■facebookでもっと「仕事」のことを語ろう! | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

    読者と共につくる「フェイスブック活用本」
         ↑ facebookページへのリンクです。
        出版されるまでの過程をすべて「見える化」します。
        原稿(下書き)、スタッフとのやりとりもすべて公開!
        ページ冒頭の「いいね!」を押して、ご参加ください。
        




facebookについて何を投稿したらいいか、みな迷っているようだ。
日本では本格的な普及からまだ1年くらいだから無理もない。
しかし、間違った情報に振り回されている面もあると思う。


誤解はいくつかあるが、例えば

①長い投稿は嫌われる
②広告すると嫌われる
③愚痴や批判を書くと嫌われる


などが代表的なところだろうか。


結論から先に言うと、
①については、全くの誤解
②については、現状はその通り(しかし、いずれは変わっていくだろう)
③については、度が過ぎるとその通り(まあ、常識の問題ですね)


facebookで広告することは「罪」ですか?

「②広告すると嫌われる」は、現状、かなり浸透している。
facebook利用者の”潔癖さ”は度が過ぎるほどだ。
「いいね!」がつく数で計れば、
あなたがお店や商品を宣伝するための投稿をした途端、「いいね!」は半減する。
だからはっきり言って、アフィリエイト的な広告は、入り込む余地さえない。


こういう状況を、僕はあまり歓迎しない。
だって、「facebookはNHKではない!」のでしょう?
第一、人間活動の主要な部分はやはり「仕事」。
それを語れないのだとすると、事実上facebookの魅力はすでに半減している。


facebookは実名が基本だから、みな「人から嫌われたくない」と思っている。
それは仕方ないと思う。
しかし、「嫌われたくない病」が高じると、投稿が伸びやかでなくなるよね。
みんな、人の仕事のことは聞きたくないのだろうか。


宣伝はダメ、自己PRをすれば嫌われる?!
それでは新聞やテレビの立場はどうなるのだろう。


新聞だって、半分は広告で成り立っている。
民放の放送局は、広告がすべてだと言ってもいいくらい。
それで、巨大なメディアが「メディア」として存立していると言うのに。


自分の仕事を宣伝するのがなぜ「悪」なのだろう

facebookは個人のメディアだ。


「個人」とは誰のこと?
そう、一人ひとり「自分」のこと。
その「自分」は、たいてい仕事をもち、生業を営んでいる。
自分の仕事を、人に伝えたくはないのだろうか?


例えば、何かをつくる人。
自分が作ったもの、自分のアイデア、心血を注いだ部分、
そんなことを語りたくならないだろうか。


仕事にかかわるありとあらゆることに、僕は興味がある。
それらは誇るに足りないものだろうか。
「誇り」と言わないまでも、自分の仕事が世の中の役に立つ…、
役に立たないまでも、その仕事によって自分が自分の手で生きていくこと。
それはつまらないことなのだろうか。


僕はかつて新聞記者として、人の生きざまを毎週取材してきた。
多くは仕事にまつわる話。
毎回、大いに共感し、感嘆し、取材者冥利を感じた。
『誰の人生にもドラマがある』と思った。


しかし、facebookではそれらがあまり語られない。


「PRだ」と思うので、みんなドン引きするのだろうか。
おいしい団子屋さんの、あんこやモチに関する自慢話、僕は関心して聞くと思う。
美容院がネイルアートをはじめて、その仕事に自信があるのなら、
写真入りで堂々と自分の「作品」を投稿してもいいと思うけど。


サラリーマンだって、自分の仕事の困難さ、でも成し遂げるべき事業の重さ、
それに取り組むための自分の覚悟や努力のこと。
守秘義務に反しない限り、それらは決してタブーじゃない。
同じサラリーマンとして、共感する人は多いのではないか。


何も、立派な話ばかりでなくてもいい。
仕事はおもしろいし、自分の骨格をつくってくれる大切な事業。
そのことをわざわざ外して語った、つまらないじゃない。


みんなあつものに懲りてナマスを吹いている!

