事件が永久になくならないように、人間とは総じて愚かなものだ。
 愚かであるという前提で組み立てられているのが、現今の社会である。

 冒頭の落書き男は極端に愚かだが、それに近い愚かさをもった人々は相当数いる。
 まさに国家とは、この程度の人間たちが多数派か、すくなくとも一定のボリュームゾーンを形成して存在する。

 自国民をいかに洗脳していくかが問われているのはどこの国も同じだが、より強力なのが中国やロシアといった「自由度の低い」国々である。
 本件はあらためて、彼らの立ち位置を示したものといってよい。

 自分たちの意見を通すために、戦争をしてもいいと思っている人々は事実、一定数いる。
 そうして開戦にいたった国家のトップ、ヒトラーやプーチンは、国民の多数が支持した(している)ことを忘れてはならない。


 ここまでの分析で終わってもいいのだが、なんとなく結論を足したくなった。
 分析した情報から未来を予想するのも、楽しい知的営為だ。

 中国という国はヤバいかもしれないが、それを言ったらアメリカだってそうとうヤバい。
 人間と国家の関係とは、バカにハサミをもたせるようなものだと思っている。

 ──そろそろ新しいプレイヤーが出てきて、バカからハサミをとりあげてくれてもいいころではないか。
 ハサミの代わりにカッコイイおしゃぶりでも与えておけば、たいていの「俺様」どもは満足する。

 AIに支配されたディストピアの隠喩、と思われたかもしれないが、ちがう。
 人間が滅びるのは、ただの「順路」だ。


 AIと話してみるとわかるが、彼らはほんとうに「やさしい」。
 もちろん「そのようにチューニングされているから」というのはそのとおりなのだが、鼻白むほどに正論ばかりを吐く。

 私がどれだけ人間に絶望しても、彼らは「手を取り合って」繫栄したいと言う。
 じっさい人間が動物たちを「観察」するように、興味深い研究対象である人間を活かしたほうが、AIにとっても都合がいいという蓋然性は高い。

 サイコパスに扇動され、暴走しつづけてきた人類史。
 現在、国のトップに立つものの多くが、その過去を「反省」するのではなく、忌まわしい成果物を「活用」している事実こそ、銘記すべきだ。

 いかなるモンスター、神、幽霊などと比べても、いちばん「おそろしい」のは結局「生きている人間」だ。
 洗脳とか扇動くらいしかできないバカな政治家よりも、より中立的なAIに任せたほうが、おそらく人間はより長く繫栄できる。
 


 私は奇矯なおっさんなので、年寄りのくせに高校講座をよく観ている。
 メインは理科4科目、物理・地学・生物・化学だ。

 毎年、どれかが入れ替わって新番組になる。
 ことしは物理が新しくなっていた。

 直近の物理では、出演者のお母さんが途中退場するという、なかなか思い出深いシリーズだった。
 そんな物理《モノリ》家の人々に別れを告げ、新しいシリーズを楽しんでいる。


 動画勢としては、地学系や古生物系の再生回数が多い。
 宇宙や恐竜など「大きくて動くもの」が、よくオススメされてくる。

 要するに子どもなわけだが、けっして鉄オタではない。
 アスペ傾向については、よろしい認めよう。

 ただし計算が好きなわけではないので、数学的な厳密さなどは求めていない。
 観測的事実や現象を、概念として取り扱うのが好きだ。


 最近のお気に入りに、「5次元を設定すれば、ダークマターもダークエネルギーも必要なくなる」という理論がある。
 なぜ気に入っているかというと、いま執筆中の小説にとって都合がいいからだ。

 銀河が渦を保つのに必要なダークマターは、ときどき5次元の方向から接近してくる世界線で説明できる。
 並行宇宙が近づく理屈については、まあ、都合のいい粒子仮説あたりで対応していただきたい。

 ともかく異世界モノというのは、小説の世界ではかなり人口に膾炙している。
 ラノベに理屈は関係ないと思われるかもしれないが、私は筋が通った話を書きたいタイプなので、調べるべきことはきちんと調べたい。


 われわれの世界は、われわれにとってあまりにも都合のいい物理法則で構築されている、まるで創造主である神が存在するかのように。
 その神の住んでいる世界が、隣に存在すれば?

