「facebookは仕事の役に立ちますか?」と聞かれて、僕がちょっと戸惑った理由(わけ) | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。



先日、次男夫婦とゴルフ観戦に行った帰り道、
お嫁さんが「facebookは仕事の役に立ちますか?」と聞いてきた。
らしくない質問に、僕はちょっと戸惑った。
「コーちゃん(次男)が、会社で勧められているみたいで…」


facebookを勧めるとは珍しい会社だな、と思った。
次男は会計士、勤めているのは監査法人だ。
個々人の力がものを言う会社ならではなのだろうか。


日本企業でfacebookをビジネスツールとして推奨する会社は少ない。
理由はいくつかあるが、会社側から言えば「不安」なのだと思う。


機密の情報を社員が漏らしはしないか…
会社の悪口を言われたらどうしよう…
告発でもされたらえらいことだ……


いずれも嗤(わら)ってしまうような心配だと思うが、
会社からしてみれば、笑うどころではないのだろう。
僕が少々不遜な言い方をしたのは、実名のfacebookが根付く社会では、
今よりはずっと「身奇麗な」な社会になると思うからだ。


ソーシャルメディアの根付いた社会は「まる見え」社会

ビジネスの世界で「ウソ」は通用しない。
怒りや嫉妬、傲慢からの不当な告発は、告発者自身の命取りになるだろう。
これは個人の情報発信に限らない話で、逆に
痛いところを突かれた会社が、誤魔化しの対応をすれば一遍に社会的な信用を失う。
ソーシャルメディアが普及した社会は、個人も企業も外部からまる見えであり、
それを意識すれば、ある程度「公明正大」であらざるを得ない。


しんどいと言えばしんどいが、なあなあで理不尽が通ってしまう社会より、
適度な「緊張関係」がある社会の方が僕にはよほど心地よいと思える。
朝夕、寸暇を割いて「発信」を続けているのはそういう社会に近づくためだ。


だが現状のソーシャルメディアは、とてもそんな”高尚な”域に達していない。
だから会社は、低次元の、個人による発信を必要以上に恐れるわけだ。
これがまあ、日本の平均的企業のソーシャルメディアへの対応。
だとすると、『監査法人はさすがに太っ腹だな』と思った次第だ。


ところで僕はお嫁さんに、
「facebookは確かに人間関係をつくるには便利な道具だと思う。
名刺を交換しても普通はそれっきり。
でも、facebookをお互いにやっていれば『交流』が切れないからね」
と答えた。


と言いながら、次のような言葉も加えた。
「でも現実に、facebookなんかやっている人がいるかな」
この時点で僕は息子に、積極的にfacebookを勧める気にならなかった。


■今の日本は、気兼ね社会であり嫉妬社会

以下、やや愚痴っぽくなるが、僕の現代日本への感想を述べてみる。


いろいろな意見があると思うが、ひとつ気に入らないのは、
今の日本は、非常な気兼ね社会であり、嫉妬社会だということである。
「そんなのいつの時代でも、どこにでもあること」と言われそうだが、
それにしてもこんなにひどい時代は…、と僕は思っている。


例えば「KY」と言う言葉。
いつの間にか「空気を読めない」という意味で通用してしまっている。
「小学生まで使ってるよ」と言われても、今や誰も驚かない。
学校で「いじめ」がやまないことを考えると、さもありなんだ。


僕は鈍感だから「いじめ」に遭ったことがない(と本人は思っている)が、
気がつけば『オレ、孤立してる?』と感じることはしょっちゅうあるから、
いじめられる者の気持ち、少しは分かっている。


いじめは人間の心にひそむ「悪」のひとつであり、生き物としての欠陥だ。
だから、ここ何十年も「いじめ」が指摘されのに、誰もその弊を治せない。
不況、格差社会のせいにするが、僕は「教育の敗北」だと思っている。


■「異質」であることが「悪」とされる社会

しかし評論家のようなことを言ってもはじまらない。
みんな自分の身は自分で守らなければならないのだ。
だから、みな周囲の反応にナーバスになる。
だからこそ強い者(たまたまその時に「強い」と思われている者)に迎合する。


子どもは敏感だから、周りをうかがい、様子を見る。
大人も同様、子どもより先が見えるだけ気の使い方はもっと真剣だ。
最近は人と「異質」であることが、既に「悪」のようにみなされる。


漂う空気の中に毛色の変わったものが入ると、気にさわる…。
何か心がざわめき、平穏が乱されたような気分になる…。
なんと神経質でひとりよがりの苛立ちなのだろう!


