ジャーナリスト 石川秀樹 -48ページ目

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。



「新城あんな」名のスパムアカウントを、あろうことかfacebookが「知り合いかも?」と推奨してきたことを昨日、ご報告した。
言いたかったことは、機械がやっている作業であるから、うっかり信用せず、スパムに手を貸さないようにしようということだ。
そして、ユーザーとしてこれだけはやっておいてほしい。
挙動がおかしいユーザーがいたら、facebookに対して必ず「スパム報告」をしておこう
報告すれば解決するかと言えば、これは全然あてにはならない。
あてにならずカリカリさせられる一方だが、いまfacebook上で起こっていることに対してfacebook側には責任がある。
度重なるスパム報告があれば、長い目で見て、facebook側が改善に乗り出す可能性はある。
いや、そうしてもらわなければならないのだ。
健全なSNSの発展のために。


しかし残念ながら、「新城あんな」的スパムな連中は後を絶たないだろう。
実際に、facebook側が適切な対処(アカウントの凍結、追放)をしてくれたところで、連中には痛くもかゆくもない。
現実に200いくつも似非(えせ)アカウントを次々に作れるのだから、名前を変えてまた作るだけのことであろう。


この点、facebookにはまじめに対策を練ってもらわなければならない。
強固で厳密な認証方式の導入だ。
そうでなければ、あなたはいつでも誰かに「なりすまされる」危険を抱えることになる
あなたのような顔をして、友達の間を偽物が荒らし回る。
最悪だ。
しかし可能性はある。


悪意あるだれかはフリーメールを取得するだけでいい。
そして、あなたの名前とプロフィール写真を使って、いつでも“あなたとしか思えないアカウント”を申請する、それはfacebookによってすみやかに認証されるはずだ。
こんなことが横行すれば(現に横行している)、あなたが困るのはもちろんのこと、facebook自身にとっても信用問題だ。
事実上『実名のSNS』の信用は失墜する。
凋落は時間の問題となろう。


■   ■
さて、facebook側への苦言はこれくらいにしておいて――
こうしたスパムな連中と共存しているfacebookを僕らはどのように使えばいいのか、ということだ。
facebookユーザーには、主に3つのタイプがあると思う。
1に、facebookで近しい人たちと交流を楽しみたい人。
2に、親しい人とだけでなく、広く多くの知見を得たい人。
3に、facebookをビジネスに、人脈づくりに、自己ブランディング確立に役立てたい人。


(3)の場合は簡単だ。リスクを覚悟の上で、友達リクエストを承認していく。
その場合でも次の2点は留意しなければならない。
申請者の写真とプロフィールとウォールを必ずチェックすること
男性の場合、モデルのような若い女性は要注意だ。
画像検索すればたいてい引っかかる。
スパムな連中は手抜きが多いから、プロフィールはいい加減だ
(スパムであろうとなかろうと、プロフィールが雑な人から得られるものはあまりない)。
ウォールに書き込みがない、あるのは承認されたことへのお礼ばかり、などという場合は即刻「スパム報告」だ。
②こうしたチェックをしていてもすり抜けられる場合がないわけではない。
そこで、“敵”に利を得させないように注意しなければならない。
敵の狙いは、あなたへの甘い勧誘でないとすれば、あなたの友達の個人情報を盗み取ることだ。だから、友達にリスクを負わせないよう「友達の公開範囲」は「親しい友達のみ」などに限定しておく


(2)の場合も、留意点は(3)と同様でいい。
(1)の場合はさらに明解である。
「実際に会った人でなければ友達リクエストを認めない」ということでいいと思う。
これなら「新城あんな」に出会う確率はほぼゼロになるし、万が一申請があったとしても無視すればいい。


■   ■
言わずもがなのことではあるが、ここでひとことだけご注意申し上げたい。
僕のような団塊の世代は競争社会に生きてきた。
だから、なんでもかんでも競争意識が働いてしまう。
facebookを始めても、つい「友達の数」が気になったりする
また若い人たちの間で、facebookの友達が何人いるかがステイタスになっているという話も聞いた。


