田舎に住んで6年になる。
その間、何度か「神さま」に会った。
興味深いと思った方はもちろん、私にいい病院を紹介してあげようと思った方も、とりあえず読んでいただきたい。
そのような超自然的な存在を信じない人にも、納得がいく「理屈」は立つ。
私自身、基本的には不可知論者だ。
が、神さまは、もしかしたらいるかもしれない……。
どんな神に会ったか?
それはシスティナ礼拝堂の天井にいる老人でも、プロジェクトXに出てきそうな生ける神でもなく、ありていにいえば日本に八百万ほどいるらしい神の一柱。
おいなりさん、と呼ばれるのが正しいのかもしれない。
ふと目を覚ました私を見下ろしていたのは、たしかにおキツネさまだった。
そういえば家の裏に、ちいさなお稲荷さんの祠がある。
ご帰宅かな、と思いながら、そのおキツネさまと、なんとなく交流した。
言語によって会話したわけではない。
そもそも神さまが、人間ごときの言語を使用するとはかぎらない。
しかし意思疎通はできた……気がする。
その結果によると、どうやらこの家は神さまの「通り道」に建っているらしい。
おキツネさまは、ひょいと私の上をまたいで通りながら、何事かを伝えてきた。
もちろんすべて、ただ私がそれを見た気がするだけ、そんなことを言われた気がするだけ、であるが。
邪魔だなとか、退去しろとか、そういうことは言われなかった。
ただ、「おまえがここに神さまのための道をつくると言うなら、認めて進ぜよう、やるがよい」という意思が伝わってきた。
神さまは地上げ屋でも行政でもないので、私に退去を命じたりはしなかった。
あくまでも私が自分の意志で、神さまに土地を献上しなければならぬ。
ただ、そんなことをしたら私は住むところがなくなってしまう。
ホームレスになるのはいやですぜ、神さまや、という「交渉」のターンが開始された。
ところで私は、かなりのミニマリストだ。
必要以上のものを所有するつもりがなく、死んだらすべてが無に還り、あの世にもっていけないカネも土地もそれほど必要ない、という思想をもっている。
だから、当初からあまり抵抗はなかったのだが、それでもせめて「死ぬまでくらいは使わせてくださいよ」とは思った。
法的にも土地ともに「持ち家」なので、日本国政府さえも私をここから排除することはできない。
そもそも神さまにとって、時間などはたいした意味もないはずだ。
だからここが神さまの通り道だとしても、私が死ぬまでの何十年かくらいは貸しておいてくれても罰は当たらないのではないか、という主張には汲むべき情状があるはずだ。
なるほど、と神さまはうなずいた。
ならばおまえに、代償を授けよう。
と、このあたりがおキツネさまのおキツネさまらしいところ、と言えるかもしれない。
お稲荷さまといえば、だれがなんと言おうと「現世利益」の神だ。
神さまお願いします、私にはこのような望みがあります、どうかひとつ。
ありがとうございました、おかげで望みがかないました、これはお礼です。
という展開が、お稲荷さまにおける基本ルーティンである。
そういう相互利益がわかりやすかったから、ウカノミタマの古代時代から伊勢屋稲荷に犬の糞の江戸八百八町まで、これほど隆盛を誇ったのだ。
神さまが与えてくれたものの分だけ、こちらもお返しをする。
それ以上でも以下でもない、ビジネスライクな現世利益の契約を、私と締結しようとしている?
