老残と老醜、そして老境ということについて ナベツネさんの事件で考えたこと | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。



渡邉恒雄さん、読売新聞グループ本社代表取締役会長にして主筆である。
このナベツネ氏(通称)が巨人コーチに江川卓氏を招こうとして口を出した。
それに怒った清武英利球団代表兼ゼネラルマネジャーが会見を開き渡邉氏を批判。


この問題を朝刊で知った僕は、その日(11月12日)、以下のようにつぶやいた。

プロ野球巨人のことなぞすっかり興味をなくしていたが、
またナベツネ(渡邉恒雄球団会長)が思いつき発言。
ばかな男だ。
昨日は清武代表がメディアやネットを前に告発会見。混乱に拍車をかけた。
パリーグがおもしろい中、球界の盟主面(ツラ)など通用しないのに、
頭の中は20年前である。



僕は珍しく自分のツイートに「ばか」という言葉を使った。
そして昨夜、帰宅して妻から清武氏が解任されたことを知らされた。
今度は「ばか」に代え「幼稚」という言葉を使わざるを得なかった。

他社の人事ゆえ口を挟むつもりはないが、それにしても
『巨人もオゼー(静岡弁で「お粗末」の意味)会社になったものよ』と思ったことだった。
先日のナベツネ告発の意趣返し。
なんとも幼稚じゃないか。
なりふり構う余裕さえない。
「ナベツネ老害」は今に始まったことではないが、こうなると哀れにさえ感じる。



このツイート、かつてないほど多くの方から「いいね!」をいただいた。
普通、facebookでは「ばか」だ、「幼稚」だと悪口雑言を言えば、
たいていの人は引いてしまい、「いいね!」とは評価してくれない。
にもかかわらず多くの「いいね!」が付いたのは、
誰でもが感じることを、僕のツイートガ代弁する形になったからだろう。


ところがけさの新聞だ。
各紙の論調は(主にスポーツ面を見ての感想)
朝日新聞の見出し 桃井社長「強い憤り」 巨人・清武氏解任
日経新聞の見出し 巨人、清武氏を解任 「信用傷つけ業務阻害」
静岡新聞の見出し 巨人 清武氏を解任 会長批判で「適格性欠く」


どの新聞も球団の措置を是とし、清武氏は「悪者」「無法者」扱いとなっている。
巨人ファンをやめてから久しい僕は、事の真相にうとくなっている。
だから、どちらが正しいなどと論じないが、外から見ていて
『清武氏があのような行動をとるにはやむにやまれぬ思いがあったろう』と感じていた。


一方、新聞各紙は「組織論」の立場である。
一見論理的、合理的で正しいことを言っているようだが、
弱者の告発を一蹴し、間髪入れず報復人事を行い「反逆者」を葬った組織の弊には
見て見ぬふりしてあからさまな批判を避けた。


これだから今のマスメディアに多くの人は期待しないのだな、と僕は感じた。


★     ★

それはともかく、僕はこの事件で他のことを感じたので、その事をお話したい。
「老残」と「老醜」ということである。


老残= 老いぼれて生きながらえていること。
老醜= 年をとって姿などが醜いこと。


よく似た意味を持つ言葉だが、僕の中ではニュアンスがだいぶ異なる。
「老残」は仕方ないものと思っている。
戦った人も、戦わなかった人も、老いの時刻(とき)を迎える。
それは人として当然のことだし、自分も、周りもそれを受容する。
むしろ、潔(いさぎよ)い老いの姿だと言ってもいい。


しかし「老醜」は違う。
「老醜をさらす」とは、単に老いて姿かたちが醜いことを言うのではなく、
権力を持った老人が、その力を誇示するために、あるいは無自覚に、
わがまま勝手を言い、周囲を困惑させ混乱させること―と言ったイメージがある。
今度の渡邉氏の事件に、僕はそのような「老醜」を感じ取った


渡邉恒雄さんはジャーナリストである。
僕も彼の著作を何冊か読んでいる。
会社は違うが、職業上の大先輩だ。
その大先輩に向かって「バカ」もないものだが、愚かな発言であろう。


自分が言えば何でも通ると思っているところが「バカ」なのだ
それを通してしまう組織が(どんな立派な見てくれ、優秀な人材揃いであろうと)
「幼稚」だと僕は言うのである。


「読売巨人」という会社、親会社の読売新聞の私物であるかのようだ。
かつての鋭利なナベツネ氏であれば、この「組織の変態」こそをただすべきだっただろう。
そして、組織を切り分けた以上、何も口を出さないというのが筋である。


しかし実態は逆だ。
原監督解任にも口を出し、懲りもせずまた今回の愚挙…。


★     ★

渡邉氏の愚挙、という問題を各紙は「清武氏の異様な行動」にすり替えている。
『これで日本のコンプライアンスはまた10年遅れる』と僕は思った。


>内部告発なんかするもんじゃない、すれば切って捨てられるのが落ち……。
長いものには巻かれていろ、トップに逆らったら陽の目を見られない……。



永く日本のサラリーマンに巣くったこの「臆病」は、
今回も「臆病者の方が遠くまで行ける(出世できる)」を証明してしまった。
それをメディアは批判するどころか、擁護してしまっている。
メディア自体が「サラリーマン根性」なのだ。


周囲が我慢すれば、渡邉氏は変わるのだろうか。
そんなことは太陽が西から登るようなもので、あり得ない。
老人がよい方に変わる、などということはついぞ見たことがない。


人の言葉に謙虚に耳を傾け己の生き方を変える者が、権力者に上り詰めることはない。
若いころから我を通し、敵を組み伏せるだけの力と知恵を持ち、
さらに、強い者には巧みに取り入り寵(ちょう)を得られる者だけが昇って行くのだ。


そんな生き方をしてきた者が、老いたからと言って自分を変えるはずがない。
第一、「老境」などというものを感じることもないだろう。
感じたとしても、見ないことにする、そんな知恵だけがついている。


★     ★

僕のきょうのブログは「老人」について、偏見に満ちているかもしれない。
渡邉氏が老境を感じることはないだろうと書いたが、
僕だって「老境」なんて感じたことがない。


86歳の渡邉さんと61歳の僕が感じる世界は、たぶん違うのだろう。
やはり何と言っても、80代の方が死に近い
僕が「老残」は許しても「老醜」に対して厳しい見方をするのは、
悪あがきに見えるからだと思う。


若いころ、それぞれに個性を持って権力を駆けあがってきた者も、
老いて権力を離したがらない様子は、実に無個性で類型化した愚かさを見せる。
幼児化と、権力を話したくない未練と、幾分の老化と、死への恐怖。


ようするに生臭いまま老醜をさらす
それが哀れなくらい、画一的でみな同じような様相を見せるので、
これはまあ、人間の性(さが)なのだなと思ってみるのだが、
だからと言って、それを許す気にはならない。
滑稽だが、現役世代の多くにとっては大迷惑だからだ。


だから僕は自分に「潔く」と言い聞かせる。
しかし、これはとても難しいだろう。
悪あがきし続けるかもしれない。


ならばせめて、人に迷惑をかける我(が)ではなく、
言えないこと、言いにくいことをぬけぬけ言うような「我」を持ちたいと思うのだ。


渡邉恒雄さん、あんたも畑違いのプロ野球にへたな口を挟むより、
大読売新聞を「脱原発」論調に切り替えるよう、一喝してくれたらどうだ。
そういう老いの一徹には、拍手を送る人も多いはずだ。


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