謡曲「三輪」の舞台として有名な玄賓庵
本来は大神神社の境内・北檜原にあった
しかし明治維新の際に神地に仏堂を持つことが禁止されたために、明治元年現在地に移転された
山号を三輪山とし、現在は高野山真言宗
玄賓僧都の経歴ははっきりしないが、俗性は弓削氏で河内国の人物らしい
興福寺で学んだが、一族である道鏡の専横を憎んで放棄の山中に隠れ、その後、桓武天皇の病気を治したことなどもあって僧官に任ぜられたしかし備中国湯川寺に隠れ、嵯峨天皇の弘仁9年(818)に没した
「三輪川の清き流れに濯ぎてし衣の袖はさらに汚さず」、と詠んで姿をくらましたといわれる
空海との交遊も知られており、平城天皇が玄賓を大僧都に任じようとしたとき、上記の歌を詠んで姿をくらましたといわれている
玄賓が三輪に隠栖していたのは最晩年であり、謡曲「三輪」はこの玄賓を主人公として、三輪の神の神婚説話を織り込んだものである