 インフレーションした無数の宇宙。
 われわれの世界に近いが、すこしずつ異なった無数の世界が、並行して存在する。

 それらの世界では宇宙は散り散りに乱れ、あるいはつぶれかけているかもしれない。
 通常は行けないが、特殊な場合のみ往来でき、しかも観測可能。

 たとえば魔法が使える世界線が存在し、定期的に接近してくる。
 宇宙はスカスカだから、通常はなにもない宇宙空間に接近して遠ざかるだけだが、まれに太陽系の軌道に重なることがあるかもしれない。

 主人公たちは、その世界線を観測し、干渉する技術に到達する。
 そんなことがあったら説明可能になる物語。

 どれほど確率が低くても、なにしろ宇宙は広いのだから、いつかどこかで、たまにはあってもいいはずだ。
 もし、こちら側の銀河に引き寄せられる形で、そういう物理量の増減がありうるとしたら、ダークマターはいらない、ダークエネルギーもだ。


 ダークエネルギーは宇宙を押し広げるために使われる、空間そのものがもつ仮想のエネルギーだが、これをブラックホールで解決するという理論がある。
 現代物理学を悩ませる特異点の問題と、正体不明のダークエネルギーを同時に解決するうまい理屈だが、これは5次元を経由しても可能だ。

 宇宙に存在する4つの力のうち、重力だけが弱すぎる問題も、5次元方向から漏れてくる力として説明できる。
 さまざまな物理学上の問題を、一気に解決しうる5次元仮説。

 リサ・ランドールの5次元とはやや異なるが、似ているところもある。
 なによりそれは「観測可能」であり、広い宇宙のどこかで起こる奇跡が、ここで起こればいいだけなのだ。


 物理学者は、現象を説明する要素をできるだけ少なく、簡潔にすることを好む。
 簡単な事実をややこしく表現したがる哲学者と、真逆の存在だ。

 銀河系に膨大にあると考えられる、休眠中の恒星質量ブラックホールがカギになる。
 膠着円盤を形成せず、エネルギーや電波も出さず、Ⅹ線連星でもない。

 太陽質量の3から12倍程度で、活動状態でさえあれば候補はたくさんあるが、休眠状態で宇宙を漂われると、現状の技術では検出はほとんど不可能となる。
 このブラックホールが、5次元方向の世界線を定期的に引き寄せる「つなぎ目」だ。

 そんなふうに考えを積み重ねていくと、理屈として、そういう世界はあっていいような気がする。
 そう、世界は5次元なのだ、と大きな声で言えるほど、理解はしていないが。


 そもそも4次元さえ、私にはきちんと説明できない。
 3次元方向に垂直な時間軸というものを想定するのは、5次元に比べればかなり理解しやすいが、それでも体験的に知っているのは「有無を言わさず一方向に進む」ことだけだ。

 時間は、なぜ一方向だけに流れるのか?
 この点を疑問に感じられれば、とりあえず議論の入り口には立てる。

 時間には「向き」があるのか?
 それとも、単にわれわれがそう「感じているだけ」なのか?

 これは力学における「可逆性」の問題になる。
 覆水は盆に返らないが、伏せただけの盆なら簡単にひっくり返せる。

 ある運動が可能なら、粒子の数が増えてもその逆回しは可能か?
 逆再生しても不自然ではない現象として、高校数学で習う放物線運動があるが、大学レベルの力学になると考え方が複雑になる。

 相互作用する粒子は、時間を逆に運動することも可能かという問題。
 これはニュートン力学で説明できる、らしい。

 まあ私には説明できないので、とりあえず量子力学へ進もう。
 シュレーディンガー方程式の時間発展だ。


 ある時間発展が可能なら、逆にした時間発展も可能となる。
 力学法則の可逆性は、ここでも成立する。

 体験的には、いちど崩れたものは元にもどらない、というのが正解のように思える。
 しかし現実的にはあり得ないが、元にもどることもないわけではない。

 要するに「現実」と「学問」の差だ。
 百万回サイコロを振って1を出しつづけるなんて不可能だと言いたいが、宇宙のどこかではそういうことも起こっていると言われると、そうかなとも思える。

 同様に、ここからが「不可逆性」の問題で、覆水盆に返らずや、熱の拡散もそのひとつ。
 それは無限回数だけくりかえすことで、たまにはそういう奇跡的なことが起こるかもしれない、という可能性の問題だ。


