ツイッターのフォロワーがけさ、18万人を超えた。
ラジオの聴取率はおおむね2%、
静岡県の人口は375万人くらいだからラジオを聴く人の数は約7万5000人。
2009年の衆議院選挙静岡1区の当選者牧野聖修さんの得票は12万904票。
だから「18万人」という数字はそれなりの重みがあるなあ、と思う。
そうは言っても、“流れ去るメディア”であるツイッターで
18万人に「つぶやき」が実際に届くかと言うと、その確率はかなり低い。
(もっとも、これはどのメディアでも共通か…。
ただテレビ、新聞の場合、圧倒的に届く範囲が広い。
なにしろ「マス=大量」メディアだからね)
一方、facebookは友達の上限は5000人。
しかも独特のアルゴリズムによって、常時、投稿が届く範囲は数百人までいくかどうか。
情報の「発信」を目的とすると、この数は心もとない。
しかし体感的に言えば、思わぬ広がりを見せる場合もかなりある。
ツイッターとfacebookでどちらが優れたメディアなのか、一概に言えない。
第一、両者では運営者の考え方がまったく違うようだし……、
と分析を始めるとキリがなくなりそうだ。
だから、その話はまた次の機会に。
きょうツイッターのことを書いたのは、僕なりの感慨を書きたかったからだ。
「数」というのは不思議なもので、一定数を超えると、
数それ自体が特別の意味を持ってくる(ことがある)。
僕の場合、まさにそれだった。
1万人を超え、2万、3万人と増えていくと、僕は「責任感」のようなものを感じ始めた。
断っておくが、ツイッターのフォロワーが増えていくのは、
「僕のつぶやきが素敵だから」では、決してない。
人を数多くフォローしているからリフォローが多いと、ただそれだけのことである。
だからフォロワーの多さを誇っても何の意味もない。
しかし、そのことが明確に分かっているのは自分だけのようなのだ。
多くの人は「数」だけを見て、「すごい」と思ってしまう。
当初、「それは違う」と言い続けてきたが、理解する人は少ない。
なので、やがて説明するのをやめた。
それよりも「数にふさわしいつぶやき手(変な日本語だが)になるのが先だ」
と、発想を変えた。
10万人の大台を超えるころには、
静岡県内で言えば“有数”のツイッター巧者とみなされるようになった。
──くう・ねる・あそぶ(日常のつぶやき)だけではないよな。
そんな思いが頭をかすめる。
自分らしい何か。
結局、今も模索しながら考えている段階で、
『これは』と言った方法論を見出したわけではないのだけれど。
フォロワーを増やしていく過程で漠然と考えていたことは、
『PRのツールとしては使えそうだ』というこだったと。
しかしそれも今、中途半端だ。
いろいろ試してはいるが、十二分に活用しているとは言えない。
そうこうしているうちに、僕の投稿の主体はfacebookに移っていった。
やり取りが直にできるのが魅力だ。
しかし、ソーシャルメディアの世界に最初に誘ってくれたのはツイッターである。
フォロワーをどんどん増やせるという仕組みがなかったら、
僕はここまで来なかったのではないか。
──ソーシャルメディアの可能性をもっともっと高めたい。
「言論」と言わないまでも、せめてみんなの「オピニオン」が飛び交い、
もの言わぬ大衆ではなく、一人ひとりの「個」が際立つ社会に。
と言う考えも、後からついてきた理屈のような気がする。
『数が増えていくから楽しい』
『自分が認められたような気がする』
いかにも競争心旺盛な団塊の世代らしい発想だったと思うが、
そうしたSNSのツールが僕には合っていたのである。
ともあれ僕はここに居る(SNSの世界にドップリ)。
最初の導き手はツイッターだった。
何しろ、おもしろい世界が出現したものだ。
ソーシャルメディア普及の時代に遭遇できて、本当に良かったと思う。