僕がソーシャルメディアで東京電力を批判し続ける理由(わけ) | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。




僕は毎朝のように、原発のこと、放射能のことをつぶやいている。
読んでくれる人の中には、
『なぜ東電をそんなに目の敵に』と、いぶかる人がいるかもしれない。


■加害者の東電の責任は素通り

【きのう(12/8)のつぶやき】
オリンパス役員が総退陣することになった。
歴代社長らの損失隠しを容認してきた訳だから、結果責任は当然だ。
事案は異なるが、あれだけの原発事故を引き起こした東電は
誰一人結果責任を取ることもなく、公的支援まで受けている。
おかしなことがまかり通るものだ。



別に誰に頼まれたわけでもないのに、こんなつぶやきを重ねている。
地方の片隅からつぶやいても、ごまめの歯ぎしりかもしれない。
歯ぎしりですめばいいが、特定の人や事(こと)への度重なる批判は、
限られた地域社会に住む者にとっては、損することの方が多い。
それでもきょうも懲りずに―――


【きょう(12/9)のつぶやき】
東電が10%値上げを検討。
柏崎刈羽原発の再稼働も。
図々しいね。
公的資金(税金)による支援を受けても、原発被害者への賠償に支障が出る、
を理由にしている。
身銭を切って破綻するまでやってみることだ。
その後、国有化。
全経営陣を排除し新しい体制で立て直す。
それが筋だろう。



僕の東電批判は、以上の2つのつぶやきに集約されている。


■東電の原発事故は人類史に残る災害

人類史に残る重大な原発事故を東電は引き起こした。
東電は「原発は安全」と言い続けてきた。
結果、事故はすべての人に不意打ちとなった。
その責任を取らなければ、この事件は、誰の心にもストンと落ちない。
だから『誰か』が責任を取らなければならないのだ。


乱暴な意見と思うだろうか。
ならばもう少し論理的にこの問題を追究しよう。


福島第一原発の事故はなぜ起こったのだろうか。
第一に「津波のせいだ」と言う。
1000年に1度の未曾有の自然災害、だから誰も予想できない。
つまり「想定外」であり、誰の罪でもない。


東電は「津波原因説」を説くのに躍起だ。しかし今では、
津波以前に、震度6強の地震動によって原発の重要部分が破損し、
それにより全電源喪失に陥ったことが分かっている。


原因が「地震動」そのものであるなら、東電の責任は重くなる。
震度6であろうと7であろうと、地震国の日本に原発を作る以上、
これは絶対的に「安全」でなければならない。


地震に対する脆弱性は、
新潟県中越沖地震における柏崎刈羽原発の例を引くまでもなく、
各地の原発で「致命的」寸前の事故が頻発している。


それでも電力会社は、福島の事故が起きるまでは
「安全」と強弁し続けてきたのだ。


■僕も「安全神話」をうのみにしていた

「安全神話」とはよくぞ言ったものだ。
今回の事故のずっと前から、友の1人は原発を批判していた。
「そんなに安全なら、新宿に原発を作れ」とまで言っていた。
原発の安全性を信じ込んでいた僕は、
『何をエキセントリックなことを言うのだろう』と嗤(わら)っていた。
友に不明をわびなければならない。


政府に罪はないのだろうか。
罪はある。
原発政策推進のための数々の法律を作ってきたのは歴代の政府であり国会だ。


原発村とやゆされる原発研究者たちの罪は?
大きな大きな罪があるだろう。
何しろ、浜岡のようなボロボロな軟弱大地を「強固な岩盤」と言い、
東海大地震の震央と目される地のど真ん中に原発を作ることを是としたのだから。


マスコミの怠慢の罪は?
無論、大ありだ。
記者の冷静な目がもし利いていたら、「安全神話」など絶対に生まれなかった。
しかしメディアはこぞって政府や電力会社の言い分を鵜(う)のみにし、
神話を日本中にまき散らす主役を担った。


国民はどうだろう、僕らひとりひとりは。
無実だとは言えない。
過疎地に限って導入される原発立地の胡散(うさん)臭さを、
『変だ』と感じつつも黙殺し、あるいは全く関心をもたなかった。
そして電気のある生活を、疑問をもたずに享受してきたからだ。


では東電は?
冷静に言えば、あるいは法律的な見地から言えば、
「過失責任」にすぎないかもしれない。
つまり、過失があった場合にのみ責任を負う。
だから東電は、遮二無二(しゃにむに)「想定外」を言い立てる。
想定できないことには責任をもつ必要がないからだ。