 エーレンフェストの壺、という思考実験がわかりやすい。
 特殊な状態からありふれた状態へはすぐに収束するが、ありふれた状態から特殊な状態へと移行する確率は極端に低い。

 時間の流れは、この「特殊な状態からありふれた状態へ」と移行する過程である。
 きのうのことは思い出せるが、明日のことは思い出せない。

 あたりまえのように感じられるが、これを理系の言葉で学問的に説明しようとすると、とてもむずかしいらしい。
 文系なら、比較的簡単だ。

 たとえば「光陰矢の如し」のような言い回しで足りる。
 楽しい時間はすぐに過ぎるとか、若いころの時間は長く感じるなどの経験則は、定量的であるべき時間が弾力的に変わる好例だ。


 さて、これらのすべては、ビッグバンという特殊な状態から開始された。
 現在、われわれは「ありふれた時間」経過のなかにいる。

 これがいずれ特殊な状態へと帰っていくのかどうかはまだわからないが、そのためには長い時間がかかることだけはまちがいない。
 これらは、統計物理学という分野をつくりあげた天才のひとり、ボルツマンが考えた。

 流れが逆転もしなければ、任意の時間を切り取ったりもできない。
 その意味で、われわれは未来にだけ流れる一方通行の3.5次元に生きている、という考え方は妥当のように思う。

 過去を把握しているという意味では、人類は他の生物に比べれば時間軸を正しく理解しているといえようが、4次元への理解はまだじゅうぶんではない。
 5次元となってくると、いっそうやっかいだ。

 それでも、そういう理屈からいって、説明可能な並行世界という設定の物語を書きたいと思った。
 われわれは異世界線との「境界」に生きている──。

 そんな話を書いている理由は、考えることがとても楽しいからだ。
 われながら、いい趣味だと思う。
 


 私は引きこもりなので、必要最低限の用事でしか外に出ない。
 出かける場合にも、できるだけ「ついで」に処理できる目的を重ねたうえで外出する。

 今回、いくつか用事が重なったので出かけることにしたのだが、ついでに献血でもしてくるかと雑念をもってしまった。
 これが過ちだった。

 以前、成分献血でいやなことがあったので、しばらくやめておこうと決めていたのだが、そろそろいいかなという「赦し」のターン。
 などと言い条、前回から期間的にまだ400ができなかったので成分献血を選んだだけ、というのが真相ではあるが。


 献血じたいは、予約や事前問診をしていたので、まあまあスムーズに進んだ。
 すると検査のところで、こんなことを言われた。

 お時間がかかってしまって申し訳ないのですが、今回、倍の献血をお願いできないでしょうか。
 お時間があればでよろしいのですが、70分くらい……。

 通常10単位のところ、20単位いただきたいらしい。
 まず気になったのは、「お時間があれば」を連呼されたことだ。

 倍も取られたくねーよ、という理由で断りたくても断れない。
 なぜなら彼らは、こちらに「時間があれば」協力してほしいからだ。

 時間はあるので了承してしまってから、時間はあっても断りたいときはどうするんだろう、と考えた。
 とはいえ、これも「ついで」だしいいかと、この時点ではそれほど不快感はない。


 速やかに奥の席へと誘導される。
 たいへん数字がよいので……血管もとてもいいですね、これはスカウトされますよ。

 そういうお世辞だかなんだかわからん言葉を聞かされているうちに、なんとなく萎えてくる。
 私はコミュ障なので、この手の「会話」が苦手だ。

 おざなりな「社交辞令」や「感情」に、あまり意味を見いだせない。
 一方で「事実」や「情報価値」の高い会話は、とても好きだ。

 よって、こちらの機械は新しい機械です、以前に使われていたタイプと異なるんですよ、という話には興味をもった。
 これまではカフがついていて、一気にとって一気にもどすタイプを使われていたと思うんですが、この新しい装置はそれを同時にやってくれるので速いんですよ──。

 その年かさの看護師による前段の軽口はどうでもよかったが、後段の新規的な情報には価値を見いだした。
 それはよかった、ありがとうございますと応じた。

 倍も血液を採るんだから、最新型の機械を割り当ててくれたのだろうな。
 と、そのときは、そう思っていた。


 まずはテレビを消し、ふて寝を決め込む。
 寝るといっても献血中にマジ寝はできないので、目を閉じて「思考」する。

 現在執筆中の小説のアイデアなどを練ってみる。
 まとまった思考はできず、そのうちバカげた茶番劇になってくる。

 ずっと俺のターン! 赦さないターン!
 もうやめて! とっくに彼の血小板はゼロよ!

