東海自然歩道は東京の高尾国定公園より、大阪箕面国定公園までの1697.2kmを結ぶ

狭井神社(さいじんじゃ):三輪の神様の荒魂(あらみたま)をまつる神社。力強い神威から病気平癒の神様として信仰が篤い。4月18日の鎮花祭は上古からの由緒をもち、薬祭りとして知られる

万病に効くという薬水が湧き出る薬井戸がある。ご神水を汲みに来られる方が絶えないという

狭井神社の横に三輪山の登拜口があります

狭井神社で入山申し込みをします

三輪山467m、古来より神の鎮まる山(神奈備山・三諸山)として仰がれてきました
大神神社は本殿を設けず、拝殿からその奥にある三つ鳥居を通し三輪山を拝する
わが国原初の神祀りの様を今に伝えている
このことと、鎮座の由来が日本書紀・古事記等の古典に見えていることから、我が国最古の神社と称されている
大美和の杜へと歩を進めた
展望台があり、恋人の聖地とされています

謡曲「三輪」の舞台として有名な玄賓庵

本来は大神神社の境内・北檜原にあった

しかし明治維新の際に神地に仏堂を持つことが禁止されたために、明治元年現在地に移転された

山吹の立しげみたる山清水汲みに行かめど道の知らなく…高市皇子

山号を三輪山とし、現在は高野山真言宗

玄賓僧都の経歴ははっきりしないが、俗性は弓削氏で河内国の人物らしい

興福寺で学んだが、一族である道鏡の専横を憎んで放棄の山中に隠れ、その後、桓武天皇の病気を治したことなどもあって僧官に任ぜられた
しかし備中国湯川寺に隠れ、嵯峨天皇の弘仁9年(818)に没した
「三輪川の清き流れに濯ぎてし衣の袖はさらに汚さず」、と詠んで姿をくらましたといわれる
空海との交遊も知られており、平城天皇が玄賓を大僧都に任じようとしたとき、上記の歌を詠んで姿をくらましたといわれている
玄賓が三輪に隠栖していたのは最晩年であり、謡曲「三輪」はこの玄賓を主人公として、三輪の神の神婚説話を織り込んだものである

古の人は西国浄土の山と崇めた二上山

右が雄山、左が雌山

味酒(うまざけ)三輪の山あをによし奈良の山の山の際(ま)にい隠るまで道の隈い積もるまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放(みさ)けむ山を心なく雲の隠さふべしや・・・額田王、近江国に下りし時作る歌

反歌

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや…天智天皇

大和政権は百済救済のために朝鮮半島に援軍を出しますが、「白村江の戦い」で大敗し、百済は滅亡
唐、新羅の連合軍が日本列島に攻め込んでくると云う国際的な状況の中で、天智天皇は、明日香から近江国へ遷都することを決意された
三輪山に坐す大物主神は、王権にとっては絶大なる偉大な守護神であり、三輪大神の守護なくしては王権の存続はなく、またその怒りに触れることを最も畏れました

そこで当世一流の巫女歌人・額田王をもって三輪大神を慰撫し、益々の加護を乞い願いつつ、言葉を尽くした歌を作らせました
近江遷都に際しては、山の辺の道を北上して、大和と山代の国境の奈良山まで振り返り、振り返りながら、なつかしい三輪山の姿を見つつ、やって来ましたが、ついに国境で三輪山の姿が見えなくなります
大和の国つ神である三輪山の大物主神との惜別の情を心込めて歌い上げた額田王のこの歌は、万葉集の秀歌の中の秀歌であります

天智天皇は、この後すぐに近江の国に三輪大神を勧請されます。現在の日吉大社のあの有名な山王祭りの「西本宮」の社殿がそれです

(大神神社崇敬会会報・鈴木寛治宮司)