個人のメディアであるfacebookが、なぜここまで期待されたのか。
はじめに「ビジネスに使える」ということが喧伝された。
「ビジネスに使える」なんて洒落た言葉を使わなくても、
ありていに言えば「宣伝できるぜ」「PRできる!」が売りだった。


すると日本では、あっと言う間にビジネス本が出てきて
「ビジネスのための最強ツール」などと、はやしたてる。
それで、真に受ける人がいてPRをどんどん入れてくる。
やはりこの点、誤解があったと思う。


テレビ草創期のコマーシャルなんて、見ていて恥ずかしくなるほど野暮だった。
それと同じでしょう?
facebookというコミュニティー世界で、いきなり自己宣伝…。
よそのお宅に行って、セールスマンがペラペラしゃべるようなものだよね。
たまたま必要あって聞いてくれる人以外、『迷惑だ』と思ってしまう。
これが、人となりが一応わかった上なら、興味ある人は聞いてくれる。


そういう前提を考えないで、
ツイッターからの動線がどう、ブログとの連動がどう、だのと
技術論ばかり話していれば、「この手の広告、もういらない」となるのは当たり前。


仕事の話はとても魅力的、僕は読みたい

かくして心ある人に限って、
「facebookでは宣伝すると嫌われる」と思いこむ…。
『だって、自分が不快に感じるのだから、人もそうでしょう?』と考える。
それで賢明な人は以後、自分の宣伝めいた話はしないようになる。


でも、ちょっと待って。
みんなが理性を働かせた結果、facebookそのものが「気兼ね」の塊になっていない?
活力、という意味ではこのごろのfacebook、エネルギー不足だ。


あなたが仕事のことを投稿しても、
誰もあなたのことを嫌ったりはしないと思う。


facebook参加者の「集団としての知」はとてもすぐれている。
冒頭、僕は「①長い投稿は嫌われる」を否定した。
僕の投稿はいつも長いし、「ノート」に至っては超ロング。
それでもその投稿が共感を得たときには、100人以上が「いいね!」をくれる。


年末に行われた「1万人の第九」を書いた榛葉健さんのノートは、
1500人近い人が「いいね!」し、ノートのシェアは500を超えていた。
心を揺さぶる感動があるとき、文章の長短は関係ない。
『人はちゃんと読んでくれるのだなぁ』と思う。


そういうfacebookの人々に、配慮を欠いた宣伝は通用しないが、
思いを込めた投稿、心からのお薦め情報なら、スルーされることはない。


広告は情報だ、その価値は読んだ人が見分ける

最近僕は、出版の家庭をすべて「見える化」するために、facebookページを作った。
どうしても「いいね!」がほしい。
それで、手を変え品を変え、そのページへの誘導アイコンを露出させる。


すると、多くの人は「押し付け」と感じるようだ。
「いいね!」の数はいつもの半分以下となる。
でも一方、意図を理解してくれる人も少なくない。
なぜ「いいね!」をそんなに欲しがるのか、今のところ説明していない。


広告は人間活動の大きな部分をカバーしている。
広告は暮らしのために必要だし、それを求めている人も大勢いる。
つまり広告は、社会的に立派に認知されている。


自分をアピールすることも同様だ。
中身がないなら別だが、広く伝えたいならちゅうちょすべきではない。
価値があるかないかは、他人が勝手に評価してくれる。


だから僕は、『これは広く伝えたい』と思えば、
きちんと伝わるまで、いろいろ工夫しながら何度でも宣伝していく。


リアル社会より強い絆が生まれるfacebook

昔から僕は、大勢の人が味方になってくれなくてもいい、と思って生きてきた。
でも一方で、ただ一人の人には届いてほしい、といつも願っていた。


facebookは、リアルの社会よりも通じやすい。
それは、大きな、大きな喜びだ。
実社会でここまで心を開いて自分を語ることはない。
それができるというのが、ソーシャルメディアの特長であり、
可能性なのだと思う。


だから、だからこそ、
facebookで自分の投稿にタブーを設けることをやめてほしいのだ。
広告だっていい、広く伝える意味のあることなら、胸を張って投稿を。


みなんがのびのびと、自由に、思ったことを語るようになれば、
facebookはもっと楽しくなる。
そしてリアル社会の閉塞感にも、何らか風穴をあけることになる。
大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、
facebookにはそういう力があるのだと、信じている。




■   □   ■   □
ソーシャルメディア活用本「友だちはあなたのビジネスの味方になる」

(facebookページに跳んだら「いいね!」ボタンを押してください)


ペタしてね   読者登録してね