★国民の大多数が願う「脱原発」 汲み上げない政治は傲慢だ | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


週末金曜日、毎週官邸を囲んで脱原発、大飯原発の再稼働反対を訴えてきた市民の代表が昨日、野田首相に直接面会し主張を訴えた。門前払いと言う印象こそなかったものの、首相VS反対派の主張は平行線、と言うより、言いっぱなしの聞きっぱなし。
つまり聞き置かれるに終わった。
しかし、これは「想定通り」。
日本では間接民主主義が全く機能していないことをあらためて示したにすぎない。


「民の声」はなんと言っているだろう。
格好の資料を朝日新聞朝刊が提示してくれている。「2030年の原発割合」についての討論型世論調査、意見聴取会、パブリックコメントの数字をまとめた。
「原発ゼロ」の数字のみを列記してみる。


電話調査(7月、全国を対象) 33%
討論前調査(8月4日、285人対象) 41%
討論後調査(8月5日、285人対象) 47%
意見聴取会(7~8月、計10会場) 68%
パブコメ(7~8月) 90%(うち81%が「即時ゼロ」)



2030年時点で日本のエネルギーにおける原発比率をどうすべきか。政府は3案を提示した。
原発0%・15%・20~25%
の3案である。足して2で割って、というわけでもないだろうが、「15%に収れんするだろう」とこの政権は踏んでいた。特に期待をかけたのは「討論型世論調査」。識者が討論会で▽割高な代替エネルギー▽地球温暖化への影響▽電気料金値上げの可能性▽日本経済への打撃(雇用の海外への流出)-などを指摘すれば、尖鋭な希望案から現実的な妥協案「15%」に収束するだろう、と見ていたのだ。
だが、多くの国民が見ていたのは「安全への視点」だった。原発は生命(いのち)の問題だと見抜いていたのだ。

hidekidos かく語り記


もう1つ、重大なことを指摘しておきたい。
説明があれば誰でも分かることだが、政府が説明を怠っている話についてだ。
現政権は「原発を40年間で廃炉にする」という方針を打ち出している。これを現在の国内の原発に適用すれば、2030年に原発の割合はほぼ15%になる。
一方、いま現在の日本の原発依存度は何%かご存じだろうか。26%(10年度)である。
つまり政府が提示した3つの選択肢のうち、
「原発依存度15%」は、既定方針通り粛々と順次廃炉を実施すればおのずと達成される数字。
「20~25%」は、新規の原発建設を認め、スクラップ&ビルドで現状維持(2010年時点の依存度を20年間ずっと維持し続ける)と言う案なのだ。

さて、国民のうち何%の人が3択の意味を理解して一連の報道を見ただろうか。
この政権は、頭が悪いので国民への説明を十分にできなかったのだろうか、それとも何か他に意図があって「当然するべき説明」についてねんごろさを欠いたのだろうか。


3.11の福島第一原発の事故を見て、国民の意識は明確に変わった。原発は安全でないことが分かったし、いったん破たんすればとめどない災厄が多くに及ぶことも分かった。放射能被害は世代を超えて続くし、被害者は「被害者」であるのに差別されることも分かった。被害の範囲は広い。風向き、その時の降雨次第。いや、破局的な事故なら日本列島どころか、世界を汚染するかもしれない。怖い、おぞましい、気持が悪い…。たかが電気を得るために、たまさかの便利さを求めるために払う代償としては大きすぎる。
こんなことは誰でも思う。
人類が核を使うことへの抵抗感は、「生命」(いのち)を守るという根源的な欲求に基づいている。しかし、私たちがいま感じている怒りは、いのちの問題を引き合いに出すまでもない問題のような気がする。

「疑念」である。
この政府(この政治は、と言い換えてもいい)は国民を守ってくれるのか、守る意思はあるのか、という疑念。
事故直後、ただの1人も明確な指示を出せず、政権内外に知識のある者さえいなかった。そのくせ「安全神話」に何の疑問も持たず、さまざまな危険の指摘にも一顧だにせず、高をくくっていた。それは国民の誰しもに言えることだから不問に付したとしても、事故の原因を真摯に究明しようともせず、責任者を追及することもなく、事故終息もまだ、被害者たちへの補償も途中の今、経済界だか誰の要求なのかも明かさないまま、安全検証がされたとも言えない原発再稼働に“政治判断”による決断でGOサイン!


この政権は、うそをつく政権である。
この政権は、国民の声よりは経済界に動かされている。
この政権は、1度「こうだ」と決めるとそのシナリオに沿った既成事実を作ろうとする。
この政権は、国民の「待った!」の声をただ聞き置き、結局は既定方針を突っ走ろうとする。



いのちの危機、いのちの危険以前に、政治そのものに対して私たち国民は強い疑念を持たされた。
こういう話をすると決まって出て来るのは「選んだのは私たち」「私たちにも責任がある」という声だ。お人よしもいい加減にしてもらいたい。
選ばれた以上、クズだろうが、アホだろうが、政治家には責任を果たしてもらわなければならない。
責任とは「民の声」を聞くということだ。

この国では、国民に選ばれた者たちが国民の意思を無視することを平気でやる。
「衆愚政治」という言葉がある。
「ポピュリズム」などと、国民をなめた言い方を大マスコミもしばしば使う。
上に挙げた2つの言葉は、ばかな国民の熱狂にあおられて、ばかな政策を行うことを言うのだろうが、それでは伺いたい。
「脱原発」を願う国民の気持ちは「ばか」なのだろうか。
「衆愚」なのだろうか。


「国民」の中には無論、経済界の大物も入るし、商工会の中小零細事業者たちも入る。
脱原発=倒産の危機なのか?
冷静に考えてほしい。
エネルギー政策の転換は、既存の経済体制に否も応なく変革を突き付ける。
危機ではあろうが、チャンスもある。
機会はニュートラルのはずだ。自分ばかりが損するわけではない。
いつの時代でも、現状維持などいう世界はない。物事は変わる、条件は移ろう。みな必死でそれに対応しようとして生きている。
原発は過疎地に限って作られてきた。「貧困」「産業の不活性」を人質に取られ、地域に札ビラがまかれて着工が強行されてきた。いま原発が廃炉になれば困るだろう。しかし「永久に原発がある未来」はもはや保証されない。
推進してきた電力会社と地元自治体と、県と国とが責任を持って後々の方策を考えていかなければならない。
後々の方策がないから廃炉は無理だ、などというのは通らない理屈である。


衆にまさってすべての判断ができ、日本の未来を保証できる「神」のごとき政治家はいるだろうか。百歩譲ってそんな者がいたとしても、民の声を聞くのが間接民主主義というものだ。
まして今、神のごとき英知を持つ政治家はいない。私たちと五十歩百歩、優れた面もあるが欠点も多い、そんな政治家が大半だ。ごく普通の人々が選挙をくぐり抜けて当選しているにすぎない。
まだしも、国をよくしたいという意欲だけは持っているであろう。
ならば、国民の声を聞け。
民意から飛びぬけて離れた“政治決断”などやってはならない。
それは「決断」などではなく、暴挙である。



★コメントはこちらへ(facebookに発言集を特設しました)
http://www.facebook.com/hidekidoskatariki





読者登録してね   ペタしてね