いずれも、意味のないことである
はっきり言えば、友達が3000人いようが5000人いようが、そんなに大勢の人と交流できはしない。
いいね!の数もコメントも(友達の数ほどには)増えない
自分の投稿も、友達が多ければ多いほど “拡散していく”と考えているとしたら、勘違いというものだ。
facebookの投稿は、交流のある人たちだけにしか伝わらない。
ツイッターなら1万人フォロワーがいれば、とりあえずその1万人のところに投稿は到達する。しかしfacebookにおいては、友達全員のニュースフィードに投稿が到達することは保障されていない
この辺はていねいに説明すべきだが、長くなりすぎるので、また別の機会に書くことにしたい。
とにかく、facebookでは友達の多寡が反響の大きさに比例することはない、ということを覚えておいてもらいたい。


facebookの友達の平均数は「130人」である。
まあユーザーとしての僕の体験から言っても、きちんとお付き合いできるのは100人前後というのは当たっている。


■   ■
ここまでは防御の話。
それでは、『この人の投稿はずっとフォローしていきたい』という人が見つかった場合、どのようにしたらいいのだろうか。
この場合は、オーソドックスにいきたい。
多くの人は『めんどくさい』と思うだろうが、メッセージも出さずに友達リクエストを出すのは論外だ
名乗りもせずに「友達になってください」と言うようなもので、リアルな社会では通用しない。そしてfacebookでの礼儀はリアル社会と同様か、それ以上に厳しいと考えておかなければならない。
リクエストを出す前に、フィード購読をするのが理にかなっている。
そこで「いいね!」を押し、コメントをする。
相手との交流ができ、互いに信頼がおけるようになってからリクエストすれば、相手もそれに応じるだろう。
リクエストをされた人はどのように相手を見ているのか、格好な例をfacebook友達の飯田計さんが書いている。
友リクする人は最低限、この規準を満たすよう配慮しなければならない。


≪飯田計さんの友リク規準≫
友リク承認にあたっては、次の方は基本的にお断りしています。
 ○実名・顔出しをされていない方
   (FBの基本です)
 ○ウォールを開示されていない方
   (どんな使い方をしているのか判断できません)
 ○メッセージの書き込みを拒否されている方
   (連絡の取りようがありません)
 ○ウォールにご本人の書き込みが見当たらない方
 ○営業・宗教等の活動のためのみに利用の方
また、一方的なリクエストだけの申し込みは、私のプロフィールを読んでいないと判断し、基本的に「保留」扱いさせて頂いています。
一言リクエストへの想いなど寄せて頂ければと思っています。


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13日(土)僕は「知り合いかも?」に有名人が続々登場し、奇異な感じがすると報告した。
その中に「新城あんな」の名があった。
聞いたことのある名前。うつむき加減、長い髪、目をつむった憂い顔の美人。芸能人のひとり? いや、違う。どこかで「新城あんなはスパムです」と読んだような気がする。

〈まさかね。そんなスパムアカウントをfacebookが推薦するわけがない……〉

念のためgoogleで「新城あんな+スパム」で検索した。
出てしまった!ズラーッと
。fb友達の情報を抜き取ろうとする名簿屋か? 
ネットの情報ではもっと悪質だった。「出会い系」の高額メールサイトに誘い込むための釣りアカウントだと、何人かが説明している。

hidekidos かく語り記



facebookでも検索してみる。
「新城あんな」
見事なくらい同じプロフィール写真が並んだ!
居住地:焼津市、富士宮市、富士市、伊東市……とあるから、近頃は静岡県で荒稼ぎをしているようだ。ちなみに僕の「知り合いかも?」に登場した「新城あんな」は熱海市で、45人の“友達”を獲得していた。
一体いくつアカウントがあるだろう。
1ページでは終わらない。「結果をもっと見る▼」を何回押したことだろう。ざっとの数だが、250個の「あんな・安奈・杏奈・Anna」がいる! 
文字通り「北は北海道から九州、沖縄まで」だ。各地で2、30人~80人くらいまでのカモ(と言っていいだろう)を釣り上げている。焼津市などではご丁寧に、「新城あんな」と「新城安奈」で2回も登場、それで43人と64人の男性をゲットしていた。


こういうのは「なりすまし」と言うのだろうか。
偽アカウント?
まあ、どっちでもいい。
実名登録のfacebookでも悪事を働くやつはいる。そんなことは百も承知だ。現実社会でも犯罪者はいるのだから。メールアドレスだけでアカウントを取得できるfacebookは、規約で「実名登録」をうたいながらも、実際にはなんのチェックも働かない。それも『今は仕方ないのかな』とも思う。SNSをやるなら自己責任が原則だ。
しかし、200数十回も同じ名前のアカウントを素通りさせているのを見ると、やはり釈然としない。
フリーメールを取得すれば、事実上、同一人物が無制限にアカウントを取得できる。
本当にfacebookはこれを許してしまうのだろうか。
住所なし、プロフィール写真もなし、名前だけの登録があった。これもよしとしよう。しかし、そんなずさんなアカウントに対してfacebookが「+1友達になる」と、ユーザーのニュースフィードにこのアカウントを登場させ“犯罪行為”をほう助するのはどうなのだろうか。