■「無過失責任」の法理を適用すべきだ

これに対して別の考え方があるとすれば「無過失責任」の法理だ。
いかなる場合にも、結果に対して責任を負わせる。
つまり「不可抗力です」という抗弁を許さないということである。
地震国であるわが国に人類史上最も危険な施設を建設する以上、
「無過失責任」を適用するのが正しいと思うが、まだ前例はない。


百歩譲って、みなに責任があったとしよう。
東電はおろか、政治にも学者にも、メディアにも国民にも責任はある…。
それらをすべて認めたとして、
原発震災が起こって以降の、東電の説明を僕らは納得できるだろうか。


ウソだらけであったのではないか。
情報が小出しにされ、肝心要の情報はいつも忘れた頃に発表される。
それはまるで「一応発表している」のアリバイのようではなかったか。
とうてい「誠実であった」とは言い難い。


■事故後のミスリードは犯罪的だ

結果が重大だ。
事故を過小と見せるためのウソ、情報小出し、誤報などにより、
どれほど多くの人が「避け得た被爆」を被ったことか。


しかし事故から9ヶ月をへた今日まで、ただの1人も刑事訴追される者はいない。
その気配すらない。
9ヶ月間もわが家に帰れない人たちがいる。
いつか帰れるという保障もない。
どういう思いでいるだろうか。


原発から今も垂れ流される放射能のおかげで、
売れなくなった野菜や肉、藁、その他もろもろの商品を抱える人たち。
観光地には人波が耐え「福島」と言うだけで違う目で見られ。
粉ミルクにまでセシウムが混じり、
原発から遠く隔たった地でも急に不安に陥ったお母さんたち…。


それなのに東電は、原発補償の「査定者」である。
申告された“被害”の値切り役だ。


資産をいくぶん切り売りしたという。
ボーナスも減らしたらしい。
人員削減も行ったようだ(退職を促された人は気の毒だ)。
しかし東電は、いまだ債務超過・丸裸になったわけではない。
にもかかわらず、10%もの電気料金値上げを政府にねだっている。


■「想定外」ではなく「でたらめ」

何かがおかしくはないか。
今度は千歩譲って、過失責任の立場に立ってみて、
本当に今度の原発事故は不可抗力であったのか。


思い出してほしい。
襲った津波の高さは想定の3倍とされた。
だから「不可抗力」か?
だから「千年に一度」の“特別”だったのか?


言葉のマジックにだまされてはいけない。
反対側から見れば、
実際に起きた津波の、3分の1しか想定していなかったのだ。
こういうのは「想定外」とは言わない。
「想定がでたらめだった」と言うべきだ。


■「手抜き」「油断」「慢心」そして「無責任」

しかも、全電源喪失の真の原因は、
津波以前の地震動による。
その揺れも震度7ではなかった。
震度5か6の、通常でも起こりえる程度の並みの振動により、
炉心を覆う圧力容器、その外側の格納容器を除き、
配管や電線など、一般の施工部分がずたずたに破壊された。
たったこれだけのことで、原発の致命傷になってしまった。


このことを想定できなかったとしたら、
技術者は何のためにいるということになる。
うかつにもほどがある。


これは「想定外」ではない。
日本語では「手抜き」というのだ。
あるいは「油断」、「慢心」、そして「無責任」というのである。


ここまでのことが分かっていて、それでも原発事故は自然災害か。
れっきとした、紛れもない人災だと僕は思う。
人災を誰もわびてくれなければ、
国民の心にこびりついた「納得できない気持ち」にけりはつかない。


以上が、今も、気がつくたびに原発についてつぶやく僕の理由だ。


◇ (以下、蛇足)

喉元すぎると、怒りも不安も恐怖も人間は忘れてしまう。
今も世論調査をすれば、過半数が「原発やむなし」と言う。
2度と事故は起きないという保証があるならそれでもいいが、
そんなことはあり得ない事が、今度の事件で証明された。


さらに言えば、「原子力」の研究は今や時代の花形ですらない。
今後は、いかに廃炉に持ち込むか程度の研究しか残されていないからだ。
人材がそこに投入されることもないだろう。


右を向いても左を向いても「閉塞状況」にある原発に、
今しがみついているのは「原発」が利権である一部の者たちだ。
その連中の利益のために、国民が危険の矢面に立つことはない。


本当に、いいかげんに、いいかげんに気づいてほしい。
百の理屈をこねる前に「原発No(ノー)」を言うべきだ、と。


処理できない高濃度の毒物である原発廃棄物を
これ以上、積み上げることは人類の未来に足かせとなる。
一刻も早く、日本列島から原発をなくさせよう。





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