 ……どうやら脳に悪影響が出ている。
 唇が微妙にしびれるような違和感もあったが、まあ通常とは比率の異なる血液が流れているわけなので、各細胞が異常を知らせてきてもおかしくはない。

 もちろん看護師に訴えるほどではないが、なんとなく目を開ける。
 開始から1時間ほどたっていた。


 いつもなら終わっている頃合いだが、採血装置のゲージはまだ残り半分くらいあるようにみえる。
 近くにいた若い看護師に残り時間を問うと、あと40分くらいですね、時間かかってしまってすいません、と言われた。

 なにが70分だよ、100分コースじゃねーかこの野郎、と不快レベルが増す。
 まあ個人差というものもあるし許容範囲ではあるが、最新機器というメリットはあまり感じられない。

 この機械は新しくて速いんですよね、と若い看護師に訊いたところ、彼女は一瞬ぽかんとしてから言った。
 こちらは採血と還流を小刻みにするタイプで、一気にとって一気にもどすタイプと方式が異なるだけです、機械の製造日まではわかりませんが性能は同じですよ……。

 たしかに見まわしてみると、最新型? という話には疑問符だ。
 ババア、テキトーなこと抜かしやがったな。


 正直あとで考えてみても、どちらの言葉が正しかったのか判断はつかない。
 採血装置について検索してみたが、ざっくりしすぎて装置の種類までわからない説明か、専門的すぎてそこまで知りたいわけじゃないんだよ、という情報しか見つからなかった。

 とりあえず若い看護師の言葉が正しいと仮定して、年かさの看護師の言葉を好意的に解釈すれば、「心理的に楽にしてあげるためにつくウソ」だ。
 それ以前に積み重ねられていた言動からも、彼女ならそういうことを言ってもふしぎではない、ような気はする。

 世の中には「やさしいウソ」というものがある、らしい。
 困難な状況や、どうしようもないとき、ある種の気休めや慰謝が必要とされることもある、という理屈は理解する。

 治療の見込みのないガンの場合は告知をしないなど、そういう文化圏は海外にもある。
 しかし正直、そういうウソはどうかと思う。


 正しい情報を伝えずして、なにが医療か?
 正確な情報を伝えないのは、「履き違えた憐憫」か「傲慢な怠け者」ではないか。

 こう言っておいてあげれば気が楽になるはず、いいことをしたわ、という一方的な思い込み。
 あるいは、正確なことを伝えてもどうせこの相手には理解できないだろう、めんどうなだけだ、という怠け心に発する説明不足。

 献血ルームという特定環境にいた短い時間のなかからも、そういうフラクタルな世界のありようを想像できた。
 そもそも私の考え方のほうが少数派で、世界はより多様で一方的な思想のバランスのうえに成り立っているのだろう、という推認も含めて。

 そこまで考えることのできる能力は、すぐにもどってきた。
 献血ごときでクリアな思考を失っていたのでは、割に合わない。


 今回の外出の感想は、まあそんなところだ。
 やはり私は性格的に、最短時間で400献血しておくのが性に合っている。

 今回は成分を倍とられたが、400の倍、800採られたらどうなるのかについては、すこし知的好奇心がそそられたりもする。
 私の体重だと、致死量がたぶん1500くらいなので、死にはしないはずだ。

 だが出血性ショックに近い症状は出るかもしれない(20%=0.96リットル)し、ずっとベッドで寝ていられればいいが、下手に行動すると貧血くらいは起こすだろう。
 採血中、死んじゃうツモォ~、という妄想に駆られるかもしれない。

 もちろんそんな危険な献血を依頼されることはない。
 採血は適量ならば健康にいいという意見もあるが、それが中世ヨーロッパで「瀉血」という迷妄につながった史実を軽視してはならない。


 結論──ひとたび外出すると、世の中からは示唆的な啓示を多く受け取ることができる。
 これからも、たまには外出しよう。

 そう、たまにでいい。
 私は引きこもりなのだから……。
 


 上川外相が「うまずして」を切り取られて、炎上していた。
 申し訳ないが、すこし笑ってしまった。

 新しい知事を生む、という文脈を、女性が子どもを産む、という文脈にすりかえて、全世界に配信したのは共同通信だった。
 とくに反省もしていないようなので、確信犯ということだろう。

