「『放射能うつるぞ』と言われた福島県人の父親の災難」はなぜマスコミに報じられないのか | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。



ご存知だろうか、以下のブログ。


父は先月、とある山登りツアー旅行に黒部へと出かけた。
黒部までのバス移動中での出来事
隣の席の人が「どちらから来たんですか?」と親父に聞いたらしい。
親父は素直に言った「福島から来ました」と。
そしたらその方は何も言わず走行中のバスの中を立ち上がり後ろの席へと移動した。
そして信じられない発言をしたのである…。

「その席に福島県人が乗ってるぞ!降ろした方がいいんじゃねーか?
放射能うつるぞ?運転手さんよー!」

(以上、抜粋)
http://blogs.yahoo.co.jp/ayumu_kun2005/11868806.html


友達からこの話を聞いて、僕はツイッターで怒りに任せてつぶやいた。
すると、このつぶやきは100人以上がリツイートした。
僕以外にも同様に感じた人は多いらしく、さまざまなつぶやきが広がった。
それをまた多くの人がリツイートした結果、
”福島県人の父親の災難”はかなり知られる「事件」となった。


■ツイッター、フェイスブックで拡散

ブログへのコメント件数は230件(7日現在)!
その大半は、非常識な男への怒りである。
次いで、バス会社と、何もしなかった運転手への批判。
「会社の実名を挙げるべきだ」と糾弾する声も多数にのぼった。
同乗しているのに知らぬ顔の乗客も当然、批判された。


一方、このブログが「事実か」と疑問を呈するコメントもあった。
こういう話はありがちだが、現実には滅多に起こることではない、と。
冷静な意見である。
メディアに対してはこういう視点も大切だ。


ツイッター、フェイスブックを駆け巡ったこの話、
リツイート、コメント数などから推測すると、数万人が知ったと思われる。
しかし、新聞やテレビでこの話が取り上げられることはなかった。


なぜ”マスコミ”には取り上げられないのだろう。
記者や編集者でも知っている人は少なくなかったはずなのに…。


これには理由(わけ)がある。
ソーシャルメディアとマスコミとでは「ニュース」への視点が全く違うからだ。


■事件になれば既存メディアは動き出す

先ほど、ブログに対して覚めた見方があったことを紹介した。
「この話は事実か?」という声である。
新聞、テレビ(の記者)は、うわさ話の類はうのみにしない。
(うのみにするのは、官製の「発表物」についてである)


このことを念頭に入れた上で以下のケーススタディーを読んでほしい。
メディアの中にいた者として、マスコミの対応を推測した。


  ※できるだけ具体的にするため、極端な例を「ケース」とした。
  これらのことは例示であって、あくまで仮定である。
  それでも、当事者にとっては不快だろうと思われる。
  この点、あらかじめおわびしておきます。



◎ケーススタディー(主に新聞の場合を想定)

★事件になる → 父親が件(くだん)の男を殴り、逮捕される
各社の反応は、警察の発表の仕方によりまちまちとなる。
普通の殴打事件なら、記事にしたとしても社会面ベタ記事か。
警察の報道発表に、殴った原因として父親のコメントが盛り込まれていた場合、
鋭敏な記者なら”問題”を感じ、かなり書き込むであろう。
要は記者の感覚次第、各社の扱いには違いが出ると思われる。


■悲劇性が強まれば強まるほどメディアは殺到

★事件になる → 父親が男を刺した、あるいは殺してしまった
この場合、警察発表でも「刺した原因」について当然、触れるだろう。
記者たちは一様に「放射能差別・侮辱」を知ることになる。
新聞社、放送局はこぞって取り上げることになろう。
男が死亡した場合は、本記は1面、サイド記事、雑観記事が社会面をにぎわす。


その場合、運転手、会社名は相変わらず匿名である(彼らは被害者)。
世論は「事件」の衝撃性に激高するだろう。
父親には、罪は罪としながらも、同情の声も上がると思われる。
ネット上ではなく、初めてリアルな世界でも話題となる。


(ここからは推測と言うよりは「想像」)
週刊誌は当然、会社の実名を探し当ててそれを書く。
口コミで悪名高くなった会社は、社長が出てきて陳謝するかもしれない。
それでも、世論のバッシングは続くだろう。
新聞などではあらためて「放射能汚染」の現状について検証特集が掲載される。


■投書でも反応はあるが広がりは1社にとどまる

★事件が起きるのではなく、ブログの内容が新聞社の投書欄に投稿される
この場合、掲載する社としない社に分かれそう。
安全をとるか、タイムリー性をとるか、という問題だ。
熱心な社は、投書内容の裏付けをとって掲載に踏み切る。


この場合も、読者の反応はかなり大きいと思われる。
鋭敏な編集者がいれば、投書欄とは別立てで何らかの特集面を考える。
さらに鋭ければ、社会面で「本紙への投稿に大きな反響」と報じる。
その中で、事件の詳報(投書の内容を裏付け)が掲載されるかもしれない。
しかし反響は、その新聞のみにとどまり、他社は知らん顔をするだろう。


★ブログを読んだ人たちがバス会社にデモをかける
デモすることをあらかじめ記者クラブに連絡すば、取材する社も出てくる。
静穏なデモなら小さな記事(小さな囲み記事)。
投石したり、さらにヒートアップして暴徒化すれば、大きな社会面記事に。


ただしこの場合、デモは叩かれ、父親の事件も偏った見方をされるだろう。
さらに、このデモがツイッターの呼び掛けで参集したものなら、
デモが叩かれるだけでなく、ソーシャルメディアの在り方の問題として、
つまり「不確かな情報による扇動」と、容赦なく批判されるだろう。