facebookが日本ではかような事情になっていることについて全く無知なのだとしたら、「facebookさん、もっとしっかりチェックしてよ」とお願い申して、しばらく様子をみてもよい。
しかし、しかしだ、facebookは本当に知らないのか。
そうだとはとても思えない。なぜなら僕が指摘するまでもなく、何人かのユーザーが「ニセあんな」に気づき、それぞれ自分のウォールで「名指しで」警告を発しているからだ。
特に旭川市のウェブデザインの会社「株式会社アイリンク」は8月23日の時点で、僕と同様「新城あんな」の検索結果の写真を載せてfacebookページで
「非常にわかりやすいスパムでございます。皆さま、お気をつけて」
と警告している。そしてこの投稿は136人にシェアされているのである。
翌日、同社は「“新城あんな”はついにアカウントが削除された模様であります」と続報を載せた。これを読む限り、facebookもそのときは一応、対応したのだろう。だがその後、「あんな」はさらに増殖し200超の「あんなアカウント」が存在する異常事態になっている。


みなさんはこうしたした実情をどう思われるだろうか。
僕は『facebookの危機』だと思っている。
facebookはアメリカでスタートしたとき、ハーバード大の学生のみにしかアカウントを提供しなかった。その後、アイビーリーグ、他の大学、高校生へとユーザー層を広げた。どの場合でも、所属するコミュニティーが承認しているメールアドレスのみを使わせた。だから「実名登録」が定着した。定着したおかげで、マーケティングのツールとしても注目され、一般開放が待望された。根幹は実名であり、1人1アカウントだ
その絶大な信用を「200人のあんな」はぶち壊しにするのではないか。
メールアドレスのみでアカウントが取得できる今のfacebookでは事実上、誰もが「他の誰か」になりすますことができる。こういうことを「怖い」と思う健全な精神の持ち主の多くが、facebookの利用をためらっている。

facebookは最低限、写真認証機能くらい導入すべきではないか。
さらに偽アカウントを「友達」として推奨してしまうようなアルゴリズムは、直ちにあらためなければならない。共通の友達が1人しかいない人物が、なぜ「知り合いかも?」に登場するのか、全く理解できない。
ユーザーを増やしたいがために「アカウント取得」に厳正さを欠いる現状を放置し続けるなら、facebookの健全な発展は大きく阻害されることになるだろう。


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◎原発県民投票の条例案、県議会総務委で全員一致の否決

『やっぱりね』静岡県民の多くが思ったのではないか。
端(はな)から期待はしていなかった、だから衝撃は受けない―と、まあ、強がりを言ってはみるのだが、「こんなにわかりきった民意を、どうしてお前ら、邪魔するんだ!」という痛憤の思いは残る。
県民の大多数は、原発の顔を見るのも厭(いや)なのだ。
「万が一があったじゃないか」と思っている。
その人災と、東電、政治、行政の不手際、不作為によって何十万人が故郷を失ったのか。
「そんな愚策を、ここ静岡で、お前ら、県民に押しつけるのかよ」と言いたいのだ。


無論、感情論である。
わからずやの県議諸君、君らへの悪口雑言だ。
だが上記、ほんとうに「感情論」と言えるのか。
では、君らの反対はなんだ。それこそ「感情」に突き動かされていないか?
『ゲ・ン・パ・ツ・ハ・ン・タ・イ! がイヤなんだよ!!』
わけのわからん奴らが動き回って、騒ぎ立てる。磐田市長をやったスズキ・ノゾムまでがお先棒を担いでハシャイデル………。
うるさくてたまらないだろう。
『俺たちゃ、県民の負託を受けてんだ。好いも悪いも俺らが政策を決める』などと正当化して言い訳しているが、心の中は選挙の損得勘定だ。支持母体の機嫌を損ねたら、就職(当選)おぼつかないもんな。


◎あざとい自民党の「反対」理由

政権返り咲きが近い自民党は、さすがに地方議員も老練だ。
反対理由 「条例案の大幅修正は原案の趣旨に反する」
ハァー??!!
マッタク意味不明なことを言ってくれる。意味はこうだ。原案、もとより反対(県民投票なんぞ、やらしてなるものか)! 修正案、これも反対(16万県民の意図に反する。本音:どっちみち「No」なんだよ!)
ベテラン議員が多いだけに、すり替え言語が実に巧みだ。
こう言うのを、日本語では詭弁を弄する(キベンヲロウスル)と言う。

