「カダフィ大佐死亡」で僕が思ったこと | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。



新聞で『カダフィ大佐の死因が不明』とあったので、ツイッターを検索した
YouTubeに複数の映像がアップされていることが即座に分かった。
映像は、生け捕りにされ、惨殺され、踏みつけられたカダフィを伝えた。
現在は『伝説』の生まれようもない。



いろいろなことを考えたが、僕のはちょっとピント外れかも知れない。
映像の残虐さ、
それを自粛して放映しない日本のメディアと海外のメディアとの差、
国民に銃を向けた独裁者の当然の末路、
兵士たちの怒りと憎悪、
喜ぶ民衆…などなど。
当然のように湧いてくる感慨とは別に、僕は以下のようなことを考えた。



この現代でさえ、こういうことが起こる、と。
日本にいるから、テロも破壊行為も軍部独裁の弊もここ数十年、目にしない。
僕らはこれを当然のように思っているが、
9.11テロが起こり、
タリバン掃討作戦が行われ、
イラクではサダム・フセイン政権を撃滅した。
1960年代には毛沢東による文化大革命の惨劇があり、
同じ時期にカンボジアではポル・ポトによる大量殺人が起きている。
戦争以外の惨劇、自分が生きてきた時代の国家によるテロを例に出したが、
現代はなお血なまぐさい時代だ



書けば「血なまぐさい」の一言になってしまうが、
流された血の一滴一滴は人の死である。
人のうめき声である。

そうした災厄が、
政治のカラクリをくぐり抜けたたった一人の者によってもたらされる不思議。
上記で北朝鮮のことを書き落としたが、
こうした国家では今も「伝説」が当然のように国営メディアによって流されている。



僕らは「ばかばかしい」と斬って捨てる。
「信じられない」と嗤(わら)う。
しかし、笑えないのがかの国の現実だ。
独裁者たちがどのようにして今の地位についたのか、
一つ一つにストーリーがあるだろうが、
今自分が生きている時代にもそういう者たちがいることに、
僕は強い違和感を覚える。



そして今、こんなことを平気で書け、
どこからも秘密警察がとんでこない日本に生きていることは本当に幸せなのだと思う。
他人事のように書いているが、
政治のからくりは意外に単純、かつ脆弱かもしれない。
今も世界には独裁者がいるのだから。



「この日本で?」と思うが、「熱狂」を人為的につくることが出来れば、
案外単純に「独裁」は可能なのではないか。



そんなこんなを思うと、マスメディアという単一の情報源に頼る現代は
「心もとない(危なっかしい)」と思うのだ。
「カダフィ大佐」の死因不明で真っ先に僕が頼ったのは、
ツイッターという集合知だ。
そして即座に、見つけたいモノに行きあたった。



facebookは日本ではまだ普及の途上で、とてもマスまで届かないが、
これだけの分量の文章が書けるという利点は大きい。
ここを起点とする記者や論客が出てきてほしい。
それが、一方に傾きがちなマスメディアの
(時に間違った、時にピント外れの)奔流に抗する、ただ一つの方策に見える。



無論、ソーシャルメディアも使い方を誤まれば、
マスメディアから「デマ製造機」くらいのことを言われてしまう。
悪意を持たず、公平に書くというルール厳守が望まれるところだ。



カダフィ大佐の殺される(瞬間は映っていない)映像を見ながら、
『すごい時代だな』と僕は思っていた。
『すごい』と感じた中身は、以上に書き散らしたまとめにくい雑然とした直観である。



60年間も僕の直観は外れ続けているのだから、
これからもずっと外れ続けてほしいと思う。



なんだかんだと言っても、この60年間の日本人の集合知は大したものだ
その信頼があってこそ僕は、
「ソーシャルメディアが確固とした対抗メディアに成長してほしい」
と思っているのだ。




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