しかし今は、それが普通である。
その典型的なケースが「会社」だ。


一流企業だから人間が高級かと言えば、そんなことはない。
社内の競争はし烈、しかし彼らが見ているのは社内だけ。
先が見える者の集団だけに、内にこもった競争に陥る。


そういう社会では、空気の読み損ないが命取りになる。
言葉や態度のちょっとした行き違いが、
個人の能力どころか、人格の否定にまで直結しかねない。


facebookでつぶやく日常のなにげない(つもり)の言葉も、
曲げて受け止められれば、”敵”に攻撃の材料を与えてしまうかもしれない。


生身の会社はここまで冷えて乾いてはいないだろうが、
オブラートを剥(は)いで見れば、ゆとりはそれほどないに違いない。
ゆとり? そう、1円の得にもならないfacebookをやるような…。


■書く技術とは「わきまえて書く」ということ

僕は毎日、かなりキツイことをつぶやいている。
普通のサラリーマンだったら口にしないこと。


例えば原発のこと、東電のこと、諸々、政府や政党の政策への批判…。
facebookの使い方にまでいらぬお節介を焼き、
「いいね!革命」のリーダーを批判したかと思えば、
その運動を批判していたグループの異常な「心の狭さ」を批判…。


奔放に言いたいことをつぶやいているようだが、
実はそれほど気楽でもない。
僕はまだ現役だし、次の仕事のことも考えている。
社会あっての自分だから、周囲の反響はとても気になる。
だから時々、面倒な気分になり、くたびれもする。


それでもつぶやき続けるのは、一つはもちろん「信念」のためだが、
もう一つは、「語る(書く)技術」を曲がりなりに持っているからである。


厳しい主張はする。しかし、自省も十分利かせている。
僕は絶対者ではないし、知識がそれほどあるわけでもない。
だから「自分の心に引っかかったもの」だけを書く。
その感じ方には、時に思い込みがあり、間違っている可能性もある。
そのことを意識しなが平衡感覚をもち、人からの批判も受け止める。


要は「立ち位置」をわきまえて書いているということである。


■「一個人」だから書けるということでもある

何だかえらそうに書いたが、実はもう一つ重要な点がある。
「現役だ」と言いながら、僕は既に定年に達した者だ。
今さら誰かと競争する立場ではない。


だから言いたいことが書ける、というわけではないが、
「一個人」という立場は、やはりだいぶ気楽である。
背負っているのは自分の名誉のみ、会社でもなければ、地位でもない。
責任は自分にあるだけだから、思うところを述べることができる。


一方、息子の場合だ。
若いし、上昇志向もある。
職務は忙しいし、数字が相手でミスも許されない。
その上、仕事には人が介在するからそちらへの気遣いも大変だ。


そんなこんなを考えると、「無理にやらなくても…」と思ってしまう。
バランス感覚がある子だから、僕のように過激なことは書かないだろう。
だからその点の危惧はないのだが、一方、
『毒にも薬にもならないことを書くなら、別に書く必要もないよ』
とも思うのだ。


■それでもfacebookに強い期待感

ここまで書いてきて、『あれっ、オレの言いたいことと違う』と気がついた。
これではサラリーマンはfacebookなどやるな、と言っているようではないか。
本心は、むろん逆である。
しかし、リスクを挙げていったらこんな論調になってしまった。


日本のソーシャルメディアをめぐる環境は、
「夢をかなえる最強ツール」と言うほど気楽なものではない。
でも僕は、facebookに強い期待を抱いているし、
ソーシャルメディアが根付いた社会の魅力を信じている。


しかし、ここからその結論を導くには、長い説明がいりそうだ。
この続きはまた明日、ということにしたい。
(つづく)



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