◎「総括原価方式」という国民への迷惑転嫁方式
電力は今も昔も「国策」だ。
原発推進が脱原発に変わっても、シンジケートに連なる者たちの利権は揺るぎもしない(残念だけど)。なぜか。「総括原価方式」は変わらないからだ。
総括原価方式:発電・送電・電力販売にかかわるすべての費用を「総括原価」としてコストに反映させ、さらにその上に一定の報酬率を上乗せした金額が、電気の販売収入に等しくなるように電気料金を決める。つまり、コストが掛かれば掛かるほどもうかる仕組み。コストを削減する誘因が全く働かない!(根拠法令は「電気事業法第19条2項1号」である)
今や、悪法と言っていい。
しかし民主党も自民党も、「この法律を変えろ」とは一言も発しない。


◎急な政策転換が“迷惑”なだけ

だから本当は、電力会社もそれに連なるシンジケートも、脱原発にかじを切り替えても痛くもかゆくもないはずだ。
ただ、急な方向転換をすると波風が立って危険だ。
せっかくカネで釣って原発を立地させた地域の住民や自治体が騒ぎ立てる。
コスト高になれば、消費者はともかく、一緒に丸めこんできた経済界から非難の声が上がる。そいつはカ・ン・ベ・ン願いたい……。
すべて電力会社側の都合。国民など視野に入っていない。
その国民(県民)の側から「選択権を取り戻せ」の声が上がる。
目の前に蚊(カ)がブンブン飛んでいるようで、うるさくて仕様がない。


◎長い間の“神話”刷り込み戦略がまだ生きている

だからつぶしにかかるわけだが、地方議会が易々とその術中にハマるのが何とも解せない。
まさかこの時代に、電力会社からカネが議員にまかれている訳ではあるまい。
電力労組の動員力が怖い? それも一部の議員たちだろう。
やはり長い年月をかけ「原発=クリーン=安い電力供給=経済の繁栄=雇用創出効果」といった国(自民党政権)、電力会社、官僚、学者、新聞・テレビ、立地自治体の総力を挙げた“神話”キャンペーンの刷り込みの結果ではないか。


◎県議の中にも問題意識を持つ人が出てきた

議員に対して悪口ばかり書いてきたが、ここへ来て、“神話体制”に対して真剣に疑問を呈する議員も出てきた。
新聞によれば、現時点の修正案への賛成は「民主党会派の7人と公明、富士の会の計14人」と「みんなの党・無所属クラブ」の2人も賛成へ傾いていると言う。
過半数の33人には届かないが、民意を少しでも汲もうという議員がいることは救いである。


◎どっちみち、この手の戦いは長期戦を要する

「間接民主主義が日本では機能しない」と嘆いていても仕方ない。
政治は常に民意とはズレたところにある。
正しいときもあれば、大外れのときもある(今回のように)。
外れたからと言って、暴動を起こすわけにはいかない。
それよりは国政選挙だ。
国民が誰にも邪魔されず民意を通せる機会!
幸運にもまだこの国にはそんなチャンスがある。


◎最後に、肝心なことを指摘しておきたい

誰も言わないが、中部電力の本音についてだ。
以下、僕の推論だ。
電力会社にも良心がある、との思いから出て“希望的な観測”と言ってもいい。

中電はもう1度、国が待ったを掛けてくれることを待っている!
人間だから、掛けたコストは取り返したい。
原発を5基も作った。プルサーマル型まで導入。福島第一原発の倒壊を目の当たりにして、津波対策にも大金をつぎ込みつつある。
『無駄にしてなるものか』の思いがあるのは、経営をしている以上、当然だ。しかし『この技術、行き止まりだな』とも考えている。
馬鹿でない限り、本音を言えば、東海地震の震央に立地する原発が無傷で終わるはずがないとも思っている。格納容器は頑丈でも、建屋に張り巡らした配管がすべて無事であるなど、考えようもない。不測の事態に対する対処にも自信がない。
理論と実践の間に、想像を絶する溝があることを、技術者は知っている。何重もの下請構造。素人とプロが混在する現状。
本当は、誰も「ゼ・ッ・タ・イ・ア・ン・ゼ・ン」の自信を持っていない。
別に原発に固執しなくても、割高の電力を国民は飲むと言っている。
そっちに切り替えたほうが、会社としてもリスクを縮減できる。
『しかし、株主が……』
株主代表訴訟を起こされて、経営陣に責任を負わされてはたまらない。
だから「国のお墨付き」なのだ。