★ブログの筆者がバス会社に乗り込んで抗議する
多分、黙殺されるだけだろう。
と言うよりも、マスコミ各社はその事実自体を知りえない。
筆者が激高して暴れ、逮捕されるようなことがあれば別である。


■裏打ちの取材は非常に難しい

★筆者かブログを読んだ人がマスコミに通報、または記者に情報提供する
記者は興味を持つが、「記事にするのは難しい」と判断する可能性が高い。
事件は起きていない。


さらに、そのような出来事があったかどうか、確認するのが非常に難しい。
記者はまず情報提供者に接触し、ブログの主を突き止め話を聞く。
続いて、筆者の父親に会う。
さらに最低限、バス会社に問い合わせる。
しかしこの場合、会社は真実を語らないかもしれない。
その場合は、バスが父親の話通りにその日運行したかを確認。
その上で、バスの乗客を探す(しかし乗客名簿はないだろう)。


事件が起きていない場合、この辺の情報は記者自らが集めなければならない。
時間的なコストが掛かりすぎるのだ。


父親の出来事を書いたブログは個人の心を揺さぶる。
ソーシャルメディアでは、それだけで「事件」たり得る。
しかし報道する側は、うわさや投書・ブログの書き込みだけでは動かない。
裏取り取材で事実が証明されて初めてスタートラインに立てる。
かくして、「興味深い話」はそれが「事件」にならない限り、
マスコミにとっては「書きにくい」テーマと見なされることになるのだ。


誰も逮捕者がいなければ警察は動かない(つまり報道発表がない)。
報道側が事実だと確認した場合でも、この話は実名では書けないだろう。
今度は、名誉毀損の恐れが出てくるからだ。
このように考えると、記者からは「残念だけど…」の答えが返ってきそうだ。


■マスコミとソーシャルメディアでは機能が違う

★筆者が暴言男を名誉毀損で提訴、あるいは「言葉の暴力」で告発
ユニークな裁判になりそうなので、取材する社はあるだろう。
しかし、扱いはセンセーショナルとはならない。
裁判になるので、読者や司法関係者に予見を与える訳にいかないのだ。


以上、ネタ(取材対象)になるかどうかで、
マスコミとソーシャルメディアでは大きな違いがあることを示した。


こんなことを書くのは、ソーシャルメディアの非力を伝えたいわけでも、
既存メディア(マスコミ)を批判したいわけでもない。
役割が違うことを分かってもらいたいのだ。


僕はこの「福島県人の父の災難」は広く伝えられてよい出来事だと思う。
しかし既存メディアは「報道」としてはこれを取り上げない。
したがって「うわさ話」として取り上げられる可能性はさらにない。


大手新聞社の発行部数は朝刊で数百万部。
テレビの全国放送は視聴率1%が約100万人である。
だから、マスコミで報じられないければ出来事は「なかった」も同然である。
そこで、どのような場合であれば報じられるかを例示したわけだ。


多くの人は、猛烈に腹が立ったのではないだろうか。
当事者が事件でも起こさない限り報じられない、と言っているようなものだから。
理不尽である。
しかし、報道する側からすれば当然の倫理でもある。


■僕はソーシャルメディアに期待する

だからこそ、ソーシャルメディアだ、と僕は言いたいのである。


新聞やテレビが報じなくても、今はツイッターもフェイスブックもある。
ソーシャルメディアが出現するまで、人の日常を伝えられるのは、
有名人の特権だったが、今は誰でも可能になった。


これは天動説が地動説にひっくり返されるくらい、大きな転換だと思う。
放射能アレルギーに伴う理不尽で腹立たしい話は、枚挙にいとまない。
しかしマスコミが報じなければ、どんな話も存在しないも同然だった。


今は「個メディア」がある。
(僕はソーシャルメディアを「個メディア」、または「孤メディア」と呼ぶ)
数万人といえども、個メディアにとってはとても大きな「うねり」だ。
そしてこれから、そうしたうねりは何度でも起きるに違いない。


マスコミほど一気に大勢に知らせる力は大きくなくても、
個メディアは報道側が伝えない興味深い話をいくらでも即時に、生で伝えていく。
やがて人々は、ソーシャルメディアの情報も読む価値があることに気づくだろう。
このインパクトは、既存メディアが想像する以上に高いのだと思う。


■ソーシャルメディアが「メディア」になるための条件

ただし、そうなるためには条件がある。
「報道」と同等の情報の質が求められる。


匿名だから何を言ってもいいわけではない。
発信する者には節度が必要だ。
冷静に、正確に、誇張もウソもなく。
そういう発信が増えていけば、数年内に無視できない存在になっていく。


そうだ、メディアが報じるケースがもう一つあった。

★今回のブログが捏造であった場合
普段なら報じないいくつかのメディアが、おもしろおかしく伝えるだろう。
『ほらね、ソーシャルメディアなんて、しょせんウソが多いでしょ。
不確実な情報が検証もされないままリツイートにより拡散していった』と。


怖いのは、読者はそれを鵜呑みにすることだ。
新聞、テレビの報道は99.99%まで信じられてしまう。
(今はかなりの人がマスコミ情報にも不正確なものがあることを知っている)
捏造した場合、個メディアは「真実を伝える媒体」としては大きな痛手を受ける。
信用を取り戻すのは至難の技となる。


だから、情報を発信する人は「正直に書く」を肝に銘じてほしい。
ソーシャルメディアの可能性を参加者みんなで高めてほしい。
それが書く人の責任と言うものである。


※文中「このブログ」としたのは、9月21日掲載のYAHOO!ブログ「親父の告白…」(あゆむくん)です。





ペタしてね   読者登録してね