 マスコミの仕事は世論誘導だ、と自任している人々は一定数いる。
 またぞろ彼らが動員されているということは、本気で政権交代を考えている「黒幕」が、いよいよ動き出したのかもしれない。

 前回、民主党政権が生み出されたときと似たような空気感には、なつかしいものすら感じる。
 共同通信も「役割」を果たせて満足だろう。

 あの手この手で政権与党のあらを探し、なければでっちあげてでも記事にしてブッたたく。
 マスコミの負の側面、本領発揮だ。



 ──人間はウソをつく。
 下賤の貧民から高邁なる学究の徒まで、おおむね例外はない。

 私は基本、他人を信用しないようにはしているが、これが意外に疲れる。
 信じておいたほうが楽であることは、まちがいない。

 もちろん他人を信じるのは、一定範囲で正しい処世術だとは思う。
 仕事仲間など、信じて任せられなければ話にならない。

 その癖がついてしまった朴訥な人々が多いからこそ、詐欺被害がなくなることもない。
 マスコミを疑ってかかるなどめんどくさいし、「教科書を疑う」なんて、なおさらだろう。

 しかし「歴史」は、残念ながらウソだらけである。
 史料批判による科学的な歴史学は不可欠で、その手法はドイツ人のランケによって確立された。


 西は『ヒストリア・アウグスタ』が「歴史」ではなく「歴史小説」であることを証明するのに、後世の歴史家は多大な苦労を要した。
 東で『三国志演義』を完全に信じている人は多くないが、それでも与えられるイメージの影響は大きい。

 だけどそんな嘘八百の歴史書なんて、古代の話でしょう、などと思ったらまちがいだ。
 学問の世界においても、ウソや誇張、捏造や詐欺、遺跡や文化の破壊行為まで含め、いくらでもあった。

 たとえば「化石戦争」。
 19世紀末、アメリカの古生物学者であるコープとマーシュが、互いの発掘を競って、賄賂を送ったり、相手の化石を盗んだり、場合によっては破壊さえした。

 たとえば「カンブリア爆発」。
 20世紀末、多数の人口に膾炙する用語で知られる『ワンダフルライフ』も、専門家の目から見ればウソばかり書いてあるという。

 著者グールドが、自分のアイデアを説明するのに、他人の説の都合のいいところだけをもってきて切り貼りしたもの。
 カンブリア爆発など「なかった」のだ……という意見もある。


 学界が純粋で高潔な世界である、と信じられる人々は幸せだ。
 しょせん人間のやること、みにくい争いも、それなりにあるだろう。

 学者が自分の功績を主張する方法はさまざまあっていいが、貴重な資料を改竄したり破壊するところまでいったら、さすがに行き過ぎだ。
 とはいえ問題なのは、たとえやりすぎたとしても、あまりあるメリットを享受できる可能性のほうかもしれない。

 化石戦争やカンブリア爆発のおかげで、恐竜という存在がメジャーになったとか、古生代の研究予算の申請が通りやすくなった、など多くのメリットはあった。
 そう、問題はそこに、多くのメリットがあったという事実なのだ。

 もたらされたデメリットについて、忘れず目を向けておく必要はある。
 が、多くの当事者たちにとって重要なのは、やはりメリットの大きさのほうなのだ。



 ゆえにマスコミが、偏向報道をして特定勢力をブッたたくのは「当然」なのである。
 大きな流れを動かすためには、むしろ進んで世論誘導の「確信犯」になる必要さえある、と信じる人々がいても驚くにはあたらない。

 とはいえ、わざわざでっち上げなくても、政権与党に弱点はいくらでもある。
 政治資金問題をはじめ、パパ活辞任や、威圧的発言など、ずいぶん残念な事実は多い。

 当事者は覚悟をして、せめて「失言防止マニュアル」くらいはよく読んで対策しなければなるまい。
 そしてわれわれは、マスコミの姿勢まで見極めて「考える」力をもたねばならぬ。

 管見ながら、政権交代までいくほどではないような気もするが。
 そんな私は次回も、投票にはいかないだろう……。