◎原発反対は、命の叫びである

企業経営者は国民のことなど考えていない。
会社の存続、自分の利益…。
政治家はシューカツ(就職=当選)のことだけ。
マスメディアは、電力会社から流れる広告費が何より大切。
官僚は利権とメンツ。
このような者たちにかじ取りを任せて原発は存続している。
僕らはこの原理原則を脳裏に刻みつけたうえで、政治的に選択しなければならない。

原発反対は、命の叫びである。
経済論理や原発に巣食う者たちの都合にすり替えられてはならない。
僕らは、論理的、政治的にクールに判断していかなければならない。




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中電浜岡原発の再稼働「県民投票」の条例案審議が静岡県議会で始まった9月20日、facebookのノートに書いたブログをこちらにも再掲載する。


◆     ◆
静岡県の県議会9月定例会で、中部電力浜岡原発の再稼働の是非を県民投票で決めようという「県民投票条例案」の審議が始まった。
川勝平太知事は「原発で事故が起きたら、その結果は住民が受け入れざるを得ない。だから、再稼働させるかどうかの最終判断は住民がすべきだ」と、県民投票に賛意を示した。


ついこの間まで、県民投票に消極的だった知事がここへ来て変身したことは、一見、大きな前進のように見える。しかし、知事の変心によっても、県議会が条例案に賛成するかどうかは分からない。いや、十中八、九、否決されるだろうと僕は見ている。


つくづく「地方政治家たちは県民の何を聴いているのだろう」と思うが、福島第一原発(フクイチ)の破局的事故を見聞した今でも、原発が必要だと思っている。
さすがに「安全」とは言わなくなったが、日本経済のため、日本の雇用のため、原発は必要だ、などと錯覚している。


フクイチの事故とはどのようなものであったか。
定期検査中の5号機と6号機を除く全機、つまり1号機から4号機まで破局的な事故を起こしたのだった。燃料プールが上層階にある4号機は、1年半たったこの今も、「次の大地震が起きれば、世界の破局さえ招くかもしれない」と懸念されている。


政治家に必要なのは先見性と、事実を正確に見抜く目だ。
先見性は、われわれ国民を含めほぼ全員が「かけら」も持ち合わせていなかった。
しかし、事実を見抜く目はどうだ。
国民は、大多数が冷厳な事実を、事実通りに受け入れた。
起きたことは仕方ない(日本人らしい潔さだが…)、しかし、2度とあってはならない。
そのためには何が必要か。
第1に当事者、矢面に立つ政府や行政、官僚たちはウソをつかないこと。
第2に事故原因の徹底的な検証。
第3に、人間は必ず緩む、油断する、理想を描いても誰かが手を抜く、カネが絡めば悪魔にだって魂を売るものが現れる、自然に対する予測は必ず甘い、タカをくくる、費用がかさむものに対しては根拠のない甘い観測を是とする-人間とはそのようなものだ。だから人間の悪を許さないために、完全なる監視の仕組みを作らなければならない。
国民はいち早く、以上3点について気づいた。


しかし、肝心の政治家たちはどうだっただろう。(ここで言っているのは主に国会議員のことだ)
ここでもまた、すべての項目について国民を裏切っている!
「国民の水準に合った政治しか持てないのだ」としたり顔して言う者がいる。
ばかも休み休み言ってくれ。
今、僕らが見ている政治は、国民の水準に到底及ばない政治だ!!


中央はこうである。
地方の政治はどうか。
僕らにいっそう近い政治家たちだ。友達もいる、知己のレベルならもっといる。
そういう君らに言いたくはないが、君たちは『県民とは別人種』と思っていないか?
それとも、想像力が全く欠けているのだろうか。
浜岡がフクイチになれば、県域の7割までが放射能の影響を受ける。


僕は今、「フクイチになれば」と言ったが、福島第一原発の事故と同程度の災厄で済むという保証がどこにあるというのか。
いつの間にか君たちは忘れている。
浜岡原発がなぜこの地に立地できたか、を。
その前提は「原発の事故は100%起きない」、いや「起こしません」という約束だったはずだ。
ところが今や、君たちの頭の中は確率論で「ハマオカ」を評価しようとしている。
未来永劫、100%、浜岡で事故は起きないか。
東海・東南海・南海3連動大地震でも、原発は配管1つ壊れないか?
自信があるなら、県民が自主的に、自分でリスクを負えるか否か決めるという県民投票に反対するがいい。