それならいいですよ、と私はうなずいた。
あなたが私の夢をかなえてくれるなら、あなたの通り道を整備しましょう、と。
……というわけで、もし「夢」がかなったら、私は神さまのために家や土地を手放さなければならない、という契約をしたことになる。
最後に、その「夢」について話しておこう。
じつのところ、いまさら「夢」というほどのものでもない。
それはなかば捨て、あきらめた昔日の残骸にすぎない。
しかしまあ認めよう、たしかに私には小説家になろうと思っていた時期があった。
たまにここでも書いているので、もう恥ずかしくもないが、いわゆるワナビだった。
デビューを目指すワナビにとって、「賞」は最大のターゲットだ。
その執着はすさまじく、発酵した承認欲求が、必死にすがりつき、ひねこびて、あるいは反発のターンにはいる、かなりやっかいな概念だと思う。
とある掲示板に集まる彼らの「魂の叫び」を眺めていた時期もあったが、かなり背筋がぞくぞくしたことを思い出す。
自分もこのなかのひとりなんだと思ったおかげで、夢をあきらめることができた、とすら言えるかもしれない。
彼らはさまざまな手段でデビューを目指し、その失敗談について消費する。
たまには賞賛もあるが、たいていは怨嗟と怨望の罵詈雑言、いわゆるルサンチマンというやつの塊だった。
寄らば大樹の陰、迎合したい側は、選ぶ側の気持ちなどを忖度し、「傾向と対策」を仕上げて「受験」する。
テストなら比較的公正だが、選ぶ人が正解だとはかぎらないのが「賞」だ。
その不正解かもしれないターゲットに向けられた作品が受賞すれば、それでもそこそこ成功することもあるが、爆死することもある。
どの程度確率がいいかというゲームにすぎない、と俯瞰するワナビたちもいる。
もちろんプライズの種類によっては、これまでがんばった人に与えましょうという目的を達成しているかぎり、まちがいではない。
ノーベル賞などはその代表格だろう。
だが「新人賞」という時点で、あやしくなる。
システムそのものが、だいぶ不具合をきたしていることは、当事者も理解しているはずだ。
芥川賞でさえ、売れない時代。
そもそも本を読むことじたいが、高すぎる趣味性の時代になった。
そんなわけで、私がその手の「賞」に応募することは、おそらくもうない。
そもそもプリンタが壊れてしまった(笑)。
しかしさいわい、印刷できなくてもいい時代になった。
ネット小説という手がある。
多くの出版社がここに参入してくるのは、理解しやすい。
ここはある意味、出版社のリスクを最小化させるものになっている。
自分たちの宣伝によって人気を出そうというのではなく、自分たち以外のだれかによってすでに人気が出ているものを売ろう、という算段。
サイト内でさまざまな「賞」が駆動する「小説家になろう」などは、その傾向が強いような気がする。
KADOKAWAの「カクヨム」は、それでもいち出版社の影響力のもと、ある程度の売る努力はあるのかもしれない。
現在絶賛賞レース開催中だが、結局は「自分で売ってくれる作者を探す」場になっている。
当初、この業界への参入は、あまり気が進まなかった。
まだ旧来型の思考回路が強かったせいで、大きな賞を取って颯爽と文壇に登場する超新星、みたいな夢をみた時期もあった。
明確に言えるのは、これが過去形であること。
現在もう、とうにそのような夢は砕いた。
病んだ心を抱えて生きているうちに、むしろ「静かに暮らす」ことのほうが重要であり、プライオリティを置くようになった。
その証拠に、私は田舎にたどりついている。
好きな時間に起きて寝て、好きな時間に食べて出して、好きなように考えて書いて、つまりほぼノーストレスで生きている。
私は正解を引いたのだ、という思いは非常に強い。
そこに現れたのが、神さまだった。
寝た子を起こそうとでもするかのように、思い出せ、と。
もしかしたら私にもまだ「願望」があって、それがそのような「幻覚」を見さしめたのたではないか、という論理的思考はもちろんある。
神に仮託して、いまさらジロー夢をかなえようとしているだけ、と思われる方はそれでもいい。
しかし気が進まないというのも、正直な気持ちなのだ。
いまさら忙しくなりたいという気が、それほどない。
それでも自分の精神にとって書くことは重要なので、自分のために書きつづけはするだろう。
あくまでも趣味で納得のいくものを書けていれば、その人生は成功だと思う。
そうして、それなりのものが積み重なってきていた。
これを「役に立てる」ターンがめぐってきた、と考えるのはまちがいだろうか?
最近、地元で地方創生に寄するような活動があり、私もそれに参加している。
私が幻視した「神の道」は、彼らの活動とも符合する。
彼らの協力を得て、それなりの読者が得られたなら、それはカドカワのお眼鏡にかなうかもしれない。
そしてもし物事が動き出せば、私は住む家をなくすことになる。
……さて、捕らぬ狸の皮算用もこのくらいにしておこう。
神がいると思う方、あるいは興味をもってくれた方は、カクヨムで「群馬」とか「安中榛名」あたりで検索すると、私の名前が見つかる。
もし読者選考を抜け、結果を残したなら……。
まあ、なるようになるだろう……。