県民投票は代表民主主義の否定だ、と言う者がいる。
君の支持者の前でそれを言うがいい。
代表民主主義はオールマイティーではない。
国民は、県民は、すべて君らに白紙委任をしているわけではない。
君ら議員が誤った道に進もうとしている時、それを止める仕組みを憲法は用意している。


第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。


「公務員」には、各種議会の議員も当然に含んでいる。
地方議員に対しては、住民による「リコール」制度も定められている。
言うまでもなく、議員は人間だ、そして人間は間違える。
だから暴走を抑える仕組みを民主主義国家は憲法と法律で定めているのだ。


さて、原発県民条例は法律に違反して手続きが進められたのだろうか。
何の苦もなく、議会の俎上にかけられたのだろうか。
全然、違う!!
釈迦に説法だが、耳をかっぽじいてよく聴いてほしい。
この案がここまで来るまでには、一部の人たちのとてつもない努力とエネルギーと献身があったのだ。

静岡県有権者の50分の1の署名とは、6万2000人の署名を意味する。
実際に集まった署名は16万5000人。
必要数を10万人も上回る勢いを見せた。
この間、東京では野田首相の狂ったごとくの大飯原発再稼働決定に端を発し、毎週末の夜、首相官邸を囲むデモが起きた。
ネット投票による「原発再稼働に反対」の声は優に9割を超えた。
うねりのごとく「脱原発」空気が広がった──
と言いたいのだが、ここ静岡県のリアルな現実はどうであったか。
署名活動は苦もなく目標を達したのだろうか。
違う!!
悪戦苦闘の連続だったはずだ。


原発を再稼働させるかどうかは、当事者である県民が決めようではないか。
至極まっとうな主張が、「原発がテーマだ」という1点をもって、多くの人の腰が引けてしまう。
「原発」=「タブー」みたいな空気。
今なおこんな低次元な発想が根強いことに、心底あきれるが、現実はそのようだ。
核実験反対、核廃絶の運動、これらは被爆者と、心ある人たちと、一部左翼政党が中心を担ってきた。一般の人々はなぜか遠巻き。
いつの間にか「核」と言えば、特殊な主義主張のように思わせる奇妙な空気が醸成された。
こういうものを歴代政権が積み重ね、国民に刷り込んできた。
それと「原発ゼロ」の願いが同視されている。
これは感情であろう。
異質なものを認めない、「今まで(生活や考え方、価値観)を変えるもの」には恐怖と嫌悪を抱く。
これも人間の性質だ。
日本人的、静岡的などと言う気はない。
人間とはそのようなものである。


だから県民投票のための署名活動は、決して楽勝であったはずがない。
富士山を世界遺産にする、という署名活動とは訳が違うのだ。
署名の常とう手段である「企業ぐるみ」が使えない。
社員にノルマを課して集める、などという方法が使えない。
署名活動に手を挙げた受任者たちが1人ひとりに声を掛け、説明し納得してもらう。
とてもめんどくさい、苦労の多い作業だ。
人間として、理性ある者として当然と思える行為に賛成してもらうために、どれくらい頭を下げ続けなければならなかったか。
100人中95人が素通りする中、「希望」実現のために街頭に立ち続けた。


「少数ではないか」と侮るなかれ。
議員の中には、毎朝辻立ちして主張を訴える人がいる。
立派だと思う。志がなければできない努力だ。
それと同じくらいの「思い」が、条例制定のために動いた人々、そして希望を託して署名した人たちにはあった、ということを理解してほしい。


一方、県職員の一部は市民グループが掲げた条例案を、まるで「欠陥商品」であるかのように広報にこれ努めた。
大局的に見れば、賢(さか)しい顔をした上げ足取りである。


僕と同じことを考える人はいるものだ。
浜岡原発の隣接市、牧之原市の西原茂樹市長である。
県当局が条例案に難癖をつけた直後、自身の「ひとことコラム」(9/8付)で以下の文章をつづっておられた。長くなるが引用しよう。


<住民投票条例が県議会に上程される。
浜岡原発について県民の意見を反映させようと、多くの方が署名して意思を表した。
今、その直接民主主義の動きがおかしくなっている。
一つは「条例の内容が不備だ!」と、原発再稼働推進でもない県当局が言うのだ。
ちょっと考えられないことだ。
全国で同じようなものが提案されてきたと思うし、専門家が入っているはずだ。
更に、県議会での議論に入っていない段階で「事務方が」異議ありと宣戦布告してきた。
確かに、静岡空港をやるかやらないかという時は、当事者は県だから「反論」があってもおかしくない。(もっとも、一番反対していた団体の中に県職員組合があったが)
それが、あまりにもつれない反論を二度もやってきた。
先週月曜日に市長会があった。
頼んでもいないのに「条例の不備を説明したい!」と県の局長が説明した。
余りの唐突さに開いた口がふさがらないで、だれも質問しなかった。
本当は「あえてこの席で説明する意図は何か?」と質問しようと考えたが、担当へのいじめに映ると思い止まった>


長文になったのでもうやめるが、県議会議員諸氏よ、止め役になることはあるまい。
それは民意とは違う。
せっかくの機会だ、ひとつ県民の意思を聴いてみようじゃないか。


(君らは知っているはずだ。この原発県民投票に法的な拘束力は何もない。だから「民意」がもし君ら大半の思惑と違っていたって、痛くもかゆくもない。その時はその時で考えればいい。もっとも、君子は民意が明らかになれば豹変するものだがね)



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15日付朝日新聞朝刊(第3社会面)に気になる記事が出ている。
「破られた取材源の秘匿 日経、実名入り書面を裁判所に提出」
大阪府枚方市の談合疑惑報道で、前市長から名誉棄損で訴えられた日経新聞が、取材先の検察幹部の実名が入った取材メモを大阪地裁に証拠として提出していた、という記事だ。
『あぁ、またか』と言うのが、僕の率直な感想だ。
マスメディアの倫理も地に墜ちた。『今の体たらくではこんなものだろう』と半分思いつつ、半分では『しっかりしやがれ』と思う。
毎度のことだが…。


取材源の秘匿(ひとく)」と言っても、一般の人には分かりにくいかもしれない。
取材は─最近は“玄関ダネ”、発表モノと言われる官庁・企業発表が多くなったが─
本来は独自の記事を書きたい、特ダネがほしいという記者が、当事者や捜査当局の人間に直接あたって情報を取ろうとするものである。
無論、当事者、周辺にいる者、捜査関係者の口は固い。
そこをこじ開けるため、ふだんから記者はありとあらゆる知恵と努力を傾注して“人間関係”をつくる(持ちつ持たれつの関係)。
それがあるからこそ、いざという時に同業他社を出し抜く情報が得られたりするわけだ。


そんな時、新聞社ならデスク、部長といった記事掲載の責任者は「誰からの情報だ?」と聞きはしない。「大丈夫だろうな」「筋は確かか?」とだけ聞く。
(もちろん記事の信ぴょう性確認がいつもこのようであるとは限らない。2重3重に裏打ちの取材をする場合も多い。ただ、その場合も、取材源は“常に”“一般的に”上司に明らかにされるわけではない)
警察、検察とのやりとりでさえこのようであって、それが事件の当事者(例えば内部告発者)、あるいは当事者に非常に近い関係者である場合、取材源の秘匿はいっそう徹底される。
誰がその情報を漏らしたかが「敵対する側」に知られれば、情報提供者の人権を守れなくなる可能性が高いからだ。


メディアが情報源を秘匿するのは、1つにはメディアの自己保身のためである。名誉棄損で賠償責任を負ったり、時には記者・編集者の逮捕ということにもなりかねない。そんな事態は避けたい、という理由が1つ。
もう1つは、幾分カッコ良すぎるきらいもあるが、情報を途切れさせないためだ。情報を流した者が著しく損害を被るなら、情報を提供しようとする人はいなくなる。すると、読者・視聴者の知る権利が損なわれる(つまり、有益情報が出にくくなり、発表モノばかりになる)と言う理屈。
「取材源の秘匿」と言えば、通常、2番目に挙げた理由が語られる。


さて今回、日経新聞は検察官の名を明らかにしてしまった。
しかも、名指しされることになる当人の了解も得ず裁判所に提出した、とされる。
このことを同業の朝日新聞はページの半分以上を割いて、問題だとした。
問題であるに違いない。
僕も『新聞記者の倫理も地に墜ちたな』と感じた。
しかし朝日新聞は「公平さ」を担保したかったのだろう。
同じ紙面でこんな話も掲載している。有識者に代弁させる形で─


「日経の対応に問題はあるが、裁判所に提出したのは、取材に応じるべき立場の幹部の名前や取材メモ。内部告発者など明らかに不利益を被る対象とは区別する必要がある」(メディア法が専門の田島泰彦・上智大教授)


この上智大教授の発言をみなさんはどう受け取るだろうか。
言葉の意味はこうだ。
「捜査する側の公人だから名前が出ても当然。内部告発者のリスクとは違う」
一見、学者先生の言うことだし、正しそうに聞こえる。
だが僕はこのように解釈した。


『あぁっ、先生は検察官が記者に話したのは“リーク”だと思っているんだね。元々、意図をもって話したことだから検察上層部も承知の上だろうし、名前が明らかにされたとしても組織の論理にのっとってしたリークだから検察官が不利益になることはない』、と。


記者の側は、『しめた、口が堅い検察が情報をくれた。特ダネだ』と思ったかもしれない。
しかし大抵は(多くの人が薄々感ずいているように)、
裁判を有利にするための世論操作、それをメディアにやってもらうための意図的な情報漏洩であることが多い。
『だから、そこは不問でいいんじゃないの』という意識が、学者のこういう発言になったと、僕は勝手に解釈している。


そんなエクスキューズをメディアに与えて、何か(国民に)利益はあるのだろうか。
それを「公平性担保」のつもりで、この記事の末尾に相当なスペースを割いて掲載してしまう朝日新聞。
朝日新聞も検察発の“特ダネ”をいくつも書いているから、いざわが身に降りかかったときのことを考えて、こんな無茶苦茶な論も載せておいたほうがいいという魂胆なのかしら。


もう1つ、もっと重大な問題がある。
報道の真実性に対して誰が立証責任を負うか、という問題だ。
日本では今のところ、名誉棄損などで訴えられた場合、メディア側が報道の真実性の立証を行う必要がある。
ところが朝日新聞は、以下のように言う。
取材源の秘匿のための(裁判における)記者の証言拒否を最近は裁判所も認める傾向があることを引き合いに出した上で、「米国は日本と逆に、公人が名誉棄損訴訟を起こした場合、報道が真実でないと立証する責任を負うのは公人側だ」、と言うのである。


メディアにとってこんな大あまな論があっていいものだろうか。
記事の真実性を書いた側に負わせないなら、記者は好き勝手なことが書けるではないか!
日本人のメディアリテラシーの貧弱さを思えば、大新聞、メジャーな放送局が流した情報は99%、国民にうのみにされる。
報道被害を受けた者が、「名誉棄損訴訟」でせめても一矢報いようとする。
その時に、メディアのウソはあんたが証明しなさい、というのがアメリカの司法だと言うのである。
記者やジャーナリスト、新聞や放送局を甘やかすのもいい加減にしてもらいたい。
この理屈でよしとするなら、極端な話、真実であるかどうか未確認でも「とりあえず記事にしちゃえ、あいつ黒っぽいから」「世間に訴えたもの勝ちだ、あんな政治家、今のうちに葬ってしまえ。検察が動き出せばこっちのもんだ(なんせこっちには、立証責任なんてもの、ないんだから)」が通る。
メディアの高笑いである。


朝日がこんな危ない論を平気で書いてしまうのは、今のままでは訴訟リスクが高いと感じているからだ。
例によって、また識者の応援団の弁を載せる─


「日本の裁判では、取材源を守ろうとするメディアが敗訴するリスクが高い。政治家や公務員らの名誉棄損訴訟では、メディアの立証の負担の見直しも検討されるべきだ」(メディア倫理の専門:大石泰彦・青山学院大教授)


やれやれ、朝日新聞は、立法権・行政権・司法権の三権分立ではあき足りず、メディアを第4の権力とし、しかも4番手では嫌だ、「我こそは1等1番の権力たらん」と言いたいかのようだ。


「取材源の秘匿」の問題に社会系紙面の半分を割いてその重要性を訴える朝日新聞の姿勢を、僕は一定の評価をしている。
しかし、後半に挙げた2点については全くいただけない。


メディアは「権力」であってはならない。
「記者の力」は法廷で証言拒否することが認められるほどに強くなくてもいい。
真実追及のため逮捕・訴追され、獄に囚われても、情報提供者には指1本触れさせない、そういう青臭い正義感の方がはるかに国民としては信頼がおける。
国家権力を高見から見下ろすほどの「権力」をメディアに与えたい、などと思う国民は1人もいない、と僕は断じる。
メディアは謙虚でなければならない。




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